「きゃああああっ!悠理、なにするんです?!」 絹を裂くような野梨子の悲鳴。 ハッと我にかえった悠理は、自分のしてしまったことに驚愕した。 悠理の目前で、清四郎も顔をひきつらせている。 らしくないほど、その顔は感情を表に出していた。 無理もない。 悠理はまだ、かぶりついたままだったから。 清四郎の二の腕に。 「あ・・・ご、ごめん!」 あわてて、歯を立てていた腕を放す。 袖をめくると、血こそ出ていなかったが、くっきり悠理の歯形がついていた。 謝罪とともに身を放したものの、悠理は清四郎から目を離すことができなかった。 細身だが、筋肉のついた腕。 鍛えられた胸板は、着やせする衣服の下に隠されている。 Vネックセーターからのぞく鎖骨から首にかけての線が、思いもかけず瑞々しい。 まだ少年のラインだ。 鋭角なあご。男のものとは思えないほど、きめこまやかなしみ一つない肌。 悠理は、ごくりと唾を飲み込んだ。 涼やかな切れ長の目が、大きく見開かれ、悠理を見ている。 うっとりと―――いや、熱く食い入るような目で、悠理は清四郎を見つめていた。 本能に忠実な悠理の体が、理性に反して、ふらふらと清四郎に引き寄せられる。 体の奥底からつきあげる欲望と衝動。 「せ、清四郎・・・あたい、おかしい・・・」 思わず清四郎へと伸ばしそうになる手を、悠理は自分の体を抱きしめることで抑えた。 「悠理・・・」 名を呼ばれ、悠理はふるえた。 ぎゅ、と目を閉じても、清四郎の気配を感じるだけで、つらくなる。 「清四郎・・・」 苦しくなるほど、清四郎が欲しかった。 あふれそうになるヨダレを、悠理は音を立てて飲み込んだ。 「おまえ、すっごいおいしそう!」 ――――ぷっつん。 もとから短い悠理の理性の糸がちぎれた。 悠理は、いっただきまーす、とばかりに、ふたたび清四郎に飛びかかった。 しかし、敵もさる者、ハッシと悠理の突撃を止める。 「野梨子!なにか猿ぐつわになるもの、とってくれ!」 清四郎は呆然と突っ立ている野梨子に叫ぶ。 「ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、悠理・・・」 わなわな震えながらも、野梨子は清四郎へ手に持っていたものをなんとか渡した。 清四郎は、自分にかぶりつこうとしている悠理の口に、それを突っ込む。 それは、袋に入ったままの、アンパンだった。 ハグハグもがく悠理を、清四郎は正面から抱き止め、はがいじめにする。 「僕が、悪かった悠理!失敗だ!」 そのとき、先ほどの野梨子の悲鳴に、ようやく看護婦と医師が部屋に飛び込んできた。 「せ、清四郎、おまえ何しとる!」 悠理を抱きしめている清四郎の姿を見て、この病院の院長である悠理の主治医は叫んだ。 「親父」 「おじさま!」 野梨子が恐怖に青ざめた顔で、菊正宗院長にすがりつく。 「腎炎の患者に、アンパンを与えるとは、なにごとかー!」 VIP用特別室に、院長の声が響き渡った。 悠理が急性腎炎で菊正宗病院に入院して二日。食欲だけが生きがいの悠理が、腎炎患者用の食事にネをあげ、清四郎に泣きついた。 「なんとかしてくれー、あたいストレスで胃に穴あいちゃうよぉ!」 日頃の彼女を知る者からすれば、その悠理の言葉はなかなかにリアルだ。 もともと清四郎の作戦で、健康なのに入院して病院食を食べるはめに陥った悠理が、その反動でした暴飲暴食が腎炎の原因だ。 食欲の権化悠理が、ふたたびの病院食にストレスを溜めるのも無理はない。 かといって、今度はほんとうの腎炎なのだから、食べ物の差し入れもできなかった。 「たしかに気の毒ですわね、清四郎」 一緒に見舞いに来ていた野梨子の後押しもあり、清四郎はうなずいた。 「食欲を抑える暗示でもためしてみますか?」 そうして、清四郎は悠理に暗示をかけ、それは成功したものと思われたのだが――――。 「アンパンに反応しないから、てっきり成功したものと思われましたのに・・・」 なんとかわれにかえった悠理は、ベッドに腰かけて、モジモジしている。 「あたいだって、驚いたよ」 悠理は決して清四郎を見ようとしない。 一時の衝動は去ったが、清四郎を見ると、またかぶりつきたくなるからだ。 「清四郎・・・責任とって、もとにもどせよな!」 清四郎は、悠理をじっと見つめて考え込んでいる。 「おい、清四郎!」 清四郎から視線をそらしたままの悠理に、清四郎はため息をついた。 「・・・ああ。ええ、もちろんですよ。僕も自分の身が大事だ」 悠理の歯形が残る腕をさする。 野梨子がそれを見て、ぶるると身を震わせた。 「悠理のあの食欲が、人間に向かいますのよ・・・こ、怖すぎますわ。早くなんとかしてやって、清四郎」 清四郎はうなずきつつも、動かない。ゆっくりと病室内を見回す。 清四郎の視線が、花にあふれた特別室のベッドサイドに置かれた写真立てに止まった。 数日の入院にもかかわらず、悠理の両親が用意した家族の写真だ。 ニッコリ微笑む、剣菱万作と百合子夫妻(豊作も背後にちらり)の写真を手に取り、清四郎はなにごとか考え込んでいる。 写真をもとにもどし、今度はベッドに置かれたぬいぐるみを手に取った。 清四郎にそばに寄られて、悠理がびくりと反応する。 「悠理」 清四郎は、悠理の愛猫を模した猫のぬいぐるみを悠理に突きつけた。 「ひとつだけ、確かめさせてくれ」 「な、なんだよ」 やっと、悠理は顔をあげる。 清四郎の姿をとらえた悠理の目が、あやしく光った。ごくりと唾を飲み込む。 「おまえ、タマやフクはどうだ?食べたいと思うか?」 悠理は差し出されたぬいぐるみに目を落とした。 頬がわずかに染まった。喉がふたたび上下する。 「うん。食いたい。あ、やばい。むちゃくちゃおいしそうに見えてきた!」 ぬいぐるみを抱きしめ、悠理はバクリと口にくわえた。 「ひっ」 野梨子が妖怪を見るような目で悠理を見る。 「じゃあ、野梨子は?」 清四郎の無慈悲な言葉に、野梨子は後ずさった。 「僕より、断然食べやすそうで、おいしそうじゃありませんか?」 「よ、よしてくださいな、清四郎!」 悠理の飢えた目が、野梨子をちらりと見た。 ガッシリ清四郎に背後から肩を押さえられ、野梨子は恐怖で涙ぐんでいる。 悠理は、少し考えてからうなずいた。 「たしかに、旨そうだな」 「いやあああああっ」 「僕よりも?」 問われて、悠理は清四郎を見上げる。 悠理の目が、熱をおびて赤くなる。 タマとフクのぬいぐるみを抱きしめ、悠理はふるふる首をふった。 「・・・早く、もとにもどしてよ・・・」 泣き出しそうな悠理に、清四郎は吐息をついた。 「ああ、わかった。悪かった。すぐにもとにもどしてやる」 清四郎の声は、ひどく優しかった。 さすがに、同情したのだろう。 野梨子を退出させ、悠理と清四郎は二人きりになった。 暗示を解こうと、清四郎は悠理の前に手をかざす。 悠理はその清四郎の手首にさえ、喉を鳴らした。 欲望に染まった目で、清四郎を見ることを抑えられない。 「・・・悠理」 「な、なに?」 清四郎が手を下ろしたので、悠理は首をかしげた。 「かじられるのは困りますけれど、最後に味見くらいはしてみます?」 清四郎はくすぐったそうに微笑んでいる。 「い、いーの?」 思わず、悠理は身を乗り出した。 「お、おまえ、ヤじゃない?」 「いいですよ。だって、悠理が食べたくなるのって・・・」 「?」 「好き、のバロメータみたいで、嬉しいです」 悠理は清四郎の言葉に驚いて、座っていたベッドからぴょんと飛び上がった。 「だ、だ、だ、だれが、おまえを・・・!」 「だって、タマとフクと、僕でしょ」 猫と同格だと喜んでいる男の気は、悠理には理解できない。 しかし、両手を広げて微笑む清四郎に感じてしまう、どうしようもない吸引力に、悠理はあっけなく負けた。 ひしり、としがみついて、肩口に顔を埋める。 ぎゅ、と抱きかえしてくる清四郎の首に、悠理はかぷりとかぶりついた。 さすがに身をすくませた清四郎だったが、甘噛みしていると、くすくす笑った。 「・・・僕を欲しがる悠理なんて、いまだけだとわかっていても嬉しいです」 清四郎の声が、悠理の耳元で、睦言のようにささやかれる。 「僕だって、悠理を頭から食べちゃいたくなるときがある」 「えっ」 悠理はびっくりして清四郎の顔を見上げた。 ペロリ、と清四郎に鼻の頭をなめられる。 いつか、正気で欲しがってくださいね、と清四郎は笑った。 清四郎の大きな手が、暗示を解くために悠理の目を閉じさせた。 「本当に・・・今回のことは、わざとじゃないんですけどね・・・」 後日。 「あれは、身も凍る恐怖の体験でしたわ・・・」 その日の騒動を仲間たちに語る野梨子の顔は、恐怖にひきつっていた。 拗ねた悠理は頬をふくらませる。 そして、清四郎は、照れたように微笑むばかり。 しかし、悠理の食欲の対象になったら、さすがの清四郎も恐いと思うぞ。喜んでる場合じゃないよね。(笑) |