そして僕は途方に暮れる




――――見慣れない服を着た、君が今、出ていった。

思えば、悠理がここに来るのは、僕の留守時。そして、帰るのは出勤後。
だから、僕は悠理がどんな服を着てくるのか、なんて知らなかった。
いつでもこの部屋では置きっぱなしのラフな部屋着か、僕の服を勝手に着ている悠理だ。
いつものこととはいえ、見事に散らかしたまんまのテーブルの上。
しかしそこに、渡してあった合鍵まで置いてあるのに気づき、僕は眉を寄せた。

そういえば、出て行くときの様子は、明らかにおかしかった。
僕は手の中の真珠のピアスに目を落とす。
悠理がさっき、僕に渡していったのだ。

「これ、落ちてたよ。誰か・・・来てたんだ」
「ああ、こんなもの忘れていったのか。誕生日だからと、無理やりねだられたんですよ。 贈った当人の部屋に忘れて行きますかね、普通」
苦虫をかみつぶし、僕はピアスを受け取った。
ピアスを踏んづけでもしたのだろうか。悠理も、どこか痛そうに顔を歪めていた。

「あたい、帰る」
「え?夕べ来たところなんだろう」
いつも悠理は、週末勝手に部屋に上がり込み、月曜に帰って行く。
今はまだ土曜の午前中。いつもなら、部屋でゴロゴロしているか、遊びに出かけようとねだられる頃だ。
今日は朝から小雨が降っているので、外出は気が進まないが。

「あたいが、こんなしょっちゅう来たら、清四郎、困るだろ」
「なに言ってんですか、いまさら」
「カノジョとか・・・部屋に呼べないだろ」
悠理はそう言って、ぷいと顔をそむけた。
そして、僕は途方に暮れる。
反論できなかった。なぜならそれは、事実だったからだ。



*****




たいていの女は引くだろう。
悠理は中身はともかく、見た目はかなりの美人で、妙齢の女性。
現に、このマンションの隣近所は、悠理を僕の彼女だと誤解しているフシがある。
いちいち否定するのも面倒で放っているものの、 「美男美女で素敵なカップルねぇ。ご結婚なさるのかしら」と、大家のおばさんに言われたときは、笑顔がひきつった。

妻でも恋人でもない悠理が、僕の部屋に週末になれば入り浸るようになったのは、いつ頃からだったか。
学園を巣立ち、社会人となっても、あいかわらず僕たち倶楽部の面々は、暇を見つけてはつるんでいた。
しかし、なかなか全員が顔を合わす機会はここのところどうしても少なくなっていた。
多忙な面々をよそに、一番暇な悠理は、皆のところに顔を出しているようだ。
仲間内で一人暮らしなのは、僕と美童だけだった。そして、美童の部屋は女出入りが激しすぎる。
自然、悠理は僕がつかまる週末に、遊びに寄るようになっていた。
よく完璧主義などと思われるが、僕が生活全般において実のところかなり無頓着なのも、 悠理が居着くようになった原因だろう。

悠理が来ないときは、外食かカロリーメイトで済ましていた僕の食生活が改善されたのだから、少しは益が ないことはないが――――僕は、ため息をついて、悠理の出ていった部屋を見渡した。
2DKの室内には、いつのまにか悠理の私物が増えている。
服や生活用品はまだしも。TVに接続し放っしのゲーム機。巨大な必勝ダルマ(なぜ?)。 巨大なサボテンの鉢植え(だから、なぜ?)。 シュワル○ネッガーの実物大ポスター(しかも映画のものでなく、すきっ歯覗かせて微笑む知事選バージョン)。 タマとフクのオリジナルぬいぐるみ(実物を連れて来ていないだけ、マシなのか?)。etc etc。
いちいち悠理のものは、巨大で場所を取る。 悠理が居着くようになってから、冷蔵庫もファミリー用に買い換えざるを得なくなった。 週末だけのために。

しかし、金曜の夜、疲れて帰宅したとき、部屋に灯かりがついている生活は、思いのほか良いものだった。
休日の朝、部屋でゴロゴロしている悠理の姿を見ることも。
月曜日の悠理が帰ってしまった部屋が、いつも寒々と感じられたものだ。
憂鬱なのは、散らかり放題の部屋の後片付けをしなければならないせいだけではないだろう。

まるで、大型犬を飼っているようなもの。
読書をしている僕の腹を枕に、いつも居眠ってしまう悠理のふわふわの髪の毛は、 ゴールデンレットリバーの手触りだ。
時々、からかったり、取っ組み合ったり。 たいていは僕が組み伏せて勝利するが、たまに、奇襲攻撃のくすぐり戦法で報復してくる悠理との コミュニケーションは、いつも乱暴で粗雑で気が置けなくて――――暖かい。

僕は学生の頃からの、株やなにやら大きな声で言えないものまで含めて、収入よりもかなりの貯えがある。
だから、住環境は気に入っているとはいえ、最寄り駅まで徒歩15分かかるこの2DKにいつまでも住む 必要はない。
実は、悠理には言っていないが、引越しを考慮中だった。
猫は家につく、というが、悠理はどうなのだろう。
しなやかで俊敏な体の動きは猫科のそれだが、ときどき悠理の後ろにパタパタふる尻尾の見える(幻覚)様子は、 完全にやはり犬。
ちらりとそういうことを考え、一人で笑ってしまった。
「なんだよ、ひとの顔見て、ニヤニヤ笑って」
今朝も、朝食を食べながら、悠理は怪訝な顔をしていた。
「笑いますよ、その顔じゃ」
ほっぺにジャムがべっとりついていたので、指でぬぐって舐めてやった。
口に広がる、甘い苺ジャム。悠理が居なければ、味わうことのない品のひとつだ。

朝からの雨模様。今日も、悠理とゆっくり部屋で過ごすつもりだった。
悠理が部屋でくつろいでいるのを見ると、もっと広い家が欲しくなる。
狭いマンションの一室には、この大型犬は似合わない。
自然光のたっぷり入る大きな窓、バルコニー。怪しげな南洋の観葉植物のたぐいも悠理は好きらしいので、 温室も欲しいくらいだ。
いっそ、新しい家には、悠理の部屋も作ってしまおうか。
そうすれば、少しはガラクタだらけになっている居間が片付くが――――いや、今のように 僕の部屋のベッドで寝こけている姿を見るのも、金曜の夜の帰宅時の楽しみなのだから、それは一時保留。
ちなみに、悠理が泊まっているときは、僕は床に布団を敷いて寝る。
朝、踏み起こされるのはいただけないので、土曜と日曜の夜は、いつもベッド争奪戦を繰り広げるのだが。
まぁ、それも、僕は楽しんでいると言わざるを得ない。 火曜から木曜の、ジャマされず僕だけのものになるベッドで眠るのは、少し味気なく感じるのだから。

正直に言えば、僕だって男だ。
華奢な体を組み伏せたときや、無邪気に胸に顔をすりつけてこられたときに、ドキンとさせられることもある。
風呂上がりの色づいた肌を露出してくっついてこられると、くらりとする。
しかし、不埒なコトをして、悠理を警戒させるわけにはいかない。
それに、僕はそういう衝動を抑え込むのは慣れっこになっていた。
15歳、思春期真っ盛りの頃から悠理とはつるんでいるのだ。
だてに、4歳の頃から心身を鍛えていない。色即是空、空即是色。風呂場で冷水をかぶり座禅を組むのが、週末の習慣と化している。

悠理は、犬、犬、犬――――僕の、犬。
そう思い込むことで、僕の中の男を抑え込む。
僕の不用意な態度で、今のこの関係を壊したくはない。
僕にとっては、すでに悠理はアニマルセラピー。ストレスの多い現代社会を乗り切るための、 必要不可欠な癒しの存在。
だから、大きな家を買うつもりだった。
僕の犬にふさわしく。



それなのに、悠理は出ていってしまった。部屋の鍵を残して。
まだ、新しい家も決めては、いないのに。



*****




悠理の笑顔が、まだ部屋のそこかしこに、残っている気がする。
真珠のピアス(ちなみに結構値が張った)を、テーブルの上に置いて、代わりにマンションの鍵を手に取った。
笑顔の代わりに、部屋を出て行くときの悠理の表情が脳裏を過ぎった。

置いていかれた、子供のような――――捨てられた仔犬のような、顔をしていた。
どこか、痛むのだろうか。なにか、つらいことでもあったのだろうか。
今朝までは、いつものように元気そうだったのに。
あんな顔を見せられると、僕の胸まで、苦しくなる。

僕は鍵を握りしめ、玄関に向かった。
鍵を忘れていくなんて、来週、どうやってこの部屋に入るつもりだ?
犬は主人を捨てたりはしない。
そして、僕も僕の大型犬を捨てた覚えはない。
僕は悠理を追いかけて、走り出した。小雨の降る街を。



駅まで、徒歩15分。走っても、6分。
先行していた悠理に追いついたのは、駅前商店街の真ん中だった。
悠理は傘もささず、とぼとぼと歩いていた。
「悠理!」
僕は荒い息のまま、悠理の華奢な肩に手を掛けた。
「せいしろ・・・」
振り返った悠理は、僕が追って来るとは思っていなかったのだろう、びっくり顔だ。
わずかな雨にもかかわらず、悠理の頬は濡れていた。
目も赤いので、まるで泣いていたようで。
僕はまた胸が苦しくなった。

「おまえ、これ忘れてるぞ」
そう言って、悠理の手を取り部屋の鍵を掌に置く。
悠理は僕の手に包まれた自分の手と鍵に視線を落とした。
伏せた長い睫毛が、水滴をのせて震えている。
この睫毛なら、マッチ棒三本は乗せられそうだ―――― そんなどうでもいいことを考えていた僕の顔を、悠理は見上げた。
しかめっ面。
だけど、瞳は潤んで揺れている。

「あたい、もうおまえの部屋には行かない」

そう悠理が言ったとき、僕の頭は一瞬真っ白になった。

なぜだなぜだなぜだなぜだ?

これまでの週末の様々な場面が走馬灯のように、脳裏を過ぎる。
たしかに、僕は悠理に優しくしたことなどろくになかった。
楽勝の口喧嘩、辛勝の取っ組み合い。
からかったり、気まぐれに構ったり、うるさがったり。
僕はあまり良い飼い主ではなかったかもしれない。
それとも、座禅の習慣の真実を見抜かれてしまったか。
そして、とうとう、悠理に愛想をつかされてしまったのか。

僕の顔から血の気が引いた。
「悠理・・・どうして」
それだけ口にするのが、精一杯だった。
悠理は眉をよせて、僕を睨み付けた。
「だって、だって・・・あたいがいたら、恋人も部屋に呼べないんだろ?」
なんだか、怒っているようだが、弱々しい表情をされるより、よほどいい。
僕は胸をなで下ろした。
「なんだ、そんなことか」
女を連れ込めないくらい、どうということはない。僕は美童ではないのだ。
第一、恋人とやらと過ごす暇があれば、悠理と一緒にいる時間を増やす。
そんなことは、僕の中では自明の理。選択の必要すらない。
しかし、こんなことを思う僕は、恋愛に向かない男であるとの、自覚ぐらいある。
「そんなこと、気にしないでください」
ニッコリ微笑んで、両手で悠理の手をくるみ、鍵を握らせた。

悠理の顔が、くしゃりと崩れた。
まるで、泣き出しそうに。
「あの、ピアスのひとは、気にするよ!」
叫ぶような悠理の声。
悠理の目に、涙が溢れた。
僕は胸を衝かれ、息が止まった。
心臓がきりきり痛む。
泣き虫の悠理の涙など、見慣れているのに。
チャンネル争いに端を発したものであろうと、喧嘩の末に実力行使で組み伏せると、悠理は悔しさにすぐに 涙を浮かべる。
たいしたことはないとわかっていても、僕はそのたびに、動揺してしまうのだ。
このときもそうだった。

「ピアスって、真珠の?」
そうか、あれが、諸悪の根元か。悠理は、だから怒っているのか。
「全然気にしてないと思いますよ。泊まっていったときも、おまえのダルマ見て大受けしてたくらいだし」
僕は、つとめてさりげなくそう言った。
なのに、悠理の涙は止まらない。
悠理は顔を伏せた。涙が雨のようにポタポタ地面に落ちる。
よろりと、悠理の体が傾いだ気がして、僕はあわてて支えた。
「シュワルツ○ッガーのポスターに落書きしようとしたのは、僕が阻止しましたよ、ちゃんと」
つかんだ肩が震えている。
やはり、怒っているのだ。

「・・・もしかして、僕がピアスを贈ったことを、怒ってるのか?」
そういえば、僕は悠理にろくになにも買ってやったことはない。
この商店街で一緒に買物をするときも、食料品オンリーだ。それさえ、悠理が払うことが多い。
「でも、あれは強奪も同然なんですよ。姉貴には弱みを握られてますからね」
弱みの一つは、悠理のことも含まれる。
週末同棲同然なんだって、パパにばらしちゃおうかな~と、脅されたのだ。ダルマ見て爆笑しつつ。
「和子・・・さん?」
悠理は顔を上げた。
目が見開かれている。

「そうですよ、まったくあのひとは。弟を平気で強請るんですからね」
本真珠だ。可憐の店で買わされたのだが、一番高級な品だった。
悠理はポカンと僕の顔を見上げている。
そうだ。これ以上、悠理を泣かせたくはない。
まさか、悠理が宝飾品を欲しがるとは思ってもみなかった。
しかし、姉貴に強奪されたこんなものが羨ましいなら、悠理にいくらでも買ってやる。
金なら有り余っている悠理が、僕のプレゼントだから、欲しいと思ってくれるなら。

「こんど、悠理にも、買ってあげますよ、素敵な首輪を」
言ってしまってから、しまった、と思った。
つい習慣の犬あつかいで、首輪と言ってしまったが。いくらなんでもマズイだろう。
悠理も凝固している。

僕はコホンと咳払い。
「・・・もとい、指輪をプレゼントします」
言い間違えただけだと、思ってくれただろうか。

一瞬の間。

悠理がいきなり、僕の腹にタックルをしかけてきた。
僕はとっさに受けとめる。

次の瞬間。

盛大な拍手と歓声に、僕らは包まれていた。
なにごとかと、見回せば、魚屋、八百屋、パン屋に駄菓子屋。
いつも悠理と買物に来る商店街の顔見知りの店主達が、拍手喝采していた。
肉屋のオヤジなど、赤ら顔をまだ赤く染めている。果物屋のおばさんも、エプロンで目元をぬぐっていた。
「よかったねぇ、どうなることかとハラハラしたよ」
「兄ちゃん、幸せにしなきゃだめだよ!」

いや、そんな、と僕は焦った。
これは、大家の奥さんと同じ誤解だ。
僕は途方に暮れた。
泣いている女を追いかけて、指輪を贈る約束をした上、こうやって抱きしめている僕。
客観的に見てみると、どう考えても誤解を解くのは困難そうだ。
しかし。
もうすぐ引っ越すことになる街だ。少々の誤解くらい、かまわないか、とも思う。
抱きしめた悠理の体は温かい。
そのぬくもりを、もう少し放したくはなかった。

とりあえず、首輪――――もとい、指輪を買って来よう。
それが、首輪ほども、悠理を僕に繋ぎとめるものになればいいのだけど。

悠理を抱きしめたまま、新しい家のことを考える。
さて、どうやって悠理に切り出そう。
いっそ、ずっと一緒に住まないかって。
妻でも恋人でもない、一応客観的に見れば妙齢の男女である僕たちが、一緒に住むのは おかしいだろうか。
だけど、僕だけのこの大切な存在を、離したくはなかった。

悠理は僕の胸に顔を押し付け、動かない。
耳は真っ赤だが、もう泣いてはいないようだ。

雨はいつのまにか、上がっていた。
雲の合間から光が射す。
花屋の若奥さんが、薔薇の花を一輪持って駆け寄ってくるのが、見えた。
あれを、悠理に渡せと言うのか?

悠理を抱きしめ、悠理との生活を夢見ながらも―――― 僕は途方に暮れて、立ちつくしていた。








2004.10.3


ええ、実はシリアス部屋の「Wait&See~リスク~」の後編を書いたときに、考えていた話です。
ありえないくらいの鈍感清四郎は、だから、あちらと同様。
あっちの方が、自分の気持ちを自覚してるのに、どうして幸せになれないんでしょうかねぇ・・・。

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