基本的に寝起きの悪い悠理だが、その朝、起こされるよりも早く目が覚めた。
「・・・このせいかな」
ポツリとつぶやき、自分の胸に置かれた清四郎の腕をそっと外す。
悠理の首筋には、背後から安らかな寝息がかかっていた。
後から悠理を抱きしめるようにして眠る清四郎は、胸や腹に手を置き、 寝ながらも触れるのがくせのようだ。
「ったく、スケベ・・・」
寝苦しいわけじゃない。
素肌のまま抱きしめられて眠るのは、信じられないほど心地よかった。
この三日、清四郎はほとんど家に帰っていない。
さしもの剣菱家の使用人たちも、薄々ふたりの関係を察しているようだ。
「そういや、今日は母ちゃんたちが帰って来る日じゃなかったっけ?」
悠理はあわてて、ベッドから飛び出た。
昨夜のフライトで両親がもどって来れば、予告なしでこの部屋に突入される危険大。
「…ゆうり?」
清四郎が目覚め、身を起こした。
「早いですね」
まだ寝ぼけ眼のくせに、清四郎は悠理に手を伸ばす。
この三日のパターンからすると、つかまればそのまままたベッドに引き込まれる。
悠理はすばやく身をひるがえした。
「あたい、シャワー浴びてくる。おまえも、服着ろ、服!」
ベッドの上の清四郎は、ポカンとしている。
乱れた髪と、シーツのからんだ素肌が、男のくせに艶めかしい。
あの胸に抱かれて眠っていたと思うと、いまさらのように恥ずかしくなる。
赤く染まった顔を見られたくなくて。
悠理は裸のまま、化粧室に飛び込んだ。
*****
「お帰りなさいませ、奥様」
「悠理はまだ寝ているのかしらね?」
母親の声が廊下を移動して近づいてきたとき、悠理はすでに自室に居なかった。
「いえ、もう朝食をお召し上がりになっておられます」
「まあ、めずらしい」
バン、と食堂の扉が勢いよく開かれる。
悠理は8個目のクロワッサンに手を伸ばしていた。
大きなテーブルの悠理の向かい側では、清四郎がエスプレッソコーヒーを啜っている。
清四郎もいまは髪を整え、制服姿だ。
昨日、野梨子と一旦帰宅した清四郎は、私服で剣菱家に来たにもかかわらず、 しっかり制服と鞄も用意していた。当然のように泊まる気だったのだ。
「あら、めずらしく早起きだと思ったら、清四郎ちゃんが起こしてくれたの?」
「おじゃましてます、おばさん」
清四郎は百合子に会釈し、微笑む。
「大変だったでしょ。この子、寝起き悪いから」
「いえ…それほどでも」
「こんなに早く起きてくれるなら、毎日清四郎ちゃんに頼みたいぐらいだわ。家に住み込まない?」
なにも知らない母親のシャレにならない話に、悠理は憮然と割って入った。
「…お帰り、母ちゃん。父ちゃんは?」
「万作さんは、空港で豊作につかまって、会議に引っ張られていきましたよ。 まったく、あの子もいつまでも自分で決定できないんだから」
百合子は、はああ、と嘆息する。
「清四郎ちゃんみたいな息子が欲しかったわぁ…」
百合子は清四郎を上目遣いで見た。
清四郎は苦笑する。
いつも、このあとには”悠理とのことを考え直してくれない?”と続き、
”じゃあ、母ちゃんが清四郎と結婚しろよ”と悠理が返すのだが。
この日は、百合子がそう続けるまえに清四郎が口を開いた。
「じつは、おばさん。悠理とおつきあいさせていただくことになりました」
「え…?」
百合子は目をぱちくり見開く。
「おつきあい…っていうのは、その、どこかに一緒に行くっていうやつ?それとも、この子と、その…」
「その、後者です」
清四郎は、ニッコリ。
(ひええええっ)
悠理は内心、悲鳴をあげていた。頭に血が上る。
清四郎がこう言い出すとは、予想してしかるべきだったのだ。仲間たちにはっきり交際宣言したときに。
「あ、あらあら、まあまあまあっ!」
百合子は両手を合わせて、飛び上がらんばかり。
「どうしましょう、まあ、どうしましょう!こんなことなら、明日のパリ行き、 中止した方がいいかしら?・・・ああでも、あちらの方が、いろいろと準備するにも、良いものがそろってるし・・・」
(どうもせんで、いい!なんの準備だよ!)
悠理は赤面したまま、ギリギリ歯をかみしめた。
「清四郎、学校行くぞ!」
悠理は清四郎の腕をつかみ、狂喜乱舞している母親を残して席を立った。
悠理には、清四郎がなにを考えているのか、わからない。
このままでは、周囲はほんとうに二人が恋人同士だと完全に認識してしまう。
いや、恋人同士といえば、事実そうなのだが。
(だって…)
考えると、悠理は憂鬱になる。
だんだんと、清四郎の手に慣らされて。
これまでの長い友情を凌駕するほどの密度で、清四郎は悠理を侵食してゆく。
抱きしめてくる、腕が、手が。かけがえのないものに、なってゆく。
(だって、清四郎の好きなのは、あたいじゃないのに…)
胸がきりきりと痛んだ。
悠理は息をつめて、その痛みに耐える。
「悠理?」
黙り込んで車に乗り込んだ悠理に、清四郎が怪訝そうな顔を向けた。
「…清四郎、おまえさ」
(だれを、想ってるんだ?)
(あたいは、だれかの代わりなのか?)
(ちょっとでも、あたいのこと、好き?)
問いただしたいことは、いっぱいある。
だけど、悠理の口から出たのは、違う言葉だった。
「母ちゃんにあんなこと言って、いいのかよ。下手すると『結婚』とか騒ぎ出すぞ」
清四郎は肩をすくめた。
「あり得ますね」
「おまえ、わかってて…!」
「だけど、どうせもう後戻りはできないでしょう」
その投げやりな言い方に、悠理はカチンときた。
そう、美童の言った通りだ。清四郎の態度は、恋が成就した者のものじゃない。
「なんだよ、それ!」
悠理が怒鳴り声をあげた。
「お嬢様?」
運転手の名輪が、バックミラーで後部座席を見る。
清四郎は、それに手をふって心配無用と伝えた。
心得たもので、名輪は運転席と後部との境のシャッターを閉める。
ロールスの後部座席は、密室になった。
清四郎は、悠理の真正面に席を移し、ため息をついた。
「僕たちは、前のような友達にはもどれないだろう。いまさら」
清四郎の暗い瞳に見据えられ、悠理は息を飲んだ。
”もどりたいのか”とさえ、清四郎は訊かない。
ふいに、悠理は恐怖に襲われた。
悠理にとっては、なりゆきではじまったこの関係。
けれど、それを解消すれば、悠理は清四郎を失うのだ。
恋人としてのこの三日間の、彼だけではなく。
――――いつだって、そばに居た。
悠理が思いきり駆けだすときは、後ろで見守ってくれていた。
ふりかえらなくても、悠理は知っていた。
愉快気な笑みを浮かべた清四郎。
意地悪なその笑みに、いつも発奮し負けん気を刺激され。
それでも。
無茶をしすぎたときには、助けてくれた。
泣きじゃくる悠理の頭をなでてくれるあの優しい手も。
――――失ってしまうのだ。
*****
清四郎が、”もどれない”と言ったとたん、悠理の顔色が変わった。
悠理は自分の体を、無意識でだろう、きつく抱きしめている。
静かに走る車のなかで。
清四郎は、嗤いだしそうになった。
(悠理は変わらないな)
婚約騒動のときと、同じだ。
”おまえとなんか、結婚できるか!あたいは、好きな男と結婚するんだ!”
かつて、そう叫んだ悠理は、しかし、いまは黙りこくっている。
(いや、変わったか)
いまの悠理には、もう言えないはずだ。
悠理の好きな男は、他の女のものだから。
剣菱夫人のことだから、入籍だけでもと、すぐに用意を整えるかもしれない。
(結婚も、いいかもしれない)
この偽りの関係に縛りつけることができるなら、結婚という形も悪くない。
三日前に自分のものにしたばかりの女は、清四郎を怯えた表情で見つめているが。
「それとも、また僕と決闘でもしますか。それでもいいですよ」
ついに、清四郎は嗤いだしてしまった。
「…僕が決闘したいのは、おまえじゃないが」
悠理の好きなあの男と。
本気で殴り合えば、一瞬で清四郎が勝つことはわかっている。
だけど、清四郎にとって魅録は、悠理のことがなくてもコンプレックスを感じる唯一の男だった。
プライドの高い清四郎が、ただ一人認めるライバル。そして、親友。
やりきれないのは、恋敵と決闘する機会もあたえられないことだ。
魅録がつきあっているのは、可憐。魅録はなにも気づいていない。
悠理の想いも、清四郎の嫉妬も。
「どういう意味だよ」
青ざめたまま、悠理が問いかけた。
「…いえ。恋敵を殴りつける機会もないのか、と」
自嘲しながら、清四郎は悠理の頬に手を伸ばした。
青白い頬に触れると、悠理はびくりとふるえた。
驚愕に、目が見開かれている。
そう、清四郎は知っていると、告げたのだ。悠理の秘めた初恋を。
愛しくて、苦しくて。
清四郎は、悠理を胸に抱きすくめた。
もっと、大きな度量が欲しかった。 悠理の心をゆっくり溶かして、包み込み、いつか清四郎のものにするために。
それなのに、いま清四郎は焦燥感で身動きができない。
自分が愚かなことばかりしているのは、わかっていた。
清四郎の心は、小さな子供のように、泣きじゃくり暴れまわっている。
悠理が、欲しいと。
愛して、欲しいと。
*****
悠理はあまりの衝撃に、まばたきすらできなかった。
”恋敵”と、清四郎が言ったとき、すべてが繋がった気がした。
”僕は、嫉妬しているんです。魅録が羨ましい”
熱に浮かされ、夢うつつのなかで聞いた清四郎の言葉。
あのときは、悠理が魅録にもたれかかっていたためだと思った。
だけど、”羨ましい”と言う意味は、わからなかった。
――――魅録と、つきあっているのは、可憐だ。
悠理は目の前が、真っ暗になった。
抱きすくめられているからじゃなく、息ができない。
ガンガンガンと内側から頭が痛む。
(そんな…)
清四郎が可憐に恋をしている、なんて。
知ってしまった事実が、信じられない。
そんな兆候は、まったくなかった。
だけど恋愛オンチの悠理は、二人がつきあいだすまで、一番の親友の魅録が可憐を 好きだったってことすら気づかなかったのだ。
そして、悠理は思い出していた。いつから、清四郎の態度がおかしくなったのか。
(あの、キスからだ)
可憐との、くちづけ。
失恋したばかりの可憐と、ほんの悪ふざけでしたという、キス。
なのに、ねだっても、悠理にはその悪ふざけすらしてくれなかった、キス。
偶然、見てしまったあのときの光景が、悠理の脳裏によみがえった。
うっとりと目を閉じ、可憐を抱きしめていた清四郎。深くあわさった唇と唇。
いま、悠理を抱きしめている腕は、可憐の細い腰に回っていた。
そして、いまでは悠理も、あれがどんなキスだったのか知っている。
実感として。
悠理の全身に、鳥肌が立った。
思わずもがいて、清四郎の腕を自分の体から、ひきはなす。
(可憐の代わりに、あたいを・・・?)
いまここで、清四郎を殴りつけ、車を止めて飛び出すこともできた。
これほどの屈辱、怒り、絶望。
これまでの悠理ならば、間違いなくそうしていた。
清四郎が、わずかに顔をゆがめ、悠理を見つめている。
その目のなかの、揺らぎ、迷い。
清四郎の瞳に見える恋が、悔しくて、悲しくて。
心がちぎれてしまいそうだった。
殴りつけたくても、体が動かない。
いま少しでも動いたら、悠理は永遠に清四郎を失ってしまう。
”悠理が好きだから、つきあいたいんです”
清四郎がついた嘘。
わかっていても、悠理は動けない。
ただ、失うことが怖くて。
NEXT→ ← TOP