いくら呼びかけても応答のない扉に焦れて、野梨子は言った。
「あなたが自分で開けてくれないのでしたら、ドアを蹴破りますわよ、悠理」
野梨子は背後の魅録をふりかえる。
「やっぱ、俺がやんのかよ」
当然、とうなずく野梨子。美童と可憐も同様。
困惑顔の魅録は、ため息をついた。
この面子では、たしかに荒事は魅録の役目だ。
魅録は扉の前に立ち、勢いよく足を振り上げた。
*****
月曜日になっても学校にあらわれない悠理と清四郎に、さすがの仲間たちも不審を感じた。
携帯はふたりそろって切れたまま。どうせ、どこかに遊びに行っているのだろうと楽観していたものの、念のために剣菱家に電話を入れた。
なんと、悠理は自室に居るという。
しかも、悠理の様子を尋ねても、電話口に出たメイドはなんとも歯切れが悪い。
心配になったメンバーは、放課後、そろって剣菱邸を訪れた。
悠理が自室に篭城して、もう三日になるという。
清四郎も一緒だったが、喧嘩でもしたのか朝早く帰ってしまった。
悠理の部屋からは、ときおり泣き叫ぶ声や物の壊れる音がするので、五代はたいそう心配していた。
しかも、この数日、悠理はほとんど食物を口にしていないはずだというのだ。
清四郎と喧嘩をしたらしい、と聞けば、悠理が大暴れするのも納得。
ふたりの交際宣言を好意的に受け入れた仲間たちだが、あのカップルが喧嘩をしたら、 近づきたくはないと思うのも本音。
しかし、彼らの思ったような喧嘩の様子とは違うらしい。
「悠理が、なにも食べてないなんて・・・」
かなり、異常な事態だ。
室内を動く人の気配はするのに、呼びかけても応えはなかった。
悠理を案じ、扉を蹴破ることにする。
しかし、魅録の足が届くよりも早く、扉が動いた。
「悠理!」
体勢を崩した魅録を押しのけるように、他の三人が開いた扉に飛びつく。
「ゆ、悠理?」
扉の向こうの室内はぐしゃぐしゃ。
およそ棚のものも机上のものも、すべて叩き落されたのか床に転がっている。
鏡にはヒビ、カーテンは破れ、窓ガラスは割れている。
嵐が通り抜けたような、部屋の惨状。
しかし、それよりも皆を絶句させたのは、部屋の真ん中でうつむいている悠理の姿だった。
姿を見なかったのがほんの数日だとは思えないほどの、やつれ方だった。
ガリガリに痩せていたわけでも、青ざめていたわけでもない。
しかし、いつもお日様のように元気を発散している悠理の面影は、うなだれた少女のどこにもなかった。
「ま、まさかこの部屋、清四郎と喧嘩して…?」
可憐の間抜けな問いに、悠理は首を左右に振った。
「あた、あたいが…」
頭を振った拍子に、涙が散った。
顔を上げないまま、悠理は悲鳴のような声をだした。
「あたいが、みんな壊しちゃった…苦しくて、たまんなくて…うわぁぁぁん」
悠理は声をあげて泣き出した。
いつもの、子供のような悠理の泣き方だったが、悲痛さを感じるのは、目が開けられないほど泣きはらしたとわかる顔のせいか。 それとも、一回り小さく見える、大きすぎるシャツのせいか。
可憐と野梨子が、崩れ落ちる悠理を抱きとめる。
力のない悠理の体は、思いのほか頼りなく弱々しい。
「あんたがこんなになるなんて…ど、どうしちゃったの、悠理?!」
「清四郎は、どこへ行ったんですの?」
野梨子の問いに、悠理がびくんと反応する。
「せ、清四郎は…」
小柄な野梨子にしがみついている悠理の体が、怯えるようにガタガタ震えた。
「清四郎は、もう来ないよ…もう、友達にもどれないって…」
泣きながら震える悠理を、可憐は自分も涙ぐみながら、抱きしめた。
「いまは、なにも言わなくていいわ。あとで、ちゃんと聞いたげるから」
可憐の腕の中で、悠理は何度も首をふる。
なにも話せないと言いたげに。
「それよりも、悠理。なにか食べましょう。あなた、ろくになにも食べてないんでしょう?」
優しく野梨子が悠理の髪を撫でる。
しかし衰弱した悠理は、その言葉だけで、口を手で覆った。
「気持ち…悪い」
悠理を抱えて、可憐は化粧室に飛び込む。
「なにか、胃にやさしいものを作ってもらってきますわ!」
野梨子もバタバタ走り去る。
なにもできないまま、男達は突っ立っていた。
「僕ら、じゃまだよな」
まだ呆然としている魅録を、美童が突いた。
「…あんな悠理、初めて見た…」
魅録は困惑して、天井をにらむ。
わんわん泣く姿も幽霊がらみで衰弱したところも見ているが、泣き崩れる悠理の悲痛な姿は、 彼らの知る少年のような友人のものとは思えなかった。
美童も眉を寄せ、表情を曇らせる。
「悠理は、野梨子たちにまかせて、僕らは行こうか」
魅録は友人をふりかえる。
美童はいつになく、険しい顔つきだ。
「ああ、清四郎のところへ、だな?」
友人として、あんな悠理を放っておけない。
男達は、そっと剣菱邸をあとにした。
*****
「悠理を抱きました。めちゃくちゃに、何度も」
清四郎の頬に、いつもなら決まるはずのない魅録の拳が入った。
清四郎は、自室の壁にぶつかる。
棚から重そうな書籍が何冊も落ちた。
魅録の怒りも、美童の軽蔑も受けとめ、清四郎は壁を背に、静かに座っている。
美童は清四郎の前に立ち、見下ろす。
「最低男」
美童にはそういう権利があったのだ。
美童は清四郎に顔を近づける。
整った顔が、冷たい怒りを浮かべている。
「おまえが悠理に片思いしてたのは、知ってるよ。だけど、こんな馬鹿なことするとは、な」
清四郎は無表情のまま、身じろぎもしない。
「おまえは、僕や魅録や可憐や野梨子に、ぶん殴られてもしかたないよね。 僕が、野梨子に同じことをすれば、間違いなく清四郎に殺されてるだろうから」
清四郎の首が、うなだれた。肯定の意。
「・・・もう二度と、悠理のまえには、姿を現しません」
清四郎は静かな声で、つぶやいた。
「なんだよ、それ!」
魅録が激昂した。
たいせつな友人だったからこそ、清四郎が悠理を傷つけたことが許せない。
たいせつな友人だからこそ、そのまま逃げようとする清四郎が許せない。
「それは、悠理の望みなのかよ!それとも、おまえのか」
「・・・・」
はじめて、清四郎の表情が動いた。
魅録と美童を見上げた清四郎の瞳が、惑いに揺れる。
「悠理が、二度と顔を見せるなって、おまえに言ったの?」
美童の問いに、清四郎は首を横に振った。
「やっぱり、おまえが逃げだしたいだけなんだろう!」
魅録はもう一度拳を握りしめた。殴りたい気持ちを必死で押さえる。
「・・・そうだ、悠理は・・・友達にもどりたい、と・・・」
清四郎はぼんやりつぶやいた。
中空を見つめるうつろな目。
その表情で、魅録と美童は、やっと気づいた。
清四郎もまた、酷く傷ついていることに。
「清四郎」
自分の行為によって、悠理を傷つけ自分も傷ついている清四郎を、 これ以上見ているのは二人にとってもつらかった。
清四郎はずっと彼らのリーダー格で、ときに憎らしくなるほど出来すぎた自慢の友人だったのだ。
「清四郎!」
何度も呼ばれて、やっと清四郎は友人に目を向ける。
子供のようなその顔に、魅録は拳の力が抜けた。
恋にはひどく不器用なこの友人に、魅録はこれ以上怒りをぶつけられない。
「悠理は、友達にもどりたいって、言ったのかい?」
美童が身をかがめ、清四郎と目を合わせた。
清四郎は力なくうなずく。
「惚れた相手に”お友達でいましょう”って宣告されるのは、男としてはつらいよね」
僕だって他人事じゃないよ、と美童は表情をゆるめた。
「でも、悠理の望み通りにするのが、つぐないにはならないか?」
「つぐない・・・」
思いもしなかったように、清四郎は目を見開く。
「僕は、もう取り返しのつかないことをしたと・・・」
美童は首をふる。
「傷つけたなら、全力で彼女のもとに走っていって、跪いて許しを請わなくちゃ」
美童は清四郎の手をひいて、立たせた。
「それに、悠理はもう許しているんじゃないかな。友人としてのおまえは、失いたくないくらいには。 僕ら有閑倶楽部にだって、ウンチクたれるおまえが居なきゃ、物足りないよ」
微笑もうとして失敗したのか、清四郎は顔をゆがめた。
*****
野梨子と可憐は、剣菱邸に泊まり込んでくれた。
広いゲストルームのベッドで、娘達は三人で寝た。
このところずっと、抱きしめられて眠っていた悠理には、友人達の体温がありがたかった。
清四郎の腕のぬくもりを、忘れることなどできないから。
翌日、学校には可憐お手製の弁当を持って行った。
「たまには、いいよな、こういうのも」
早起きして、女の子三人で弁当をつめ、一緒に登校する。
「あんたにも、この際料理を教えてあげようか」
「そうですわよ、悠理。せめて飢え死にしない程度の知識は必要ですわ」
そういう友人二人に、悠理は舌を出す。
まだ、心から笑うことはできなかったが、友人たちの心遣いは素直にうれしかった。
「おはよう、魅録」
「・・・よう、悠理」
登校し、教室で顔を合わせた魅録は、困ったような照れたような表情を見せた。
「いいだろ、今日の弁当は可憐が作ってくれたんだ。あたいも、詰めたんだじょ」
「ああ、可憐は料理が得意だからな」
「あ、もう食べたことあるんだ、可憐のお手製」
「なに言ってんだ、ブラジル料理とか、嫌ってほど食わされたじゃねぇか」
「な〜んだ、ふたりっきりで、作ってもらったことないのかよ?」
魅録は赤面する。
「やっぱ、あるんだ。そうだよな、可憐は”男は料理で落とせ”っていつも言ってるもんな。 おまえ、それで落ちたわけ?」
「あ、あのなぁっ」
焦りまくる魅録に、悠理は笑いかけることさえできた。
それでも、以前のようにはいかない。
仲間たちと会っても、馬鹿言って笑っても、そこには清四郎はいないから。
ぞくり、と寒気が走り、悠理は思わず自分の体を抱きしめていた。
幼稚舎からのつきあいとはいえ、悠理と清四郎が同じクラスになったのは、中三の一回だけ。
だから、教室では清四郎の影を見ずにすむ。
けれど、激情が去ったあとの悠理の胸には、空虚な穴が開いていた。
自分が間違っていたのかも、とすら思う。
悠理さえ、気づかないふりをしていたなら。
そうしたら、清四郎を失わずにすんだのだ。
(清四郎は、悪くない・・・)
あぶれ者同士つきあおう、と言った清四郎は、その言葉通り、悠理を愛そうとしただけだろう。
手に入らない女の代わりに、悠理を抱いたのだとしても。
清四郎に抱かれて、苦しいと感じたのは、体ではなくいつも心だった。
意地悪な清四郎に翻弄されるばかりだったとはいえ、悠理も知ってしまった快楽に酔いしれたのだ。
清四郎は努力すると言った。
いつかほんとうに悠理を愛するようになり、本物の恋人同士になれたのかもしれない。
それを拒否したのは、悠理が気づいてしまったから。
愛されていないことに、ではない。
悠理が、すでに偽れないほど、清四郎を愛してしまっているということを。
昼休み、部室のテーブルで弁当を娘達は広げた。
胃に優しいものを、という野梨子の主張で、和食系。
それぞれの好物のつまったそれに、顔を見合わせ、うふ、と微笑んだ。
うらやましそうに魅録がのぞきこむ。可憐が、また今度ね、とウインク。
差し入れを抱えた美童が、満足気なため息をつき、野梨子ににらまれた。
悠理は箸をくわえて、ぼんやり室内に目をさまよわせる。
ほんとうは、悠理はここには来たくはなかった。
空いた席に、清四郎の居ないことを思い知らされるから。
だけど、教室でも廊下でも、どこに居ようと一緒だ。
清四郎を思い出させないものは、ない。
廊下の真ん中で、キスされた。
保健室で、焦らされた。
そして、ここで抱かれた記憶も、まだ胸を焼く。
悠理は頭をふって、記憶を追い出そうとした。
「悠理?」
可憐が心配そうに顔をのぞきこんでくる。だから、悠理は無理に笑顔をつくった。
「ん、んまいじょ♪」
(可憐も、なにも悪くない。もちろん、魅録も)
清四郎だって、魅録から可憐を奪う気はなかった。だから、悠理とつきあおうとしたのだ。
清四郎なりに、皆のバランスを保とうとしていたのだろう。
気づくと、清四郎のことを考えてしまう。
だから、悠理は現実感のないまま、箸をくわえてぼんやりしていた。
扉が開いて、当の本人が入ってきたにもかかわらず。
「せ、清四郎・・・!」
がたんと椅子を鳴らして立ち上がったのは、野梨子だった。
その声で、悠理は現実に引き戻される。
口から箸がポロリと落ちた。
一瞬、悠理は夢かと思った。
だけど、夢にしては、清四郎の表情は厳しい。
落ち着いた、いつものおだやかな目とは違う。
一週間ともに過ごした、あの情熱的な偽りの恋人の顔だった。
清四郎はぎこちなく部室に入ってきた。
いつかのように、自分の席には向かわず、悠理の元へ歩いてくる。
皆の凝視にさらされているにもかかわらず、その目は真っすぐ悠理だけを見ていた。
悠理の体が、無意識でふるえる。
野梨子と可憐が悠理の元に近づこうとして、美童に止められた。
清四郎は阻むものなく、悠理の目の前に立つ。
「・・・悠理」
昨日別れたばかりの男は、かすれた声で、悠理の名を呼んだ。
悠理は唇をかみ締め、遠のきそうになる意識を必死で支えていた。
空虚だった胸の穴に、ふたたび激情がこみ上げ、注ぎ込まれる。
それは、怒りじゃなかった。絶望でもない。
”自分だけを愛して欲しい”
その激情は、子供のように駄々をこねる、わがままな衝動だった。
そして、それは清四郎の目にやどる暗い熱情と同じものであることを、悠理は知らなかった。
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