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〜リスク〜

 

 後編



オートロックを外し、部屋を開けた。
単身者用のこのマンションには警備員はいない。
僕は寝に帰るだけなので住人との交流は皆無といっていいが、ほとんどが普通の独身サラリーマンだという。
対外的な地位立場からすれば、意外と思われるかもしれないが。
このマンションには、僕は仕事をほとんど持ちかえらない。
さすがにパソコンはあるものの、機密事項は入れていなかった。

「清四郎の部屋だぁ・・・」
悠理は足を踏み入れるなり、声をあげた。
まるで、子供のようなその口調。
それは、かつての――――僕の手の中にいた頃の悠理を、思い出させた。

「ここに来るのは、初めてでしたかね」
わかりきっていることを、口にした。
ここには悠理どころか、友人のだれも入れたことはない。
そう決めていたわけではなく、単に機会がなかっただけだったが。

悠理は壁の本棚を見上げている。
悠理の言葉で、この部屋は実家のかつての僕の部屋とそっくりなのだと気がついた。
実家の部屋は留学時代に姉に占領され、荷物はダンボールに入れられて不遇をかこっていた。それをそのままろくに整理選別もせずここに移動させたのだから、あたりまえといえばあたりまえ。
本棚には『薬学百科』だの『古典芸能』だの『SF選集』だの、およそいまでは手に取らない本が並んでいた。

上着とネクタイをクローゼットにかける。
「僕は着替えますが・・・悠理もその濡れた服を、どうにかした方がいいですね」
ワンルームなので、浴室ぐらいしか悠理の着替える場所はない。
「いいよ、濡れてるの、上だけだから」
悠理はジャケットを脱ぐ。
上質な絹の明るい色のインナーシャツ姿になった悠理は、ベッドに腰を下ろした。
胸元には、大きな猫のプリント。
「多満自慢と富久娘?」
「へへへ。スーツ着てたらわかんなかっただろ」
悠理は自慢そうに言うが、じゃあこの前の会議で着ていた全面に細かいタマフク模様の入ったスーツはなんだったんでしょうかね。浴衣じゃあるまいに。

「冷蔵庫。勝手に出していいですよ。どうせ、飲み物しかないですが」
「うん」
悠理はベッドから立ち上がり、申し訳程度についているキッチンへ向かった。
その華奢な後ろ姿に、僕は小さくため息をつく。
自分の部屋にもどって、ようやく僕は自分をとりもどしていた。
今日の悠理は普段の彼女ではない。

”連れていって”

ふるえる声で、そう告げられたとき、心が崩れそうになった。
抱きしめてしまいそうになった。
悠理を連れ去り、どこかへふたりで消えてしまいたくなった。

悠理は、弱い。
あれほどの輝きと意志の力を持ちながら、挫けると脆い。
子供のように泣いて、すぐに僕に頼ってきたあの頃の悠理は、まだ彼女のなかに棲んでいる。
ほんの数年しか経っていないのだ。悠理が一人で歩き始めてから。

僕はビジネスにおいての補佐であるとともに、悠理にとっては一番そばにいる友人。
仲が良さそうな秘書嬢に対しても、”幻滅させたくない”と言っていた悠理だ。
今日のように、僕に弱音を吐くくらいは、許してやらなければならない。
ただ、滅多にないことだけに、そのたび動揺する自分が、僕は情けなかった。

一度、僕は逃げ出していた。
悠理への想いに気づき、友人としてそばに居ることが耐えがたくなった頃に。
地球の反対側にまで、逃げて、逃げて。
それなのに、空を見上げるたびに悠理の星をさがしていた。
帰ってきたのは、覚悟ができたからだ。
彼女を支え、彼女のために生きる。
一生、想いを隠したまま、悠理のそばで生きてゆく覚悟が。

小型の冷蔵庫をのぞいていた悠理が、ビールと氷を持ってもどってきた。
着替えを済ませた僕は、本棚に置いていたウイスキーを手に取る。
パソコンデスク以外にテーブルなど気のきいたものはないから、床にグラスを置いた。
「つまみになるもん、なんもねぇのな」
「食事などここではしませんからね。たしか近くにコンビニぐらいあったはずです。寄ってくれば良かったですね」
僕の言葉は白々しい。マンションに着くまで、そんな余裕はまったくなかった。
悠理の存在以外、なにも考えられなかった。重ねられた手のふるえと、聴こえるような気がした鼓動だけが、僕の意識を占めていた。

愛ではない。
悠理のそれは、愛ではない。
だけど、しまつの悪いことに、僕は――――悠理を愛している。

”せめて、崇拝者としての僕を認めていただけませんか”
先日のパーティで、男が悠理に熱く告げている場面に行きあわせてしまった。
とまどったような悠理の表情。
僕が、同じことを告げたら、どんな顔をするだろう。
もちろん、言えるはずもないが。その権利も資格も、とうに僕は喪失している。

婚約していた頃。悠理の気持ちも個性も踏みにじり、僕はひどく彼女を傷つけた。
あの頃は、まだ悠理への想いを自覚していなかった。
だけど、すでに愛していた。
愚かで身勝手だった、幼い自分。
余裕を失い、自分を見失い、悠理も失ってしまうところだった。
雲海和尚や、倶楽部の仲間たちがいなければ、悠理と僕は友人としてすら修復できなかった。
あの頃と、僕はどれほど変わったというのか。
殻を脱ぎ捨て、眩しく輝く悠理の前で。



*****





いつもの悠理なら、深夜だろうが雨の中だろうが、コンビニに買出しにすでに駆け出していただろう。
いや、おまえが買いに行け、とくらい要求しそうだ。
だが、悠理は、無言のままだった。うつむいて両手でビールをはさみ、すすっている。
渡したタオルで拭いた頭は、いつにもましてグシャグシャ。
絹のシャツが体にはりつき、一回り小さく見えた。
まるで、途方に暮れた子供のようだ。

僕はグラスこそ手にしていたが、飲むつもりはなかった。
この部屋には寝具は一組しかない。
悠理の気が済めば、車を出して送って行くつもりだった。
しかし、酒が入ることで心配なのは、運転の方ではない。

自分の心を偽り、逃げ出し、忘れようとしていたときでさえ。
距離も離れていた時間も、悠理に会った瞬間にすべて崩れた。
僕の決意も覚悟も自信も、悠理は一瞬にして壊してしまう。

「・・・どうすれば、いいかわかんないよ、清四郎・・・」

このときも、そうだった。

「抱いてくれって、言えばいい・・・?」

悠理は、上目遣いで僕を見上げる。
濡れたような瞳が、揺れていた。

僕の手から、グラスが滑り落ちた。
しかし、そのことに僕が気づいたのは、フローリングを転がったグラスのせいで、足元が濡れてから。
僕はとっさに、グラスを拾い上げていた。無意識での行動だった。
「・・・っ」
指先に走った痛み。グラスは落ちた衝撃で欠けていた。
切り傷の痛みも、人差し指の先ににじんだ血を見ても、現実感はもどって来なかった。
「清四郎、血・・・」
悠理が腰を浮かせた。
え?と思うまもなく、悠理が僕の指を口にくわえていた。
頭の中が真っ白になる。

なにが起こったのか理解できない。
悠理の言葉の意味も、それによって湧き起こるはずの感情も、僕は受けとめられなかった。
なにも、考えられなかった。

気がついたときには、悠理を胸に抱きすくめていた。
腕の中にすっぽりと収まる肩に、ショックを受ける。
こんなに細くてやわらかい悠理など、知らない。
伸び伸びと生き生きと、悠理は胸を張り顎をあげ、大きく見えていたのか。
「清四郎・・・」
背中に悠理の手が回る。ふるえる声で名を呼ばれた。
愛おしさに気がおかしくなりそうだった。
湿った香る髪に顔を寄せ、このまま死んでもいいと、思った。

抱きしめた冷たい体。
ふるえているのは、おそれではなく、寒さのためか。
そのとき、僕は気がついた
凍えているのは、体じゃなく、悠理の心なのだと。

慣れ親しんだ諦観が、胸をやいた。
”これは、愛じゃない”
悠理が欲しているのは、愛ではない。
くじけそうな心が、ぬくもりを求めているだけ。

それでも、いいと思った。
ひとときだけでも、叶わぬ夢がかなうのだ。
今夜だけ、悠理が僕のものになる。
そして、いまは愛でなくても、いつかは――――。

それは甘美な誘惑だった。
道理も理性も、すべて消し去るほどの。
しかし、悠理の冷たい体が。彼女を愛した年月が。
僕を動けなくした。

もしも、僕がもう少し子供であれば。
かつての僕だったら。
悠理への想いに気づき、叶わぬ想いに疲れ、逃げだすことしかできなかったあの頃なら。
想いのままに、悠理を抱いて自分のものにした。
そして、愛を乞うただろう。
長い友情も、彼女の未来も、すべて捨てて。

もしも、僕がもう少し大人であれば。
彼女を抱き、ぬくもりを与え、心を癒すだろう。
そして翌朝、少し照れて気まずそうな彼女に、いつもの笑みを見せるのだ。
悠理はそれで、立ち上がれる。凛としたあの輝きを、取り戻す。
この一夜は夢となり、僕たちは信頼と友情で結ばれた、一番近い他人にもどる。

悠理を抱きしめていた手から、力が抜けた。

僕は、がむしゃらな子供にも、訳知り顔の大人にも、なれなかった。
そうするには、愛し過ぎていた。
いまの、僕が高みに押し上げた眩しい女を。
ふれることなど許されない悠理を。

僕の手が、悠理から離れた。
「せいしろ・・・?」
胸にすがりついていた悠理が、顔をあげた。
不安に揺れる瞳。

――――迷わないなんて、無理だ。

悠理は凍えている。孤独感のなかで。
おまえの望みを知りながら、僕は動けない。

――――おそれないなんて、無理。

決断には、リスクがつきもの。
そう言った僕が、おまえを癒すぬくもりさえ、与えられない。

「悠理」
まだ感覚の戻らない手を、悠理の肩に置いた。
「おまえは、一人なんかじゃない。なにもかも背負うな。僕も、助力を惜しまない。だけど・・・」
そっと、悠理の肩を押し、体を離す。
手も声も、ふるえるな。
悠理に気づかせては、いけない。
明日は、いつもの僕たちに、もどるために。

「だけど、おまえを抱けない」
悠理の目が見開かれた。



*****





僕のシャツをつかんでいた悠理の手が、ゆっくり離れた。
「…ごめん、清四郎。あたし、今夜はどうかしてるよな」
悠理は微笑した。
それは、力のない自嘲の笑みだった。
その笑みに胸が痛んだ。
悠理のこんな顔は初めてだ。

「…帰る」
悠理は僕に笑みを向けたまま、後ろ向きに距離を取る。
突然、くるりと背中を見せ、パンプスを引っ掛けてドアを押し開けた。
「悠…」
僕は悠理に手を伸ばした。だけど、その頃には後姿がドアの向こうに消えていた。
鈍い自分の反応に舌打ちしながら、僕は机の上のキイホルダーを手に、悠理の後を追った。
エレベーターはすでに閉まり、表示が階下へ降りてゆく。
僕は非常階段を駆け下りた。

雨の中、あんな状態の悠理をひとりで帰らせるわけにはいかない。
かつての、悠理なら。甘えたで淋しがりの、少女だった頃なら。
僕や仲間たちに泣きついて、ヤケ酒飲んで、大騒ぎして。そうして、ぐっすりと眠り、元気になったろう。
だけど、いまの悠理は、意地を張ることを覚えた。重荷を背負い、凍えても、膝を折ることができない。

雨の中、マンションの外に飛び出す。
すぐに、前を走る悠理の姿を見つけた。
大通りに出て、タクシーを止めている。
乗り込もうとしたところで、ようやく悠理に追いついた。

「待ってください、帰るなら、僕が送って行きます」
タクシーのドアに手をかけ、悠理を引き止めた。
悠理は僕から顔をそむける。
そのとき、彼女が上着も着ていないことに気づいた。
靴も片方だけ。
濡れた小さな体は、小刻みにふるえていた。
「悠理、風邪を引きますよ」
車内に乗り込もうとする悠理の肩に手を置いた。
悠理がやっと、僕に顔を向ける。
雨と見間違いようのない涙が、頬を濡らしていた。

「あたしに、触んな」
口調は、激しいものではなかったが。
僕は悠理から手を放す。
悠理は目元を手の甲でぬぐった。
僕に涙を見せたくなかったのだろう。

「…お客さぁん、どうするんすかぁ?」
タクシー運転手の、間延びした声。
「いいから、出してくれ」
悠理は運転手に指示する。
立ちすくんでいる僕に、悠理は歪んだ笑みを見せた。
「清四郎…ごめん、放っておいてよ。大丈夫だから」
「悠理、僕は」
「わかってる。でも、おまえは間違ってる。あたしは・・・・こんなに、独りだよ」
そう言って、自ら手を伸ばし車のドアを閉めた。

窓の向こうに、悠理が顔を両手で覆う姿が見えた。
僕は何もできず、車を見送る。

ひとときだけのぬくもりさえ、悠理に与えてやれない自分の弱さが情けなかった。
もしも、僕がもっと大人であれば。
もしも、悠理に感じているのが、友情と親愛だけだったのなら。

車道と歩道の間に、悠理の靴を片方見つけた。
もう、雨は霧雨ではなかった。激しさを増した雨の中で、靴は泥にまみれ濡れそぼっていた。

もしも、悠理を愛していなかったのなら――――僕は、どうしていたんだろうか。



*****





それから僕が悠理と顔を合わせたのは、五日ほど後になってからだった。
僕の部屋に悠理が置き忘れた上着と靴は、翌日剣菱邸に持って行ったのだが、その際には悠理は留守で会うことができなかった。
風邪を引いていないと聞いて、安堵をすることしか、僕にはできなかった。

「えっとぉ…あの時は、ごめんな」
正直、驚いた。本社ビルで悠理から声を掛けられたときは。
「いえ、僕こそ」
無理に笑顔をつくる僕に、悠理は赤面して舌を出した。
「清四郎には情けないとこ、見せちゃったな。忘れてくれよなって…いまさらか?」
てへへ、と照れ笑いする悠理の額を、僕は人差し指で弾いた。
「たしかに、長い付き合いですからね」
そして、これからも、長い友情を続けるために。
僕の軽い口調に安堵したのか、悠理は小さく息をついた。
悠理も、僕以上に懼れていたのだろう。
僕と顔を合わせることを。そして、友情がぎこちなくなることを。

「じゃ、またあとで」
悠理は軽く片手を上げて、会長室に駆けていった。
軽快な靴音が遠ざかる。
廊下を走るな、とよく注意した学生時代を思い出した。いくら言っても、ああいうところは変わらない。

しかし、凛と顔を上げた悠理の顔は、あの頃とは違う輝きに満ちていた。
好きだった、無邪気な笑顔を見ることは、少なくなってしまったけれど。

そして、悠理が僕の前で、あんなふうに崩れることは、もう二度となかった。
かわりに――――。



*****





剣菱財閥令嬢であり次期後継者とみなされている悠理の醜聞が、写真週刊誌を騒がせたのは、それから間もない頃だった。
スクープ写真の中で、悠理は複数の男達の腕に抱かれ、夜の街で微笑んでいた。
僕があの夜初めて見た、見慣れぬ笑みを浮かべて。

 

 

2004/9.22

 


ハイ、悠理ちゃん見事玉砕いたしました…。その上、ちょっとグレました…。ごめんなさい、ごめんなさい。私も早く幸せにしたいんです。
清四郎のアンドレ体質も極まれり。でも、アンドレだったら、涙しながら抱いちゃってるよな。



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