A列車で行こう






乗り継ぎ駅から、急に車内が混みはじめた。

座席に座っていた野梨子と可憐はいいとしても、男三人と悠理は、慣れないラッシュ時の満員電車に顔をしかめた。
それまでは座った女性二人の前でなごやかに話などもできたのだが、人混みに押され、もうその余裕はない。
悠理と清四郎は人の流れに押され、車両の奥へ。魅録と美童は、座席の上にいまにも乗り出さんばかり。

「前が友人で良かったよ。カッコ悪すぎぃ」
「やーよ、あたしの上に倒れこまないでよ」
「そう言うなよ。結構この姿勢、つらいんだぜ」
つり革の上をつかみ、魅録は背中を押す重みに耐えている。
美童は支柱を抱えているのでまだマシだが、非力な彼は、やはりかなりつらそうだ。
「あと数駅ですわよ、がんばってくださいな」
野梨子は心配そうに、男性二人を見上げる。

「ところで、悠理と清四郎は大丈夫ですの?」
支柱にしがみつきながら、美童は頭を巡らした。
周囲よりひとつ抜け出た長身のため、寿司詰めの車内でも視界はきくのだ。
「ああ、反対側の扉に張り付いてるよ。二人一緒だ」
やはり、頭ひとつ高い清四郎と、美童の目があった。
清四郎は友人に苦笑を見せている。
清四郎の肩口から、悠理も顔をのぞかせた。
呼吸困難の魚のように、口をパクパクさせている。

「ああ、ほんと。あたしたちからも見えるわ」
座った可憐と野梨子の位置からも、ちょうど人混みの肩越し頭越しに、悠理の首から上と清四郎の姿は見えた。
清四郎は扉に手を突っ張り、悠理を守るように自分の腕で囲い込んでいる。
「悠理には痴漢の心配はないんだけどな」
「あれで、体に手を回してたら、熱愛カップルよね」
可憐の言葉に、四人は吹き出した。
「わ、笑わさないでくれよ。力が抜ける」
「まぁ、私の膝の上に座るつもりですの、魅録?」
安全地帯からの気楽な会話を、不可抗力で押しつぶされかけている清四郎と悠理が聞けば噴飯物だが、彼らには聞こえない。



*****




実際、清四郎と悠理にはまったく余裕がなかった。
駅に着くたび、新たに駅員とバイトくんが力まかせに乗客を押し込む。
座席側の友人たちと違って、そのたびに扉のふたりはぎゅうぎゅう圧力をかけられるのだ。
悠理は完全に清四郎の胸に密着する体勢。
清四郎が悠理を潰さぬよう、必死で手で隙間を作ってくれているので、文句も言えない。
「満員電車って、おそろしいとこだなー」
思わす、悠理はつぶやいていた。
日本一の富豪令嬢の悠理にとっては、もちろん初体験。
「たしかに、侮れません」
至近距離で、清四郎が答えた。
たがいの息さえ、かかる距離。
いつもつるんでいる仲間とはいえ、さすがにこれだけ体を密着して会話したことはない。

堅くあたたかい胸の厚み。
清四郎の体臭と髪の匂い。
だけど、それは不快ではない。混んだ車内の殺人的な不快指数にもかかわらず。
見知らぬ他人ではなく、清四郎で良かったと悠理は思った。
たとえば、清四郎の後ろにいる太った汗かき男や、その隣のハゲた歯槽膿漏の親父などとこんな体勢になれば、気絶物。
いや、錯乱して殴りかかってしまうかも。

悠理は肩にかぶりつくような姿勢のまま、清四郎を見上げた。
男のくせに滑らかで清潔な肌。鋭角な顎。
まぁ、悠理でなくても一般的に、不快感を感じないだろう。男嫌いならまだしも。
それで連想される友人も、彼だけは大丈夫なのだし。

「の、野梨子や可憐でなくて、良かったな?」
三人の中では悠理が一番背が高い。
身長差のため、清四郎の肩に顔を乗せられるので、呼吸は確保できている。
これが、野梨子なら大変だ。清四郎の胸板に顔を埋め、窒息しかねない。
たんにそれだけの意味だったのだが。
「は?」
清四郎は悠理に顔を向けた。
その瞬間、唇に、わずかな感触。

「「・・・・!」」

至近距離で見つめあったまま、ふたりは硬直した。
(いま・・・かすっちゃった・・・よな?)
(触れちゃい・・・ましたよね?)
唇と、唇で。
それは、ほとんど事故のような一瞬の触れ合いだった。
通常であれば、飛びのくこともできた。
しかし、今はほとんど身動きできない密着状況。

視線を外したのは、清四郎だった。
あからさまに素知らぬ風を装い、顔をそむける。
しかし、あろうことか清四郎の鉄面皮が真っ赤に染まっていた。
つられて、悠理の頬も熱くなる。
この状況で照れられると、さすがに意識してしまう。
先程はニアミス、ちょっとした接触事故。
なかったことにしようと、悠理もあらぬ方へ目を向けた。
そうしなければ、頭が沸騰してしまいそうだった。

家族や友人に平気で抱きつく悠理が、清四郎にくっつくのも、初めてではない。
幽霊がらみのときなど、唯一の安全地帯とばかりに清四郎の背に張り付く悠理だ。
だけど、不可抗力の満員電車でこんなにドキドキしてしまうのは、わずかに触れてしまった唇のせいか。
それとも、逞しい胸のぬくもりのせいか。

ガタンガタンと電車が振動するたび、ダンゴ状態の乗客も揺れる。
悠理は背を扉に預けているので姿勢は安定しているが、これだけ混みあっていると他の乗客も転びようはない。
確かに圧迫感は苦しいほどだったが、清四郎が守ってくれている。
その、絶対的安心感。
人肌のぬくもりに支えられ、揺れる体は心地良かった。

清四郎は、ちょっと意地悪だけど、頼りになる仲間。
だけど、満員電車でもなければ、こんなふうに抱きしめてもらう機会はない。
こうしていられるのも、このひと時だけ。
降車駅がもっと先でもいいのに、とすら思う。
もう少し、こうしていたかった。

”野梨子や可憐でなくて良かったな”
そう言った言葉に深い意味はなかったのだけど。
こうしていられるのが自分で良かったと、悠理は思った。
清四郎を独占できるひと時。

頭は動かせないものの、清四郎の肩から横に目を向ければ、人混み越しに、野梨子と目があった。
野梨子は心配そうな目で、こちらを見ていた。
まさか、さっきの一瞬は、見られてはいないだろう。
そして、悠理の中に生まれた、小さな独占欲も。
安心させようと野梨子に笑顔を返そうとしたが、悠理はうまく笑えなかった。



*****




「どうしたんでしょう・・・悠理が真っ赤な顔でひきつってますわ」
「え?」
野梨子の言葉で、他の三人も悠理に顔を向ける。
「べつに苦しそうでもないけどな」
「あれ?清四郎も、赤面してない?」



*****




清四郎は困惑していた。
密着した悠理の体は、思いのほか柔らかくて。
男のような骨と筋肉ばかりだと思っていたのだから、予想外の感触に驚かされた。
たしかに、見るからにたおやかな野梨子や可憐だと、もっと華奢で柔らかいのだろうが。

悠理でなければ、もっと清四郎は隙間を作るために努力をしただろう。
完全に密着した体。清四郎にかかる力と同じくらい、悠理も圧力を感じているはずだ。
その上、さっきの接触事故。
感触もおぼろ。唇がわずかにかすっただけ。
密着しているこの体勢を考えれば、それほど大袈裟に考えるべきではない。
悠理だって、怒って暴れ出したりはしていないのだから。

清四郎の胸に、悠理の小さなふくらみがふたつ当たっている。
あるかなしか、男と大差のない偏平板だと思っていたのに、こんなときには意識させられる。

清四郎はカラカラの喉から、無理に言葉を絞り出した。
「た、たしかに野梨子だと圧死ですね」
なんとか、普通の声が出せる。
悠理の言葉に対する遅すぎる返事だったが、悠理はうんうんと肯いた。
ふたりして、平静を装い。

しかし、清四郎は思いもかけない自分の反応に、困惑していた。

悠理の頬が首筋に触れる。
髪が清四郎の頬を撫でる。
甘く香る髪。やわらかな感触。
唇が触れた制服の肩が、熱い。

野梨子や可憐でも、こんなに意識しただろうか。
悠理で良かった――――と思うには、清四郎の動悸はすでに不規則に高鳴り過ぎていた。
これだけ密着していると、心臓の音が悠理に響いてしまうのに。
まるで、女の体を知らない少年のようだ。清四郎は内心焦った。
悠理には女を意識したことがなかったから、余計に困惑してしまうのだ。

触れた唇。
抱きしめた華奢な体。
もっと、こうしていたいと思ってしまう。
苦しいはずの満員電車で、あまりに甘美すぎる時間。
他の女性ならば、もっと紳士の仮面をかぶる事ができるはず。
悠理だから、こんなに調子を狂わされるのだ。

もっと抱いていたいと言ったら、殴られそうだけど。
悠理を抱きしめるのは、満員電車の中だけしか、許されないのだろうか。
唇に触れるのは、まだ早すぎたとしても。

――――まずい。

とんだことで、清四郎の心の中のパンドラの箱が、開いてしまいそうだった。
もしも、こうしているのが、魅録や美童であれば?
そう考えるだけで、胸がひきしぼられる。
今、こうしているのは偶然にすぎないというのに。

思いもかけず自覚させられてしまった気持ちに、清四郎は困惑していた。
心と体が、どうしようもなく悠理に惹きつけられてしまう。
顔がますます赤らんでくる。



そんなとき、それは起こった。










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