前編
――――いつのまにか、愛してた。そのことに、気づかなかった。 小雨が降る街。 モノトーンの道を、悠理はひとり歩いていた。 映画色に滲んだ街に、通り過ぎるひとの差す傘が、赤や黄色の花を咲かせる。 悠理には傘などなかった。 だけど、足を速める気もない。 髪を濡らす雨が、滴となって頬を伝う。 冷たいそれは、涙じゃない。 あまりに愚かな自分に、涙も出なかった。 ほんとうに、悠理は知らなかったのだ。 清四郎の部屋を飛び出すまで。 いつのまに、悠理は思い込んでいたのだろう。 清四郎のそばに居ていいと。 あそこは、自分の居場所なのだと。 清四郎に恋人がいると知って、はじめて悠理は思い知らされた。 いつのまにか、恋をしていた自分に。 もうずっとまえに、気づいてもよかったその想いに。 清四郎の隣を並んで歩くのは、野梨子だった。 悠理は、仲間のひとり。 6人でいつも一緒に騒いだ。 なのに、いつから、清四郎の隣は自分の居場所なのだと、思い込んでしまったのだろう? ふと、足を止めて悠理は空を見上げた。 幾千粒の雨の矢が、降りそそぐ。 遠い春の日を、その雨は思い出させた。 傘の向こうで、笑顔を見せた清四郎を。 「月水金は勉強、火木土は、遊びましょう」 地獄と思っていた春休みは、清四郎のその言葉で薔薇色に変わった。 「なにして遊ぶか、あたいが決めていい?」 「いいですよ」 悠理はわくわくする気持ちを抑え切れず、飛び上がった。 したいことは色々あった。 サイクリングにローラースケートに、フィールドアスレチック。 お弁当いっぱい持って、山に行ってもいい。 「このまえは海だったから、明日は山でいい?」 憂鬱な勉強タイムにも、悠理は背後の家庭教師をきらきらと見上げた。 清四郎は少し戸惑った顔で、苦笑する。 「いいですけど。明日は雨の予報ですよ」 「晴れるもん!」 悠理は心の中でテルテル坊主を作る。 だけど翌朝、ほんとうに作れば良かったと、後悔することになった。 『今日は中止ですね』 電話の向こうで、清四郎がどんな顔をしているのかわからない。 「じゃ、ボウリング!一緒に遊ぶ約束だろ!」 そうして、なかば無理やり待ち合わせを決めた。 黄色に猫の模様の傘を回しながら、待ち合わせ場所へ急いだ。 場所はボウリング場の入ったアミューズメントパークの入り口。 1階はゲームセンター。休み中ということもあり、若者が多く行き交う。 時間前に着いたのに、清四郎は黒い傘を手にすでに待っていた。 質の良いトラッドなパンツにシャツ。 同じ年頃の連中の中にあって、清四郎はひどく浮いて見えた。 ほんとうは悠理だって、わかっているのだ。 清四郎は、こんな場所に似合わない。 サイクリングだって、ゲームセンターだって、魅録と一緒のほうがきっと楽しい。 悠理の好きなロックは清四郎は聴かない。清四郎の好きな音楽は、悠理は寝てしまう。 悠理が清四郎に無理に付き合わせてるのだ。 悠理だって、陶芸家の個展など連れて行かれても困ってしまうのに。 近づく悠理に気づかず、清四郎は入り口横にあるUFOキャッチャーに見入っている。 悠理の足が止まった。 「ねぇ、あの子って、男の子かしら、女の子かしら」 横を通り過ぎたカップルが、悠理の顔を見ながら小声で話している。 その言葉で、悠理の自分の姿を見直した。 膝丈のサファリパンツに、赤いジャケット。迷彩柄のTシャツ。そのシャツと揃いのリュック。 猫模様の傘がなければ、天下無敵の少年スタイル。 あらためて、思った。 悠理は清四郎に、似合わない。 「どっちにしろ、すごい美形よね〜」 悠理の顔を見てうっとりとする彼女を、彼氏が忌々しげに引きずっていく。 彼女の賛辞は、悠理を落ち込ませた。 とぼとぼ近づくと、清四郎がやっと気づいた。 「ああ、悠理。どちらがいい?取ってあげますよ」 清四郎はUFOキャッチャーの中を指差す。 中には満載のアンパ○マンと、バイ○ンマン。 「・・・バイキ○マン。けど、狙った方が取れるとは限らないよ。おまえやったことないだろ」 「まかせろ。こんなもの、ちょっと見てればわかります」 清四郎は自信満々、小銭を取り出した。 たしかに、その言葉通り、ワンコインで悠理はバ○キンマンのぬいぐるみを進呈された。 「ちょろいもんです」 鼻高々の清四郎に、悠理は吹きだした。 たしかに、清四郎にはここは似合わないが、ダイビングだってアスレチックだって、清四郎は悠理以上に こなしてしまうのだ。 それなりに、楽しそうに。 「よぉし。ボウリングじゃ、その鼻折ってやるよ」 悠理は挑戦的に笑った。 ボウリングだって、清四郎は人並み以上にこなしてしまうのだろうけど。 さんざん遊んだ夕方。映画でも行きますか?と言う清四郎に、悠理は首を振った。 今上映中の映画に、好みのものがなかったからだ。 「映画だったら、そういや父ちゃんが、新しいホームシアターを家に作ったじょ」 清四郎は最新設備に弱い。目が興味に輝いた。 「じゃ、悠理んちでDVDでも観ますか」 「うん!」 ふたりでショップに寄り、DVDを買った。派手なロゴに誘われて、『キル・ビルvol.1』と『vol.2』。 バイキン○ンとDVDを手に、悠理はご機嫌。なにしろ、ボウリングでも僅差の勝利をつかんだのだ。 易々と200点越えする清四郎が、じつは初ボウリングだと知ったのは後のことだが。 大きなぬいぐるみで手のふさがった悠理に、清四郎が傘を差し掛けてくれた。 相合傘とはいかなかったが、2本の傘を持つ清四郎の目は、とても優しかった。 悠理にとっては、その日は忘れがたい一日だった。 雨の日も、捨てたもんじゃない。 たらふく食欲を満たした後、万作自慢のホームシアターのカウチにふたりで座って、 その夜は映画を観た。 1本目こそハラハラワクワク、ウギャーアンギャーと悲鳴交じりに観ていた悠理だったが、 2本目で瞼が落ちた。 前夜は楽しみでよく眠れなかったし、食事と一緒にワインもしこたま飲んだ。 暗い明かりの中に浮かび上がった清四郎の横顔は、画面に集中している。 ほのかに白く浮かび上がったその横顔を見つめながら、悠理はずるずる睡魔につかまった。 あえなく、ブラックアウト。 目が覚めたのは、堅い枕がもぞもぞと動いたせいだ。 体にあたたかな布地の感触。 目を開けた瞬間に視界に飛びこんできたのは、困ったような清四郎の顔だった。 「ごめん、起こしたか」 悠理の体に掛っているのは、清四郎の上着。 堅い枕は、清四郎の膝。 「・・・わっ」 悠理は飛び起きようとして、清四郎の顔とぶつかりかけた。 清四郎は悠理の頭を押さえ、もう一度膝の上に戻す。 「さすがの腹筋ですが、もうちょっとで僕の顎に頭突きを入れるとこですよ」 苦笑する清四郎の顔を真上に、悠理は頬を赤らめた。 膝枕で、ずっと寝ていたらしい。 清四郎の大きな手が、悠理の額にまだ乗ったままだ。 目を逸らせることもできず、悠理は清四郎を見上げた。 「え、映画、終わった?」 「ええ」 「ど、どーなった?あの女の復讐。みんなぶっ殺した?」 「ああ、そうだけど、途中からラブストーリーでしたよ」 「はぁ?あのドカバキグシャの血みどろアクションが?」 「ええ。可憐あたりが見ればちゃんと説明できるんでしょうけど・・・僕にはよくわからないな。男女の 恋愛というやつは」 清四郎は首を傾げながら悠理の髪を撫でた。 「とにかく、おかしな映画だった」 髪を梳かれ、悠理は目を細めた。 すごく気持ちが良かった。 ワインの酔いばかりでなく、ほわんと気持ちが浮かび、地上にもどってこない。 悠理はわずかに体勢を変え、清四郎の膝に頬を擦りつけた。 「悠理は典型的末っ子ですな。豊作さんにもこんなふうに甘えてるのか?」 清四郎の呆れ声まで、髪を撫でられながらでは心地良い。 「兄ちゃん?そういう清四郎だって、末っ子じゃないか」 同い歳の清四郎に、子供あつかいされているのを承知で、言ってみる。 歳の離れた実の兄はいつも忙しく、こんなふうに甘えたことなど、ないのだけど。 「僕が姉貴に懐くところ、想像できます?」 頭上の清四郎がくすくす笑う。 「そういえば、悠理はいつも魅録にだってくっついてますよね」 「そ、そうか?」 「そうですよ」 もう一度、ちらりと見上げた清四郎の目は優しかった。 魅録にはそりゃ抱き着いたりすることもあるけれど、膝枕なんて初めてなんだけどな、と悠理は思った。 でも、口には出さない。 悠理がこうして懐くのを、清四郎が意識せずいてくれるなら。 そして、こんな時間を許してくれるなら。 だけど、清四郎は清四郎だった。 「明日はまた、朝から勉強ですよ」 ニヤニヤ笑いながら悠理の鼻の先をきゅ、とつまむ。 「うえ〜」 「約束でしょう」 「じゃあ、明後日の土曜日は、また遊んでいいんだよな?今日行きそこねた山でいい?」 「ええ」 「明々後日の日曜は?」 清四郎にとっては、悠理のお守りから解放される唯一の休日だ。 清四郎は顎に手をあて、少し考えてから答えた。 「日曜ね・・・みんなを誘って、遊びに繰り出しましょうか」 悠理はやっと清四郎の膝から顔を上げた。 「ほんと?」 思わず、悠理は清四郎の首に飛びつく。 清四郎は少し身を強張らせた。驚いた顔。 スキンシップに慣れていない清四郎は、悠理の直接的な感情表現に、まだ戸惑っているようだ。 悠理自身も、清四郎に抱き着いたまま凝固してしまった。 清四郎の整髪料の香りが鼻をくすぐる。 腕を回した長い首。広い胸。たくましい肩。 いくらなんでも、魅録にだって、こんなふうに真正面から抱き着いたことはなかった。 「猫みたいな奴だな・・・いや、犬か」 清四郎は悠理の背中をポンポンと叩いた。 豊作や魅録に、いつもしていることだと思ったようだ。 清四郎の肩に顔を埋めた悠理は、恥ずかしくってたまらないのに。 「うぅぅ・・・・わん!」 照れ隠しに、一声吠えた。目の前の首に、かぷりと歯を立てる。 「ほんとに噛むな!」 調子に乗り過ぎた悠理は、ポカリと清四郎に後頭部を殴られた。 月火水木金土日と、ずっと一緒にいられたのは、その春休みが最初で最後だった。 大学に入ると清四郎は忙しくなり、そうそう悠理の家庭教師もしていられなくなったからだ。 だけど、仲間たち6人とはあいかわらずつるんでいたし、魅録にするように、悠理が清四郎に 甘えても、だれも不思議がりはしなかった。 そして、清四郎の予定の空いた土日に悠理が彼を独占することも、たびたびあった。 そのまま、悠理は思い込んでしまったのだ。 いつしか清四郎の隣は、自分の居場所なのだと。 「あたい、もうおまえの部屋には行かない」 社会人となって一人暮らしを始めた清四郎のマンションに、入り浸るのは悠理だけの特権だと思っていた。 金曜日の夜から、月曜の朝まで。悠理は毎週のように、清四郎の部屋で過ごした。 ごろごろくつろいだり、一緒に出かけたり。 そんな、あの春休みのような週末が、ずっと続くのだと思っていた。 清四郎の部屋に残された、片方だけの真珠のピアスを見つけるまでは。 「あたいがいたら、カノジョを部屋に呼べないだろ?」 清四郎が誕生日に贈ったというピアス。 その白い小さな粒は、悠理の胸を切り刻んだ。 ほんとうは、ずっと前からしかけられていた、時限爆弾。 音もなく破裂したそれは、胸に大きな穴を開けた。 心が血を流す。 痛みに耐え切れず、悠理は清四郎の部屋を飛び出した。 清四郎が追い掛けてくるとは、思わなかった。 「悠理!」 小雨の中、走ってきた清四郎の息は荒い。 「もしかして、僕がピアスを贈ったことを怒ってるのか?」 清四郎は戸惑った顔で、悠理の肩をつかんだ。 悠理は首を振った。 顔を見られたくなくて、下を向いた。 地面にパタパタ水滴が落ちる。 雨? それとも、やはり涙なのか。 悠理には、清四郎を怒る権利も責める権利もない。 いつも勝手に部屋に押しかけていたのは悠理。 好きだ、とも言わなかった。 だって知らなかったから。清四郎に恋人がいると知るまでは。 自分の気持ちに気づかなかった悠理に、清四郎を責める言葉はなかった。 「でも、あれは強奪も同然なんですよ。姉貴には弱みを握られてますからね」 「和子・・・さん?」 悠理は思わず顔を上げた。 苦虫を噛み潰したような清四郎の表情。 「まったくあのひとは、弟を平気で強請るんですからね」 ぶつぶつ愚痴る清四郎の目には、嘘はなかった。 悠理の頬を涙が転がり落ちる。 清四郎に恋人はいない。こんな鈍感な男が、恋なんかするはずはない。 悠理の涙の意味も、清四郎にはわからない。”恋なんてわからない”そう、自分で言っていたように。 安堵の気持ちだけじゃなかった。 悠理の胸を締め付けるのは、片恋。 「あんなものが羨ましいなら、こんど悠理にも買ってあげますよ」 清四郎は悠理の顔をのぞきこんで微笑んだ。 「素敵な首輪を」 言われた瞬間、頭が真っ白になった。 清四郎も、しまった、という顔をした。 「・・・ええと、もとい。指輪をプレゼントします」 コホンと咳払いする清四郎の頬がわずかに染まっている。 けれど、悠理は誤解しなかった。正しく、清四郎の意図を読み取った。 こんな男に、恋ができるはずもない。 爆発しそうな感情。 こんどのそれは、まぎれもなく怒りだった。 悠理は無言のまま、清四郎に体当たりした。 普通の男なら、ふっ飛んであばらの一本も折れる勢いでぶつかったにもかかわらず、清四郎は受けとめた。 悔しくて、悔しくて、しかたがなかった。 清四郎のなかで、悠理はずっとあの頃のまま。 一方で、それも仕方がないともわかっていた。 さっきまでは、悠理だってそれで不満がなかったのだ。 ずっと、こんな関係が続くと思っていた。 清四郎にとっては、悠理は女じゃない。友人ですらない。 でも、そんな関係でも、一緒にいたいと思った。 清四郎は受け止めた悠理の体を、ぎゅ、と抱きすくめる。 慣れた匂い。顔を寄せた広い胸。 犬でも猫でもかまわない。そばにいられるなら。 そう思ったのに。 いつもこうして身を寄せていると、安堵できた。 清四郎の胸にもたれ、小さな子供のように眠ってしまうこともあった。 だけど、もう悠理は気づいてしまった。 自分の恋に。 そして。 あたたかな腕の中で。 悠理はもとの自分にはもどれないと、知ってしまった。 もう二度と、無邪気にこの胸に顔を埋めることなんてできはしない。 だから、もう部屋へは行かない。 いつしか、雨は上がっていた。 雲間から光が差す。 だけど、清四郎に抱きしめられたまま、悠理は身動きすることもできなかった。 息さえ止める。 いっそ、ほんとうに犬だったなら、いつまでもこうしていられたのに。 恋をしてしまった自分が、哀しかった。 それが、最後の抱擁だと、悠理はわかっていた。
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