後編
――――好きだと気づいてしまったから、もうそばにいられない。 日曜日の朝。 悠理は天蓋付きのベッドの中から、窓の外を見上げる。 昨日の雨はもうやんでいたが、空は曇り空。 悠理が休日に剣菱邸にいるのは、久しぶりだった。 土曜と日曜は、いつも清四郎の部屋で過ごしていたから。 日曜の朝、ベッドから飛び降り、床の上に敷いた布団の上から清四郎を踏み起こすのが楽しくて。 ばふんと布団の上から懐くと、寝ぼけ眼の清四郎が、ぎゅ、と抱きしめてくれる。 乱れた前髪をくしゃくしゃ掻き回すと、おはよ、と言ってくれる。 ちょっと呂律の回ってない口調が、珍しくって。 それを聞きたくて、寝起きの悪い悠理も、清四郎より早く起きようと懸命になった。 だけど、もうそんな日曜の朝は来ない。 「あたい、もうおまえの部屋には行かない」 そう言ったのは、もうもとにもどれないとはっきりわかったから。 清四郎に抱きしめられて。 なんの真意もない、あたたかな手がつらかった。 商店街のど真ん中、抱き合ったふたり。誤解して祝福してくれる周囲の声。 花屋の若奥さんに花を押し付けられ、清四郎も戸惑っていた。 一輪の薔薇の蕾。 清四郎は苦笑して悠理に渡した。 周囲の誤解がおかしかった。 だけど、悠理は清四郎のように笑えなかった。 薔薇を握り締め、悠理は踵を返して家にもどった。 こんどは、清四郎は追っては来なかった。 コップに生けられた薔薇は、昨日よりも少しほころんでいる。 メイドは豪奢な一輪挿しを用意したが、悠理はガラスのコップに挿して窓辺に置いた。 薔薇を差し出した無骨な男の手を思い出す。 悠理に花は似合わない。 清四郎に恋は似合わない。 だけど、花を捨てることはできなかった。 それだけが、似合わない恋の形見。 ベッドサイドのインターフォンが鳴った。 『お嬢様、菊正宗さまがお見えです。お通ししてもよろしいでしょうか』 メイドの声に、驚いてベッドから飛び起きる。 咄嗟に時計を見れば、午前10時。この時間なら、悠理が許可しなくても、清四郎ならフリーパスでメイドは 通してしまうだろう。 その危惧通り、悠理がなにも答えないうちに、部屋の扉がノックされた。 「い、いいよ」 パジャマ姿だが、清四郎にはいまさらだ。 それでも、悠理はパジャマの裾を引っ張り、髪を手櫛で整えた。 扉を開けたメイドは、なぜか笑いを堪えているように肩を揺らしていた。 その後ろで、斜めに立つ清四郎の顔は横顔しか見えない。 パジャマ姿の悠理をちらりと見たあと、憮然とした表情で顔をそむけている。 「・・・おはよう」 きちんとした外出着の清四郎は、ひどく不機嫌顔だった。 メイドが退出しても、扉の前に立ったまま横を向いている。 「この家に来るのは、久しぶりだ」 そう言いながら、清四郎は壁をにらみつけている。 「なんの用だよ」 悠理の言葉に、清四郎はやっと顔を向けた。 「!」 悠理は唖然と口を開けた。 清四郎の左の頬が、赤く染まっている。 メイドが笑っていたわけがわかった。清四郎が横を向いていたわけも。 わずかに残る、指の型。 「・・・どこの女に、やられたんだ?」 「なんで、女だと思うんです」 「おまえが、男に殴らせるわきゃねーだろ」 清四郎は口を尖らせる。 「殴らせたわけじゃありません。ほんとに避けきれなかったんです」 「野梨子?和子さん?」 この男をひっぱたける人類なんて、そうはいない。 清四郎は首を振った。 「・・・可憐ですよ」 意外な人物の名に、悠理はまたポカンと口を開けた。 「ったく、20分はたつのに、まだそんなに残ってます?」 清四郎は気まずそうに頬をさする。 20分ということは、可憐と会って、すぐにここに来たということだ。 「なんで、可憐に?」 「いえね、僕は家を買おうと思ってるんですよ」 「は?」 悠理は話がまったく見えない。 清四郎は頬をぽりぽり掻いた。 「ええと、だからね、引っ越すつもりなんです」 「あの部屋、出るんだ・・・」 悠理はベッドサイドに置きっぱなしになっている鍵を手に取った。 昨日、清四郎に握らされ結局持ち帰った、マンションの合鍵。 「ああ、いや、今日明日の話じゃありませんから、それは持っててくれていい」 清四郎は首を振ったが、悠理は清四郎に鍵を突き出した。 「あたい、もういらない」 清四郎の部屋にはもう行かない。行けない。 悠理の突き出した手のひらの上の鍵を、清四郎は凝視している。 少し眉を寄せ、清四郎は受け取った。 それをポケットに落とし、反対のポケットに手を入れる。 「じゃあ、代わりにこれを受け取って下さい」 清四郎がポケットから取り出したのは、銀色の箱だった。 悠理の手を取り、握らせる。 「・・・なにこれ」 「約束したでしょう」 ケースを開ければ、中には絹の上に収まった光る指輪。 たしかに、昨日はそんな話になった気もする。 悠理はキラキラ輝くそれを、凝視した。 「・・・首輪じゃなくて?」 そう言った悠理に、清四郎は赤面する。 「言わないでください。ちょっとした間違いです」 悠理を犬猫程度に思っている男は、図星をさされたような顔をした。 「でも、なんかコレって、違うくねー?」 悠理が呆れ声を出したのは、その指輪に、大きなダイアモンドが輝いていたからだ。 いくら悠理でも、それが気楽に贈るたぐいの宝飾品ではないことはわかる。 「ええ、なんだか僕も変だとは思うんですが、可憐が絶対おまえにはそれが似合うって」 「おまえ、カモにされたんじゃねー?ふっかけられたんだよ」 「給料3ヶ月分しました」 「えええっ」 清四郎は普通の新入社員ではない。その3ヶ月分となると、ずいぶんな品だ。 清四郎はコホンと咳払いをした。 「それで・・・ええと、僕はこういうのはどうも苦手なんですが」 悠理の手に置かれたケースから、清四郎は指輪を取る。 そして、悠理の手を取り、指にそれをつけた。 「ああ、さすがプロですな。可憐の言ってたサイズで正解だ」 左手の、薬指。 唖然とする悠理を、清四郎はじっと見つめた。 「僕と結婚してください、悠理」 悠理の頭は真っ白になった。 なにがなんだかわからない。 「・・・・・・。」 硬直している悠理の反応に、清四郎はわずかに落胆したようだった。 「悠理?」 「・・・馬鹿言え」 からからの喉で、やっと出せた悠理の声はかすれていた。 清四郎は舌打ちした。 「・・・ほらみろ、だから僕は駄目だって言ったんだ・・・」 清四郎は悠理から視線を外し、ぶつぶつひとり言をつぶやいている。 とても、プロポーズをした男の態度ではない。 「な、なんだよっ、おまえは!」 悠理は激昂した。 左手の薬指の指輪を抜こうと引っ張る。だけど、清四郎が易々と着けたそれは、悠理の指にぴったり嵌まり、 なかなか抜けない。 「なに考えてんだよ!どうせ、可憐にでもなんか言われたんだろ!」 悠理の言葉に、清四郎はあっさり頷いた。 「姉貴にやったピアスを見て、おまえが泣いたって言ったら、いきなりバチンと」 清四郎は頬を指差す。 「それで、なんで、ケッケッケッ・・・」 「いや、僕も一晩、考えたんですよ」 悠理のいない土曜日。ひとりの部屋で、清四郎は思案にふけった。 どうせ周囲は思い切り誤解している。いっそ、本当にしてしまってもいいんじゃないか、と。 「でも、僕はどうせおまえは承知するはずはないと思ってました。 可憐は、大丈夫だって無責任に太鼓判押したけれど」 やっぱり、あいつも商売人ですな、と清四郎はため息をついた。 「おまえも僕も、恋愛とは縁がないし、結婚してもうまくやっていけると思ったんですが」 その言葉に、悠理はがっくり肩を落とした。 さっきから、翻弄されまくった心はズタズタだ。 なんで、こんな男が好きなんだろう? はっきり言って、不毛だ。むなしい。 「・・・おまえと、一緒にすんな」 悠理はうめくようにつぶやいた。 「あたいだって、恋くらいするよ」 ものすごく、実りのない恋だけど。 清四郎はよっぽど意外だったのか、びっくりした顔で悠理を見つめている。 いたたまれなくなって、悠理は顔をそらした。 頬が熱い。泣きたい気分なのに、顔が赤らむ。 「・・・困ったな」 清四郎は自分の前髪をくしゃりとつかんだ。 悠理はうつむいて、指輪を抜こうと再チャレンジ。 その様子をじっと見つめている清四郎の視線を感じた。 「学生時代と違って、もうおまえの勉強を見る口実もないですし・・・どうすればいいのか」 「勉強?」 突然、またわけのわからないことを清四郎は話し出した。 指輪がゆるみ、やっと抜くことができた。 悠理は指輪を手に男を見上げる。 清四郎は途方に暮れた顔で、悠理を見下ろしていた。 「おまえを僕のもとに引き止められる方法を、思い付けない」 まるで、ひとり言のようにつぶやかれた言葉。 「どうやったら、おまえを僕のものにできるんだ?」 悠理の手から、指輪が落ちた。 床に転がったそれが、光を反射する。 清四郎は身をかがめ、指輪を拾った。 床に片膝をついたまま、自分の手の中の指輪を見つめている。 「……。」 茫然自失状態で、悠理は清四郎を見下ろした。 いつもはきちんとセットされている髪が乱れ、うつむく清四郎の表情は見えない。 清四郎は顔を上げた。 悠理を見上げる瞳は、困惑に揺れている。 「恋人も妻もいらない・・・おまえだけが、欲しいんだ。悠理」 そう言って、清四郎は膝をついたまま、もう一度悠理の手を取った。 下から見上げられ、悠理は目をそらすこともできない。 「これは受け取って下さい。結婚してくれ、なんてもう言わないから」 清四郎は悠理の手に、指輪を握らせた。 「可憐の見立てはたしかだ。ほんとうに、おまえに似合う」 「清四郎・・・おまえ、変だよ」 悠理はそれだけ言うのが、精一杯だった。 「あたいのことなんか、女とも思ってないくせに」 清四郎の顔がぼやける。頬に熱い感触。 「なんで、泣いてるんです?」 清四郎が、少し焦った声を出した。 「悠理は悠理だろう?」 もう、清四郎の顔は見えない。 涙でぐしゃぐしゃの視界。 頬を清四郎の指がなぞる。 「なんだか、わからないけど・・・泣くな」 清四郎の指が、悠理の唇をたどる。 塩辛い涙の味。 自分の涙と清四郎の指。 唇をたどった指は、涙をのせたまま離れた。 ぬぐっても零れる涙に焦れたのか、立ち上がった清四郎は、悠理の頭を抱え込んだ。 胸に顔を押し付けられる。 綿のシャツに、涙が吸い込まれた。 悠理は、自分の両手を後ろ手にぎゅ、とつかむ。 そうしていないと、いつものように抱きついてしまいそうだった。 握り締めた手の中で、指輪が存在を主張していた。 悠理の髪を撫でる清四郎の手は、優しくて。 涙が止まらなかった。 「おまえなしでは、どうも駄目だ。一緒に暮らしてください、悠理」 清四郎の言葉が、胸に染みる。 「恋人にも妻にもならなくていいから」 「やっぱり・・・変だよ、それって」 ようやっと出した声は、情けないほど涙声。 「変なのはわかってます。だから、可憐にも殴られたんだ」 ――――それで、『結婚』か。 やっと悠理にも合点がいった。 清四郎は清四郎なりに、世間の常識と歩調を合わせてみようとしたのだろう。 清四郎は落ち着いた声が、抱えられた頭の上から響いてくる。 「新しい家を、見に行きましょう。変なポスター貼っても変な置物置いても、 おまえがどんなに散らかしたって、かまわないくらい大きな家にするつもりです」 清四郎の部屋に、悠理が入り浸るようになってから増えた家財道具。 たしかに、2DKのあの部屋では手狭になっている。 「悪かったな、変な趣味で」 「変なのは、お互い様です」 悠理は清四郎の手を振りきって、身を離した。 まだ、涙は止まらない。 悠理は無理に手の甲でぬぐった。 「でもな、ひとつ約束してくれなきゃ、いやだ」 「はい?」 清四郎は悠理の顔を覗きこむ。 もう、いつも通りの仕草。表情。 「絶対、女を連れ込むなよ」 清四郎は悠理の言葉に、虚を衝かれたようだった。 「美童じゃあるまいし。あり得ません」 だがすぐに、きっぱり言いきる。 「言ったでしょう。僕はオンナも恋人もいらないって」 悠理は深々とため息をついた。 「・・・・いいけどさ。それ、絶対可憐や野梨子に言うなよ。またひっぱたかれるぞ」 「どうしてです?」 きょとんと首を傾げる男。 悠理はもう一度、後ろ手で自分の手を押さえた。 だけど、体は勝手に、踵を上げて背伸びする。 引き寄せられるように、悠理は清四郎に口付けていた。 一瞬の、触れるだけのキス。 鳩が豆鉄砲食らったように、清四郎は目を見開いている。 しまった、と思ったが、あとの祭り。 「こういうことだよっ」 悠理はプイッと横を向いた。 赤らんだ悠理の顔を、清四郎は凝視している。 「・・・あたいが、男を連れ込んだら、おまえどうする?」 顔をそむけたまま言う悠理に、清四郎は近づいた。 「それこそ、あり得ませんね」 体に回される、腕。 横から肩を抱き寄せられる。 「そんな余地をなくしますから」 どうして、この男はいつでもこんなに自信満々なのか。 悠理が昨日自覚したばかりの恋に、気づいてもいないくせに。 かつてのように、無邪気には抱き合えない。 まだ自分の両手を背中で押さえ、身を硬くしたまま。 悠理はそっぽを向いたままの頭を広い胸に預けた。 涙でぼやけたモノトーンの視界に、窓辺の薔薇が色づいて見える。 とりあえず。 手の中の指輪を、どうしようか思案する。 左手の薬指には、まだ早い。 この恋愛音痴の男相手では。 雲間から太陽が顔をのぞかせる。 窓辺では、日の光を受け、薔薇がふっくら綻びはじめていた。 まだ、満開までには程遠いものの。 零れ落ちる涙に、光が反射する。 引き裂かれたように痛かった胸は、もうあたたかな何かで満たされていた。 それなのに止まらない涙は、まるで小さなダイアモンド。 握り締めた手の中の指輪と同じ、永遠の輝き。
あうあう・・・「そして僕は途方に暮れる」で、好きな男に犬猫あつかいされる悠理たんが可哀想、というブーイングが非常に多かったので、フォローのために続編を書き出したら、こんなことに・・・。 |