弥生三月。
「うわー。すげーキレイだなー」
白鹿家の居間に飾られた雛人形に、悠理が感嘆の声をあげた。
花より団子の典型的人物が、思わずそうつぶやくぐらい、それは見事なものだった。
「あら、悠理の家なら、もっと豪奢なものがあるでしょうに」
野梨子の言葉に、悠理は眉をさげた。
「あるにはあるけどさー、家のんはサイアク」
「そういえば、イベント好きのあんたんちには珍しく、お宅でひな祭りってしたことないわね」
「じつは今日、してんだけどさ」
「おいおい、悠理。かりにも剣菱家の御令嬢だろうが。主役のおまえがよそんち来てていいのかよ」
「あたい、出たくないもん!絶対、いやだ」
悠理は両手で大きくバツ印を作る。
「なるほど。だいたいどんなひな祭りか想像がつきますな。内裏と雛人形は、おじさんおばさん自身とか」
「すっげー清四郎!よくわかるなー」
六人の脳裏に、雛壇の上に座る剣菱夫妻のビジュアルがありありと浮かんだ。
「・・・いつもと、大差ないような気もするけど」
美童のつぶやきに、うなずき同意する一同だった。
「あたいにも、いつもなんかやらせようとすんだぜ。サイアクだよ」
悠理はあられを噛み砕きながら口を尖らせた。
「悠理なら、五人囃子でも左大臣でも、似合いそうですが」
清四郎がおもしろそうに、悠理の頭をポンポン叩く。
「清四郎ってば、それ全部男じゃないの。せめて三人官女とか言ってやんなさいよ」
可憐のフォローにも、悠理は頬を膨らませた。
「どっちも、ヤダ!」
明るい笑い声が、庭の梅をほころばせる。
桃の節句にふさわしく、主のとりよせた早咲きの桃も中庭を飾っていた。
白鹿夫人自ら振舞ってくれる白酒を手に、有閑倶楽部の面々は華やいだ春の祭典を楽しんでいた。
白酒とつまみの料理をばくばく消費しながら、悠理は何度も雛人形に目をやる。
あまりに自分の家のものと違いすぎる雛人形が珍しいらしい。
「なんかさ、この人形・・・野梨子と清四郎みたいだよな」
一同の中で和服なのは、白鹿母娘と清四郎だけだ。
ならんで座る幼なじみの二人は、思わず顔を見合わせた。
「なにを言ってるんだか。僕らだけが着物だからでしょう」
清四郎は苦笑したが、たしかに和風の面立ちをもつ清四郎は、内裏雛の整った容貌を彷彿とさせた。
そして、野梨子の清楚な美しさは、日本人形そのものだ。
「たしかに、このお雛様、野梨子に似てるわねぇ。あたしんちにも雛人形あるけどさ、
もっと細面で目も細いわ。こんな目の大きいお顔、珍しいんじゃない?」
可憐の言葉に答えたのは、白鹿夫人だった。
「ええ、じつは、これは主人が野梨子が生まれたときに知り合いの人形師に特別に作らせたものですのよ」
「まぁ、そうでしたの。私も初耳ですわ」
「じゃ、赤ん坊のときの野梨子の顔がモデルなのか?」
「違うでしょう。いくらなんでも。おばさんをモデルに作ったのでしょう」
清四郎の言葉に、夫人は頬をわずかに染めてうなずいた。
清州の、年の離れた妻と一人娘への溺愛ぶりの察せられる。
「素敵ねぇ・・・」
可憐はうっとりとつぶやいた。
「清四郎も野梨子もうちの父ちゃんたちと違って、こんな格好似合いそうだよな・・・・」
悠理は少し目を細めて、雛人形を見つめていた。
悠理は、清四郎と野梨子の二人に顔を向ける。
「おまえら二人が結婚するときは、このスタイルでやれば?」
それは、爆弾発言だった。
「まぁ!」
パチンと両手をあわせ同意の意を示したのは、夫人ひとり。
あとの五人は固まっていた。
ガタンと音を立てて、机上に身を乗り出したのは野梨子だった。
「ゆ、悠理!どうして私と清四郎が、け、結婚なんて!」
真っ赤に顔を染め、野梨子は悠理をにらみつけた。
「だって・・・お似合いじゃん」
「冗談じゃ、ありませんわ!」
野梨子は噛み付かんばかりに憤慨している。
「清四郎とはただの幼なじみです!結婚なんて、ありえませんわ!」
「そんな、野梨子さん・・・まだ将来どうなるかなんて、わからないじゃありませんか」
母親の言葉に、キッと野梨子は首をふった。
「あ、り、え、ま、せ、ん!」
あまりの野梨子の剣幕に、一同、あっけにとられ言葉もなかった。
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あいかわらず、キッツイ女ねー。なにをそんなに興奮してんのかしら。
野梨子と清四郎は、たしかにお似合いじゃないの。
あんな言い方して、もし清四郎が野梨子に惚れてたら、どうすんのよ。
いくらアイツでもショックを・・・
・・・って、ゲッマジ?!
清四郎、真っ青じゃないのっ!!!!!!
うっそーっ!
この可憐さんとしたことが、ぜんぜん気づかなかったわー!
あの鉄面皮があんな顔するなんて、こりゃ相当マジだったんだわ・・・。
あ、清四郎、無理に表情を作った。
「・・・まったく、その通りですよ。野梨子といまさら、そういうふうには考えられませんね」
ううう・・・なに堅い笑顔で肯定してんのよ。
声がまだ動揺してるんだってば。
「そうですわ。兄妹みたいなものなんですから。悠理も変なことを言わないでくださいな」
ああああ、この鈍感女!
清四郎とは長いつきあいなんでしょ、そしたら、ちょっとはわかってやりなさいよ。
必死で取り繕ってるけど、清四郎、まだ青ざめてるじゃないの。
いま、あんたは思いっきり大事な幼なじみを傷つけたのよ!
何年も何年も、あんたの一番近くで守ってくれていた男なのに。
・・・・なんか、あたしまで悲しくなってきた。
清四郎、いつから野梨子を想ってたのかしら。
ずっと・・・だったのかしら。
きっと初恋よね。
思いっきり、失恋よね・・・。
告白もしないうちに玉砕なんて、可哀想すぎる。
清四郎を可哀想だとあたしが思う日がくるなんて。
普段が普段だけに、よけいに動揺ぶりが泣けてくるわー。
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そうか。
野梨子と清四郎は、なんでもないのか。
俺らの間でカップルが生まれるとしたら、この二人かも、って俺も思ってたんだけどな。
ふうん。
ま、考えてみれば、野梨子と清四郎は、たしかに兄妹みたいに似てる。
人は自分と反対のタイプに惹かれることが多いんだろう。
野梨子の好みは、祐也タイプだもんな。
清四郎とは似ても似つかない、ちょっと不良っぽい感じの。
どっちかっていうと、俺のほうが・・・
って、何考えてる、俺!
おおう、なんか胸がドキドキしてきたぞ。
やややばい、顔が熱くなってきちまった!
ここで、俺が赤面したら、すっげー変じゃねぇ?
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真っ赤な顔で怒っちゃって、野梨子ってば可愛いなぁ。
でも、なんであんなにムキになってるんだろう。
そんなに力いっぱい否定するなんて、かえって清四郎を男として意識しているからかと、疑っちゃうよ。
でも、それはないな。
ちょっと重度のブラコンだけどね。
それより、さっきから可憐が気になる。
清四郎を見つめて、目を潤ませてるなんて、彼女になにがあったんだ?
あ、鼻をすすった。
「清四郎・・・」
「なんです?可憐」
小さく名を呼んだ可憐に、清四郎が微笑みかける。
可憐がポロリと一粒涙をこぼしたのを、僕は見逃さなかった。
ちょっと、なんだよ、そのムードは!
まさか、可憐は清四郎を?!
情緒的な可憐と、朴念仁の清四郎なんて、早晩破局間違いなしのミスマッチだ。
可憐、その男はゲイのアイドルだ、目を覚ませ!
お、落ち着け、落ち着くんだ、僕!
これまで、そんなそぶりはぜんぜんなかったじゃないか。
僕が女性の心の動きを見逃すなんてことはありえない。
清四郎はともかく。
だって、僕はゲイじゃないからね。
・・・・・・?
そう思ってあらためて見ると、清四郎の様子もおかしい。
笑顔がすごくぎこちない。
可憐にお愛想程度の笑みを向けたあと、小さくため息なんかついている。
ちらりと、憂いをおびた視線を投げた先は・・・
悠理と魅録?
悠理は、まだ雛人形を見つめている。
口の周りに食べかすつけて、ポカンと見あげている姿は、子犬のようだ。
よっぽど雛人形が気に入ったらしい。
可愛いものや綺麗なものに、あのおばさんの悪影響か、拒否反応を示すことの多い悠理にしては、珍しい。
悠理だって見た目は美人なんだから、着物も似合うと思うよ。
次に視線を魅録にうつした僕は、愕然とした。
魅録はあろうことか、真っ赤な顔で、清四郎と野梨子をにらみつけていた。
怒っている、というより照れているようだ。
ときどき、焦ったように視線を泳がす。
どうしてもそちらを見ずにはおれないというように、その視線は二人にもどる。
さきほどの、清四郎と同じように。
と、いうことは、清四郎が気にしているのは魅録?
魅録が見つめているのは、清四郎?
うっわわわわわわ〜!!!!!!
よ、よしてくれよ、カンベンしてくれよ、その分野だけは僕は苦手なんだよっ!
みんなで旅行に行くとき、僕はオジャマ虫になっちゃうじゃないか〜!
そうだ、これからは悠理と同室にしてもらおう。
「悠理、一緒に寝ような!」
思わず、僕は口に出して言ってしまっていた。
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美童の唐突な言葉に、僕の心臓は一瞬大きく脈動した。
「あぁ?なんだって、美童」
それまで雛人形を見あげていた悠理がふりかえる。
いつもの、悠理。
いやになるくらい、邪気のない悠理の表情。
「ま、まぁ、どういうことですの!美童?!」
隣で、野梨子が立ち上がった。
「あ、いや、ゴメン。なんでもない、独り言!」
美童があはは、と笑ってごまかす。
なにが独り言、だ。
その金髪頭、かち割って一度中をのぞいてみたいものだ。
僕は思わず寄りそうになる眉ねを揉んだ。
白酒を飲みすぎたふりをして、そうしてしばらく顔を伏せる。
笑顔を作るのも、限界だった。
まさか、悠理があんなことを言うとは思わなかった。
あんなふうに、僕と野梨子を見ていたとは。
お似合い、ですか。
たしかに、僕と悠理ではまったく似あわないでしょうな。
悠理には、魅録との方が、ずっと・・・。
そんなことは、以前からわかっていたことだった。
悠理が僕をなんとも思ってないことなんて、ね。
わからないのは、なぜそれが、こんなにつらいのか。
なぜ、悠理の無邪気な顔を、見たくないと思ってしまうのか。
凍ったように、体が冷たい。
もう春だとはいえ、庭園を楽しむために、開けてある障子のためか。
僕は体をあたためるため、目の前の酒をあおって、立ち上がった。
「清四郎?」
声をかけてくる野梨子に、苦笑を見せる。
「少し、飲みすぎたようだ。風にあたってきます」
そのまま廊下へ向かい、障子に手をかけた。
部屋を出ようとして、はじめて悠理に顔を向けた。
悠理は少し寒いのか、肩を抱いて不安そうな顔をしていた。
いまは、笑顔を作れない。
僕は羽織りを脱いで、悠理の肩にかけた。
悠理は嬉しそうに、少しはにかんだ笑顔を見せた。
その笑顔から逃げるように。
後ろ手に障子を閉めた。
一番、廊下に近いところにいる悠理が、風邪をひいてはいけないと。
そんな自分の行動がおかしくて、思わず、自嘲する。
悠理が風邪など、ひくはずもないのだ。
寒いのは僕だ。
それなのに、上着も置いて部屋を出てしまった。
悠理の顔を見たくないのに、気遣ってしまう。
僕の行動は、ちぐはぐで、無意味だ。
ほんとうに、飲みすぎたせいか、風邪をひいてしまったのか。
ひきしぼられるように、胸が痛かった。
チチチ、ピチュ
鳥の声に、顔をあげた。
茶色の小鳥が、梅の木から飛び立った。
手が届きそうなほど、近くに飛んでくる。
思わず手をのばしかけたが、あげかけた手をさげた。
野生の鳥が、人の手に止まるはずはない。
やわらかそうな茶色の羽根が、春の光に透けていた。
懸命に羽ばたく小鳥を、僕は手を出せないまま見送る。
まるで、悠理みたいだと思った。
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美童に殺意のこもった視線をなげて、清四郎は顔をふせてしまった。
まったく、悠理といい、美童といい、なんてことを言うのだろう。
清四郎と結婚、なんてとんでもない。
母さまが本気で期待している様子なのが、腹立たしかった。
だいたい、本当にみんなはわからないのだろうか。
清四郎が、いつも、だれを見つめているのか。
だれを一番たいせつに想っているのか。
こういうことには疎い私にとってさえ、それは明白なのに。
それとも、私だからわかるのかしら。
ずっと、一番そばにいたのですから。
だから、淋しいと思うのは、あたりまえ。
そして、情が薄いと案じていた幼なじみに、愛するひとがいることを、
嬉しいと思うのも。
清四郎は部屋を出たが、障子に佇む影が映っている。
春の庭に何を見ているのか。
彼の心中を思い、私まで苦しくなった。
まったくわかっていないらしい友人たちの顔を、腹立たしい思いで見る。
美童は、さっき悠理に対してどうしてあんなことを言ったのだろう。
まさか、美童も悠理を好きなのだろうか。
遊び人の彼のこと、本気ではないことを祈るばかり。
悠理。
好ましく思っていた彼女の天真爛漫さが、いまは少し憎らしい。
彼の気持ちを欠片も気づいていない鈍感さが、苛立たしい。
そして私のこの気持ちが、嫉妬ではないと思いたい。
魅録。
落ち着きなく視線をさ迷わせている彼と、目があった。
すぐに逸らされる視線。
好ましく思っていた彼の少年っぽさが、いまは少し憎らしい。
悠理と同じ、鈍感さも。
私のこの腹立ちが、彼に向かう理由は、よくわからないけれど。
可憐は、なにやら涙ぐんで私をにらんでいた。
だれよりも友情に厚い彼女のこと、清四郎のために怒っているのかも知れない。
私は共感の意をこめて、彼女に微笑みをかえした。
きょとんとする可憐は、いつもそう見せたがっている大人の女なんかではなく、
無垢な少女のようだった。
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清四郎が出てったとたん、部屋の温度が下がった気がする。
でも、あたいはもう寒くなんかなかった。
ほんとうは、ひな祭りはあまり好きじゃない。
みんなで集まって春を祝うのは楽しいけれど。
おいしいものが食べられるけど。
父ちゃんと母ちゃんは恥ずかしいし、不気味な雛人形に、いい思い出なんてない。
だけど、ここんちの雛人形は、あんまり野梨子と清四郎に似すぎていて。
とても、嫌いにはなれなかった。
いつものように、清四郎の隣に野梨子。
それは、あたりまえの光景。
なのに、やっぱり人形を見つめていると、胸の奥に重い石がつまったようで。
体が、冷たくなるのが、わかった。
清四郎と野梨子の結婚式は、こんなふうなのかと、想像した。
あたいたちみんな、きっとずっと友達だから、この人形達のように二人を祝福しなければならない。
可憐は紅い衣の官女が似合う。
魅録は若いほうのお侍。
美童とあたいは、五人囃子かな。
清四郎が言ったように、きっとあたいにはよく似合う。
まるで道化のように、はしゃぐ自分を、思い浮かべた。
楽しいはずの想像なのに。
嬉しいはずの光景なのに。
なぜだか、心が冷えていった。
みんなのあったかい笑顔が見たくて言ったあたいの言葉は、不自然に宙に浮かんだ。
野梨子は怒り出した。
可憐は泣きそうで。
魅録は落ち着かない。
美童はわけのわからないことを言うし。
清四郎は、あたいのほうを見なくなった。
いつもの、余裕の笑みも、照れたような笑みも。
意地悪なあの顔さえ、表情から消えてしまった。
野梨子が恐い顔をする。
あたいはあわてて目をそらした。
やさしい顔の雛人形を見つめる。
やっぱりそれは、野梨子に似ていたけれど。
さきほどまでの石は、胸の奥から消えていた。
もうあたいは寒くない。
清四郎のあったかい上着があるから。
おばちゃんが暖めてくれた白酒を抱え、障子にもたれた。
薄い和紙を通し、冷たい三月の外気を感じる。
だけど、あたいの背中は、ほんのりあったかくなる。
障子の木枠がきしんだけれど、向こう側には倒れない。
障子の向こうには、清四郎が立っているから。
清四郎の上掛けのなかで、あたいは目を閉じた。
お腹にあった重い石は、暖かくてちょっと痛い、ざわざわするなにかに変わっていた。
それがなにかは、わからなかったけど。
清四郎の笑顔が見たい、とあたいは思った。
そしたら、もっとあったかくなる気がした。
頭の良くないあたいにも、それだけは、わかった。
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まだ浅い春の昼下がり。
錯綜する恋模様。
物言わぬ人形だけが、すべてを知っているように、人々を見下ろしていた。
花咲く春は、もうすぐ。
おしまい 2004.8