2.「うがーっ!」 剣菱邸に響き渡る雄叫び。 昏倒した悠理の意識がもどっても、事態はまったく好転しなかった。 「ともかく、落ち着いてもとに戻る方法を考えましょう」 さしもの清四郎もパニックに陥っていたのだろう。悠理相手に、”考えよう”と言ってもしかたがない。 「やはり、原因は昨夜のアレだろうな・・・」 清四郎は考え込む。 超常現象はすでに悠理の体質とはいえ。清四郎と体が入れ替わってしまったのは、 ふたりが昨夜結ばれたことに関係があるとしか思えない。 「お、おまえ元にもどる方法、わかんのかっ」 血走った目の男――――見慣れた自分の顔の中で、すがりつくような色が瞳に浮かぶ。 「ええ。こういう場合のセオリーは、やはり、異常事態が起こった状況と同じ状況を作るべきでしょう。 映画や小説では、ですが」 「同じ・・・状況?」 ぽかんとした自分の顔に見つめられ、清四郎もその事実に、やっと気づいた。 清四郎の額に影が下りる。冷や汗が流れる。 やはり清四郎自身も、冷静なつもりで、まだパニック状態だったのだろう。 「どうすればいいんだ?」 きょとんと小首を傾げる『清四郎』――――中身は悠理に、 眉根に皺を寄せた『悠理』――――中身は清四郎は、重々しく告げた。 「セックスですよ」 言い放ったあと、清四郎は目を逸らした。 できれば、一生見たくなかった。愕然と顎を外した自分の顔なんて。 彼が昨夜愛した女は、今は無骨な男の体に変わっている。 男を抱く趣味はない。いや、今は清四郎が女の体なのだから、抱かれるのは清四郎の方だ。 男に抱かれる趣味は、もっとない。 いくら男にモテようが、菊正宗清四郎、そのセクシャリティはきっぱりはっきりストレートだ。 おまけに、モノは自分の体。とても、昨夜のようにあんなことやこんなことをできるわけがない。 「うがーっ!」 剣菱邸に、ふたたび響き渡る雄叫び。 やはり、事態はまったく好転の兆しをみせなかった。 試験休みのその日、剣菱邸の使用人は、決して悠理の部屋には近寄らなかった。 室内からは、何度も人間のものとは思えない唸り声や男の悲鳴が漏れ聞こえたが、それこそ今に始まったことではない。 この屋敷の御令嬢は、以前から動物園もかくやの奇声を上げる。そして、猛獣使い改め、元婚約者改め、御学友改め、彼女の恋人である 青年も、彼女の部屋に同じくこもりきり。 世界に名だたる剣菱家の当主とその最強の令夫人から誰より頼りにされている清四郎が一緒なのだから、悠理の身を案じることはない。 しかし、彼らの大事なお嬢様の心身は、これ以上はないほどの危機的状況にあった。 混乱と困惑の一夜。 他の人間とはほとんど顔を合わせる事もなく、ふたりは二度目の夜を迎えた。 「悠理…」 大きなベッドの端と端。 清四郎は、頭から布団を被った悠理に、手を伸ばした。 悠理はぴょこんと頭をのぞかせる。 「なに?」 清四郎がどんな思惑を胸に秘め、同じベッド上の恋人に声を掛けたのか。 しかし、涙目で布団から亀のように頭を出した男の顔に、ウンザリした表情は隠せない。 「…眠れないのでしょう?」 「うん。おまえも?」 「一日、ろくに体も動かしてないですからね。運動でもしますか」 「運動って?」 清四郎は肩をすくめた。 「ストレッチか、腕立て伏せでも」 本当は、そんな体操をしている場合ではない。 しかし、清四郎も人間。 今の恋人と共にベッドでできる運動は、腕立て伏せが精一杯だ。 「うん、そうだな」 悠理は素直に身を起こし、ベッドから降りて柔軟体操を始めた。 「おまえの体、ちょっと硬いんじゃねー?」 「そんなことはありません。おまえが柔らかすぎるんだ」 清四郎も悠理の隣でストレッチ。 しばし、ふたりは無言で体操を続けた。 「なあ」 「はい?」 「腕立て競争しようか」 少し汗ばんで体がほぐれた頃、悠理が清四郎に提案した。 「そんなの、今はおまえが勝つに決まってるでしょう。基礎体力が違うんだから」 悠理はむっと顔をしかめる。 「そんなことはないじょ」 「格闘では、いい線いくかもしれませんがね」 いくら清四郎の肉体が頑健とはいえ、格闘技術を悠理が同じように使えるわけではない。 せいぜいが喧嘩殺法。悠理の俊敏な肉体を清四郎が使うことによって、十分戦うことができると清四郎は踏んだ。 「なんだとぉ。つくづく偉そうな野郎だなっ」 悠理は清四郎をにらみつけた。 「だいたい、おまえとあたいの差なんて、力だけだったじゃんか。そうか、今はこっちのが力も上だよな。 よっしゃ、一発勝負してやろーじゃん!」 悠理はシャツの袖をめくり上げた。 プライドが刺激され、清四郎もにらみ返す。 「そう簡単にいきませんよ」 しばし、ふたりは火花を散らしてにらみ合った。 視線を外したのは、清四郎が先だった。 「…やめましょう、不毛だ」 清四郎はぐったり肩を落とす。 「およ」 悠理は拍子抜けした顔をしたが、清四郎はもう一度ベッドに戻り、寝転がった。 「僕たちがしなければいけない一戦も一発も別の勝負なんですがねぇ…」 清四郎はふて腐れた顔で、布団を被った。 「なんだよ。変なヤツ」 肩透かしをくらった悠理は、首を傾げる。 そのままベッドから降りてこない清四郎にかまわず、悠理は床に手をつき、腕立て伏せを始めた。 「うそっ!片手でも三百回位楽勝でできそうだじょー♪」 嬉々として腕立て伏せに興じる恋人に、ベッド上の清四郎が投げることのできた言葉は 「筋肉痛になりますよ」 の、一言だけだった。 ふたりが菊正宗家に向かったのは、翌朝まだ早い時間。 「学校に行こう」 そう言い出したのは悠理だ。 一夜たって、立ち直りの早い悠理はもう自分を取り戻していた。 「一度、男になってもいいって思ってたんだ〜♪」 なにやらご機嫌麗しく、シャツの袖をめくって力瘤を作っている。 「おお、すっげー!」 こんもり盛り上がった筋肉に、いたく満足の様子。 やはり昨夜のストレッチが心身に好影響を与えたらしい。 筋肉痛にもなることはなく、悠理は新しい体に早くも順応し始めたようだ。 「…トイレでは大騒ぎしてたくせに」 清四郎はどんよりため息をつく。 「ま、慣れの問題だな」 悠理は気楽に答える。自分の体を清四郎に触られているのは、気にならないらしい。 いや、悠理のことだから、思い至ってないだけだろう。 そう結論付けて、清四郎はもう一度ため息をついた。 登校前に車を菊正宗家に回したのは、清四郎の荷物を取りに行くためだった。 制服こそ着ているものの、登校となると、なにかと準備が必要だ。 なにしろ、成績優秀品行方正(一部では悪辣非道)の誉れ高き、生徒会長の本日の中身は、 素行不良成績最低、の運動部部長に変わっているのだ。多少の準備も必要となってくる。 もちろん、清四郎は登校することに気乗りではなかった。どころか、本音は断固として阻止したいところだ。 しかし、ふたりで家にこもっていても、この状態が解決するはずもない。 いや、解決するだろう方法はあるのだが、さすがの清四郎も、ソレに関しては現実を直視することができなかった。 なにより清四郎よりも忍耐力が極端に少ない悠理の精神衛生を考えると、外の空気を吸わせる必要がある。 そして、いつも通りの日常を送ることによって、何らかの打開策も思いつくかも知れない。 その”いつも通りの日常”を送るための、難問困難は山積みだったが。 しかし、彼らが菊正宗家の門をくぐった時、最初の障壁がいきなり待ち構えていた。 「清四郎〜、あんた悠理ちゃんの家に、泊まったってね!」 車の音に気づいたのだろう。玄関先では、、パジャマ姿の菊正宗和子が腰に手をあて立ちふさがっていた。 「…う」 仁王立ちの姉に怯んだのは、清四郎。 顔を赤らめたのは、『清四郎』。 「やだ!なに顔赤くしてるのよ、いやらしい!」 和子はもちろん、中身が悠理の『清四郎』をにらみつけているのだが。 悠理はいきなり”いやらしい”呼ばわりされ、赤面したまま目を白黒させている。 清四郎が剣菱家に泊まるのは珍しいことではないとはいえ、たしかに”いやらしい” 既成事実は存在するので、悠理の動揺もあたりまえ。 しかし、それもあくまで過去形だ。 昨夜は何しろ、これ以上はないくらい健全健康的な一夜を過ごしたふたりではある。 和子の剣幕に、清四郎の母親と父親まで何事かと朝食の席を立ち顔を出した。 「…うわぁ」 悠理は今度は青ざめた。 赤くなったり青くなったりリトマス試験紙のような『自分』の顔面を見あげ、清四郎は嘆息した。 『清四郎』(=悠理)を押しのけ、一歩前に出る。ゆっくりと、菊正宗家一同を睥睨した。 「悠理ちゃん?」 『悠理』(=清四郎) の座った目付きに、母親が思わず声を掛ける。 清四郎は腹をくくった。 どうせ、体が入れ替わらず、自分が普通に帰宅したとしても、家族には追求されただろうから。 「ぼ…いえ、”あたい”と”清四郎”は、今後正式にお付き合いさせていただくことになりました。剣菱家では たいそう喜んでくれています。そういうことですので、あしからず!」 一気に言い切る。そして、家族があっけにとられている間に、男の骨ばった手首をつかみ、玄関を上がった。 「ま、まぁまぁ!また悠理ちゃんと縁談が?」 母親がパチンと手を打つ。 「うへっ」 ”縁談”の単語に、悠理が目をむいた。 「妙な声を出すな!」 悠理を小声で叱り飛ばし、清四郎は二階の自分の部屋に逃げ込もうと階段を急いだ。 「ちょっと、待ちなさいよ、清四郎!」 しかし、部屋の前で、追いかけてきた姉に捕まった。 ふたり同時に振り向く。 和子は心配そうな顔で、『悠理』(=清四郎)を見つめていた。 「悠理ちゃん、あなた前の婚約のとき、あれだけ嫌がってたのに、ほんとうにいいの? なにかこいつに弱味でも握られてるんじゃなくて? そりゃ私的には、剣菱家と縁戚になるのは願ったり叶ったりなんだけど」 将来、菊正宗家の実権を握ると公言している和子らしい言葉だ。 『悠理』(=清四郎)のこめかみがヒクつく。 「でも、悠理ちゃん・・あなた、なんだか変よ。表情が硬いし…」 ごくんと、『清四郎』(=悠理)が息を飲んだ。 和子なりに真剣に、悠理のことを案じているらしい。同時に弟の人格を信用していない証拠でもある。 『悠理』(=清四郎) は口の端を引き上げて、冷笑を一瞬浮かべた。 「悠理ちゃん?」 「いや・・・心配無用です”和子姉ちゃん”」 『悠理』はすばやく冷笑を消す。 「”あたい”、やっと気づいたんです。清四郎の魅力に」 はぁ?と『清四郎』(=悠理)が口を開けた。 「頭脳明晰、冷静沈着、眉目秀麗、”あたい”にはもったいないくらい素敵なカレですもの」 「で、ですもの・・・って」 和子もポカンと口を開ける。 「おまえ、ナニ言ってんだぁ?」 「黙ってろ」 じろり、と座った目でにらまれ、『清四郎』は思わず首をすくめた。 『悠理』はもう一度和子に向き直る。 そして、にっこり微笑んだ。 「”あたい”は、清四郎を愛してるんです。夢中なんです。ラブラブなんです!」 それは、凄みのある笑顔だった。 和子は絶句。 愛を表明された『清四郎』も硬直。 「失礼」と和子に背を向け、『悠理』は『清四郎』を引っ張り、部屋の中に消える。 廊下には、弟とそっくりな顔をひきつらせた和子だけが残された。
いや〜ビジュアルで想像するのと、書いてみるのとは違うもんですね。しんど。 |