4.登校しようと、家を出た途端。 菊正宗家の門扉に、隣家の少女がうなだれ背を預けているのが目に入った。 「野梨子?」 悠理の呼びかけに、野梨子はおかっぱ頭をふって顔を上げた。 「おはようございます。やっぱり悠理も一緒でしたのね。 車が待っているので、そうかとは思ったのですけど」 白い花のような、少し寂しげな笑顔。 「どうしたんだ?まだ早いだろう」 首を傾げたのは、『悠理』(=清四郎)。 いつも清四郎と野梨子が登校する時間には、少し早い。 それに、野梨子がこんなふうに菊正宗家の門の前で待つことなどあまりなかった。 いつも正確な時間に家を出る彼らは、道で合流するのだ。 「ええ・・・今日は悠理の車で登校しますの?私もご一緒させていただいてよろしいかしら」 野梨子の言葉に、ふたりは顔を見合わせた。 清四郎はわずかに悠理に向かって首をふる。 「ああ、いや・・・」 言いよどんだ『清四郎』(=悠理)に、『悠理』(=清四郎)が言葉を続けた。 「あのな、野梨子。悪いけど、あたいらちょっと寄ることあるんだよ。こいつ昨日風邪ひいちまってるし、 野梨子に障りがあってもなんだから、先に学校へ行っててくれ」 「まぁ、清四郎が風邪?」 『清四郎』(=悠理)は慌ててポケットからマスクを取り出し、装着した。 「ごほごほ、そうなんデスヨ。ひょっとしてタチが悪いかもしれないんで、病院寄ってから登校シマス」 幾分棒読みチックでぎこちない『清四郎』の言葉だったが、野梨子は心配そうに眉をひそめた。 「おじさまはなんて?登校して大丈夫ですの?タチが悪いなんて、悠理にも感染しません?」 「オヤ・・・いや、オッチャンは外科医だろ。あたいも、登校すんの止めたんだが、 こいつが行くってきかないんだ。ま、あたいは大丈夫だよ!馬鹿は風邪をひかないってゆーでしょ!」 あはは、と大口開けて笑う『悠理』(=清四郎)の頭に、『清四郎』(=悠理)が拳を落とした。 その拳を軽く受け止め、『悠理』(=清四郎)は微笑む。 野梨子には、ふたりの姿がいつも通りに見えたはずだ。 野梨子は、小さくため息をついた。 「そうですの・・・じゃあ、私は先に登校します。清四郎、無理なさらないでね」 野梨子は笑みを向けたが、なぜか朝の光の中で、その笑顔は透けそうに儚く見えた。 いつにも増して小さく華奢に見える背中が遠ざかる。 「なんか、野梨子の様子、おかしくねー?」 小道具のマスクを外しながら、悠理は清四郎を肘で突ついた。 「そうですね、元気がありませんな。まぁ、おまえのようにいつもいつもハイテンションな人間では ないですからね」 「あたいだって、朝はいっつもユーウツだじょー!」 「おや、可憐みたいなことを。おまえの場合、学校で勉強するのが憂鬱なだけでしょう。おまえに 低血圧の気がないことくらい、僕は身をもって体験済みです。今朝も朝からお腹が空いて空いて。 そっちの方に驚きましたよ」 言い合いながら、ふたりは名輪が待つ車に乗りこんだ。 学校に着けば、ふたりきりになれる機会はほとんどない。 野梨子の同乗を断ったのは、愛しい恋人との時間を少しでも邪魔されたくないから――――などでは 無論なく、学校生活における注意事項の確認と、演技をせず過ごせる貴重な時間を確保するためだった。 車は静かに走り出す。 野梨子にああ言った手前、名輪には遠回りを指示した。本当はここから学園までは徒歩圏内なので、 そのままでは早く着き過ぎる。本鈴ギリギリに間に合う程度に着けばいい。 名輪は周辺を軽く流すと、笑顔で請け負った。 剣菱家の専用車には、先日、清四郎が悠理を車の中で押し倒して以来、 運転席と座席の間にスモークガラスが設置され、ふたりきりの空間を邪魔せぬ配慮がなされてある。 恋人達は密室状態でふたりきりになった。 清四郎はスモークガラスを見て苦笑した。 「せっかくですから、キスくらいします?」 「いいけど」 即答した悠理に、清四郎は眉を上げる。 悠理はニヤリと歯を見せて笑った。 「あたいよか、おまえの方が抵抗あるんじゃねーの?」 清四郎は少しムッとしたように肩をいからせた。 無言で男の広い胸板を手のひらで突く。 軽く見えたその突きに、悠理はあっけなくシートに横たわらされていた。 「えっ」 焦った声を出したときには、すでに遅し。 少女の白い太股が、男の腰を捕らえていた。 座席に仰向けになった男の腹の上に、女は馬乗りに乗り上げる。 そのまま、顎を持ち上げられ、上から唇をふさがれた。 「む、むぐ」 悠理は目を白黒させる。 まるきり、先日と同じ体勢。いや、逆か。 清四郎に押し倒され、抱き潰されるかと思ったあのときとは、受けとめた体の重さが違った。 だけどくちづけのもたらす陶酔は、同じだった。 車の振動が、身を重ねたふたりを心地よく揺らす。 唇を離し、清四郎は組み敷いた悠理に微笑した。 「今夜、剣菱家に帰ったら、風呂にまた一緒に入りましょうか」 「えっ」 悠理は一瞬、顔をひきつらせる。 おととい、風呂場で狼藉行為におよばれたことを思い出したからだ。 「いまさら、恥ずかしくはないでしょう?」 「んー・・・やっぱヤダ」 清四郎の笑顔――――いまはそれは『悠理』の顔なのだが――――が、なんだか剣呑だ。 悠理はふるふる首をふった。 「昨日みたく、ひとりでシャワーがいい」 「おや」 清四郎は口の端を引き上げた。 「いまおまえは僕の体なんですよ。ひとりで入って、ナニをしたいんですか?」 「な、ナニって」 意地悪な笑み。 悠理は赤面した。 「ちょ・・・ちょっと、待て!おまえ、昨日ひとりで風呂入ってたよな。あ、あたいの体に変なコト・・・」 清四郎は狼狽した悠理に、クスクス笑った。 「さすがに昨夜は、イロイロする気力もなかったですがね」 「イロイロって」 悠理自身の、色素の薄い瞳が猫のように光る。 清四郎は右手を胸元に這わせ、下から揉み上げるようにささやかな女の胸を包み込んだ。 「な、なにすっ」 左手で、悠理の唇に人差し指をあてる。 「許してください、悠理。実は僕・・・」 言いながら、自分の胸を揉みしだく。 「ブラジャーをつけてないんです。どうしても、あれだけは慣れなくて」 「にゃ、にゃにぃ!」 「ブラしなくっても、おまえの胸じゃ誰も気づきません。厚手のタンクトップ着てますし。 必要もないのに、あんなもので毎日胸を締め付けてるんだから、おまえも我慢強い」 言葉の内容よりも、男の腹の上で自分の胸を揉む女の姿態に、悠理は目眩。 あやしく身を捩り、目を輝かせて笑みを浮かべているのは、誰であろう『剣菱悠理』なのだ。 女の目に宿った光は、淫靡さよりも好奇心とイタズラ色が強かったとはいえ。 悠理は思わず清四郎の手をつかんでいた。 「痛っ」 手首を締め付ける男の力に、清四郎は顔をゆがめた。 「おいおい、力が違うんだ。手加減してくれ」 「あたいの体に、変なコトすんなっ」 「変なコトって。僕は親切でしてやってるんですが」 「はぁぁ?」 悠理の目が点になった。 「昨日から牛乳飲みまくってますし、腕立てもしました。知ってますか、揉まれると胸って少しは大きく なるんですよ。おまえの胸はいくらなんでもささやか過ぎます。感度と触り心地は最高ですが」 「な、な、な・・・」 赤面して口をパクパクさせている悠理の腹の上から、清四郎はひょいと退いた。 ペロリと赤い舌をのぞかせる。 「本音を言えば、やはり自分のためかも。元の体にもどったとき、おまえの胸をもっとおいしく味わいたい」 たまらず、悠理は拳骨を振り回した。 「朝っぱらから、やーらしーこと言うなっ!」 もちろん、予期していた清四郎には、至近距離からのパンチもかすりはしなかった。 迂回し流していた車が、聖プレジデント学園に近づいた。 もうすぐ予鈴が鳴る頃。道を歩く生徒たちの数も少ない。 「あ、可憐」 清四郎が見つけ、悠理に教えた。 早足駆け足の学生達の中で、ひとりトボトボ歩くソバージュを、車は追い越す。 「なんだ?あいつ妙によろよろしてるな」 「また失恋でもしたんですかねぇ。あの調子では遅刻ですよ。可憐は常習犯ですからね」 失恋か、遅刻か。そのどちらも、確かに可憐には習慣と化している。 「おまえには劣等生あつかいされてるけどよ、あたいは遅刻だけはめったにしないもんね!」 「名輪のおかげでしょう」 「ま、そうなんだけどさ」 悠理はあっさり認める。 学園の門が見えるところで、車は止まった。 送迎車による渋滞だ。 予鈴が鳴った。 「あ、魅録だ」 可憐とは反対側から門に向かって歩くピンクの頭を見つけたのは、悠理だった。 いつもの場所にバイクを停め、魅録はメットだけを手に、鞄も持たず悠然と歩いている。 「・・・なんだか、遅刻ギリギリなのは、僕らの仲間ばかりですねぇ」 生徒会長は苦笑した。 いつもなら、清四郎と野梨子はとうに席についている時間。美童もたいてい送迎車で登校してくるので、 遅刻はない。もっとも、美童の場合、大使館の車とは限らないが。 「ここで降りましょう。準備はOKですね?」 必要なのは、心の準備。清四郎の言葉に、悠理は頷く。これから、演技スタートだ。 「よし!」 清四郎は軽く両頬を叩く。 悠理はマスクを口に着ける。 ふたりは気合を入れて、車のドアを開けた。 「おっはよー、魅録ちゃ〜ん!」 校門の前の魅録へ向かって、駆け出したのは清四郎。 そのまま、魅録の背中に飛びつく。 「ぅおっと!悠理か」 つんのめりそうになりながら、魅録は別に驚かない。 『悠理』と『清四郎』に、軽く手を挙げて挨拶。 魅録にペッタリ抱き着いた『悠理』(=清四郎)の姿に、『清四郎』(=悠理)はゴホゴホ咳き込む。 それはまんざら演技ではなかった。 「なんだよ清四郎、風邪か?なんとかの不養生かよ」 「ハハハ・・・」 『清四郎』(=悠理)は力なく笑う。 悠理は清四郎の耳に口を寄せた。 (いっつも、あたいそんなに魅録にひっついてるかぁ?) (ひっついてます!) 返答は小声ながら、すごい勢いで返される。 どうも、これまで悠理がとってきた無意識の行動は、清四郎には気に入らなかったらしい。 「なんだよ、内緒話か?」 自分の腕にくっついている『悠理』(=清四郎)に、魅録は首を傾げた。 「ああいや。清四郎がさ、なんで風邪ひいたのか、内緒にしてくれって」 「なんでなんだ?」 「風呂で湯冷めしたんだよ」 『悠理』はニヤリと微笑んだ。 悠理にだけは判る、意地悪な笑み。 清四郎は魅録の腕を放した。校門に入る寸前、悠理にまた耳打ちする。 (よく考えたら、今日はノーブラでした。あまり胸を密着させるのはマズイですね) 「バ・・・バカ!」 思わず悠理は大声で叫ぶ。 しかしそれも、魅録の目にはいつも通りのふたりの姿と映ったようだ。 三人が、校舎に向かったそのとき。 通用門の方から、悲鳴が聞えた。 「きゃあっ、よしてくださ・・・」 か細いが凛とした口調が、途切れる。 三人は、顔を見あわせた。次の瞬間、踵を返して通用門に突進する。 「野梨子っ?!」 悲鳴は、確かに彼らの友人のものだった。
おかしいなぁ。この回は学園編のはずだったのに、まだ校門くぐっただけ(笑)。
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