天使のウインク

 




――――約束を守れたなら、なんでもお望みに従いますよ。

どうせ、悠理には無理だと踏んだのだろう。
清四郎が安請け合いしたのは、試験明けの旅行計画だった。
条件は、オール赤点クリア。ひとつでも赤点を取れば、春休み中ずっと、悠理は家庭教師に拘束されることになる。

そして、審判は下った。

皮も剥かないままリンゴにかぶりつく悠理の顔は、ふくれっつら。
「どったの、悠理」
美童は隣に座る悠理の顔を覗き込んだ。
倶楽部のテーブルを囲んだ仲間たちは、悠理の不機嫌顔に気づかない。
たとえそれが悠理でも、女の子の機嫌には敏感な美童だ。
「結局、旅行には行けるんだから、いいじゃないか」
「けど、なぁ。日帰り国内限定だぜ〜。南極もアフリカも無理じゃん」
悠理は口を尖らせる。
清四郎が聞きつけて、眉を上げた。
「おや、条件は、赤点ナシだったんですよ。おまえは現国赤点取ったんだから、旅行に行けるだけずいぶんサービスしたんですがね」
清四郎は見せつけるように、39点と赤字で書かれた答案用紙をひらつかせた。
「あと一点だったろ!」
「どうやったら、日本語の読解で赤点取れるんでしょうかね。おまえはどこの国からの帰国子女だ?」
「まあまあ、清四郎ってば。今回は悠理もがんばりましたわよ。他はすべて50点以上なんですから。あなたも、現国は特訓しなかったのでしょう?」
「まさか、日本語でつまづくとは思わなかったんでね」
清四郎はため息をついた。
悠理はわずかに頬を染め、口を引き結ぶ。
「ま、行き先を悠理の希望通りにしてくれるあたり、清四郎も優しいとこあるじゃん。海に行きたかったんだろ?」
美童は、小さな声で悠理をなぐさめた。
そうすると、悠理は手に持ったリンゴと同じ顔色になった。
「い?」
真っ赤に赤面されるようなこと、言ったっけ?と美童は目を見開く。
「みんなで行くんだとは、思わなかったんだ・・・」
悠理は小さくつぶやいて、可憐や魅録、野梨子と談笑している清四郎に目をやった。
「いいい?」
美童は耳を疑った。
そして、目を疑った。
清四郎を見つめる悠理の瞳は、美童には見慣れたそれ――――恋する少女の目だったから。





*****





悠理は、恋をしている。

仲間の誰も、美童以外は気づいてないようだった。
体力・食欲・霊感は、人類屈指の能力を誇る悠理だが、恋愛適性はかなり低い。
経験値も、どう見てもゼロ。
そんな悠理が、恋をしている。それも、あの清四郎に。

「よりによって…なんでアイツなんだよ」
美童はため息をついた。
まだ肌寒い、春の海岸。悠理はダイビング道具一式を魅録の車から降ろしている。
悠理の希望通り海にやってきた一行だったが、ダイビングに付き合うのは魅録だけだ。
可憐と野梨子は、海岸沿いのカフェを見つけ、暖を取りにいった。
美童はコートの襟を合わせ、海風に身をすくませる。
「美童も、ほんとにしないのか?」
車の横に立つ美童に、悠理がバンの後ろからぴょこんと顔を覗かせた。
「いいよ、遠慮しとく」
ライセンスは持っているものの、悠理や魅録のペースに付き合う気はない。
悠理はもう一人のライセンス保持者をきょろきょろ探した。
はぐれた子供のような、不安気な顔。
「清四郎なら、ボート借りに行ってるよ」
悠理の顔が、ぱっと明るくなった。
その表情に、美童はふたたびため息。
「でも、あいつは潜らないって、言ってたけどね」
悠理の眉が下がった。
そう意識して見ると、ものすごくわかりやすい、悠理の反応。
「そんなに、清四郎と一緒にいたい?」
「はぁ?」
悠理の目が見開かれた。
「な、なんで、あいつとっ!」
パパパッと顔がまたリンゴ色に変わった。

美童はこの数日観察した結果、確信していた。
悠理は清四郎に恋をしている。そして、どうしたことか、それを自分では気づいていないらしい。

「悠理、おまえどこで着替える?」
魅録がダイビングスーツを悠理に放り渡した。
「下に水着きてきたから、ここでいいよ」
悠理は無造作にパーカーを脱ぎ始めた。
白い肌によく映えるオレンジ色のビキニ。けれど、あっけらかんと脱がれては、色気のないこと甚だしい。
「寒くない?」
「ぜーんぜん」
ジーンズに手をやって長い足をうんしょ、と引き抜いている。

胸はほとんどなきがごとしだが、悠理はスタイルがいい。
スラリと引き締まった体、長い手足。
あれほど夏は焼きまくっているのに、シミひとつないすべらかな肌。
長い睫毛が、色の薄い瞳にかかる。瑞々しい頬とふっくらした唇。
中性的ながら、超のつく美少女だ。

「わぁ、靴がひっかかった!魅録、引っ張ってくれよ」
「なんでおまえ、スニーカー履いたままジーンズ脱いでんだよ」
あきれ顔の魅録が、悠理の足元に回った。

「まったく、なんでよりによって、あの男なんだか」
美童はふたたびつぶやいた。
悠理が恋をしたのが、たとえば、ほかの誰かなら。
美童はもろ手を挙げて、協力したことだろう。
友人の、遅い初恋を祝福し。
女の子が綺麗になるのは、大好きだ。
それが他の男のためだと、複雑な心境にはなるものの。

悠理が恋した相手が、たとえば魅録なら。
いまは男友達、兄弟のようなふたりの関係だけど、優しい魅録は戸惑いながらも、悠理を包み込むだろう。

たとえば、悠理が美童に恋をしたなら。
甘い恋のイロハを教えてやれる。
最高の時間と思い出を、作ってやれる。
マイフェアレディのように、悠理を美しく変貌させるのも、楽しいだろう。

だけど、悠理が恋をしたのは、最悪の相手だった。

「なにしてんですか?」
美童の後ろから、声がかかった。
目の前で、声に反応してビキニの上半身がほのかに色づく。
「せ、清四郎」
魅録に足を引っ張られながら、悠理はまた赤面した。
「いや、悠理がなー」
魅録の口を、悠理はあわててふさごうとする。
「言わなくていい、バカにされっだろ!」
「わっ、おまえ、煙草!」
「んぎゃっ」
魅録の咥え煙草を手のひらに押し付けてしまった悠理は、両手をバンザイ。

あっけに取られた美童の横で、清四郎がスイと動いた。
清四郎は悠理の手を取る。
眉をひそめ、火傷の有無を調べていた。
「大丈夫のようですね…ったく」
清四郎のあきれ顔も、無理はない。
しかし、しゅんと肩を落とした悠理の様子に、美童は胸を衝かれた。
清四郎に手を取られ頬を染めている悠理は、ほのかな色気さえ漂わせている。
だが、気づきもしないで、清四郎はあっさり悠理の手を放した。
「ナントカは風邪をひかないといいますが、いくらなんでもその格好はあんまりです。ボートは30分くらいかかるそうなんで、車の中で待ちますか」
悠理はふるふる首をふって、もう一度パーカーを羽織った。
「魅録と海で遊んでくる」
ジーンズを脱いで、足をさらしたまま悠理は波打ち際に向かって駆け出した。
「しょーがねーなぁ」
魅録は苦笑しながら、あとに続く。
その場には、美童と清四郎が残された。
車を風除けに、海を眺める。
波に向かって真っ直ぐ走ってゆく悠理の後姿を見送っている清四郎の横顔を、美童はそっと伺った。
その目には、なんの感情も浮かんでいない。

「清四郎は、どうすんの?」
「ここで本でも読んでますよ」

美童が聞きたかったのは、そういうことではなかった。
「…あのさ、ひとつ聞きたいんだけど」
「はい?」
海に顔を向けたまま、清四郎は気のない返事を返す。
「おまえさ、女の子と付き合う気、ある?」
「なに、バカなことを。そんな暇ありません」
間髪入れずの即答だった。

知力・体力は常人を凌駕しているとはいえ、美童の見る限り、清四郎は悠理以上に恋愛指数が低かった。
いつだったか可憐が言っていた”女性に真剣に恋なんかできない男”という評は、当たっていると思う。

「だけどさ、僕らとこうしてる暇はあるじゃないか」
「約束しましたからね、悠理と」

清四郎が悠理をどう思っているか、なんてあの婚約騒動のときに知れた。
おもちゃ、ペット、世話の焼ける被保護者。
それは日常の行動を見ても、明らかだ。
清四郎の悠理に対する態度に、艶めいたものはない。
だから美童は、悠理にその気持ちのわけを、教えてやるつもりはなかった。
絶望的な片思いを、気づかせたくなかった。

「悠理は…いや、僕らは特別扱いなんだ、おまえにとって」
「そりゃ、そうですよ」

ひとつだけ救いと言えるのは、清四郎が彼なりに、倶楽部の仲間たちを大事に思っていることだ。
柔らかな外面に騙され、彼に憧れている女子は多い。だけど、彼女たちは彼の心に近づくことすらできない。
鉄壁の無関心のバリア。
それに比べれば、悠理はずっと彼に近い位置にいる。

「悠理や、可憐や野梨子なら、付き合えるんだ」
「は?」

清四郎ははじめて美童に顔を向けた。片眉を上げた、思い切り不審そうな顔。
やばい、と美童は口を押さえる。
不用意な事を言って、悠理の気持ちを悟らせてはいけない。

「だいたい倶楽部の連中でも、美童と可憐以外は、男女交際してる暇なんてなさそうですがね」
馬鹿にしたような口調に、美童はむっとした。
「野梨子は男嫌いで、魅録は男と遊んでいるほうが楽しいガキで、おまえは多趣味多忙なだけだろ。悠理は…」
「悠理こそ、男と付き合うなんて、あり得ませんね」
清四郎は口の端を上げる。
無神経な物言いと皮肉な笑みに、美童は本気で腹が立ってきた。

「そうでもないんじゃない。あいつは、それこそいつも暇だ、暇だ、つってるだろ。彼氏でも作ったら丁度いいかも」
「悠理に?」
清四郎は、ぷ、と吹き出した。
「あのガサツで、手より先に足が出て、三大欲求のほとんどが食欲ばかりの悠理に?」
「そう馬鹿にするもんじゃないよ。あいつは確かに乱暴者だしトラブルメーカーで女の子にしかいまはモテないけどな、」
「それ、フォローしてるんですか?」
「そうだよ!」
美童の剣幕に、清四郎はちょっと驚いた顔をした。
「さっぱりしてイイヤツだし、見てるだけで元気がでるし、素直で可愛いとこあるしさ!」
「び、美童?」
「あれでもすっごい美形だし、見る目のある男なら、惚れてもおかしくないよ!」
「・・・・・・」
清四郎は目を細めて、真意を探るように美童を見つめた。
「その”見る目のある男”とやらに、心当たりでも?」
「ないよ!」
勢いに任せて言ってしまって、美童はバツが悪くなった。
なんだ、という顔をする清四郎に、落胆する。
やはり、悠理の初恋は前途多難だ。
清四郎に脈はない。

「でも・・・そうですね、たしかに悠理はいつも暇そうですな」
清四郎は顎に手をやって、浜辺で波と戯れている悠理に目をやった。
「ふぅむ」
なにやら考えていた清四郎は、ポンと手を打った。
「悠理!」
そして、大声で悠理を呼んだ。
悠理は清四郎の声に、顔を上げた。
子犬のような表情で、パタパタ走り寄ってくる。
懸命に振られた尻尾を幻視して、美童は目眩がした。
悠理が可哀相でならなかった。

清四郎はお手、と言わんばかりの笑顔を悠理に向けた。
「なんだよ、清四郎」
「いえ、そういや言い忘れてたな、と」
「なにを?」
「僕と約束したでしょう」
「へ?」
悠理が小首を傾げる。
「赤点取ったら、休み中ずっと家庭教師するって」
「げ」
悠理の顔色が変わった。
「この際、みっちりその頭に叩き込んでやります」
「お、お慈悲を、清四郎ちゃああん」
悠理は涙目だ。
清四郎は、コホン、と咳をついた。
「ま、もちろん僕も毎日のつもりはありません。月水金だけにしてやろう」
「じゃ、じゃあ、火木土は?」
「一緒に遊びましょう」
「うわぁい♪」
悠理はぴょんと飛び上がった。
「なにして遊ぶか、あたいが決めていい?」
「ええ、いいですよ」
清四郎は微笑する。
悠理は、弾けるような笑顔を見せた。

美童はそのやりとりを、あぜんと見つめていた。
思わず指を折る。
「月火水木金土・・・」
ほとんど、毎日。
暇がない、と言っていた男の横顔をまじまじ見つめる。
「なんです?」
「悠理の家庭教師って、おまえなわけ?」
「そうですよ。おばさんから頼まれましてね」
しれっと、いつもどおりの顔で答える清四郎。
その表情からは、照れも裏も読み取れない。
「これで、悠理も余計な事をする余地はないでしょう」
うんうん、と満足そうにうなずく清四郎に、思わず美童は問いかけた。
「よ、余計な事って、男女交際?」
「もちろんです」
清四郎は自信満々、うなずいた。

思わず、美童は立ちくらみ。
いまのやり取りを平然と美童の前でするあたり、ひょっとして、ほんとうに清四郎は気づいていないのかもしれない。
美童は口をパクパク開けて、言葉を搾り出そうとつとめた。
「あのな、清四郎、おまえ…」
しかし、美童は皆まで言う事ができなかった。
「あ、ボートが来たようですよ」
清四郎は車からついと離れる。

波打ち際に目を移すと、ご機嫌の悠理が、踊るような足取りで波と戯れていた。
魅録の背に抱きついて遊んでいる姿を見ると、どう見ても微笑ましいカップルだ。

清四郎は、悠理と魅録のじゃれあいを、まったく気にしていないようだ。
ダイビングポイントまでの打ち合わせをボートの男としている。

用具を取りに、魅録が車にもどってきた。
「どうした?美童」
まだ口を半開きにして清四郎と悠理を見比べている美童に、魅録は怪訝な顔を向けた。
「…あいつら、マジ気づいてないわけぇ?」
「はぁ?」
ほとんど独り言のような美童の言葉を、魅録がわかるはずもない。

が、美童の視線を追って、ああ、と魅録は頷いた。
「あいつらな、あれは似たもの同士だな」
「え、清四郎と悠理だよ?」
まったく正反対、紙の裏と表、白と黒。静と動。あまりにも、違いすぎるふたり。
「おまえ、余計な事言うなよ。あいつらは、あれでいいんだよ、当分は」
魅録はニヤリと微笑む。
「そのうち気づくさ。自分の気持ちにも、相手の気持ちにも」
魅録は美童に軽くウインクして、ダイビング用具を抱え上げ踵を返した。

美童は魅録の背を、呆然と見送った。
恋愛のエキスパートを任ずる自分よりも、魅録の方が先に気づいていたらしい。
考えてみれば、悠理と一番親しく、清四郎にも信頼されているのは魅録だ。
思わず吹き出してしまった。
この分では、野梨子あたりも気づいているのかもしれない。
皆で、見守っているわけだ。鈍感なふたりを。

クスクス笑っている美童に、魅録のあとを追って用具を取りにきた悠理が首を傾げた。
「なに笑ってんだ、ひとりで」
「いや…なんでもないよ」
悠理のきょとんとした無邪気な顔に、美童は片目をつぶる。
幸福に、とウインク。
魅録のようには、決まらなかったものの。








2004.10.21



”教えてエンジェル リンゴを齧ったら こんな苦しい気持ちになるの?”な悠理くんを書きたかったのに、なんか意図した話とまったく変わってしまいました。 ”迷路のような彼の心の中”で迷子になったのは美童くんだし。天使の座は魅録に奪われちゃうし(笑)。
長編の余波で、悠理に惚れ狂ってない清四郎も書きたかったのでした。なのに、月火水木金土(爆)。ただの鈍男。
いつになったら、私はあこがれのクールビューティ清四郎くんが書けるようになるんでしょうか…。

 

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