後編 清四郎が帰宅したとき、食堂では友人たちがブランチを楽しんでいた。 「お帰り、清四郎」 「結局、朝帰りですのね」 清四郎は、友人夫婦と美童と可憐に片手を上げる。 「これも付き合いですよ」 一番に食物を頬張っているはずの姿が見えないことに、清四郎は首を傾げた。 「悠理は?」 「花凋(フアリュウ)と一緒に朝稽古ですって。あんた、庭に道場なんて作ってたのね」 「僕じゃなく、悠理の希望ですよ」 清四郎は呟く。 「朝稽古か。シャワーを浴びて一寝入りする前に、僕も参加しようかな」 友人たちに、ごゆっくり、と当家の主の顔を見せ、清四郎は食堂を出た。 広いテーブルでくつろいでいた仲間たちは、複雑な表情を浮かべる。 「参加ってねぇ・・・あいかわらず食えない男だわ」 「清四郎は無神経なんですわよ」 「女二人、何してるんだろうねぇ」 「何って、拳法の稽古だろうが」 「拳法の稽古って、殴りあったり蹴りあったりなんでしょう?」 「エスカレートしなきゃいいけど」 「花凋はそんなタイプじゃないさ。芯は強いけれど控えめで、中国人にはめずらしいタイプだよな。ほんと、いい娘だよ。もったいない」 美童の嘆息に、可憐は苦笑する。 「美女を見ると目の色変えるあんたが、花凋にはまったくアプローチしないのね。報われない恋をしてる花凋を、あんたが慰めてあげれば?」 「よしてくれよ」 美童は優雅な仕草で紅茶を口につける。 「花凋は昔から、清四郎しか目に入っていなかったしさ。それに、僕はそういうのは卒業したんだよ」 「そういうのって?」 美童は薄く微笑した。 カップ越しに、片目をつぶって見せる。 穏やかな微笑み。 答えない彼に、友人たちは首を傾げた。 「なによ?」 可憐にも美童の笑みの意味はわからない。 このときは、まだ。 清四郎は自室に向かうよりも先に、中庭へ足を向けた。 道場の扉が開き、中から花凋が出てくるところに行合わせる。 「おはよう、花凋」 「・・・清四郎」 直射日光が目に入ったのか、花凋は少し眩しそうに目を細めた。 少し瞼が赤く腫れているように見えた。 「朝稽古は終わりですか。悠理は?」 「悠理はまだ中よ。私はそろそろホテルに戻るね」 「食堂にみんな集まってましたよ。食事して行ったら」 「謝々。でも、ボスが寝てる間に、秘書と打ち合わせしなきゃ」 「打合せね。やはりただの通訳で終わる気はないんですね。さすがの上昇志向だ」 「諦めるな、と言ったのは清四郎でしょう。裏世界出身の私が良い就職先を見つけられなかったときに」 「それと、芽台(マオタイ)の下剤騒動のときに、ね」 プ、と顔を見合わせて二人は吹きだした。 あの時は深刻な事態だったが、思い出は楽しい色に彩られている。 笑いながら、花凋の目尻には涙が滲んだ。 「私、あの言葉のおかげでがんばれたんだよ」 「花凋の力ですよ」 「おかげで、今日は日本、明日は北京、ベルリン、ダブリン・・・飛び回る生活よ」 「ヤオ氏は総帥に就任したばかりですからね。ま、僕も似たような生活だが」 清四郎は苦笑しながら、左手の薬指を回した。 無意識の癖。 「じゃあ・・・悠理のもとには、あんまり帰れないのね」 「おかげで、二度も離婚されました」 「に、二度?!」 花凋の驚いた表情に、清四郎は意外そうな顔をする。 「おや、あいつらに聞いてないんですか?恥ずかしながら、僕らの離婚は二回目ですよ」 言葉と反対に、まったく恥ずかしげもなく、清四郎はサラリと告げる。 唖然と花凋は清四郎の顔を見上げた。 「そういえば、悠理は二つ指輪を持ってたね・・・」 「ああ、ネックレスででしょう。首狩族の戦利品みたいにコレクションしてるんでしょうよ、あいつのことだから」 清四郎は自分の首に手刀をあてて見せた。 「毎度バッサリ落とされてますよ」 花凋も眉を下げ、苦笑を浮かべた。 「でも、清四郎も懲りないね?・・・ずっと、諦めないんだね」 ――――まだ時間はある。生きている限りは、諦めるな。 それが、かつて清四郎が花凋に言った言葉。 「諦める?何をです?」 清四郎は肩を竦める。 彼にとっては自然なことなのだ。 悠理のそばにいることも、この迷走さえ。 花凋は清四郎に微笑を向けたあと、きゅ、と唇を結んだ。 「じゃあね。私、もう行くよ。・・・さよなら、清四郎」 それは、とても小さな声。 花凋はそのまま駆け出した。一度も、清四郎を振り返らず。 清四郎は道場の扉を開けた。 板の間の真ん中で、扉に背を向け悠理はペタンと座り込んでいた。 「ただいま、悠理」 清四郎のかけた声に、悠理の肩がピクンと揺れた。 だけど、悠理は振り返らない。 「悠理?」 清四郎は道場の中に足を踏み入れる。朝の陽の差す道場の空気を胸に吸い込んだ。 この清廉な空間が、清四郎は好きだった。 悠理は少し肩を落とし、両足を投げ出すように座っている。 「どうしたんだ?花凋と朝稽古をしたんでしょう。おまえはてっきり喜んではしゃいでいると思ったんだが。まさか、一方的に負けでもしたんですか?」 「・・・・。」 悠理はまだ動かない。 「花凋はおまえの敵じゃないだろう?」 長年拳法の修行を積んできたとはいえ花凋の実力では、悠理の動きを捉えることはできないはずだった。 彼女を捕まえられる者はいない。 清四郎でさえ。 悠理は首を振った。 「花凋は・・・」 うつむいたまま呟かれた悠理の語尾は消えた。 「どうしたんですか?」 清四郎は悠理に近づく。 背後に立ち、華奢な肩に手を掛けようとした清四郎の手が止まった。 悠理の肩がわずかに震えていたから。 悠理はうつむいたまま、ぽつりと呟いた。 「知ってた?花凋は、おまえに恋してるんだ」 清四郎は一瞬、息を飲み。そして、ゆっくりと吐いた。 「・・・そのようですね」 いくら鈍い清四郎とはいえ、花凋の素直な想いは気づかずにはいられない。 それでも彼は友人としての態度を変えはしなかった。 「そんでも、花凋は言うんだ・・・」 「なんて?」 清四郎の問いかけに、悠理はうつむいたまま、ゴクリと唾を飲み込んだ。 「あたいも――――だって。おまえのこと」 ――――彼を愛してないの? 花凋のその問いかけに。 悠理は何も言えず。動くことすらできなかった。 ――――泣くほど好きなら、嘘なんかつかないで! 怒気をあらわにした花凋に、そう言われて初めて。 悠理は、自分の頬を伝う涙に気が付いた。 清四郎はもう一度ため息をついた。 「・・・そうかも、知れませんね」 男の返事に、悠理は初めて顔を上げた。 キッと清四郎を睨み上げる。 潤んだ瞳には怒りの色。 「なんで、あたい自身が知らないこと、おまえが知ってるんだよ!」 悠理自身が気づいていなかった想い。それなのに、清四郎は知っているという。 それでも彼の態度は変わらない。 「なんでだよ!」 悠理の目尻に溜まった涙が零れ落ちた。 悔しくて、悔しくて。 「悠理より、脳みその皺が少し多いんですよ」 清四郎は笑みを浮かべる。だけど、それは意地悪な笑みではなかった。 困惑したような、照れたような笑み。 「もう何年、一緒に居ると思うんだ?おまえが、嫌いな男と何年も暮らせると?」 清四郎のその言い草が、悠理は悔しくて、悔しくて。 「それで、なんだって泣いてるんです?」 首を傾げて問う清四郎から、悠理は顔をそらせた。 「・・・言っとくけど、おまえのことは、かーなーり、嫌いだからな!」 意地っ張りの悠理。 だけど、それは本当だった。いつでも清四郎の知ったかぶりと傲慢さは、彼女を苛つかせる。 「ハイハイ、それも承知してますよ」 「って、おまえ何ひっついてんだよっ」 清四郎は悠理の背後から腕を回し、彼女を抱きしめていた。 「あたい汗びっしょりなんだ、くっつくな」 「僕だって朝帰りで疲れてます。一緒に風呂に入りましょう」 それはいつものふたりの習慣だったのだけど。 「風呂の後は一眠りといきたいですな。・・・一緒にどうです?」 清四郎は悠理の耳たぶを口に含んだ。 「おまえの汗の匂い・・・そそられるな」 その声に含まれた、明らかな欲望。 「つ、疲れてるんじゃないのかよっ!」 「適度に疲れてると、よけいに、ねぇ?」 「なにが、ねぇ?だっ!花凋が知ったらショック受けるぞ!おまえがこんなドスケベエって知らないだろうから」 「悠理以外は、誰も知らないでしょうね」 清四郎はクスクス笑う。 「おまえ以外の誰も、知らなくていいです」 甘いささやき。 低い声は、思いのほか真剣な言葉に聞えて。 だけど。 悠理は流されたくはなかった。もうごまかせなかった。 「ふざけんな、いい加減、離せってば!」 「ダメです。離しません」 清四郎は悠理を抱きしめたまま立ち上がる。 腕に拘束されたまま、悠理の体が床から浮いた。 「おまえが、もう一度僕と結婚すると約束してくれるまではね」 悠理は足をバタバタ振った。 「なんであたいなんだよ!おまえ、昔っからモテんじゃねーか・・・花凋でも誰でも、おまえのこと好きな奴、いくらでもいるじゃないか!」 「まさか、妬いてるのか?どうした風の吹き回しです?」 「んなんじゃねぇよ!」 悠理の目から涙が零れた。 「なら、なんで泣くんですか?」 それは、悠理が気づいてしまったから。 変わらない関係を望んでいたはずだったのに。 いつまでも、昔みたいに大騒ぎして、喧嘩して。 それでいいと思っていたのに。 爪先が板張りの床を蹴った。 「そんなに剣菱が欲しかったのか?!」 それは、これまでも何度も繰り返された問いかけ。 結婚は、双方の利害の一致による契約だった。 そこに、愛の挟まる余地はなかった。 ふたりは腐れ縁の悪友に過ぎなかった。 「なに、馬鹿なこと言ってんですか」 「馬鹿で悪かったな!どうせおまえよか脳みその皺、少ねぇよ!」 涙がポロポロ零れる。 もう、悠理はわかっていた。 愛されないことがつらかったのは、愛されたかったから。 離婚したのは、悠理が耐えられなかったから。 暴れるのをやめた悠理の足が、床に下ろされる。 だけど、抱きしめてくる腕は解かれない。 「馬鹿だから、わかんねぇよ。おまえが何考えてるのか、なんて・・・」 言って欲しかった。たった一言を。 そうしたら、信じられるのに。 清四郎のため息が悠理の髪を揺らした。 「何回、僕にプロポーズをさせれば満足なんです?」 清四郎は腕の中の体を、強引に自分の方に向けた。 「僕がどう思っているのかだって?本当にわからないのか?」 悠理は首を振る。 涙で清四郎の顔がよく見えない。 「花凋はなんて言ってたんですか?」 「・・・おまえも・・・」 悠理はそれ以上言葉を続けることはできなかった。 ――――清四郎は、悠理を愛しているよ。 花凋は哀しげな笑みを浮かべた。 悠理が否定しようと首を振っても。 その笑みは消えなかった。 「僕の言葉は信じられなくても、彼女の言葉は信じられるんだろう?」 悠理はふたたび首を振った。 「教えて・・・よ」 ようやく口を出た言葉の語尾が消える。 悠理のことをどう思っているのか。たった一言を聞きたかった。 清四郎の口から、はっきりと。 ”愛してるって、言って” どうしても口にできない言葉のかわりに、涙だけが溢れ出る。 清四郎は頬の涙を指先でぬぐい、大きな手を悠理の髪に差入れた。 近づく吐息。 清四郎の唇が悠理の閉じた瞼に落とされる。 慣れた、それしか知らない男の感触が頬をたどり。 唇をふさがれる寸前。 「・・・教えてやらない。自分で考えろ、悠理」 清四郎が小さくつぶやいた。 「わかるまで、離しません」 彼の怒ったような声音に、悠理の心が震えた。 「そして、わかったら・・・一生、離しません」 強引な口付け。心までからめとられる。 息さえできないほど、囚われてしまった。もうずっと彼の腕に捕らえられていたのだけど。 もう、ごまかせない。 もう、逃げられない。 愛されたかったのは――――愛してたからだと、知ってしまったから。 食堂の扉を開けながら、野梨子は夫と友人達に笑みを向けた。 「こうして皆でこの家に泊まるなんて、本当に久しぶりですわね。昔に戻ったよう」 「そうだな。美童も帰ってきたことだし、もっとしばしば会う機会を作ろうぜ」 旅行中の万作夫妻はいないとはいえ、廊下から見える庭では、猫とニワトリが駆け回っている。 美童と可憐もその光景に目を細めた。 「ほんと、ここは変らないな」 「いや、清四郎が屋敷の半分は最新機器で要塞か宇宙船状態にしたらしいからな。拝見させてもらわなきゃ」 そう言う魅録の目は少年のように輝く。 「要塞ねー。清四郎のことだから、悪の組織の秘密基地みたいにしてるんじゃないの。男ってのは何年経っても発想がお子ちゃまなんだから」 可憐の言葉に野梨子は同意の苦笑を浮かべた。 廊下で話していた四人は、扉の開く音に気づき、廊下の端に顔を向けた。 ゲストルームから出てきたのは花凋。 きちんとメイクをし、チャイナ襟のスーツ姿だ。 「あら、花凋、朝稽古は終わってたの?悠理は?」 花凋は少し眉を下げて微笑んだ。 「私は仕事があるので、早く上がったよ」 「日曜の今日も、仕事が入ってるのかい?」 「私、通訳だけどボディガードも兼ねているからね」 花凋は仲間達にウインク。 「時間はいくらあっても足りない。やってみたいこと、色々あるよ。チャンスはもらってる。私、がんばってみるよ」 メイクに隠された瞼がわずかに赤い。だけど、花凋は笑顔だった。 「私、もう行くね」 窓の外に目をやった花凋の眉が下がった。 「・・・清四郎には、もう”さよなら”を言ったから」 その口調に、ドキリとした仲間たちが、つられるように窓の外に目を移す。 「ま!」 「ありゃ」 「おやおや」 「なんなの、あいつら!」 呆れたように目を見張る友人たちに、花凋は手を振った。 「じゃあ、皆・・・再見!」 あわてて皆が顔を向けると、花凋はもう背を見せ、ヒールの音を立てて去って行った。 可憐が小さくため息をつく。 「しかたないわよねぇ・・・あんなの見せられたら」 窓の外には、清四郎と悠理。 「私たちにはあいかわらずの光景ですが、花凋にはショックですわね」 道場から出てきた彼らは、見ようによっては抱き合っているように見えたが。 その実、清四郎が悠理を担ぎ上げて搬送しているようだった。 「やっぱ、悠理が暴れ出したぜ」 「性懲りもなくねぇ」 悠理はジタバタ足を揺らしている。 「あ、清四郎、どこへ行く気だ?」 「池?」 清四郎は暴れる悠理を抱いたまま、中庭の中央にある池へと向かう。小さな太鼓橋の上にそのまま足を進めた。 「「きゃあっ」」 叫んだのは野梨子と可憐だったのだが。きっと悠理もわめいているに違いない。 なにしろ、橋の上で清四郎は悠理を抱いていた両手をパッと離したのだ。 そのまま池の中に悠理が落とされることを予想して野梨子は両手で顔を覆ったが、事態はそうはならなかった。 「・・・さすがだねぇ」 美童の賛辞は悠理に対してか、清四郎に対してか。 さすがの反射神経で、悠理は清四郎の首にしっかとしがみついて難を逃れた。 悠理に抱きつかれた清四郎の表情は遠すぎて見えない。 しかし、彼らには見慣れた笑みをニンマリ浮かべているに違いなかった。 清四郎は悠理の背中を満足そうにポンポン叩く。 そして、もう一度しっかりと抱きしめ直す。 悠理は彼の肩に顔を埋めたまま。 ふたりは屋敷の中に消えていった。 「「「「・・・・・・。」」」」 仲間たちはしばし言葉を失った。 「あいかわらずですわねぇ・・・」 ため息と共に吐き出された野梨子の言葉に、クスリと笑ったのは美童。 「そうかな?以前なら悠理は蹴りいれて飛び降りてると思うけど」 落とされかけてから、悠理は清四郎にしっかり抱き着いたままだった。 彼女の方こそが、離れがたく思っているかのように。 「あいつらがイチャイチャしてるのなんて、以前からよぉ」 「ああ、本人達は喧嘩してるつもりでもな」 ね、と肯いている仲間たちに、美童は彼らしくない苦笑いを浮かべる。 「確かに懐かしい光景だけどさ・・・僕らにとっても」 夫婦になっても離婚しても相変わらずの悪友の姿は、”有閑倶楽部健在”を感じさせてくれるけれど。 「だけど、そろそろ変わらなきゃならないかもね」 「美童?」 「あいつらも、僕らもね」 わずかな苦み。そして、滲み出る温かな感情。 「願わくば、幸福な未来を」 大人の男の表情で、美童は仲間たちに微笑んでみせた。 ――――そして、彼らは間もなく受け取ることになる。 傍迷惑なふたりからの、三度目の結婚の知らせを。 華やかな女性遍歴を誇っていた美童くんと、山あり谷ありの派手な結婚生活を送っていた悠理くんは、どうもお疲れモードのようです。清四郎ってばまだまだ何回か結婚離婚を繰り返すのもOKそうなんですが。(笑) |