悠理が目覚めたとき、まだ彼のぬくもりがベッドに残っていた。 「清四郎?」 目をこすりながら身を起こす。 見慣れた天井。ベッド。そこはもう何度も訪れた友人の部屋だった。 清四郎が甘やかしてくれるのをいいことに、一人で居たくない夜にはここに来てしまう。 ベッドの枕元に置いてある清四郎の腕時計で確認すれば、まだ早朝。 悠理が眠ったとき、清四郎はベッドに背を向けてまだ仕事をしていた。 ベッドがあたたかいので、彼も悠理の隣で寝てくれたのだろうけど、それはほんの数時間だろう。 少し不安を感じて、清四郎の姿を探した。 かすかに聞える水音に、安堵する。清四郎はシャワーを浴びているようだ。 悠理はもう一度パタンとベッドに横たわった。 大きな枕に顔を埋める。 わずかに香る男の匂い。 自分のものとは違う体温を感じる。 悠理はまだ暖かい布団の中で身を丸めた。 瞳を閉じると、浮かぶ顔。 忘れない、消えない、大好きな彼の姿。 だけど、痛みは感じなかった。 ただ、愛しさがつのった。 魅録の、可憐の、笑顔を思う。そして抱きしめてくれる腕を。 ただ、ぬくもりが胸に沁みた。 「おや、起きてたんですか」 風呂から清四郎が姿を現した。 「うん、おはよ」 悠理は身を起こし、バスタオルを腰に巻いただけの彼に笑いかける。 少し困ったような苦笑を清四郎も浮かべた。 「まだ早いですよ。もう少し寝てたら?」 「おまえこそ、ほとんど眠ってないんじゃないか?」 「僕はいつもこんなもんです」 ふぅん、と悠理は鼻を鳴らす。そういえば、文武両道多趣味の清四郎が、 いつの間に膨大な知識を得ているのか以前から不思議でしかたがなかった。 仲間との旅行中などは彼も皆と同じように睡眠をとっているように思うが、 悠理がこの部屋で清四郎の寝顔を見たことは一度もない。 「・・・見られてばっかだよなー・・・」 寝顔も泣き顔も、清四郎には無防備に晒してしまっているような気がする。 「悠理」 悠理の呟きが耳に入ったのか。 清四郎はますます困った顔をした。 「どうでもいいが、ちょっと向こうを向いててもらえませんか」 「へ?」 悠理はポカンと清四郎の顔を見上げた。 濡れた前髪が額を隠し、彼の顔から理知的でクールなイメージを消している。 「着替えたいんですが」 だから、照れたような顔が幼くて。 「あ、ご、ごめん!」 悠理は慌てて布団をかぶって後ろを向いた。 衣擦れの音。 清四郎のらしくないほど感情豊かな照れた顔に、心臓が跳ねた。 どきどきどきどき、鼓動がうるさい。 昔から男の部屋に平気で寝泊まりしていた悠理だから、こんな状況は毎度おなじみ。 清四郎の、というよりも、男の裸なんか見慣れているのに。 魅録なんて悠理の前で平気で着替えていた。 悠理だって、格別に何も感じることはなかった。彼の前で自分を女だと意識したことがなかったから。 頭に被っていた布団から、悠理はちらりと顔を出した。 振り返ってそっと伺うと、清四郎はまだ上半身裸でベルトを締めていた。 「なに、覗いてんですか」 清四郎はムッと眉を寄せる。湯を浴びたせいだろうが頬が染まっている。 悠理もつられるように赤面してしまった。 「も、もう着終わったかと思っただけだっ」 ぶん、と音が立つほどの勢いでもう一度背を向ける。 動悸がますます激しくなった。 不可解に高鳴る心音を、清四郎に聴かれやしないかと焦る。 清四郎の広い肩。着やせする厚い胸。 あの胸のぬくもりと鼓動を、悠理は知っている。 夢の中だけじゃなく。 初めて、悠理は気が付いた。 昨夜見た夢で、抱きしめてくれる腕が、何時の間にか清四郎に替わっていた理由。 いつだって魅録にまとわりついていた悠理だけど、あんなふうに彼に抱きしめられたことは一度もなかった。 悠理が知っているのは、清四郎の胸だけだったのだ。 すがりついたのも、泣きじゃくったのも。 「わわわわわ・・・」 いきなり、猛烈な羞恥が悠理を襲った。 頭を壁にぶつけ、手足をバタつかせ暴れまわりたい。 「悠理?」 布団を被ったままベッドの上で身悶えている悠理に、清四郎が不審そうに声をかける。 悠理はとてもじゃないが振り返れない。 何度も見た、見慣れているはずの清四郎の裸身が脳裏をよぎった。 あのたくましい胸に平気で顔を埋めていたのだ。 ほんの、ついさっきまで。 「ぎゃわわわわっ」 ついに、足りない脳味噌が沸騰し、ベッドの上で悠理は跳ねた。 布団できつく頭を覆ったまま、ゴロゴロ転がる。 「・・・・・・。」 錯乱したような悠理の行動を、清四郎が唖然と見つめている気配。 しかし、彼は悠理の奇行には悲しいかな、慣れていた。 「悠理、腹が減ったのはわかりましたから、暴れるな。まだ朝も早いから、奇声を発するのはやめてくれ」 呆れたような声に、悠理は布団の間から顔を上げた。 「ちっ・・・」 がう、と言いかけたが、タイミング良く腹の虫が、キュルルルルと自己主張。 「ったく。コンビニで朝飯調達して来ますね」 清四郎の苦笑に、悠理はふたたび顔を伏せた。 腹の虫のおかげで助かった。 だって、どうしてかなんてわからなかったから。 バクバクする心臓も、極限まで赤く染まった顔の理由も。 清四郎がカーテンを開ける。眩しすぎる朝日に、悠理は瞳を閉じた。 まだ頬が熱をもって感じられる。 「買出しに行って来るので、何か必要なものは?一緒に行きますか?」 悠理は清四郎に首を振った。 「シャワー借りて待ってる」 その言葉通り、清四郎が扉を閉めた途端、悠理はベッドから飛び降りて自分の小さなリュックを開けた。 中から歯ブラシセットと下着を取り出す。 パジャマこそ清四郎に借りたものを手足をめくり上げ使っているが、お泊りセットは万全だ。 初めてこの部屋で泊まった日の朝、同じように買出しに出かけた清四郎は、 頼みもしないのに女性用下着と歯ブラシをコンビニで購入してきた。 気が利くんだかデリカシーがないんだか、微妙に女あつかいされているあたりが、妙に照れくさかった。 なにしろ、確信犯の悠理は”終電に乗り遅れた”はずなのに、自宅からお泊りセットを持参して来ていたので。 清四郎が買ってきた無地の白いパンティは、その後一度も使われる機会がないまま、この部屋に置いたままだ。 歯を磨きながら、クスリと笑みが漏れた。 清四郎がどんな顔で女性用下着をレジに差し出したのか、想像して。 あの男のことだから、まったく平然としていたに違いないが。悠理に手渡したときの、 ほんの少し照れたような表情は、意外だった。 シャワーを浴びる。覚醒を促すはずの飛沫は、火照った体を目覚めさせてくれない。 目を閉じると浮かぶ清四郎の面影を、無理に振り払った。 彼のことを思い浮かべる。 ”バーカ” 魅録が笑いながら、悠理を小突く。 ”シャワーくらい浴びたいよな”と言った悠理を。 ”ツーリングの醍醐味は野宿だぜ。ホテル泊まってどうするよ” ぶっきらぼうな仕草で、くしゃくしゃ髪をかき混ぜる。 毛布一枚を取り合うように、一緒にくるまって。満天の星空を眺めた。 いくつも流れ星を見つけ、数えた。 そのとき何を願ったのかは憶えていない。 ただ、わくわくして。いつだって、笑っていた。 あんな日々がずっと続くと信じていた。 魅録の前では、彼が男で、自分が女なんてことを、意識しなかった。 意識したくはなかった。 だから、恋をしていたことに気づかなかった。 彼の隣が、可憐の指定席になるまでは。 涙もろくて、優しくて、あったかい可憐。身体も心も、あんな魅力的な女を知らない。 未熟でかたくなな悠理とは違う。 悠理は自分の肩を抱きしめた。 骨張った女らしさのない体。 シャワーの飛沫の下でぎゅっと目を閉じる。 瞳を閉じると浮かぶ、彼の顔。 組んだ腕の内側で、胸が痛いほど高鳴った。 劣等感も羞恥も。小さな子供のように抱きしめてくれる、あの腕の中では忘れてしまう。 離れている今の方が、意識してしまうのだ。 清四郎の前では、彼が男で、自分が女であることを、思い知らされる。 彼の優しさに甘えているだけだと、わかっているけれど。 悠理がシャワーから出ても、清四郎はまだ戻って来ていなかった。 主のいない部屋で、短い音楽が突然聴こえた。 音はテーブルに置いたままの清四郎の携帯からだった。 ほんの近くのコンビニに行くだけだからと置いていった携帯が、メールの着信を知らせていた。 「こんな朝早く・・・?」 悠理の表情が曇った。 早朝のメール。 知らない、着信音。清四郎が設定しただろう、優しい音楽。 悠理の心臓がドキリと跳ねる。 胸がひどくざわめく。 それは、予感だった。 ――――清四郎、恋してる? ――――ええ、悠理。 恋愛なんてしそうにない男だとずっと思っていたから、清四郎のその返答は意外だった。 だけど、破れた初恋に泣きじゃくる悠理を抱きしめてくれた優しい腕は、 彼もまた同じ想いを誰かに抱いているのだと、 言葉よりも雄弁に教えてくれた。 あの夜、清四郎と見上げた夜空には、涙で滲んで星など見えなかった。 自然に消えてゆく夜明けの星をさがした。 そのとき、願ったことは憶えている。 ――――幸せな恋を。 だけど、今はそれを望めそうにない。 まだ、だめだ。 まだ、ひとりにはなりたくない。 あの腕は悠理のものじゃないと知っているけれど。 喪失の予感に、悠理は震えた。 TOP |