瞳をとじて




後編


「ただいま」
清四郎が両手一杯に食料を下げて帰って来た。
「お帰りー!」
悠理は清四郎の持つ袋を笑顔で受け取る。
中身をテーブルに出していると、清四郎がメールに気づき、携帯を取り上げた。
「・・・清四郎、今日は休みって言ってたよな?」
「ええ」
清四郎はメールを読んでいる。
「仕事、入ったの?」
悠理は上目遣いに清四郎の顔を窺った。
清四郎の上司にあたる悠理の兄からだったら、帰宅後蹴りを入れてやろうと決意する。
だけど、仕事のメールならいいと、心のどこかで怯える自分がいる。
悠理は息をつめて、清四郎の返答を待った。

「・・・いえ」
清四郎は少し眉を下げて困ったような顔をした。
「仕事じゃないの?」
「ええ、どちらかというと遊びの誘いなんですが・・・」
清四郎は返信しようと携帯を持ったまま、考え込んでいる。
ちらりと悠理の顔を見る。
「な、なに?」
ドキンと胸が鳴った。
明らかに、清四郎は困った顔をしている。
「あ、あたいだったらいいんだよ!おまえが出かけるんだったら、そのまま帰るし!」
言いながら、胸が激しくざわめいた。
高揚感にではなく。

早朝のメール。遊びの誘い。
ひょっとして――――とは思っていた。

清四郎には、好きなひとがいる。そのことを、忘れていたわけじゃない。

ドキドキドキドキ心臓がうるさい。
ズキズキズキズキ不快な痛み。

思いのほか空腹は深刻だったらしい。ぎゅうう、と胃が縮む。
清四郎の買ってきたメロンパンを手にとって、悠理は封を開けた。
パクリと口に咥える。
しかし、喉の奥がつまって、飲み込めなかった。
清四郎は携帯をまだ手にしている。
逡巡していたが、メールはやめて直接電話することにしたらしい。
短縮ナンバーを押している。
また胃がしくしく痛んだ。

「あ、清四郎です。朝早くすみませんね。メールを見たもので」
清四郎は親しい相手と話すときの、リラックスした口調。
もしかして、母親か和子姉さんかもしれない、と悠理はふと思いついた。
だけど、”遊びの誘い”やメールでの連絡が彼女たちには似つかわしくない。
――――誰から?と、軽く問いかければ良かった。

「・・・ええ、ええ」
清四郎は電話の向こうの相手の話を聞いている。
「今日ですか?ええ、休みですけれど・・・」
清四郎はちらりと悠理に目を向けた。
また、ドキンと心臓が跳ねる。
悠理は無理やり笑顔を作った。
あたいのことは気にすんな、と声は出さずに、口を動かす。
声を出してはいけない気がした。

悠理と清四郎は昔馴染みの友達だけど、こうして悠理が清四郎の部屋に泊まっていることを 誤解するひとがいるかもしれない。
悲しむひとがいるかもしれない。
清四郎の――――好きなひと。

悠理は弾かれたように立ち上がった。
とんでもないことを思い出したのだ。
「パンツ!」
思わず叫んでしまった。
慌てて両手で口をふさぐ。清四郎はあぜんと悠理を見つめている。
悠理は口をふさいだまま、きょろきょろと部屋を見渡した。
清四郎の買った女性用下着。確か、清四郎は引き出しにしまっていた。
あれを、この部屋に置いたままなのはどう考えてもマズイ。
悠理は洋服ダンスに飛びつき、引き出しを開けた。清四郎の下着をかき分け探す。
「な、なにしてるんですか!」
清四郎が焦って携帯を手にしたまま追いかけてくる。
悠理は口に指を立てて、声をひそめた。
「しっ。・・・ちょっと探し物」
「いきなり何ですか、まったく!」
悠理の手から、清四郎は男性用トランクスをむしりとる。 さすがの清四郎も苦虫を噛み潰した表情で赤面していた。

携帯から漏れ出る女性の声。
デ・ン・ワ、と悠理は声を出さずに指差す。
「・・・ああ」
清四郎は左手に下げていた携帯をもう一度耳につけた。
「すみません、ええ、ちょっと」

若い女性の声だった。

悠理は引き出しをパタンと閉めた。
ざわめく胸苦しさにも蓋をしてしまいたい。

清四郎は、振り向くはずのない相手、と言った。
だけど、諦めない――――とも。

彼の想いは叶ったのだろうか。
胸はまだざわざわする。
悠理はあの夜、清四郎に言った。絶対、彼の味方をすると。
心から、幸せな恋を、と祈った。

「今日これからですか?ええ、僕はかまわないが。え?ああ・・・ここに居ますよ」
清四郎の声に、びくんと悠理は震えた。
彼女がここに来るのだ。

悠理はごくりと、息を飲み込む。
訊かなければならない。
清四郎に”おめでとう”と言ってもいいのか。
掌に汗が滲んだ。それなのに、ひどく全身が冷たい。心臓は早鐘を打っているのに。
胸に残る見えない傷痕が痛んだ。
憶えのある痛み。
それで、思い至る。

――――これは、嫉妬だ。

清四郎の幸福を、やっかんでいるのだ。
悠理の恋は破れたのに、と。

自己嫌悪に眩暈がする。自分の醜さが恥ずかしくて。
悠理は清四郎の顔を見ることができず、うつむいて唇を噛んだ。
惨めで、たまらなかった。
すぐに、立ち去らなければならないと思った。
じき、彼女がここに来るのだろう。
まだ、悠理は”おめでとう”とは言えそうにない。



********




「悠理」
清四郎の呼ぶ声に、悠理は意を決して顔を上げた。
せめて、お邪魔虫は帰るよ、と笑って告げるつもりで。
強張った笑顔の悠理を、清四郎の困惑した瞳が見つめていた。
「・・・え?」
目の前に差し出されたのは、携帯電話。
もう通話を終えていると思っていたのに、まだ通話中のサインが出ている。
「おまえにです」
「?????」
理解不能のまま、悠理は反射的に携帯電話を受け取ってしまった。
喉の奥がカラカラで疑問の言葉も口を出ない。
ただ、息を止めて電話を耳に押し付けることしかできなかった。
『悠理?』
携帯から聴こえてくる、細い綺麗な声。
「の・・・野梨子?」
やっと、声が出た。
『まぁ、ほんとに悠理が居ましたのね!』
野梨子の声は弾んでいた。
驚いて、清四郎の顔を見上げる。
清四郎は苦笑していた。しかし、困ったように眉は顰められている。

”清四郎は、恋してる?”
”ええ、悠理”
”・・・野梨子?”
”・・・いいえ”

清四郎は否定したけれど、やはり野梨子だったのかと――――悠理は誤解しかけた。
彼の憂い顔の理由を。

『悠理が清四郎と一緒に居てくれて良かったですわ。昨夜から、悠理の携帯にもメールしてましたのよ。 剣菱邸に電話したら居ないと言われますし』
野梨子は嬉しそうに話を続ける。
『昨夜、急に可憐から連絡をもらいましたの。ずっと研修に行っていた魅録が帰って来たのですって。 それで急遽報告したいことがあるから、集合できないかって』
「報告?」
『きっと、結婚の日程が決まったのですわ。魅録の仕事の都合でずっと延び延びになってましたでしょう。 ふふふ。可憐ってば、私たちに見て欲しいものがある、なんて。華やいだ声でしたわ』
「・・・結婚・・・」
悠理は鸚鵡返しに繰り返した。
巡りの悪い頭が中々働かない。ぼんやりと感情は霞がかっている。
清四郎がつらそうに顔を歪めた。
悠理を見つめる目は、心配そうに細められている。
やっと、悠理にも理解できた。清四郎は悠理の気持ちを思い、案じているのだ。

「うん、もちろん行くよ。清四郎と一緒に。10時に可憐ちだな?」
悠理は野梨子との会話を終え、電話を切った。
しばらく、手元の携帯を見つめる。
清四郎の恋人からの電話ではなく。悠理の片恋の相手の結婚を予告する電話。
悠理は顔を上げた。
強張った笑みのかわりに、先ほど清四郎が浮かべていたような苦笑を浮かべて。
「ごめん、勝手に切っちゃった」
「構いませんよ。・・・本当に行くんですか?」
「あたりまえだろ」
悠理は鼻の下をこすった。
「あいつらの新居は、引っ越しの手伝いに行ったきりだ、あたい。薄情者って、可憐になじられそうだよなぁ。 けど、今日はご機嫌だろうから、旨い昼飯にありつけるかも」
鼻の奥がツンと痛い。
もう一度こする。真っ赤になってしまうのもかまわず。
「・・・悠理、無理するな」
清四郎の大きな手が、悠理の髪を掻き回した。
「だ、だいじょうぶ!」
絶対、泣かない。彼らの前で、悠理は涙を見せたりしない。
温かな手が、何度も髪を撫でる。
目の裏側が熱くなってしかたがない。
胸の痛みは消えない。
だけど。

本当は、ずっと会いたかったのだ、幸せそうな可憐に。
以前のようにはしゃぎたかったのだ、魅録と。
ずっと変わらない、友人として。

清四郎が悠理の頭を自分の胸に押し付けた。
「無理するな」
もう一度、清四郎は囁いた。あの夜のように、悠理を抱き寄せ。

なにも悲しくなんかない。魅録と可憐が付き合いだして四年。卒業と同時に婚約し、 既に一緒に暮らしている。結婚は時間の問題だった。
とうに、覚悟はしていたのだ。

ただ、祝福したかった。心から。
もどりたかった。大好きな友達の隣に。
いつか魅録と流れ星を数え、願った望みを思い出した。
”ずっと友達でいれますように。”
魅録と、可憐と、美童と、野梨子と――――そして、清四郎と。

それなのに、どうしてだか涙が溢れそうになった。
石鹸の匂いの残る、真新しいシャツに顔を埋め。
卑怯な安堵感。
まだ、この胸は悠理を包み込んでくれる。

いつかは、何も感じなくなるのかもしれない。
だけど、今の愛しい痛みは、忘れたくない。
魅録を忘れることなんて、できない。

だけど、笑顔でふたたび会うことはできるはず。
清四郎がこうして、悠理の涙を受け止めてくれるから。
なくしたものを越える強さをくれるから。
どうしても緩んでしまう惰弱な涙腺を悠理は許した。

ただ、願いたかった。まだ、心からは願えなかった。
大好きな友達の恋が叶う日を。

力強い腕が勇気をくれる。
瞳を閉じても、感じられる。
あの日、見てた星空。
願いをかけて、ふたり探した光。
清四郎の、深い黒い瞳。
心も体も、愛おしさに震える。
悠理の胸の中に空いた穴に温かな何かが満ちていった。
溢れるのは涙だけでなく。

「清四郎・・・」

”ありがとう”の言葉は言えなかったけれど。
笑みと共に、唇は彼の名を紡いでいた。
安堵感が胸を詰まらせる。
心のどこかで、この温かな胸が自分のものではないことを知りながら。

ひどく切ない旋律は、清四郎の心音。
誰かを愛している鼓動が――――聴こえる。









2005.4.16

平井堅の「瞳をとじて」だと、清四郎くんの歌詩なんだけど。前回の「一途な夜、無傷な朝」が清四郎だったので、 今回は悠理ちゃん視点です。初恋は一生忘れられないと思うので、このシリーズはそれぞれ片思いで 終わるつもりだったんですが、なにやら悠理ちゃんはグラグラ揺れてる模様。書き手の清四郎贔屓が 如実に出てしまったようです。(笑)
次のお話でシリーズ完結させられるかな?有閑倶楽部久々の再会編。


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