もう恋なんてしない
後編
朝日の中。
悠理が目覚めて階下に降りてきたときには、家の中は静まり返っていた。
人の気配のない広いリビング。
昨夜飲んだボトルや瓶は片づけられ、台所も片付いている。
「清四郎・・・?」
声をかけては見たが、応えはなかった。
二階の寝室も、下の和室も、人の寝た形跡はなかった。
「美童、そういや今朝は早く出るって言ってたっけ。帰っちゃったのか・・・」
この家も駅からは近くない。以前清四郎の住んでいたマンションとは随分距離があったが、
駅を挟んで反対側に位置し、最寄り駅は同じ。
カーテンを開けて覗いて見れば、ガレージから車が消えていた。
清四郎は美童を送って行ったのだろう。
悠理は洗面所へ向かった。
顔を洗って、歯を磨く。
静かな休日の朝。
清四郎が出張のときは剣菱邸に帰っていたので、悠理がこの家でひとりになったことは
ほとんどなかった。
あまりの静けさに、不安になる。
だけど、清四郎の歯ブラシはきちんと悠理の赤い歯ブラシの隣にあった。
ほっと息をつく。
「・・・お腹へった」
時計を見れば八時半。悠理は台所へ朝食を物色しに入った。
じき清四郎ももどってくるだろうから、朝食を作って待つことにする。
清四郎がいないからといって、何もできないなんて思われたくはなかった。
忙しい上に案外とものぐさな清四郎は、なにもかも面倒を見てくれるわけじゃない。
この家にハウスキーパーは週二回入っているが、悠理だって、食事の用意や洗濯掃除、
身の回りの家事をすることもあるのだ。
悠理が家を出た理由のひとつは、自活できるようになるためだった。
いつまでも、子供のままではいたくないから。
コーヒーメーカーのスイッチを入れ、ヤカンを火にかける。
朝は清四郎はコーヒー。悠理は紅茶。
悠理はどっちだっていいのだが、清四郎いわく、朝の弱い悠理はカフェイン量の多い紅茶の方が
目覚めがいいらしい。剣菱家でいつもそうだったせいもあるだろう。
「あり?」
だけど、その紅茶の葉の在処が分からなかった。
コポコポとコーヒーメーカーから良い香りが漂う。
飲み物はコーヒーにすることにして、いつものマグカップを出した。
ヤカンを下ろして熱していたフライパンに、バターと卵五個を割りいれた。
冷凍庫から野菜ミックスを取り出し、適当に混ぜいれる。
あっという間に野菜入りスクランブルエッグが完成。
トースターがポンと景気のいい音を立て、パンを吐き出した。
「完璧じゃん」
カウンターに朝食を並べる。
スツール椅子に座って、悠理は笑みを浮かべた。
清四郎はまだ帰って来ない。
「いいもん、先に食べちゃうもんね」
自分のマグにコーヒーを入れて、スクランブルエッグにケチャップをかけた。
目にも楽しいカラフルな色合い。
清四郎はちょっと目を離すと、朝はカロリーメイトで済ましてしまう。
いつも悠理がブーブー文句をつけてきちんと朝食を摂らせているのだ。
菊正宗家のように味噌汁の朝食とはいかなかったが。
「・・・うげ。凍ってる・・・」
しかし、悠理の作ったスクランブルエッグはあまりおいしくなかった。
悠理は無言でガツガツとたいらげる。
清四郎が作ったのなら、文句も言えたのに、と思いながら。
*****
ガレージに排気音。
悠理は席を立って窓辺に駆け寄る。
車が入るのを確認して、玄関に向かった。
一緒にいる間は、窮屈にさえ感じる口うるさい男なのに、こんな時には思い知らされてしまう。
離れたくないのは、一緒にいたいのは、悠理の方なのだと。
恋をしているのは、悠理の方だけなのだと。
ほんの少し彼の姿が見えないと、不安になってしまうくらい。
清四郎が玄関の鍵を取り出すより先に、悠理が扉を開けた。
驚いたような清四郎の顔。
「・・・美童、帰っちゃった?」
悔しいから、”お帰り”とは言わなかった。
「・・・ええ。”よろしく”と伝言です」
清四郎は両手に紙袋を抱えていた。
袋からはみ出た長いフランスパン。悠理の好きなバケットだ。
「駅前のパン屋に寄ってたんですよ。悠理、あそこのサンドイッチ好物でしょう」
「食う!」
悠理は紙袋を受け取り、台所に向かった。
「あれ?朝食、もう食べたんですか?」
流しに置いてある汚れた皿とフライパンを見て、清四郎は首を傾げた。
「うん、おまえ遅いんだもん」
悠理は清四郎のマグカップに少し煮詰まったコーヒーを注いだ。
物持ちの良い清四郎のマグは、高校時代から倶楽部で愛用していたウサギ模様。
悠理のシンプルなグリーンのマグよりも、おちゃめで可愛い。
二つ並べると、持ち主は逆のようだが、清四郎はこういうことに頓着するタイプではない。
「すんごくおいしい卵料理作ったんだけどさ、おまえの分も食っちゃったよ」
少しだけ、嘘。
「おや、それは残念」
清四郎は食べられるかとは訊ねもせず、悠理の皿にサンドイッチを盛った。
バケットも手早くスライスし、オーブンに入れている。
悠理はさっそく皿に手を伸ばした。
食パン二枚と卵五個分なんて、悠理にとっては食べた内に入らない。
ヤカンを火にかけ、紅茶の缶を棚の上から取り出している清四郎の姿を目で追った。
「あれ?」
悠理はやっと、清四郎の顔の傷に気がついた。
紙袋に気を取られて、清四郎の顔をちゃんと見ていなかったのだ。
「おまえ、どうしたんだ?それ」
口の端が、赤らんでいる。少し切れているようだ。
清四郎は自分の皿を手に席についた。
真正面から見ると、はっきりわかる。
昨夜はなかった傷。目の下の隈。少しやつれてさえ見える清四郎。
「・・・可憐にやられたんですよ」
「はぁ?」
悠理は食事の手を止めた。
カウンターを挟んで向かい側に座った清四郎と、悠理の目が合った。
清四郎は苦笑していた。
「今度は、グーで殴られたんです」
清四郎はスツールに座ったまま、ポケットから小箱を取り出した。
「これを引き取りに行ったときに」
悠理の目の前に置かれた、銀色の箱には見覚えがあった。
あの、指輪の入った箱。
永遠を誓う、ダイアモンドの。
昨夜、清四郎は一睡もしていなかった。
美童は黙って付き合ってくれた。あれ以上、悠理の話はしなかったけれど。
清四郎の中で、結論は出ていたのだ。もう随分前から。
「な、なんだって、また・・・」
「朝早くから叩き起こしたので、ただでさえ可憐は不機嫌だったようで。避けようにも、美童に
後ろから羽交い締めされましてね」
「そうじゃなくて!」
悠理は銀の小箱を、清四郎の方に押し戻す。
清四郎はその悠理の手をつかんだ。
悠理は息を飲む。
「悠理、もう一度言わせて下さい」
強い意志を宿した瞳。
「これを、受け取って欲しい。そして、すぐでなくていいから、いつか・・・
僕と結婚してください」
*****
ヤカンが沸騰し、甲高い音を立てた。
朝の光がさんさんと降り注ぐ気持ちの良いリビング。
机の上には朝食の皿。片手には齧りかけのパン。
もう一方の手を清四郎に握られたまま、悠理は凝固していた。
片手のぬくもりがふいに消えた。
立ち上がった清四郎が、コンロの火を止めている。
慣れた手つきでミルクティーを作り、悠理のマグに注いだ。
「はい、紅茶」
悠理は真っ白になったまま、無意識でコップを手にし。
「あちっ」
舌を火傷した。
「バカ」
清四郎は微笑んだ。
カァッと頭に血が上る。もちろん、馬鹿にされたからではない。
「・・・どうせ、美童にでもなんか言われたんだろっ!」
悠理は清四郎の胸に小箱を投げつけた。
至近距離からのそれを清四郎は易々受け止め、自ら開ける。
朝の光を、眩い反射が煌かせた。
「そうなんですけどね」
清四郎は悠理の言葉をあっさりと肯定した。
指輪の箱を閉め、席を立つ。
「美童が、おまえが恋をしている、なんて言うものだから」
清四郎はカウンターを回り、悠理に近づいた。
悠理はあわてて両手を背中に回して隠す。
以前、勝手に左手の薬指にはめられ、抜けずに困ったのだ。
「だ、だからって、なんでだよ!」
近づく清四郎から、悠理は顔を背けた。
スツールに腰掛けたまま後退しようとした悠理は、あやうく転びかける。
清四郎の腕が悠理の腰に回り、支えた。
「・・・こういうことです」
ぐ、と腰が引き寄せられた。
「え?」
至近距離に、黒い瞳。
逃げる暇もなく、腕に捕らえられ。
なにか言おうとする唇をふさがれた。強引な口付けで。
以前の、悠理からのそれとは違い、傍若無人な男のキスは深く激しかった。
息もできないほど。
侵入する舌はゆっくりと口内を犯す。
頭の芯が痺れ、思考は奪われた。
無意識に逃れようと竦む体も、抱きしめられ動けない。
「・・・・んんん」
自分勝手な男らしい、乱暴なキス。
「や、やめ・・・」
悠理は力の抜けた手で、男の胸を叩いた。
唇の拘束は解かれる。
だけど、体に回された腕は解かれない。
あまりの苦しさに、涙が滲んだ。
抱きしめてくる腕の強さにではない。
勝手な男の独占欲に翻弄される、恋心が苦しくて。
「・・・悠理」
男の声は、陶酔したような熱を含んでいた。
見つめてくる黒い瞳は、懸命な色を宿している。
悠理は首を振った。
清四郎の胸をボスボス叩く。
「お、おまえ、なんなんだよっ、放せよ!」
涙があふれた。
苦しくて、苦しくて。
*****
清四郎も必死だった。
ここで悠理を放してしまえば、二度と捕まえられない。
気づいてしまった想いは、もう誤魔化せない。
やみくもにぶつけた感情。
このままでは、怖れていた結果になってしまう。
悠理を失ってしまう。
「まさか本当に・・・好きな男がいるのか?」
声が震えた。
胸が抉られる。
悠理の強張った体に、拒否する言葉に、浮かんだ涙に。
悠理はただ首を振り続けていた。
大きく見開いた目から涙が次から次に零れ落ちる。
「あ、あたいに他の男を好きになる余裕が、どこにあるんだよっ!」
悠理は激昂した。
「こんなに振りまわされて、がんじがらめにされて!
おまえのことばっかり・・・おまえのことだけしか考えられないのに!」
泣き喚く悠理を、清四郎はふたたびきつく抱きしめた。
愛しくて、苦しくて。
乱高下する感情。
こんな感情など知らないと、言ったばかりなのに。
この胸の痛みが、恋なのだと、はっきりわかった。
理屈ではなく、実感で。
「もう、恋なんてしないなんて言わない・・・悠理、おまえを愛してる」
暴れていた悠理の動きが止まった。
「・・・うそ」
涙声で小さくつぶやかれた言葉に。
「僕の、恋人になって下さい」
そう告げると、悠理の体から力が抜けた。
*****
茫然自失状態の悠理を、清四郎はリビングのソファに座らせた。
ずるずる崩れ落ちそうな体は、かろうじて清四郎の腕で支えられている。
「悠理」
名を呼ばれ、悠理は清四郎を見上げた。
頭の中が真っ白で、なにも考えられない。
信じられない。
清四郎の表情が曇った。
「僕の言葉が、信じられませんか?」
悠理の思考を読んだような言葉は、甘く愛しげな声音。
体に回った清四郎の手に力がこもった。
放したくないと、雄弁に。
もっと、清四郎の顔を見ていたいのに、涙でまた視界がかすんだ。
「・・・だって、おまえ・・・あたいのこと女なんて思ってないじゃんか」
幼稚な独占欲で拘束する男。それでも、そばにいたいと思っていた。
恋は、いつでも届かなかった。
そのはずだった。
「ごめん、悠理。僕が臆病だったから、おまえを傷つけてたんだな」
いつでも自信に満ちた清四郎に、臆病という言葉はそぐわない。
そしてそれを認めた男に、悠理は驚いた。
「ずっと、自分にまで嘘をついていました。男としておまえを愛してると気づいてしまえば
・・・引き返せないから」
清四郎の手が、悠理の頬を包む。
「もう、完敗を認めます。僕が馬鹿だった」
ふたたび悠理に唇を寄せ、清四郎は熱く囁いた。
「おまえに、恋してる。どうしていいのかわからないほど」
ふさがれた唇。深い口付け。
だけど、もう苦しくはなかった。
信じることができたから。
愚かさを告白した、男の心を。
*****
それから。
ふたりの生活はほとんど変わらなかった。
ふたりの関係は、ゆっくりと変わっていったけれど。
友人たちを喜ばせ安堵させたのは、悠理が取り戻した無邪気な笑顔。
そして、左手に輝くダイアモンド。
恋に不器用な男が、照れた顔さえ見せるようになったこと。
もう、離れることはないと思っていた。
恋を知らなかった頃から、おたがいを必要としていたふたりだから。
*****
数年後。
清四郎は主のいなくなった部屋を見渡し、ため息をついた。
シュワルツネッガーのポスター。
大きな必勝ダルマ。
ポリネシアの仮面。
わけのわからぬ、悠理の残した物体の数数。
彼にとっては、無駄なものばかり。
とりあえず壁からポスターを剥がした。クルクル巻いて片づける。
ガラクタばかりだとはいえ、捨ててしまうわけにはいかない。
そこにもここにも、悠理の気配を感じた。
笑う彼女、怒る彼女。
ふたりで暮らしたこの家には、どこもかしこも思い出が染み付いている。
人気のない静かな室内は、この数年間で清四郎が得たものと失ったものを、思い出させた。
気の置けない友人。よく懐いていた大型犬。
そして、清四郎を魅惑した、永遠の恋人。
過ぎた年月が胸を過ぎる。
ローベッドの隣の棚に、銀色の小箱を見つけた。
清四郎の贈った指輪。
これのおかげで、可憐に二度も殴られた。
「・・・こんなものまで、置いていったのか?」
さすがに顔をしかめて、蓋を開けた。
中には、輝くはずのダイアモンドはなかった。
「清四郎、手伝いましょうか?」
小箱を見つめじっと立っていた清四郎に声をかけたのは野梨子だ。
「いえ・・・ありがとう野梨子。二階は僕一人で大丈夫です」
「でも、下はもう終わってしまいましたわ。可憐と魅録ももうすぐ戻ってきますし、お茶でも煎れましょう」
野梨子は疲れた顔ひとつ見せず、階段を降りていった。
らしくなくセンチメンタルになっている自分に、清四郎は苦笑した。
悠理が去ったこの部屋には、もう用はない。
清四郎は思い出と共に、小箱をダンボールに放り入れた。
ダルマの隣にそれはポスンと収まった。
悠理がダイアモンドをどうしてしまったか、清四郎は知らない。
もうずいぶん前から、彼女の左手からはそれは消えていた。
代わりに、嵌まっているのはプラチナの指輪。
清四郎は自分の薬指に目を落とした。
悠理とともに選んだ指輪は、やはりジュエリーAKIで。
「清四郎、悠理から差し入れ預かってきたぞー!」
「あの子ってば、山ほどおむすび持たせるのよ。誰がこんなに食べるのって言ったんだけど。
自分を基準に作らないで欲しいわ〜!」
ドヤドヤ階下から、魅録と可憐の声が聞えてきた。
「きっと僕の好きな梅干しばかりですよ」
引越しを手伝って剣菱邸とこの家を往復してくれた友人たちは、清四郎の臆面もない惚気に顔を
しかめる。
はたして、家具のなくなったリビングの床には、風呂敷きの上に形の悪いおにぎりが大量に並べてあった。
臨月の身重の妻が懸命に作ったと思しきそれに、清四郎は微笑を浮かべる。
結婚してからもこの家に住んでいたふたりだったが、悠理の出産を機に、剣菱家に居を移すことにした。
実家に帰った悠理恋しさに、引っ越すことにしたんだろうと、仲間たちにはからかわれた。
臨月の予定日寸前まで忙しさを理由に何もしなかったためだ。
たしかに、彼女と離れると、どうも落ち着かない。
仲間たちが集っているのに、家の中がガランと眺めが良すぎる。
それは、想いを自覚する前から、ずっとそうだったのだけれど。
清四郎は不格好なおにぎりを頬張った。
梅干しの酸味に目を細める。
あちらで彼を待つ日々は、剣菱家のとんでもない個性的な一族との生活。
そこに新しい家族も増える。静けさを愛する清四郎には慣れない、にぎやかな日々だろう。
だけど、以前は不要だと思っていた無駄なものに囲まれて生きることこそが、
”幸せ”なのだと、彼はもう知っていた。
妻になってもなお彼を惹き付けてやまない、たった一人の恋人が教えてくれた。
そばで過ごした長い年月。
友人として、恋人として。
そうと気づかず、求め合って。
家族となった今も、想いが変わるはずもない。
出会ったときから、ずっと惹かれていた。
だからもう、恋なんてしないなんて言えない――――絶対。
2005.1.24
ひょえええ・・・まさか臨月で終わるとは、書くまで思いもしませんでした〜〜!
ニブニブ男が自覚すれば一転、押せ押せ男に。清四郎を苦しませるために付けたタイトルなんですが、
ものすごく幸せそうですな。
最初の構想では、悠理に去られて初めて恋に気づく、という話にするつもりでした。
”ふたりで出せなかった答えは 今度出会える 君の知らない誰かと 見つけてみせるから”というオチには
すまい、くらいには思ってましたけど。しょせん、清四郎ファンなんです、私。奴に甘い。(笑)
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