野梨子と魅録が帰った後。 悠理は依然として少年の姿の夫に、おそるおそる切り出した。 「・・・ごめん、清四郎。あたいが原因かも知んない・・・」 「どういうことですか?」 仕事に夢中の清四郎に寂しさを感じ、『優しくて素直だった昔の清四郎に戻ればいいのに』と望んでしまったことを告白する。 眉をひそめて悠理の言葉を聞いていた清四郎は、腕を組んで頷いた。 「成る程。それが原因でしょうね。ま、どうせ超常現象は霊感体質のおまえが原因だろうとは思ってましたから、別にいいですよ。・・・しかし」 少年は唇の端を上げる。子供の顔に似つかわしくない、皮肉な笑み。 「つくづくおまえは、今の僕よりも昔の僕が好きなんですね。自分がライバルとは笑えませんな」 悠理は清四郎の言葉に頬を染めた。 「だ、だって、ホントにおまえってもっと素直だったし・・・」 長い間、悠理と清四郎は悪友だった。 せいぜいペットと主人。いつも清四郎は悠理をバカにし、からかって。 意地悪な清四郎の態度には、野梨子だって、何度か呟いていたではないか。清四郎も昔は優しかったのに、と。 そんな関係から、一足飛びに恋人同士になり、またまた一足飛びにスピード結婚してしまった。 そして結婚して一年。清四郎との時間は、有閑倶楽部の部室で暇をつぶしていたときよりも、少なくなってしまったように感じる。 悠理は切ない思いで、清四郎を見つめた。 愛しているから、結婚して。愛してるから、一緒に居る。 清四郎の心を疑ったことはないけれど、淋しいと感じてしまう。 「ごめん、清四郎・・・」 頼りなげな少年の姿になってしまった夫を、悠理は抱きしめた。 自分が我がままなのは分かっていた。彼に、許されたかった。 少年の身長は悠理の肩までしかない。 清四郎は、驚いて少し目を見開いたが、組んだままの腕を解かなかった。 その腕は、ふたりの体の間に隙間を作る。 もしも。 もしも、このとき、清四郎が悠理を抱きしめていたら。 その後の事件は起こらなかったかもしれない。 だけど、いまの清四郎の腕は、悠理を抱きしめるのには小さすぎた。 悠理が無意識下で望んだ、あの日の14歳の彼よりもなお。 悠理が身を離したとき、清四郎は彼女の視線を避けるように、顔を逸らせた。 まだ両腕は胸の前できつく組まれている。 「・・・そりゃあね、いつまでも真っ直ぐな子供のままではいられませんよ」 純真な子供そのものの姿で、二十歳の清四郎は吐き捨てた。 「だいたい、初めて好きになった女がとんでもなかったから、こんな性格になったんですよ。ご承知の通りね」 思いを伝え、体を重ね――――そして、たった一夜で彼の前から消えた恋人。 ずっと好きだった同じその女が目の前にいるのに、恋を伝えることもできず。 悪友としてしかそばに居られなかった。彼にとっては、長すぎる五年間だった。 抱きしめることができなかったその腕を、清四郎はきつく押さえつける。 子供の体のまま、悠理に触れたくはなかった。 衝動を抑えつける。 女の体になったときでさえ、悠理に欲望を感じずにはいられなかった。 体が求めるのではなく、心が悠理を欲しているのだとは分かっていた。 心を隠すのには、慣れている。 彼女を守ることもできないこんな体で、悠理を抱きたくはなかった。 「・・・どうして、この姿になったのか、分かりましたよ」 「それは、あたいが、」 「ええ、多分ね。でも、それならどうして14歳ではなくて、十歳なのか」 清四郎は悠理に顔を向けた。薄い笑みを見せる。 悠理は清四郎の笑みに、安堵の表情を浮かべた。 悠理を責めるつもりなどないのに、不安がらせていたのかと、清四郎は気づいた。 確かに、清四郎は気持ちを伝えるのが上手くない。 雄弁家で、人を丸め込むのはお手の物のはずの彼が、どうして彼女に対してはこうも不器用になってしまうのか。 あまりにも長かった片恋の弊害。 「さっきも言ったように、僕がおまえを異性として初めて意識した頃だからでしょう。 ・・・なんの邪心もなく欲望も知らず、可愛い片思いをしていましたよ」 せめて、少年の日の気持ちのまま、彼女を見つめたかった。 それなのに、今の清四郎は自嘲の笑みを浮かべるしかできない。 「我ながら呆れます。二十年も生きていて、おまえしか見えなかった・・・おまえだけに、囚われていた」 ずっと、好きだった。 長い長い片思い。やっと捕まえた恋。 愛しているから、結婚したのに。幸せに酔いしれ、満足していたのは自分だけかと思うと、少し淋しかった。 悠理は同じ気持ちではなかったのだ。 「清四郎・・・」 悠理は潤んだ瞳で、清四郎を見つめた。 抱きしめたくなるほど幼いのは、彼女の方だ。 ずっと、変らずに。 だけど、もう清四郎の心は純真な少年などではなかった。 「とことん、僕らの恋愛には障害がつきものなんですね」 どうしても、笑みには苦い色が混じる。 ため息が漏れる。 「でも、おまえのようにタイムスリップしたのじゃなくて良かった。以前読んだ小説で、何度も青春時代に心だけ タイムスリップする男の話がありました。僕は体だけ戻っただけで、時間を遡ってはいない」 時間を遡って、もしも、もう一度あの日に戻ってしまったら? 14の歳のあの夕暮れ。 それとも、十歳の頃の屋上。 もしかしたら、幼稚舎の入園式にまで。 遡る思い出。 「小説では、男は何度も人生をやり直します。いくつもある人生の分かれ道で、違う選択をして」 出逢った頃にまで戻ってしまったのなら。もう一度人生が始まるのなら。 「もしも、僕も以前の悠理のように、心だけが時を遡ってしまい昔に戻ったとしたら・・・」 清四郎はまだ両腕を組んだまま、遠くを見た。 悠理を通り越して、彼方を見つめ。 ひとり言のように、ぽつりと呟いた。 「きっと、同じ選択はできそうにありません」 悠理はその清四郎の言葉に目を見開いた。 「え?」 ある日、目覚めたらそこは過去の世界。それはかつて悠理の身に起こった不思議な体験。 もしも、清四郎が子供の姿で目覚めた世界が、過去だったら。 そこに居るのは、彼を敵視する幼い頃の悠理。そして、中三でようやく仲間になって。倶楽部の皆と出会い、 大騒ぎの高校時代。 楽しかったはずの日々。 「・・・どういう意味?」 思いが通じて結婚し。同じ大学に通い。 幸せなはずの日々。 それでも。 「同じ人生なんて、真っ平です。僕はきっと別の道を探しますよ」 清四郎は悠理にそう告げた。 幼い顔に、不似合いな苦い笑みを浮かべて。 「清四郎・・・それって」 悠理の顔から血の気が引いた。 夫の言葉の意味がよく理解できないと問い返す。 「やり直したいってこと・・・?」 清四郎は小さな肩を竦めた。 「可能であればね。だけど、この通り僕は体が変っただけだ。やり直すチャンスをもらったわけじゃない」 投げやりな口調。 「どうやって元に戻ることができるのかさえ、わからない」 眉をひそめ考え込んでいた清四郎は顔を上げた。 「いや、ひょっとしたら、おまえが強く願えば・・・」 悠理に顔を向けた清四郎は、ようやく彼女の表情に気づく。 「悠理?」 無表情。 蒼白な顔からは、表情が消えている。 「・・・あたいが・・・願う?」 悠理の声からも、感情が消えている。 ただ、語尾がわずかに震えていた。 「あたいとの年月を後悔してるおまえを?元に戻って・・・違う人生を送りたいと思ってるおまえを?」 悠理は首を振った。 強張っていた表情が、くしゃりと崩れる。 涙がいきなり溢れて零れた。 「嫌だ!自由になんか、してやらない!」 凍り付いていた感情が爆発する。 「おまえなんか、ずっとそのままでいればいい!」 悠理は叫ぶと同時に、踵を返した。 「ゆ、悠理、なにを・・・!?」 清四郎が狼狽して彼女の名を呼んだときには、悠理は駆け出していた。 普段でも、全力疾走の悠理には、清四郎だとて簡単には追いつけない。 今の彼は、ほんの子供だ。 遠ざかる悠理の背に思わず伸ばした手は、情けなくなるほど小さかった。
清四郎くんの読んだ小説はケン・グリムウッドの『リプレイ』。私のフェイバリットですw 山田太一の『飛ぶ夢はしばらく見ない』
でなくて良かったね・・・。もっと小さくなっちゃうのかと清四郎くん鬱になっちゃいそうです。
|