悠理を追いかけて部屋を飛び出した清四郎だったが、すぐに彼女の姿を見失ってしまった。 子供の身には、剣菱邸は広すぎる。 この体ではとても悠理には追いつけまいと悟り、清四郎はすぐに踵を返し車庫に向かった。 窓の外は夕暮れ。 暗くなれば、野外をうろつくとすぐに補導されかねない。自由に探しに行くこともかなわない今の自分がもどかしかった。 車庫ではお抱え運転手の名輪がロールスを拭いていた。 「おや?」 見慣れない子供の姿に、名輪は目を見開く。 「こんにちは、運転手さん。僕は”菊正宗清五郎”です。従兄弟の清四郎兄さんから、車で送ってもらえって言われたのだけど、おじさんに頼めばいいのかしら?」 「清四郎様に?ちょっと待って下さいね、今確認を取りますから」 内線電話に手を伸ばした名輪に、子供は苦笑した。 「兄さんなら、悠理さんを追いかけてどこかへ行ってしまったよ」 「ああ、そういえばお嬢様が走って行かれたような・・・」 悠理が庭を駆け回るのはいつものこと。 それを追いかける清四郎の姿も、この屋敷の人間にとっては見慣れた光景だ。 清四郎そっくりの容貌(あたりまえなのだが)に、子供の言葉を疑うはずもない。 「菊正宗家にお送りすればいいんですか?それとも、他のお宅まで?」 「ああ、ええと・・・もしかして、悠理さんや兄さんがそこらに居るかもしれないので、挨拶したいからちょっと付近を回って もらえますか。それから、松竹梅さんの家まで」 「かしこまりました。坊ちゃん」 清四郎は後部座席に乗り込みながら考えた。 悠理はどこに行ったのか。 衝動的に駆け出した彼女には、たぶん確たる目的地なんてない。 ほんの近所でしゃがみこんでいるのかもしれない。 しかし、車を流して見つからなければ、魅録の助力を頼むしかなかった。 今の清四郎は一人ではなにもできない。 もどかしさと悔しさに、思わず拳を握り締めていた。 走り去る寸前の悠理の表情が脳裏をよぎる。 ”あたいとの年月を後悔してるおまえを?” 「・・・後悔、してますよ・・・」 清四郎は小さく呟く。 結婚してからの、充実した日々を顧みる。 やりがいのある仕事。 そばには、愛する妻。 すべての可能性が清四郎の手の中にあった。 目も眩むほどの、幸せだった年月。 しかし悠理は、清四郎と同じ幸せを感じていたわけではなかった。 ”・・・違う人生を送りたいと思ってるおまえを?” 楽しかった高校時代。仲間たちと出会ってからの様々な出来事が蘇る。 確かに、幸せだった。得がたい青春の日々だった。 それでも。 清四郎は、悠理と同じような幸せを感じていたわけではなかった。 もしも、もう一度時が戻れば、やはり同じ選択はできないと思う。 ”自由になんか、してやらない” 悠理の叫びが、胸を締め付ける。 「自由に・・・なったことなんか、ない」 もどかしさと後悔に、握り締めた拳が震えた。 想いを上手く伝えられない自分に腹が立つ。 悠理の涙で、彼女の誤解は知れた。 清四郎は自由になったことなんかない―――― ――――この恋から。 ずっと彼女だけに囚われ、他に何も見えず。 絶望して苦しくて。自由になりたいと思っても、なれなかった。 清四郎にとっては、つらい恋だった。 彼女へ想いを伝え幼い恋が実った、あの14の晩夏以降。 想いを隠し友人として過ごした五年間を、今彼は後悔していた。 あの時は、懼れていた。いつか戻ってくるかもしれない恋人を失うことを。 だけど、今なら信じられる。 どんなことがあっても、あの一夜がなくても、彼女は彼のものなのだ。 だから、もしももう一度時が戻ってしまったら。 清四郎は二度と、隠したりしない。懼れたりしない。 すぐに、悠理に想いを告げる。 14歳の、喧嘩っ早い同級生に。十歳の、破天荒な問題児に。四歳のときの、いじめっ子にさえ。 そして、必ず彼のものにする。 五年間もの回り道など、もう耐えられないから。 「・・・運転手さん、すみません。やっぱり松竹梅さんのところじゃなく・・・」 清四郎は行き先変更を告げた。 目的地なんかないはずの彼女の、向かう先が分かるような気がした。 車は進路を変えた。 ふたりの出逢いも思い出も、すべて詰まったあの場所へ。 悠理が聖プレジデント学園の門扉に辿りついたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。 休日の学園の門扉は堅く閉ざされ、昨今の時勢を反映してセキュリティも施されている。 なにしろ、名家の子息令嬢ばかりの学校だ。何度も誘拐され事件に巻き込まれた財閥令嬢なんて生徒もいたものだから、警備は厳重だった。 しかし、悠理はあっさり学園内に入った。 系列大学の現役の学生だからではなく、魅録の編み出したセキュリティ破りのおかげだ。 この学園の侵入口は有閑倶楽部のメンバーなら皆知っている。 警備員を避けて、悠理は暗い校舎に入った。 最初に足が向かったのは、高等部。 去年まで『有閑倶楽部』の看板の架かっていた部室は、今は普通の生徒会室として使われている。 看板はすぐに占拠した大学の一室に今では架かっているが、かつてのように全員が揃うことはあまりない。 悠理は部室の扉に額を押し付けた。 いつも涼しい顔で新聞を読んでいた生徒会長が脳裏を過ぎる。 恋人でもなく夫でもなかった頃の、意地悪な悪友。 馬鹿にした口調。冷徹な視線。 いけ好かないヤツだと思いつつも、悠理は彼を信じていた。 困った時は、必ず助けてくれると。 そして、いつだってその通りになった。 輝いていた日々。 暇をもてあまし、悪いことだってした。 だけど、楽しかった。宝石のような日々だった。 あの日々を、清四郎は否定したのだ。 涙が滲んだ。 今はもう彼らのものではなくなった扉から悠理は身を離した。 だけど、確かにあの日々は存在し、まだ色褪せない。 静かな学園内を悠理は一人彷徨った。 そこにもここにも、思い出はつきない。 記憶を辿るように、悠理は歩いた。 足は自然に中等部の校舎に移る。 中三で清四郎たちと同じクラスになるまで、悠理はいつも一人だった。 女子に人気はあったけれど、一緒に過ごす友人はなく。 軟弱で上品な学園の生徒たちよりも、外で出会った喧嘩仲間の方がよほど気が合った。 中等部で一番長い時間を過ごしたのは、屋上だったかもしれない。 あの頃友人になったばかりの魅録の影響で吸い始めた煙草を、いつも屋上でふかしていた。 三年の春に、同じクラスの委員長に嫌味を言われてやめたのだ。 『ボヤ騒ぎを起こさないでくれよ』 屋上から階段を下りたところで、いきなり声をかけられた。 ニヤニヤ笑みを浮かべ、悠理に臭い消しのガムまで差し出した男。 「ご親切に、どーも!」 悠理は髪や制服についた残り香を払った。嫌味な優等生に、イーッと歯を剥き出しながら。 まだ、仲間になる前の日々。 もらったガムをくちゃくちゃ授業中に噛んでいたら、教師に叱られた。 それでまた清四郎を逆恨みしたりしたりして。 いけ好かないヤツだと思っていた。バカにされてると思っていた。 ”僕は、ずっと悠理が好きだった” そう告げられる前までは。 最後に悠理がたどり着いたのは、小学部の校舎だった。 自然に、屋上への階段を上がる。 階段の途中で、立ち入り禁止の札が下がっていた。 児童が休み中のこの時期に校舎の補修工事をしているせいだが、それ以前から小学部の屋上は運動会などイベントの際以外は閉鎖されていた。 悠理はお構いなしに出入りしていたが。 古い校舎の屋上の鍵は内側からの閂製。昔はこれに古い南京錠が掛かっていた。確信犯の悠理は金槌持参で、よく壊したものだった。 今は工事関係者が出入りするためか、南京錠は下がっていない。 悠理は宵闇の屋上に出た。 空には星が見える。 昔はずいぶん高いところだと思っていたこの屋上は、大人になった今見ればずいぶんと小さく、空も遠い。 暗い校庭を見下ろすと、清四郎の話を思い出した。 ポプラの木を見つける。なるほど、見事に校舎側の枝が伐採され、手を伸ばしても届かない。 遠い記憶を辿った。 悠理の靴を抱えて半ベソをかいていたらしい、十年前の清四郎。 クスリと笑みが漏れた。憶えてなんて、いないのに。 オロオロ慌てる”菊正宗清四郎”なんて、想像できない。 悠理の知る彼は、いつも余裕顔で、意地悪な笑みを浮かべ。 なにを考えているのか分からない白々しい余所行きの顔。よからぬことを考えている悪魔の笑み。 情熱的な恋人としての顔も知っているけれど、この場所で思い出すのは、友人だった頃のいけ好かない笑顔だった。 なぜだか、懐かしい。 笑みと一緒に、涙も零れ落ちた。 あの頃でさえ、悠理は彼を信じていた。あの手が悠理を守るためにあることを。 本当は、気づいていた。 好きだ、と言われたから、好きになったのじゃない。 素直な思いをぶつけてくる14歳のあの少年の向こうに、あのときでさえ、悪友の姿を追っていた。 悠理も彼に恋をしていたのだ。いつからなんて、わからないけど。 もしも。 もしも、もう一度時を遡ったなら。悠理はどの時点で、どんな選択をするのか。 頭の良くない悠理には仮定の過去なんて、わからない。 ただ、どの道を選んでも、それが清四郎に続けばいいと思った。 続くはずだと思った。 人気のないはずの夜の校庭に、動く影が見えた。 「・・・え?」 小学校の校庭。工事の機材の間を走るあり得ないはずの子供の姿。 「清四郎?」 それが、清四郎だと悟るのに、時間は掛からなかった。 「悠理!」 悠理の呟きは小さな声だったはずなのに、清四郎は悠理に気づいた。 幼い顔を強張らせて、少年は必死の面持ちで悠理を見上げている。 憶えていないはずの、遠い過去にその姿は重なって見えた。 そのとき。 悠理の足元で機材が崩れた。 補修工事中の屋上から身を乗り出していた悠理の体が、一瞬、宙に浮く。 「悠理!!」 甲高い少年の絶叫。 悠理はとっさに、機材を縛っていたロープをつかんでいた。 危機を頭が理解するよりも先に体が反応していた。悠理自身を何度も救った、常人離れした反射神経。 片手でつかんだロープは、悠理の体重に耐えかねるように機材を覆うビニールシートごと外れた。 ガクンと体が揺れる。しかし、まだかろうじて落下は食い止められている。 いくつかの機材と剥がれたフェンスが三階下の地面に悠理の代わりに落ちていった。 「清四郎!」 思わず悠理が叫んだのは、助けを求めてではない。 「危ないから、そっから離れてろ!」 宙をあがく悠理の真下には、清四郎。 悠理とともに他の機材が落下すれば、彼を直撃してしまう。 「悠理、そのロープはもたない!他の機材が落ちてしまうから、手を離して飛び降りろ!」 三階建ての校舎のそのまた屋上から吊り下げられている悠理が、落下すれば無事ではすまない。 「分かってる!だから、退けってば!」 「何言ってるんですか、誰が退くんです?!」 清四郎は、小さな両手を懸命に広げた。 「大丈夫だ、心配しなくても、僕が必ず受け止めてみせます」 「受け止めるったって、今のお前じゃ絶対に無理だってーの!!」 そう。今の彼は、十歳の少年なのだ。華奢な肩に、細い腕。とてもじゃないが、落下 してくる成人女性を受け止めることなど、できそうにない。 それでも清四郎は叫んだ。 「僕はお前の夫だ!いくら身体が変わろうが、絶対にお前を受け止めてみせる!」 たとえ、腕を失おうとも――――命さえ、失おうとも。 清四郎の口に出さない言葉が、聴こえた気がした。 「僕を信じろ。何があっても、お前を守ってみせる」 悠理を安心させるように、浮かべた笑み。 子供の顔に大人の余裕の表情。余裕なんて、あるはずはないのに。 虚勢に見えない、彼らしい笑みだった。 顔貌は幼くても、地面で待ち受けているのは、たしかに清四郎なのだ。 悠理はそっと眼を閉じた。 瞳を閉じれば瞼の裏に映る面影。 懸命な少年。意地悪な友人。そして、愛する夫。 「清四郎・・・愛しているよ」 彼の言葉を信じていない訳ではなかった。でも、彼と一緒に死ねるなら、本望だと思った。 いつでも、悠理の道は清四郎へと続いている。 あの腕は、悠理を守るためにある。 おいで―――― 清四郎の声が聴こえ、悠理は自分の身体を支えていた、たった一本の腕から力を抜いた。
車で来た清四郎ちゃんは、ひょっとしたら悠理よりも先に学園に侵入してたかも。魅録の天職はやっぱり泥棒ですよね、と感謝しつつ。
名輪には「あ、お母さんだ。お母さーん」と迎えが来た小学生ぶりっ子してたに違いない清四郎の天職は、詐欺師でしょうね。(笑)
可憐には男相手のホストが天職、と原作で言われてますが、どっちがマシでしょう。 |