その人の顔を見た瞬間、清四郎は金縛りに襲われた。 覚悟はしていたのだ。 これまでの話の展開から、そこに居るのは剣菱百合子夫人ではなく、悠理――――それも母となった中年の悠理と対面することになるだろうとは。 しかし、その場に目を見開いて立ちすくんでいる女性は、清四郎の予想もしない姿だった。 陽の光を浴びて透ける蜂蜜色の柔らかい髪が、肩の辺りで揺れている。 白い陶器のような肌。通った鼻筋。長い睫毛に覆われた涼やかな目元は、確かに長年の友人の面影を持っていたが。 少年じみた友人の険のある表情とはどこかが違った。 柔らかさと深みを増した瞳。化粧気のない素肌が、ひどく艶めいて。 ジーンズにTシャツという息子と変らない服装なのに、豊かな胸元とすらりと伸びた手足が、美しい曲線を描く。 そう、匂いたつような色香が、彼女からは感じられた。 驚愕の表情で清四郎を見つめている彼女から、目が離せない。 「・・・君、ユウキくんでしたか・・・君は何歳になるんです?」 清四郎は彼女を凝視したまま、背後の少年に問いかけた。 「なに、オレ?ジューサンだけど」 「十三・・・というと、少なくとも三十代半ば・・・」 目の前の悠理は、年齢を感じさせない。しかし、見慣れた無邪気な子供の顔とははっきり違った。 眩暈のするほど美しい大人の女――――悠理が、こんなふうに成長するなど、夢想だにしなかったのに。 「せ・・・清四郎・・?」 震える紅い唇が、小さく自分の名を呟いたとき。 清四郎の体に電流が走り抜けた。頬が赤らむのを自覚する。 「悠理・・・ですよね?」 その名を、こんなに甘酸っぱい思いで口にしたことはなかった。 悠理は唖然としていたが、表情をゆっくりと変えた。形の良い眉を寄せて。 「ず、ずっりぃぞ、清四郎!!自分だけ若返りやがってぇーーーーっ!!」 怒声とともに飛び出した、品のない言葉。 「わ、若返ったわけじゃ・・・」 「若返ってるじゃねーか!てっめー、あやしい薬でも発明したのかよ!」 わめきながら、悠理は足を振りあげた。清四郎に蹴りを入れようとする。 もちろん、その蹴りを避けながら。 (――――ああ、やっぱり悠理だ・・・。) 安堵感とも落胆とも喜びともつかぬ感情を、清四郎は噛み締めていた。 「ちょっと、母ちゃん!何バカなこと言ってんだよ!」 清四郎と悠理の間に、少年が飛び出してきた。 「父ちゃんに叱られるぜ!」 少年のその言葉に、清四郎はピクリと反応する。 この少年は悠理一人で産み落としたかのようにうりふたつとはいえ。いかな単細胞の悠理でも、細胞分裂はできまい。 彼女には、夫がいるはずだ。この美しい人(ただし中身は相変わらずらしい)を、独占しているだろう男が。 先程から清四郎を翻弄する嵐のような感情。 それに、新に加わった嫉妬と羨望。 少年、悠希との会話がぐるぐると脳裏を駆け巡る。 悠希は、清四郎を『親戚』だと思い込んでいなかったか? 思考がひとつの可能性に到達する前に。 「だいたい母ちゃん、妊娠してんだから、蹴りはやめろって!」 少年が、ふたたび爆弾を投下した。清四郎の心に。 (悠理が妊娠悠理が妊娠悠理が妊娠悠理が妊娠・・・・・) 頭ぐるぐるの清四郎をよそに。 「叱られるもなにも、怒ってんのはこっちだっつの!」 悠理は片手を腰に当て、清四郎に人差し指を突きつける。 まだ締まったウエスト。あんなに細い腰だというのに、出産なんかできるのだろうか? 既成事実の彼女の息子を前に、清四郎は悠理の体をまじまじ見つめてしまった。 「ひとがさー、吐き気はするわ腰は痛いわ、久しぶりに妊婦なんつーメンドクセー事態になってるってのに、なんだよ、お前はっ!」 悠理も負けじと、清四郎の全身をジロジロねめつける。 「若返りの薬なんか作れるんなら、男も出産できる発明しろっ!大体、今度のはお前が失敗したせいだろーが! 責任とって、お前が替わって産んでみやがれ、清四郎!」 「か、母ちゃん・・・”失敗”って・・・」 思春期の息子が涙するのも構わず、清四郎に向って罵声は投げつけられた。真っ直ぐに。 ふたたび、清四郎の全身を貫いたのは歓喜の感情だった。 天にも昇る心地、というのはこういうのを言うのだ。 不機嫌顔の聖母マリアと、十三歳の思春期の天使が見える。 ふわふわと浮遊した心。 ついさっきまで、女と意識することもなく山猿馬鹿猿だとペットあつかいしていたはずの悠理に対して。 本気で”嫁の貰い手はない”どころか、”悠理に求婚するなどどこかの悪趣味な物好き”だと思っていた清四郎が。 まさか、こんな感情を持つことになるだろうとは。 ♪♪(ありがとう、神様!でかした、自分!)♪♪ という、清四郎の心の叫びが届いたのかどうか。 「どうしたんですか?騒々しい。悠理、まだ安定期じゃないんですよ。お前は悪阻がひどいんだから、安静に・・・」 母屋から姿をあらわした長身の男。 清四郎の姿を目にしたためか、語尾が消える。 清四郎は急に視界が暗く狭くなったことに驚愕していた。 さして距離があるわけではないのに、こちらに向って歩いて来る男に姿が良く見えない。 (自分同士、対面するのはマズいんじゃ・・・?) 「あ、あれ?清四郎?じゃ、こっちのは・・・」 悠理の戸惑った声がした、その瞬間。 頭の中に、パシンと破裂音。 そして腹部に、ドシンと打撃。 一瞬、目の前が真っ暗になった。見開いていた目は、瞬きさえしていないはずいなのに。 体が重く、身動きができない。 「清四郎!」 名を呼ばれ、はじめて清四郎は声の主を見上げた。 「おい、お前、今白目剥いてたぞ!」 背中に芝生の感触。腹部に重み。 横たわる清四郎に馬乗りになり、見下ろしているのは悠理。 ――――いや。 ボサボサの髪、きりりとした眉、きかん気な口元。 十代特有の弾けるような話し方。 清四郎は、無言で目の前のTシャツの胸に両手を伸ばす。 もみっ。 「・・・悠希か」 やはり、掌にはふくらみの感触はない。少年の平らな胸だ。 将来の自分の息子。 そう思うと、思わず頬が緩み、にやけてしまいそうになる。 悠理の姿を求めて、視線を彷徨わせた。 長年の友人で、彼の妻。あの、一目で彼の心を捉えた美しいひと。 「せ・・・清四郎・・・」 しかし、視界に入ったのは、すぐ横に立っていたピンク頭の友人の姿だった。 精悍な顎をカックンと外した、マヌケな顔。 見慣れた親友の、見慣れない表情に、清四郎は愕然と凍った。 おそるおそる視線を戻す。自分の腹の上に。 ”彼女”は真っ赤な顔でぶるぶると震えていた。 憤怒の表情。 「ゆう・・・り?」 清四郎の声が裏返る。 悠理は震える拳を握り締めた。 「変態いいいいいっっ!!!」 雄たけびとともに、至近距離から拳が振ってくる。 清四郎の反射神経をもってしても避けようもないそれは、張り手でもビンタでもなく、強烈な右フックだった。 ヨロヨロと清四郎が頬を押さえテラスに戻ってきたとき。 友人たちの冷たい視線が彼を迎えた。 野梨子に至っては、清四郎がドサリと腰を下ろすと同時に立ち上がって、プイと顔を逸らせる。 「・・・一瞬、気を失ってたみたいです」 言い訳じみた言葉を口にするが、潔癖症の幼馴染は当分口を利く気もないらしい。 席を外した野梨子の背中を苦笑して見送る。 「まったく、驚かせてくれるわね。あたしや野梨子にあんなことしたら、それで済まなかったわよ」 可憐が呆れ声を出した。 「どういう意味ですか?」 悠理に殴られた頬はひどく熱を持っている。間違いなく、腫れあがるだろう。 「悠理だからそれで済んだのよ。あたしや野梨子にしてたら、あたしたちはもちろん、悠理にも魅録にも美童にも殴られてたんじゃない?」 清四郎は納得の意を示し、肩をすくめた。 「僕が清四郎を殴る機会なんか、そうはないから惜しかったかな?悠理相手だから、痴漢目的じゃないとはわかったけど」 清四郎の隣でロイヤルミルクティーを飲みながら、美童はクスクス笑う。 「男としては、同情しちゃうけどね。どうせ殴られんなら、あんなまっ平らな胸触るより・・・」 ちらりと美童は可憐の豊かな胸元に視線を送った。 同意して頷き、清四郎はふむ、と掌を見つめる。 「まぁ、確かに、ぜんぜん感触はなかったですな。しっかり揉んでみたんですが」 可憐がぶんっと平手を振り回した。 「あんたたち、最低!」 清四郎は身を反らせて避ける。可憐のビンタは美童の頬に決まった。 可憐も野梨子を追って席を立つ。プンプン怒りながら遠ざかる背を、男二人は見送った。 女たちはなにやら魅録に話しかけている。 逃げ遅れた気の毒な魅録は、八つ当たりされているようだ。 「それにしても。清四郎でもそんなこと思うんだ」 美童は妙に嬉しそうだ。 「そりゃあ僕だって男ですから。ナイよりはアル方が」 言いながら、清四郎は魅録に食って掛かっている女性陣を見つめる。 友人たちの中で、悠理の姿だけが浮かび上がって見えるのが不思議だ。 胸がきゅんとする、というのはこういう状態を言うのだろう。もぞもぞ落ち着かなく清四郎は座りなおし、 無事な方の頬を頬杖をつくフリをして美童の視線から隠した。 顔が赤らんでしまいそうで。 それでも、もう少し悠理の姿を見つめていたかった。 いつもの、少年じみた友人の姿。 色気などまったくなく、山猿そのもの。 それでも。 「悠理はあんまりにもあんまりだよねぇ。あそこまで女らしくないと、ほんと、友人としては心配しちゃうよ」 美童の言葉に清四郎は反論していた。 「いえ、でもあいつも妊娠したら、胸ももう少しふっくらと・・・」 しなやかで、たおやかで。十二分に魅力的だった、未来の悠理の肢体が脳裏を過ぎる。 あれは、タイムスリップなどではなく、一瞬の意識昏倒の間に見た夢か幻に過ぎなかったのかもしれないが。 「へ?妊娠?あいつの場合、それ以前に嫁の貰い手に困るんじゃない?」 「それに関しては、問題ありません!」 思わず、きっぱり断言してしまった。 あの体験で恋に落ちたのか?それとも、知らず恋に落ちていたから、あんな体験をしたのか? この際、清四郎にはどうでも良かった。 緩みそうな口元を何度も引き締めながら、まだ悠理から目を離すこともできず。 確定した未来などではないと、理性は告げている。だけど、清四郎は確信していた。 彼女こそが、運命の相手。未来の花嫁。 清四郎は薔薇色の未来と、そこに至る過程を思い描き、ついに抑えきれずニンマリ笑った。 ――――二人目の子供は、僕に似た女の子もいいですねぇ・・・などと、夢想しながら。
清四郎ちゃん、二人目とは限らなくってよ?十三を筆頭にポロポロ10人くらい産んでたりして♪ |