前編
とある、夜。
悠理はすこぶる機嫌が悪かった。
いや、それは「機嫌が悪い」という程度では表せない。
胸糞が悪過ぎて、吐き気が込み上げてくるし、頭の芯はきりきり痛むし、
世間一般で言う「最悪」を三倍にしたくらいの気分だった。
すでに今夜もう二本空けたワインのせいなどではない。
理由は既に分かっている。分かりきっているから、余計に腹が立つ。
元凶は、あの男。
文武両道の秀才で、一分の隙もない冷徹なビジネスマンで、剣菱の後継者第一候補で、
そのくせ敵味方関係なく笑顔を振り撒く男で、同時にとんでもなく厭味な奴で、
悠理を不機嫌にさせる最大の原因。
その正体は、悠理の元夫であり、現同居人である。
この部屋で共に暮らし始めて、早数年。
今ではどちらが部屋の主か分からない有様だ。
壁を覆う巨大な書棚や、悠理には訳の分からぬ精密機器が、悠理のものだった生活空間を侵略している。
部屋には男もののコロンの残り香が漂い、その中には慣れた汗の匂いが紛れていて、それが、余計に悠理を苛立たせた。
「くそっ!」
腹立ち紛れに投げつけたクッションは、絨毯の上で可愛らしく跳ねてから、ぽよんと着地した。
そのお陰で、不機嫌がより一層酷くなってしまった。
が、ここで感情のままに花瓶や時計を投げても、余計に気が荒むだけだし、第一、そんなことをして部屋を散らかしたら、
あの男が帰ってきたとき、どんな厭味を言われるか分かったものではない。
だが、そう自分を納得させようとしても、まったく気は治まらない。
元凶は、すべてあの男――――そう、清四郎のせいなのだから。
******
同居人にも関わらず、悠理はここ一週間、清四郎の顔を見ていなかった。
何やら仕事でトラブルがあったらしく、その処理に忙殺されて、家にも戻れないらしい・・・とは、伝え聞いていた。
――――が。
今日の昼、偶然に街で出会った清四郎は、まったく忙しそうではなかった。
それどころか、妙齢の美女と、楽しげに談笑していたのだ。
しかも、ホテルのレストランで。二人きりで。
その光景が、眼に焼きついて離れなかった。
悠理がその場に居合わせたのは、まったくの偶然だった。
仕事をしていない悠理にとって、平日はすこぶる暇を持て余すもの。
しかも、いくら嫌な奴とはいえ、同居人が一週間も留守にしていれば、暇も腐る。
暇潰しに街へと繰り出し、腹いっぱい美味しいものでも食べようと、ホテルのレストランに足を踏み入れた途端、
にこやかな笑顔で美女と談笑する清四郎の姿が眼に飛び込んできた。
悠理は驚きのあまり立ち竦んだ。
そんな悠理に、清四郎はすぐに気づいてこちらを向いた。
そして、完璧な微笑で片手を上げて、久し振り、と言ったのだ。
同居人に向かって、久し振り。
いくら離婚しているとはいえ、一緒に暮らしている人間に対して、あんまりな挨拶ではないか。
まず、そこでムッときて、清四郎の連れと眼が合ったら、もっとムッときた。
彼女は整った土台の上に、完璧な化粧を施していた。モデルのような肢体をいっそう強調するラインのスーツは
毒々しいほど鮮やかで、落ち着いた雰囲気のレストランから酷く浮いていた。
彼女は眼が合ってから、まず悠理の足元から頭のてっぺんまで眺め回し、蔑むように鼻で笑ったのだ。
それから、向かいに座る清四郎に顔を寄せて、どなた?と囁いた。
悠理に女の勘など備わっているはずはないが、彼女のあからさまな敵意は感じてとれた。
問うまでもなく彼女は知っているのだ。悠理が剣菱の有名なじゃじゃ馬娘――――清四郎の元妻であることを。
ネイルアートを施した女の指先が清四郎の腕に触れている。
尖った赤い爪。猛禽類の爪のようだ。
不快感が限界まで高まり、悠理はくるりと背を向けた。
紹介しようとしたのか立ち上がろうとした清四郎を無視する形で。
誇り高く顔を上げて立ち去るつもりだったのだが、実際は不愉快極まりない二人連れからの逃走である事は自覚していた。
******
悔しい 悔しい 口惜しい
どうしてあんな女に馬鹿にされなきゃいけないんだ?
どうして、どうして、どうして?
悠理はギリリと歯軋りをした。
これはいわゆる”嫉妬”なんかじゃないはずだ。
なにしろ離婚は悠理の意思だし(そして後悔してなんかいないし)、悠理にだって言い寄ってくる男くらいいる。
最近顔を出さなくなったが、その男とは何度かデートもした。
古い友人の元夫=現同居人は涼しい顔で、悠理を送り出したものだ。
”そのド派手なセンスの服装では、エスコートする黒竜氏に気の毒ですよ”
とかなんとか、余計なアドバイスまで寄越して。
だから、悠理が奴の女関係に嫉妬なんかする義理などはない。
悠理はもう一度クッションをドアに向かって投げつけた。
クッションは、ぼよよん、と跳ね返る――――はずだった。
ぼすっ。
ぼと。
狙ったわけではない。決して。悠理は彼が今夜に限って帰宅するなんて、思いもしていなかったのだ。
しかも、悠理がクッションを投げつけたそのタイミングでドアを開けるなど。
クッションは、八つ当たりなんかではなく、正しく標的を直撃したといえる。
すなわち、ムカつきの原因たる男の顔面に、だ。
「・・・・・・・・・・・。」
清四郎は無言だ。
”ただいま”も、
”ずいぶんな出迎えですな”の嫌味の一言も、口にしない。
悠理はわずかな違和感を感じた。
ハイスピードで繰り出す悠理の蹴りも突きもいつもなんなくかわしてのける清四郎が、この時、顔面でクッションを受けたことに。
「・・・せいしろ?」
思わず、先ほどまでの苛立ちを忘れて声をかけた悠理に、清四郎は低いうなり声で答えた。
どうも、”ただいま”だったらしいそれを悠理が理解する前に、清四郎はふらふらと覚束ない足取りで悠理に近寄る。
額に降りたすだれ髪がいつもより乱れている。暗い表情、目の下の隈。
清四郎はドサリとソファに沈み込んだ。
そのまま、ズルズルと体をずらし、ついには完全に横になる。
「・・・・・疲れた・・・・・・」
クッションをふたつ抱えて(三つ目は放り投げた)ソファに座っていた悠理の膝の上に、清四郎はドン、と足を投げ出した。
「コラ、」
不機嫌の原因たる男のこの態度に、悠理の額に血管が浮いた。
悠理は膝の上から男の長い脛を叩き落した。
力なく床に落ちる足。
「・・・やっと帰れたんだ。この一週間はハードでしたよ・・・たまには優しくしてくれてもいいでしょう」
さほど明るくはない室内灯さえ目に痛いのか、清四郎は手で顔を覆ったまま、くぐもった声を出した。
確かに、疲労困憊の姿だ。
しかし、悠理の胸を締め付けたのは、彼に対する同情心ではなかった。
昼間見た、いつも通りの余裕顔が脳裏をよぎる。一緒にいた不愉快な美女の態度と共に。
何をしてそんなに疲れたのか、と思うと、胸がふたたびムカついてならない。
悠理は清四郎の胸元に手を伸ばした。
ネクタイを引っ張り緩める。
「・・・ああ、ありがとう」
清四郎が息を吐き出した。
らしくないその無防備な姿は、悠理の腹の奥底にある怒りのマグマを鎮火することはできなかった。
いつも取り澄まして、一分の隙もない男のくせに。
どうせ、あの女には、こんな姿を見せはしないのだろう。
手にしたままのネクタイを引く。
悠理には見覚えのないデザイン。趣味じゃないトラディショナルな柄。
「出先で買ったのか?」
誰と?とは問わない。
清四郎が外で誰と付き合おうと、興味はない。
「ん・・・?」
悠理はネクタイを引き上げ、清四郎の唇を奪った。
噛み付くようなキス。
清四郎は少し驚いたように身じろいだが、悠理からの口付けに目を細めた。
応える唇。からまる舌。
とろり、といつものような陶酔が身のうちに広がる。頭の芯が痺れ、体の奥が疼く。
横たわる清四郎の上に伏せていた悠理の体に、男の手が這った。
ウエストを支えるようにつかんだ清四郎の手は、パジャマの上からでも熱をもって感じられる。
慣らされた手の感触。
ゆっくり這い上がる手は、悠理の胸にまで到達し、ブラをつけていない乳房をもみしだく。
長い器用な指がパジャマの上から胸の先端を探り出し、つまみ上げる。捻る。指先で擦り合わせる。
唇を合わせたまま、悠理は身を震わせた。
いつものように悠理を翻弄しようとする、横暴な指に乳首をいじられ。
いまだ消えることはない苛立ちと怒りが、性感と共に刺激され燃え上がった。
「・・・っ!」
悠理が絡めた舌に歯を立てると、清四郎は薄く閉じていた目を見開いた。
胸を苛めていた指が離れる。
しかし、清四郎のネクタイを握り締めていた悠理の指は離れなかった。
ネクタイを引き抜きながら、シャツのボタンを乱暴に開ける。一つ二つボタンが飛ぶがかまわない。
性急に悠理は清四郎の胸元を割りさいていった。
欲望と怒りのままに。
******
「・・・悠理、今日は疲れてるんですよ・・・」
「うるさい」
悠理の動きを止めようとする手には、いつもの力がない。
なにをしてそんなに疲れてるんだ、という理不尽な怒りがまた悠理の胸のうちで吼える。
仕事だなんて、分かってる。目の下の隈が、彼がここ数日ろくに寝ていないのだと告げている。
それでも、いたわりの気持ちは沸かなかった。
馬乗りになった悠理を止めようと伸ばされた手に、悠理は爪を立てた。
あの女が触れていた手。
「痛っ」
清四郎が顔を歪めるがかまわない。
女が手を添えていた腕に、思い切り歯を立てる。
清四郎が苦しげに呻いたが、構わなかった。
痛みに顰められた顔を見て、いい気味だ、とさえ思う。
シャツをはだけさせ、逞しい胸元に唇を寄せた。
清四郎の喉がこくりと動く。
一週間以上前に悠理の付けた口付けの痕は、もう清四郎の肌から消えていた。
薄い色の乳首を舌先で転がし、鎖骨の辺りを強く吸う。
こうして愛撫するやり方は、無理やり教え込まれた。
さんざん焦らされすすり泣く悠理に、イかせて欲しければこうしろと、強要したのは清四郎だった。
男のくせにきめ細かな肌に散った赤い痣。誰に見せるつもりの勲章なのか。
割れた腹筋を唇で辿り、ところどころに所有印を付ける。
心が欲しい訳じゃない。
ましてや体が欲しい訳じゃない。
なのに、本能は叫んでいる。
この男は、自分のものだと。
悠理には、その理不尽極まりない感情が何なのか、まったく分からない。
ベルトに手をかけチャックを下ろしたところで、ようやく清四郎が狼狽した声を出した。
「ゆ、悠理・・・」
清四郎はソファの上に上体を起こした。
かまわず、悠理は下着の中に手を潜り込ませる。
口付けと愛撫で煽られた男の体は、意思に反して硬さを持ち始めていた。
悠理は掘り起こした男の欲望に手をそえ、躊躇なく足の間に顔を伏せた。
「・・・っ」
清四郎の呻きは声にならない。
口に含んだ屹立が、動揺して震えた。
悠理が自分の意思で、それを咥えるのは初めてだった。
喉の奥まで飲み込もうとしても、大きすぎて無理だ。
先端を何度も舌で探り、くびれに歯を立てた。
口で彼を含むのは、もちろん初めてじゃない。
何度も無理やり咥えさせられた。涙が出るほど、喉の奥まで飲み込まされ。
舌使いを教えられ、強要された。悠理自身をいたぶられながら。
男を追い上げる術は知っている。
彼の意思はどうあれ、体は耐えられない。慣れた愛撫に。
「う・・・く」
苦しげに身じろぐ男の仰け反った体を見上げ、悠理はなおも彼を追い上げた。
「・・・悠理・・・ゆうり」
清四郎が掠れた声で名を呼ぶ。絶頂に達するときの、彼の癖。
その声を聞くと、悠理の体にもジンと痺れが走る。
わずかな安堵感。
それを上回る嗜虐心。
もしも、彼が他の女の名を呼んだりしたら、噛み切ってしまうに違いない。
身震いし、腰を浮かせて彼が果てたとき、悠理はすべてそれを口の中で受け止めた。
悠理は笑みさえ浮かべて身を起こした。
いつもは無理やり飲み込まされ咳き込んでしまうのだけど。
「・・・悠理?」
ぐったりとソファの背に頭を乗せている清四郎は、ひどく憔悴している。
額に浮いた汗。落ちた前髪が張り付き。はだけた胸元には赤い所有印。
不思議そうに悠理の笑みを見つめる瞳が、潤んでいる。
達したばかりの、乱れた姿。
いつも悠理を喘がせ声が嗄れるまで泣き叫ばせる意地悪な男の無防備な姿に――――興奮した。
悠理はソファの上に身をかがめ、清四郎の唇に自分のそれを合わせる。
「ん・・・?」
舌を差込み、中に含んだ彼自身のものを注ぎ込む。喉の奥まで。
「!!!」
清四郎は含まされた液体がなにか悟ると、悠理を突き飛ばした。
ひどく咳き込み、口を押さえて転がるように化粧室へ向かう。
足をもつれさせながら。
ドンガラガッシャン
清四郎はのた打ち回っているのだろう。
嘔吐しているだけでなく、倒れこんだようなひどい騒音が化粧室から聞こえてきた。
突き飛ばされた姿勢のまま、悠理は哄笑する。
いい気味だ、と思った。
やっと、胸のむしゃくしゃが少し晴れたように思う。
最悪X2くらい。
笑い過ぎて、少し涙が滲んだ。
この感情を、なんというのか、知らない。
こんな悪意。執着。
自分の中のどす黒い感情を悠理はもてあましていた。
気の合わないヤツだけど、時々心底腹も立つけれど、嫌いじゃなかった。
どこで道を間違ってしまったんだろう。
笑みは消えてしまった。ゆっくりと、後悔が胸に広がり始める。
悠理は立ち上がって水差しの水を飲んだ。
そのとき。
勢いよく化粧室の扉が開いた。
「清四郎・・・」
扉にもたれた清四郎は、まだ自分の体重を支えられない程疲れているように見えた。
しかし、やつれた顔の中で、黒い瞳が強い感情を宿している。
底光りのする怒り。そして、欲情。
ゾクリと、悠理の体が震えた。
恐れと、それを上回る体の疼きに。
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