おまけの後日談 さわやかな朝日の中、悠理は目を覚ました。 低血圧とは程遠い彼女だったが、しばし羽毛布団の中で動けない。 ベッドに横たわったまま、悠理は赤面した。先程まで見ていた夢の余韻覚めやらず。 「エ、エッチだ・・・」 悠理は己の夢に慄いた。 夢の内容は、あまりといえばあまり。しかし、現実にあったことだから、それほど突飛な夢とはいえない。 ぶんぶん頭を振ってみたが、頭に上った熱でクラクラしただけだった。 脳裏に棲み付いた顔は消えてくれない。 長い付き合いの悪友。彼が悠理の夢に出てくるのなんて、別に珍しくもない。しかし、キスする夢を見てしまうと、 いつも通りではいられない。 くちづけたのは現実。だけど、あれは非常事態だった。いざとなったら手段を選ばず目的を完遂する清四郎らしい。 誰よりも彼を頼りにしている自覚はあるものだから、責める気はなかった。 悠理にとっては、齢十九にしてファーストキスだったのだけど。 「日曜日で良かった・・・」 悠理はため息をついて起き上がった。 あんな夢を見てしまうと、友人と顔をあわせるのが気恥ずかしかった。 会いたいのに、会いたくない。 相反する感情が、悠理を混乱させる。 だるい体を無理やり叱咤してベッドを離れた。 心霊がらみだと体力を消耗するのはいつものこととはいえ、こんなに回復が遅いのは初めてだ。 あの憑依事件からこっち、悠理は深刻な寝不足に悩まされていたのだ。 寝ても覚めても清四郎のことが頭から離れない。 彼の顔、言葉、仕草。眠っていても夢に見るのだから、堪らない。 「じっちゃんとこでも行って、汗を流そうかな」 体と心に喝を入れたくて、悠理は東村寺に行くことにした。 清四郎は今日は野梨子にお茶会の出席を頼まれていることを知っている。だから、鉢合わせはない。 ・・・部室でも、清四郎と仲間達との会話、行動、すべてを悠理は追ってしまっていたから。 野梨子の隣で座っているお茶席での彼の姿が脳裏を過ぎり、悠理はもう一度頭を振った。 なぜか胸が苦しかった。 石段を駆け上がり、寺に着いたが、あいにくと和尚は留守だった。 「おう、剣菱のお嬢ちゃん。今日は清四郎も来てないぞ?」 師範代にそう声をかけられ、悠理は頬を染めた。 「知ってるよ!」 だから来た、とは言わなかったが。 「・・・悠理ちゃん?」 縁側で師範代と世間話をしながら足をぶらぶらさせていると、庭を掃いていた少年が悠理の姿を見留め駆け寄って来た。 短い黒髪、小作りな顔。つぶらな瞳の華奢な少年。 「・・・ぎゃっ」 悠理はヒキガエルのような声を出し、ぴょんと縁側で飛び上がった。 「ひどいなー『ぎゃっ』はないでしょ」 「だ、だって・・・」 坊ちゃん刈りが昔の清四郎を思い出させるが、中学生のような容貌ながら、彼は悠理たちとは二歳も違わないはずだ。 道着姿だと凛々しくも男らしいが、愉快気に悠理に流した目付きが、妙に艶っぽい。 「おいおい、猪熊。このお嬢ちゃんに変なコナを掛けたら、清四郎と和尚にヤキを入れられるぞ。なにしろ、このお嬢を 巡って決闘までやらかしたんだからな」 「もー、おっちゃんよしてよ。あのときの話は」 東村寺関係者には、悠理と清四郎の婚約騒動はからかいネタだ。 「わかっていますよ、師範代。ちょっと悠理さんとお話させていただいてよろしいですか?」 猪熊少年はさわやかに師範代に笑みを向けた。 「おう、お嬢が良ければな。おまえはまだ病み上がりで今日は鍛錬はできないしな」 師範代はそう言って廊下を大股に去って行った。悠理と少年を残して。 「な、なに?」 悠理はおっかなびっくり少年に顔を向けた。まだ一抹の疑いが消し去れない。彼が生霊となって、悠理にまた憑依しようとしている のではないかと。 「ううん、ごめんねぇ、悠理ちゃん〜、私、ちゃんとお詫びとお礼を言ってなかったからぁ」 猪熊少年は両手を頬の横で組み、シナを作って小首を傾げた。 悠理は脱力し、縁側に両手を付いた。 豹変しクネクネ裏声を上げる猪熊慈五郎へ、顔を上げないまま問いかける。 「・・・詫びは病院で言ってもらったと思うけど、お礼って?」 「うふっ」 猪熊少年は弾んだ声を上げた。 「清四郎先輩と、キスできたも〜ん♪」 悠理はごつんと廊下に額を打ち付けた。 「・・・・。」 「どしたの?悠理ちゃん」 「どしたの、じゃねーよ!おまえのせいであたいは、なー!」 悠理はガバリと体を起こした。 「あれ以来、清四郎が夢に出てきて困るんだよっ」 「あら」 「起きてるときもあいつの顔がチラついて、迷惑なんだよ!」 「まぁ」 「いっつもあいつのこと考えちまって、落ちつかないんだよ!」 「ふふん」 猪熊少年は、真っ赤な顔でわめいた悠理に頷いた。 「じゃあ、悠理ちゃん、私と同じなんだよ〜〜」 「?!」 うっとりと組んだ手に片頬を寄せ、少年は中空を見つめる。 「四六時中、あの人のことが頭を離れないの。まるで憑りつかれているみたい・・・」 「?!」 悠理は彼の言葉に目を剥いて絶句する。 「・・・まさか・・・」 悠理は呆然と呟く。 「ええそう。あの松竹梅魅録だと耐えられないけど、悠理ちゃんなら許せるよ。だって、悠理ちゃんとは一度は 一心同体になった仲ですもん」 猪熊少年は潤んだ瞳を悠理に向けた。 「清四郎先輩だって、きっと・・・」 「せ、清四郎が・・・?」 悠理の声は上ずる。 「先輩は自分の意思でないことはしないよ。先輩が悠理ちゃんのことをどう思っているのか、私には分かる。 だって、キスした途端、弾き飛ばされちゃったんだもん。もっと彼の腕に抱かれていたかったのに」 悠理はあのときのことを思い出し、真っ赤に顔を染めた。 ドキドキする胸を無意識でつかむ。 強い腕に引き寄せられ、唇を奪われた。息ができないほど、激しく深く。 彼の声が、聞こえた気がした。 ――――悠理、と。 名を呼ばれた気がした。 あれから、彼の声が脳裏から去らない。ただ、名を呼ぶ声が。 「・・・苦しいよ」 悠理うつむいて胸を抑えた。 「そう、悠理ちゃん。その胸の痛みが、こ・・・」 猪熊少年がまだ話し終えない内に、悠理は駆け出した。挨拶もせぬまま、走って寺を出る。 ただ、会いたくて。清四郎に会って確かめたくて。 「・・・恋なんだよね」 置き去りにされた少年は小さく呟く。駆け去った悠理には、聞こえなかったけれど。 清四郎は家に居ないだろうと思っていたが、悠理が訪問したときにはもう隣家より帰宅していた。 「・・・一体、どうしたんですか?」 いきなり訪れた悠理に、清四郎は驚いた顔。 途中でタクシーを拾って乗ってきたため、悠理の頭も東村寺を出たときよりも冷えてはいたが、清四郎の姿を見ると また頭に血が上って来た。 玄関先で悠理を出迎えた清四郎はまだ着物姿。高校生のくせに和服が妙に似合う男である。 「あた、あた、あたい・・・」 悠理はゴクリと唾を飲み込んだ。 本人を目の前にすると、なぜだか緊張する。あれほど頭の中でこの顔をずっと見ていたのに。会いたいと思っていたのに。 「ちょうど良かった。実は僕も悠理の家へ行こうと思ってたところなんですよ」 「え、嘘?!」 「なんで嘘なんかつくんですか。証拠の品もありますよ。お茶席が終わって、和菓子の残りを野梨子に貰ってきてあるんです」 清四郎に促されて居間に入ると、机の上に和菓子の包み。 「わーい!」 悠理は先程までの緊張も忘れて、机に駆け寄って座った。 「貰っていいの?」 「おまえじゃないと消費できない量でしょう?」 確かに、証拠品。 悠理は清四郎がお茶を淹れてくれるのを待たず、封を開けてひとつ口に放り込んだ。 上品な和菓子の甘味に、ふと友人を思い出す。 「・・・野梨子は?」 「野梨子はおばさんやウチの母と出掛けました。おまえによろしく、とのことです」 「ふ〜ん」 和菓子が余ったから、野梨子の代わりに悠理に届けてくれるつもりだったのか。 美味しい和菓子は大好物。嬉しいな、と思いつつ、なぜかまた胸苦しくなってきた。 もぐもぐ食べながら、ちらりと清四郎を横目で見ると、柔らかな笑みを浮かべて悠理が食べるのを見守っている。 優しい瞳。 餡子が喉に詰まりそうになった。 「ごほっ」 「ゆっくり食べなさい。全部悠理のなんですから」 清四郎が背を撫でてくれる。 悠理は適温のお茶をひっつかみ、喉に流し込んだ。 そして、ぶん、と音がするくらいの勢いで清四郎に顔を向ける。 ここへ来た用件を思い出したのだ。 「悠理?」 いきなり向き直ったので、清四郎との距離は約二十センチ。 「あ、あのさっ」 「はい」 頬が上気する。至近距離で清四郎に見つめられ。 どんどん頭に血が上ってくる悠理と反対に、清四郎の目は落ち着いた色。 黒い瞳に緊張した悠理の顔が映っている。 悠理は覚悟を決めて、震える唇を開いた。 「・・・あたい、あれからよく寝られなくてさ」 「それは困りましたね」 「なんかさ、起きてるときもずっとおまえのことばっか考えちゃうしさ」 「ほう・・・」 「眠っても、おまえの夢ばっか見るしさ」 「そうなんですか?」 清四郎はにこやかに問い返す。 悠理があの憑依事件以来、困っていることぐらい清四郎は知っているくせに。 そう思うと、清四郎の笑みは意地悪なものに見えてくる。 悠理は笑顔の清四郎を睨みつけた。 「それで、わかったんだ。・・・おまえ、ユータイリダツってのできるようになったんだろ?!」 「はい?」 清四郎の笑顔が、少し引きつった。 「”幽体離脱”!おまえ、修行してできるようになったんだろ?!」 「ーーーーーは?」 「ナイショでそんな技、身につけて、あたいに憑りついて、意地悪してんだな?!」 「・・・・・・。」 清四郎はガックリ肩を落とした。 まるでその様は、先程の猪熊少年の前の悠理と同じ。 「・・・アホだバカだ、ノータリンだとは分かってましたけどね・・・」 うなだれた清四郎のこの言葉には、さすがの悠理もカチンと来る。 「ノータリンはひどいじょーっ」 アホとバカはとりあえず認めるにしろ。 「・・・あのね、悠理」 しばらくして清四郎は復活した。 悠理に真正面から向き合って正座の膝を突き合わす。 「僕もね、同じなんですよ」 「ん?」 「僕の夢にもおまえが出てきます。それどころか、起きている間も、おまえのことが頭を離れない」 「んん?」 悠理は目を白黒させた。 「あ、あたいが生霊なって、おまえに憑りついてるってかー?!」 「いや、だから。それは僕がおまえを、す・・・」 「知らないうちにおまえんとこ行っちゃってる?!会いたい会いたいって思ってるから?!」 心底驚いて叫んだ悠理の言葉に、何か言いかけていた清四郎は口をつぐんだ。 への字口の端は緩み、眉尻を下げ。清四郎はなんとも言いがたい複雑な表情を浮かべた。 「・・・そうですよ」 悠理を見つめる瞳が熱もつ。 「会いたいから、夢に見るんです」 清四郎の言葉には、その瞳と同じ熱がこもっていた。 「僕がおまえに会いたくて、心だけおまえの元に行ってしまっているのかもしれませんね。おまえも僕のところに 来てくれますよね?」 会いたくて。一緒に居たくて。 だから、こうして今日も飛んで来た。 明日学校でだって会えるのに。誰かと一緒の姿を想像するだけで苦しくて。 いつもそばに居て欲しくて。 真っ赤な顔で、悠理はこくんと頷いた。 いつも清四郎が悠理のことを考えてくれているという証拠。そう思えば、眠れぬ夜も嬉しい。 悠理が思うように、清四郎も会いたいと思ってくれるなら。 夢でも、会えるなら。 「・・・だけど、おまえジゴローんとこにも行ってるだろ?」 「はっ?」 「猪熊ジゴロー。あいつもおまえのことが頭から離れないって。あたいと同じだって。あいつの夢も見る?」 「見・ま・せ・ん!!」 清四郎は額に血管を浮き上がらせて怒鳴った。 「コワ・・・」 怒りの表情を浮かべた清四郎に、悠理は肩を竦めた。 だけど、言葉に反して、ちっとも怖くなかった。 生霊なんて、二度とごめんだと思ってたのに、清四郎だと全然怖くない。 胸はドキドキするけれど、嫌じゃなかった。 会いたくて、清四郎が悠理の元に来てくれるのだと思うと。 清四郎は怒鳴ったためか、咳き込んでお茶を手に取った。 ごくごく動く喉を見つめながら、悠理は和菓子の山にふたたび手を伸ばす。 「そうだ・・・」 悠理はふと思いついた。清四郎が悠理に憑りついてくれるなら、これ以上心強いことはない。 妙な幽霊に悩まされる事もなければ、なにより、試験中に助けてもらえるではないか! ・・・と、飛良泉の霊のときに果たせなかった野望が胸に蘇った。 しかし。 悠理は甘い和菓子を咥えながら、もう一度清四郎に視線を向けた。 清四郎がこの和菓子のように甘い男でないこともまた承知。 「清四郎・・・あのさ」 「なんですか?」 清四郎はもう平静さを取り戻し、急須から茶を注ぎ直している。 「あたいのこと、助けてくれる?いつも、どんなときでも」 「!」 上目遣いの悠理の問いかけに、茶碗から湯が零れた。 「・・・ええ、悠理。いつだって、必ず」 思いのほか真剣で強い返答。 零れた湯を拭きもせず、急須を持ったまま清四郎は悠理を真っ直ぐ見つめる。 自分で問いかけたのに、悠理はどぎまぎしてしまい、目を逸らしてしまった。 「・・・じゃ、清四郎になら体を自由にされても、いいかな・・・」 呟きは、小さく。 だけど、至近距離の清四郎には聴こえてしまったようだ。 ガシャン、と急須と茶碗が机の上で正面衝突。 悠理が試験に思いを馳せ、姑息な思惑で胸をときめかせている間。 時間はゆっくりと過ぎてゆく。スローモーションのごとく。 悠理は胸の奥が暖かくなるのを感じていた。 高揚と相反する安堵。ときめきと安らぎ。清四郎のそばにいるといつもこうだ。 浅い眠りの数日間がもたらす倦怠感と、清四郎の存在が、ゆっくりと悠理の心をほぐす。 いつもそばに居てくれる。守ってくれる。 眠気さえ感じながら、悠理は清四郎に微笑みかけた。 清四郎も笑みを返した。なぜか強張った顔で。 悠理は知るはずもなかった。これから彼女を待ち受ける未知の体験を。 清四郎が理性をぶち切らせるまで――――あと、数秒。
いつものごとく、蛇足感溢れる後日談です。憑依、といえば悠理ちゃんは何回もされてますが、怖いの苦手な私は、
和尚の初恋の君の回と替わりにテストをやってくれた飛良泉くんの回が好きです。
両方に共通する印象的な絵は、うるうるきらきら悠理ちゃん。だまされるな、清四郎!悠理は下心のあるときが一番カワユイんだぞ! |