ジューンブライド 〜あなたしか見えない〜





――――もう、抑えることができない。
彼女へと向う、この気持ちは。



それでも、清四郎が悠理を抱いたのは、出国する前夜、ただ一度きりだった。




********




悠理からは、清四郎の渡欧後、毎日のようにメールが入る。
声が聞きたいと思わないではなかったが、時差の関係や清四郎が昼夜を問わず走り回っていたため、どこでも受け取れる メールがふたりの連絡手段に落ち着いた。
ゴールデンウィークの前後には式を挙げるはずだった魅録と可憐の結婚が六月に延期になったと、欧州にいる清四郎へ連絡 してきたのも悠理だった。

清四郎は内心安堵していた。
こちらにはGWはない。寸暇を惜しんで数カ国を駆け回っている清四郎には、帰国をする時間も惜しい時期。
六月ならば、事業を軌道に乗せて当初より早い本格帰国も果たせるかもしれない。
そうでなければ、たった一日、結婚式の当日にだけ帰国しとんぼ返りなど、清四郎にとっては拷問も同然だ。
恋人との逢瀬が、人前での数時間だけなどと。
それでも、一目悠理に逢いたかったのだけど。

深夜のパリ。
最近剣菱と提携した老舗のホテルのスィートが、ここ数日の清四郎の住まいだ。
若輩には身分不相応だし、できるならアパルトマンでも借りて生活したかったのだが。事業の責任者である清四郎には 応接空間も必要だったし、なにより、一箇所に定住などできなかった。

清四郎は部屋へ向うエレベータに乗り込みながら、携帯の液晶を開けてすでに受信していたメールをもう一度確認した。
『とにかく、式がまた延びたんで、可憐が荒れちゃって大変なんだよ』
いきなり日記のように始まる悠理のメールを見て、クスリと笑う。
『最初あたしたちは”ジューンブライド”でいいじゃないかって、慰めてたんだけど、ほんとに傍からきいてりゃバカバカ しいどーでもいいようなことで、魅録につっかかって拗ねてんの。しまいには、野梨子が怒り出しちまうし』
実は仲間内では一番気の強い(と清四郎は常々思っている)真面目で潔癖な幼馴染の憤慨顔を思い浮かべ、清四郎は苦笑した。
野梨子には、彼もずいぶん叱られたものだ。悠理を泣かせてしまったときに。
『「結婚は中止よー!」とか可憐は泣き喚くし、「延期だ延期!」って魅録は怒鳴るし。野梨子は野梨子で 「どうせすでに事実婚なんですから、式なんておやめになったら」て真顔でキレるし。式がなくなったら、 おまえも帰ってこれないじゃんかねぇ?』
「いや、それは違うぞ、悠理」
思わず、ひとりでメールに突っ込む。
仕事の片がつけば、帰国できる。ひょっとして、六月に延びた可憐の結婚式よりも先に。
『それに、母ちゃんがはりきってあたしのドレス新調しちゃったよ。可憐の衣装と被らないようにって先月嬉しそうに打ち合わせ してたやつ。もうできてきたんだ。あんなヒラヒラ、結婚式がなくなったらどうすんだってカンジ。やっぱ野梨子みたく振袖 で良かったのにさ。』
悠理が衣装のことを言ってくるのにはわけがある。先日のメールで、くだんのヒラヒラの話が出て、悠理自身は振袖かパンツスーツが いいと主張していたのに、清四郎が『たまにはおまえのドレス姿も見てみたい』と、返信でねだったのだ。

本当は――――添付の写真で見た、可憐が衣装合わせをしていた純白のウェディングドレス姿こそを、悠理に望んでいたのだけど。
いつか、彼のためにそれを着ることを。
もちろん、そんなことはまだ言えやしないが。

パソコンで数時間前に受信したものの転送なので、携帯からでは添付ファイルの写真は開けない。清四郎は自室に急いだ。
いつも悠理は写真や映像を大量に送りつけてくる。それは、ときにタマやらフクやら万作氏やらの映像だったりするのだが。 悠理の笑顔に会えたり、ビデオレターで話しかけてくれたりもするので、メール本文よりも楽しみだ。
携帯の待ち受け画面も実は悠理の映像にしてあるため、仕事用と使い分けている。
一度秘書に見られてしまい、かなり恥ずかしい思いをした。
よりにもよって、にっかり歯を見せてピースサインを掲げている写真だったためだ。
天真爛漫な笑顔を取り戻した悠理らしい表情なので、清四郎は気に入っている。

悠理の表情はくるくるとよく変わる。
笑っている顔、怒っている顔。
そして、泣いている顔。

出立の日。
空港では大泣きされた。
見送りに来てくれた友人たちになぐさめられながら、何度も無理に笑顔を作ろうとしては、失敗して。
だけど、いつかのように、悠理が声も立てずに泣くことは、二度となかった。
別れは、一時のことだと知っているから。

その前夜、初めて心だけでなく体も重ねた。

一度だけ抱いた恋人との夜を思い出すと、胸が痛くなるほどの愛しさを感じる。
彼女の仕草、表情、浮かべた涙。
それまで禁忌のように思っていたのに、出国前日に体を重ねたのは、愚かな感情ゆえだったのかもしれない。
彼女が自分のものである事を確認したくて。彼女の中に自分を刻み付けたくて。
決して、忘れないように。
悠理の心も体も独占したくて。

少しだけ、後悔している。
無垢な悠理を、衝動のままに摘み取ってしまったことに、ではない。
清四郎の腕の中で悠理が流した涙は、喜びと幸福の涙だった。それだけは見間違わない。
秘かに怖れていた愚かな疑いは、悠理が消してくれた。
何度も何度も、悠理は名を呼んだ。夢の中でさえ、清四郎の名を。

後悔は、こんな夜に。
一度抱いてしまえば、こうして耐え難くなることが分かっていた。
心は離れていないとわかっていても、会えない夜が耐え難い。



********




ホテルの部屋のドアを開けた清四郎は、驚きのあまり硬直した。
「おかえりー♪」
文字通り夢にまで見た愛しい恋人が、大きなソファの背から顔を覗かせたのだ。
「ゆ、悠理?!」
「えへへ、来ちゃった」
立ちすくんでいる清四郎に、悠理はペロリと舌を見せる。
「・・・・・。」
「来週からのこっちでのレセプションに、母ちゃんを呼んだだろ?なんで母ちゃん呼んで、あたいを呼ばないんだよ」
剣菱百合子夫人の人脈と社交術は侮れない。欧州での合弁会社との新規時事業お披露目パーティに、会長夫人の出馬を 要請したのは事実だった。
面倒な社交を夫人に任せ、六月までに急ぎ事業を軌道に乗せて帰国を果たそうとしていた個人的事情は内緒だが。
「・・・それとも、会いたかったのはあたいだけ?」
無言の清四郎に、悠理は上目遣いで拗ねた顔。

清四郎はまだ言葉が出ないまま、ブリーフケースを絨毯に投げ捨てた。
大股で部屋を突っ切り、最後は走るように悠理の元に向う。両手を差し出し、ソファを飛び越えようとした彼女の体を空中で捕らえた。
しっかりと、華奢な体を抱きしめる。幻じゃない事を確認するために。

「あんまり会いたくて・・・ついにおかしくなって、幻覚でも見てしまったのかと思いましたよ」
悠理の両手が背中に回る。ふたりの心音が重なる。
柔らかく温かな悠理の体。甘く香る髪の匂い。
「あたいも、我慢できなくなっちゃったんだ」
笑みを浮かべながらも潤んだ瞳で見つめられて。
清四郎は悠理の色づく唇を捕らえ、激しく貪った。
餓える者のように。
命の水を求めるように。
確かに、清四郎は餓えていたのだ。悠理が欲しくて、ずっと。

唇を塞いだためだけでなく。
それきり、悠理も言葉を発しなかった。
抱き上げて、続きの間のベッドルームへと連れてゆく。
全身に口付け、服を脱がせ。
会えなかった時間と隙間を埋めるように、体を重ねる。

まだ腕の中に彼女がいることが信じられない。
どれほど長い間、悠理だけを求めてきたか。
他の男を想っている彼女を、どうしても諦めることはできなかった。

清四郎に抱かれ、激しすぎる快感に涙を流しながらも。
彼を見つめた悠理が、とろけるような笑みを浮かべたことが、泣きたくなるほど嬉しかった。








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