「・・・せいしろ?」 悠理が目を擦りながら身を起こした。 「なにやってんの?」 寝ぼけ眼の悠理は幼児のように舌足らずだが、ずり落ちかける掛け布団から覗いた白い肌はもう子供のものではない。 清四郎は座っていた机の前から立ち上がり、カーテンを開けた。 朝の光の中で悠理の姿を見たくて。 「仕事、してたの?」 デスクでノートパソコンを開いていた清四郎に、悠理は小首を傾げた。残念ながら掛け布団はふたたび引き上げられ、悠理の胸元は隠されている。 「違いますよ。これを見てたんです」 清四郎は悠理の方に画面を向けた。 「なんだよ、まだ見てなかったのか?それ日本を出る前に送った奴だぞ」 PC画面いっぱいに映し出された可憐のふくれっ面。悠理が送ってきたメールの添付ファイル。 「なるほど、可憐らしくない表情ですねぇ」 おまえじゃあるまいし、という言葉を清四郎は飲み込む。 可憐の頬は子供のようにふくれ、目尻には涙。 仲間内ではもっとも社交的で、大人の女性に成長したものだと最近友人達を感嘆させていた可憐のこの顔には、悪いと思いつつ清四郎も苦笑してしまう。 「うん。いつまでも拗ねてるからさ、そのあと、美童に叱られたんだよ」 「美童?魅録ではなくて?」 「うん」 悠理はこっくり頷いた。 もともと美童は可憐のヒスを、マリッジブルーだと言って、深刻に取り合ってなかったのだが。 涙を溜め「もう結婚なんてやめる!」と、わめく可憐に、美童は言ってきかせたらしい。 『可憐はさ、好きな相手に想われて、皆に祝福されて結婚するんだろう?式が延びたぐらいなんだよ。 それとも、これから長い一生を魅録と共に生きる覚悟がつかないのかい?』 可憐の目に迷いの色が浮かんだ。コトの根っこは、魅録が可憐とのことを二の次三の次にすることへの不満なのだから。 『可憐は、誰を愛しているんだい?』 『・・・・・魅録。魅録だけだわ』 それでも、可憐はそう答えた。 『たったひとりと思える相手に巡りあえて、そして愛する相手に愛される――――これ以上の幸運があるかい?多くの人は巡りあうことも、想う相手に想われる こともできないんだから。君達の幸運の陰では、泣いている人も居るだろう。可憐も魅録も魅力的だからね』 美童はウインク。 『だから、君達は世界一幸せにならなくちゃ』 「――――美童は、気づいてたのかも知れませんね」 清四郎は思わず呟いていた。 悠理も、何を、とは訊き返しはしなかった。 悠理が魅録を思い続けた長い歳月。ずっと共に過ごした友人達。 当の魅録と可憐はともかく、悠理の想いに気づいていたのが清四郎だけだったとは限らない。 悠理はベッドの上で膝を抱えた。 「あいつは・・・美童は、あたいの気持ちを知ってたよ」 悠理の言葉に、清四郎は目を見開いて彼女を見つめる。 悠理はシーツに包まれた両膝に片頬を乗せ、穏やかに微笑んでいた。 清四郎と付き合い始めてから、悠理が魅録への想いを語ることはなかった。 魅録を好きだったことを、認めたことすらなかった。 それは、ふたりの間では禁忌。不文律の約束事。 それは、悠理が初恋を忘れられないでいるという、何よりの証拠。 もう、清四郎は忘れて欲しい、とすら思いはしていなかったけれど。 魅録に恋していたことも悠理を構成する大切な要素だから。 悠理はベッドから立ち上がった。 体にシーツを巻きつけたまま、裸足で清四郎に近づく。 デスクのPCの前に座っている清四郎の肩に、両腕を回す。 彼女の胸に抱きしめられ。清四郎は言葉を失くした。 柔らかな抱擁。悠理の鼓動が聴こえる。 清四郎の髪に頬を乗せ、悠理はひとり言のように呟いた。 「・・・美童は、あたいが気づく前から知ってたよ。お前を、好きだってこと」 ――――清四郎が、好きなんだ? ――――違う・・・あいつには、好きなひとがいるんだ。 美童に問われて、悠理は泣きじゃくりながらそう答えるしかなかった。 清四郎を失ってしまうと、思ったあの日に。本当に大切なひとに気づいた、あの日に。 「お前が、他のひとを想ってても・・・・好きになっちゃってたよ」 悠理の鼓動が、切ないほど脈打つ。愛を告げる。 確かに、そこに息づく想いを。 「・・・悠理」 ようやっと、清四郎は動くことができた。 彼女の細い腰に両腕を回す。 苦しいほどの幸福感に胸が詰まった。 「他のひと・・・?僕にはお前だけだ、ずっと」 どれほど、諦めようとしても、無理だった。 彼の想いはいつでも、彼女だけに。 悠理だけを愛してきた。 とうに気づいていたことに、気づかされる。 彼女しか見えない。 彼にとってたったひとりの女。 二度と、離せない。 「・・・・チャイム、鳴ってる」 抱き合っていた体を離したのは、悠理の方からだった。 清四郎はチャイムが鳴っていることにも、気づかなかった。 「あ!」 心当たりがあるのか悠理は顔を輝かせる。清四郎の腕を力まかせに解いて、踵を返した。 「ゆ、悠理、そんな格好で!」 シーツを巻きつけたまま寝室を飛び出した悠理を、清四郎は慌てて追った。 案の定、悠理は半裸のまま扉を開けようとしていた。 「こんな早くに誰が・・・」 清四郎自身も大差のないバスローブ姿だったが、扉が全開になり訪問者の目に留まる前に、ソファに脱ぎ捨ててあった昨夜の背広を悠理の肩にかけることに成功した。 扉の向こうに立っていたのはホテルのボーイ。 『ご苦労さん!』 背後から背広ごと清四郎に抱きしめられた格好のまま、悠理は笑顔で応対している。 さすが一流ホテル。 かなりあられもないふたりの格好に若干動揺したようだったが、ボーイはすぐに職務を遂行した。 『ここに置いといてよ』 ボーイが大きなトランクを部屋に運び入れる。 「清四郎、チップある?」 振り仰いだ悠理にそう言われ、初めて清四郎は気がついた。悠理は仏語でボーイに応対していたのだ。 背広のポケットからチップを取り出し、ボーイに渡す。慇懃に礼をして彼が退去してから、清四郎は戸惑いを隠せず恋人を振り返った。 「悠理、いつの間にフランス語を話せるようになったんです?」 「ん。ちょっとだけだよ」 悠理は清四郎に振り向きもせず、運び込まれたトランクをさっそく開けている。 「母ちゃんがさ、英語とフランス語は話せるようになれって言うんだけどさ。ぜんぜんだよ、まだ」 「・・・・・・その荷物は?」 「あたいの服」 そういえば、昨夜悠理はほとんど手ぶらだった。荷物を別便で送っていたらしい。 それにしても、トランクはやけに大きい。悠理のことだから、菓子類を詰め込んでいるのだろうと覗き込んで、清四郎は絶句した。 「あ、これ?フォーマルドレスいるだろ。そりゃこっちでも用意できるけど、今日からすぐに使える方がいいし」 悠理が取り出したのは、パーティドレスだった。タイトな黒地にふわりとしたレース。ところどころに光り物がついてはいるが、彼女にすればかなり 上品なドレスだ。 「・・・・本当に、レセプションに出る気だったんですか」 悠理は顔を上げた。ぷぅと頬を膨らませている。 「そりゃさ、母ちゃんには全然かなわないけどさ。あたいだってちょっとは役に立てるかなーーって・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」 清四郎の沈黙をどうとったのか、悠理は困った顔をした。 「心配しなくても、来週のお披露目には、ちゃんと母ちゃんが来るよ。でも社交界の顔つなぎはあたいでもできるって、兄ちゃんが言ってたよ?」 言い訳する子供のように早口でまくし立てる。 「し、信用ないのはわかるけど、食い物目当てじゃないぜ?あたいちゃんと勉強してきたんだから!」 「え、えと、礼儀作法も言葉もイマイチだけど、こっちの社交界は一応16のときデビューさせられてるし、父ちゃんや母ちゃんと子供の頃から何度も 来たから、顔見知りも多いし」 「どうやったら、おまえの役に立てるか、兄ちゃんに相談したんだよ。そしたら、あたいでも手伝えることがあるって。母ちゃんがプログラム組んで、そりゃスパルタ特訓 されたんだぜ?」 「昔の・・・その、お前と婚約したときのこと思い出しちゃったよ。あんときは、嫌で仕方なかったけどさ。今回は、あたいが・・・むぐっ」 清四郎は無言で悠理を抱きしめた。 万感の想いを込めて。 悠理は清四郎の胸に頬を押し付け。ポツリとつぶやく。 「・・・・嫌だったんだ。ちゃんとみんなは大人になってゆくのに、あたいだけ・・・・あたいだけ、なんにもできないのが。待ってるだけなのが」 清四郎の腕の中で、悠理は顔を上げる。 彼の頬に両手を沿え、悠理は清四郎を真っ直ぐ見つめた。 「他人と過去は変えられないけど、自分のことと未来は変えられるだろ?」 悠理の目に映っているのは、純粋で強い意志。 「清四郎にふさわしい人間になりたかったんだ・・・ちょっとでも」 悠理を守りたいと思っていた。 脆く泣き虫で、子供のような彼女を。 無邪気で利かん気で、ずっと親友を想いつづけていたあの泣き虫な少女の奥に潜んでいた魂。 それに惹かれ、とうに魅せられていたのに。 「・・・・まったく、お前には驚かされますね」 何度も、恋してる。思い知らされる。彼女を愛していることを。 この想いを、伝えるすべがわからないほど。 「早く仕事を片付けて、一緒に帰ろ?魅録と可憐の結婚式に間に合うように」 離れていても、心は繋がっている。信じられる。 それでも。 清四郎は悠理を抱きしめる腕を解くことは出来ない。 「”世界一幸せな花嫁”を見てやらなきゃ、な!」 ふくれっ面の可憐の写真。悠理は指差して肩をすくめた。 たったひとりと思える相手に巡りあえて、そして愛する相手に愛される――――これ以上の幸運が? 「・・・・いえ」 清四郎は首を振った。 「え?」 清四郎の否定の言葉に、悠理の笑顔がわずかに曇る。 「”世界一幸せな花嫁”は可憐じゃありません」 未来しか見えない。 二度と思い出に、もう縛られない。 だから。 「僕が、お前を世界一幸せにします」 悠理は目を見開き――――そして、もう一度笑みを見せた。 彼を世界一幸せにする、無邪気な笑顔で。 幸せに、なろう。
たむらん様画
や、やっと終わった・・・・。そう、目指した着地点は絵板に降臨したたむらん様のこのイラストのようなふたりだったのでした!この絵は、「思いがかさなるその前に」の前編中編で
悠理ちゃんを泣かせまくってた頃、「こんなラストにして〜っ」と悲鳴まじりにいただいたのでした。いやぁ、すごい脅迫でした。(笑) |