「えっ?あいつが来たんだって?!ちょ、ちょっと待って・・・待たせとけ!今、着替えてるからっ」
室内インターフォンでメイドに叫ぶと、悠理は後ろ手に扉を閉め、自室からの逃亡路を真剣に検討した。
夏休みに入って二日目。
外は蝉が泣き喚くカンカン照り。
しかし、冷房の効いた剣菱邸の自室で悠理の額に浮かんだのは、冷や汗だった。
ストップをかけたはずなのに、背後の扉の向こうに軽快な足音が近づいてくるのが人並みはずれた聴力で聞き取れた。
やがて、ノック音。
悠理は後ろ手にした扉のノブを慎重に握りしめる。そーっとそーっと、悟られないように鍵を閉めようとツマミを回した。
しかし――――
ばんっ
無情にも、扉は押し開けられた。蹴破らんばかりの勢いで。
弾き飛ばされ絨毯に四つん這いになってしまった悠理は、振り返って背後の侵入者を睨んだ。
「お、お、お、お前っ、本当にあたいが着替え中だったら、どーすんだよっ」
「着替え中の人間は扉に張り付いてごそごそしたりしませんよ」
現れたのは、菊正宗清四郎。
「だいいち、お前は着替えなんか見られたってどうということはないでしょう。出るべきところも出てないくせに」
この言い草でありながら、つい先日悠理にごくごく一方的に『惚れている』発言をかまし、『付き合ってもらいます』と
有無を言わせず迫った男。
仁王立ちの彼に見下ろされ、悠理は唇を噛んだ。
悔しいことに、悠理が彼に勝てたためしはない。幼稚舎で出会った、最初の時以外。
『付き合ってもらいますよ!』と宣言したあと、『じゃ』と彼はあっさり悠理を置いて帰宅した。翌日顔をあわせたときも、
いつもと変わったところは見られなかった。そのため、悠理はあれは悪夢か冗談だったのだと思いかけたのだが。
前日の煩悶が消えいやにすっきりした顔の清四郎に、仲間達が問いかけると、
『言いたいことを言ったので、すっきりしました。』
とニッコリ。その笑みに、悠理は背筋がぞっとした。
『あとは、やりたいことをやるだけです。』
続いて彼がそう言ったときには、悠理ばかりでなく魅録も蒼ざめたのだから、やはりアレは夢ではなかったのだろう。
『悠理、僕と付き合う約束ですよね。』
思わず逃亡しようとしたところを、前日のように襟首をつかまれ。
唖然としている仲間達の前で・・・・・
「ちゃんと、予告はしたでしょう。楽しい夏休みを過ごすために、宿題をさっそく済ませましょうって」
清四郎は手にした鞄の中から、宿題のテキストを掲げて見せた。
仲間達の前でかまされたのは、説教だった。
来週から、皆と南の島に行く約束をしている。そのあとにも、六人それぞれの希望を入れて可憐が組んだ予定で、
夏休みのカレンダーはみっちり埋まっている。
例年、八月末になってから清四郎と野梨子に泣きつく悠理の宿題地獄を、早期に片付けてしまおうと清四郎は提案したのだ。
それは間違っていない。むしろありがたい。
しかし。
当分、この顔を拝みたくなかったと、悠理が怯えるのは薄情なのだろうか?
「僕はもう全部終わらせましたよ」
清四郎は鞄から課題をこれ見よがしに取り出す。
「えええっ、たった一日で〜?」
「内部進学組の僕らには、たいして課題は出てないじゃないか」
「あれ?清四郎って、内部進学組だったっけ?」
悠理自身は選択の余地なく大学部進学組だが、清四郎は確か違った気がする。プレジデント学園には医学部はないのだ。
「そうですよ。知らなかったんですか?」
「うん。でもなんで?”とりあえず”医者になるのもいいかなって、前に言ってなかったっけ?」
一年前か二年前か。それを聞いて”とりあえず”も含め彼らしいと思った記憶があった。
「・・・・気が変わったんですよ」
清四郎はわずかに俯いて、ほのかに頬を染めた。
もの憂げな瞳に睫毛がかかる。苦笑を浮かべた口元は、男のくせに妙に艶めいて見えた。
ドキン、と胸がざわめく。
悠理は本能的に、それ以上突っ込むのをやめた。清四郎にも、自分の心にも。
「出来てるんだったら、写させて〜〜」
ダメもとで言ってみたら、ノートでパシンと頭を叩かれた。
「怠慢すんじゃありません!低脳は治らないにしても、努力は見せろ、努力は」
情のかけらもないキッツイ言葉ながら、悠理はわずかに安堵を感じていた。
清四郎はいつもと変わらない、と。
そうして、悠理の部屋でいつものようにいつもの光景が繰り広げられた。
すなわち、うんうん呻りながらテキストに向う悠理と、その背後でビシビシしごく鬼教官。
悠理にとっては苦痛の時間だ。
――――まぁ、とは言っても。
つい先日までの期末テスト合宿の延長上のようなもの。違うのは、あのときは仲間達がいたというくらい。
二人きりというのも、めずらしくない。
ちらりと横目でうかがった清四郎の表情は、いつもと同じに見える。
悠理は自分が何を恐れていたのか、わからなくなった。
やっぱり、アレは思い違い。”付き合う”とは”勉強”に付く枕詞だったのかも。
思えば、清四郎はいつも誰よりも頼りになったではないか。彼を怖れて、何を頼る?
時にひどい物言いと態度ながら、清四郎がいつも悠理を気にかけ、助けてくれているのも事実だ。
なんでもできる、なんでも知っている、自慢の友人だった。
ちょっと性格に問題はあれど。
安堵と共に、胸の中があたたかく満たされてゆくのを悠理は感じていた。
『おまえに、惚れている』
そう告げられた言葉だけが、不自然に着地せず、落ち着かない胸のうちで漂っていたのだけれど。
**********
午後も過ぎ、灼熱の日差しが和らいだ頃。
「少し、休憩にしましょうか」
清四郎がそう言って席を立った。
「庭に出てみますか。そろそろ過ごしやすくなっていそうだ」
「やった♪」
悠理は思い切り手足を伸ばして伸びをした。
広大な中庭を望むバルコニーには、日傘と白いテーブル。休憩するには絶好のロケーション。
しかし、清四郎は机上のテキストとノートを重ねて用意している。
「何してんの?」
「気分を変えて、外でしましょう」
悠理はブーイング。どこが休憩〜?と口を尖らせた。
実際、庭は心地いいが、勉強するなら冷房の効いた室内の方がいい。
「旅行に行く前に終わらせたいでしょう?さっさと済ませれば夏中遊べますよ」
押しかけ家庭教師は、そう言って白いテーブルにもテキストを広げる。
諦めて、悠理は問題に取り組んだ。まだ夏休み二日目。長い長い楽しい時間のための、少しの我慢だ。
どうせ、例年八月末にやっていたことだ。期末テストの終わったばかりの今の方が、確かに課題の進みは速い。
そうして悠理は集中し始め。清四郎がそっと庭を離れたのに、しばらく気づかなかった。
「悠理」
声を掛けられて顔を上げたとき、視覚よりも先に嗅覚が甘い匂いに反応した。
「オヤツ?」
清四郎が盆を片手に笑顔で頷いた。
盆の上には、こんもり盛り上がったケーキ。
「うわぁい♪・・・あれ?これって、ウチのパティシエの作った奴じゃないよね?」
ケーキに見えたデコレーションされた物体は、巨大なアイスクリーム。
「学校の近くの”アンデレ”のアイスケーキ?」
「正解」
清四郎はテーブル上のテキストを片付け、コーヒーと取り皿を並べる。真ん中には巨大なケーキ。
「手土産がテキストだけじゃ、あんまりでしょう。行きがけに寄ってきたんです」
ナイフを入れたのは清四郎だが、ほんの薄い一片だけを自分用の取り皿に分け、残るホールを悠理の目の前に置いた。
「わ♪」
「どうぞ。がんばってるご褒美ですよ」
「ありがとー!清四郎ちゃ〜ん♪」
思わず”愛してるよ〜ん”といつもの調子で言いかけて、悠理は寸でのところで口を押さえた。
「ん?」
清四郎はにこやかに悠理の顔を覗きこむ。
「な、なんでもない!いっただっきま〜す!」
悠理はフォークを構えて首を振った。
口に頬張ると、冷たいアイスがすぐに溶ける。木陰の柔らかい日差しにもかかわらず、自分の頭が熱くなっていたことに、悠理はそれで気づかされた。
清四郎は穏やかな笑みを悠理に向けている。
たいていほとんど意地悪な清四郎だったが、ごくごくときたま気まぐれに――――優しい。
深い色の黒い瞳を細め、笑みを浮かべて悠理を見つめているこんな清四郎は、素直に好きだと思った。
こんな『彼氏』ならいいかも・・・
なんて、思っていたものだから。
「ほら、慌てないで」
クリームを拭おうと悠理の頬に伸ばされた清四郎の手。いつも通りのそんな仕草に、悠理はびくんと身を震わせた。
――――スキ、だって?
――――彼氏?
思いも掛けない自分の思考に、悠理の頭がぼんっと爆発。
悠理の頬に触れていた清四郎は、驚いて指を引っ込めた。
「悠理?」
「あ、あのさ!」
悠理はシュンシュン沸騰中で湯気を立てそうな顔のまま、思わず清四郎に怒鳴っていた。
「おまえ、あたいのどこがスキなわけ?!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
清四郎はしばし無言。
言ってしまってから悠理も後悔。
――――スキ、なんて清四郎は言ってたっけ?
――――あたいの、カンチガイかもしんないじゃん。
頭のヤカンがピーッと甲高い警戒音を発したように感じられた。
恥ずかしさとパニックで死にたくなる。
「・・・・それが分かれば、納得できるんですがね」
清四郎は困ったように眉を下げた。
「性格は、アメーバ並みの単細胞。思慮と知性は欠片すらナシ。それと張るほど胸もナシ」
ナシナシ連呼の果てに、清四郎は小さくため息。
「じゃ、顔?」
思わず悠理は問いかけてしまった。
清四郎は片眉を上げ、悠理の顔をまじまじ見つめる。
黒い瞳に真っ赤に染まった悠理の顔が映っている。
清四郎は、ふっと微笑んだ。
「・・・三白眼の猿顔ですよねぇ」
いくらなんでも。
たしかに野梨子や清四郎自身の黒目がちの目に比べれば、三白眼かも知れないが。
ここは、怒るところだろ、と悠理の内部で誰かが囁く。
だけど、悠理の巡りの悪い頭に怒りが浸透する前に。
「自分でも不条理で不合理だとは思いますよ」
清四郎は心底困ったように、今度は大きなため息をついた。
悠理の手に、そっと大きな手が重ねられる。
清四郎は椅子から腰を浮かせた。
「それでもおまえがいいんだから、我ながら物好きです」
そう告げ、清四郎は悠理に顔を近づける。
唖然と固まっている悠理の口に、ちゅ、と音を立てて触れた。
「甘い唇ですね」
清四郎は舌で自分の唇を舐める。溶けたクリームを舌先に乗せたまま、清四郎は笑った。
いつもの余裕の笑みでも、意地悪な微笑でもなく。
照れたように眉を下げ、破顔した。
「な、な、な、な、・・・・・・・・」
悠理はやっと、何をされたか理解した。
「き、き、き、き、・・・・・・・・・」
初めてのキスは、甘い甘いクリーム味。
「なにすんだ、てめー!」
悠理は握り締めたままだった右手を、清四郎に向けて振りかぶった。左手は、彼に握られていたので。
清四郎は、おっと、と皿を持ち上げる。
右手に握っていたフォークはまだ残っているケーキに突き刺さった。
「さぁ、さっさと食べる!それから宿題の続きですよ」
清四郎は悠理の左手を解放し、皿を抱えさせた。
「言ったでしょう?やりたいことは、やると」
ケーキ皿を抱えたまま、悠理は唖然と呟く。
「あたいに、拒否権は・・・?」
清四郎はにっこり。
「あるとでも?」
今度のその笑みは、見慣れたいつもの”悪魔の笑み”だった。
生まれて初めての経験。
これまでとは違う、夏の始まり。
それは、悠理が夏休みの宿題を、わずか二日で済ませてしまった――――奇跡の夏。
つづく?2005.8.8
なんか、続いてしまいました。前回、清四郎たんがあんまりひどい男だったので、ちょっとは優しい彼氏にしようとがんばってみたんですが・・・相変わらず、口は悪いです。(笑)
甘いのはケーキだけ。あまあまイチャイチャを目指して書き出したお話なんだけどね〜〜初志貫徹を志し、もうちょっと続くかも。
お盆に海水浴しながら、南の島妄想に浸ってきま〜すv