前編
「よぉ、久しぶり」 可憐の家はもう魅録の家なのだから、ドアを開けて出迎えたのが彼であっても当然。 「み、魅録!」 悠理の声が上ずるのも当然。学生時代は毎日顔を合わしていた親友なのに、半年ぶりの対面だった。 上がれよ、と促されても、悠理の足は凝固して動かない。 少し短くなった髪に驚く。その色が見慣れたピンクではなかったから。 薄い灰色がかった茶色。 彼の両親の時宗と千秋も漆黒の髪ではないから、ひょっとしたらこれが魅録の素の髪の色なのかも知れない。 「なんだよ、びっくり目で。そんなに珍しいかー?仕方ねーだろ。研修期間中は合宿所に監禁同然だったんだぜ。 髪なんか染められるかよ。それどころか、初日にバリカンで剃られちまってさ。軍隊かっつーの。 ようやくここまで伸びたんだぜ」 魅録は照れくさそうに短い髪に手をやる。髪だけでなく、精悍さを増した頬と一回り厚くなった胸板が、まだどこか 引きずっていた少年期を彼が抜け出て大人の男に変わったことを示している。 「本当に、ご無沙汰ですね、魅録」 隣に立つ清四郎の言葉で、悠理の足がやっと動いた。 勝手知ったる玄関で靴を脱ぎ、バラ模様のスリッパに足を通す。魅録は裸足。来客用のスリッパは、彼には不要だ。 「おー、清四郎。やっとシャバに出られたぜ」 「シャレになりませんな、その言葉」 男たちは拳と掌を合わせ、挨拶を交わしている。 「あ、来た来た!いらっしゃい!美童と野梨子はもう来てるわよ」 可憐が奥からひょいと顔を出した。 久しぶりに会う彼女は、ゴージャスな巻き毛を緩く一本の三編みに束ね、服装もラフだ。 自宅なのだから当然だったが、それがTシャツにジーンズの魅録と似合いの一対に見えた。 「悠理も清四郎も、この家に来るのは引越しの時以来じゃない?もう、水臭いんだから」 「まぁ、そうですの?研修中だった魅録とは久しぶりですが、そんなに可憐とも会ってなかったなんて」 悠理の持参したケーキを受け取って皿に分けながら、野梨子が不思議そうに首を傾げた。 「野梨子はお茶席でも会うし、美童なんてしょっちゅう店に顔出してくれるのにさ。毎回違う彼女連れてだけど」 美童は肩を竦める。 「悠理や清四郎にはもっとパーティで会うかと思うのに、なかなか会わないわね」 悠理と清四郎は目線を交わす。清四郎が苦笑し拗ねた顔の可憐に顔を向けた。 「先日の剣菱のパーティでは貴女を見かけましたよ、可憐。でも営業に熱心だったようなので声を掛けなかったんです」 「それが薄情だって言うのよ。あんた、結構もう幅利かせてるんでしょ?上客紹介して欲しいのにさ」 「とんでもない。僕は新入社員なんですよ。使いっ走りです」 皆はそれぞれの近況を報告し、談笑する。 家業を継いで勉強中の可憐と野梨子。院に進んだ美童。新社会人として忙しい毎日を送る魅録と清四郎。 悠理だけが、何もしていない。何もできない。 家業を手伝っている――――と言えないことはない。可憐が言うように、あいかわらず留守がちな母親の代わりに、父や兄と 公の場に出ることも多くなった。だけど、清四郎のように組織の一員になって働いているわけではない。 清四郎は剣菱に入ったけれど、悠理と仕事の場で顔を合わせたことはほとんどなかった。 彼の言うように、まさか使い走りのわけはなかったが、仕事人間の清四郎と、遊ぶことが仕事のような悠理の時間は重ならない。 だから、時々彼の部屋に顔を出す。 あの頃のままの友人として。 本当は、変わっていないのは悠理だけなのだけど。 あの頃から。心の時間を止めたように。 そして、容赦なく時間は悠理を置いて動き出す。 「ところで・・・見せたいのは、これなのよ」 可憐がこほん、とひとつ咳をついた。 もちろん、皆はもう気づいていた。可憐の左手の薬指に輝くダイアモンドのリングに。 「って言うか。まだだったことの方が僕には驚きなんだけど」 美童の言葉は皆を代弁している。 可憐と魅録が婚約してもう半年以上。魅録が越してからだってずいぶん経っているのだ。 「普通、婚約のときに渡すものじゃなかったんですの?」 野梨子も微笑を浮かべて魅録を見つめる。 「分かってるよ、苛めないでくれ!」 魅録は真っ赤に顔を染めて短い髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。 「甲斐性なかったんだよ!悪かったな!」 憤慨しているような口調だが、照れているだけだとは皆分かっている。 「魅録ってば、どうしても自分で働いた給料からでないと、と意地張っちゃってさ。研修中だったのよ?仕方ないじゃない」 可憐は唇を尖らせて、左手に目を落とした。 だけど、その目は柔らかく潤んでいる。 「だから、やっとなの」 そう言った可憐は、切ないほど幸福に見えた。 煌くダイアモンド。何よりも固い愛の誓い。 「・・・良かったな、可憐」 「おめでとうございます魅録」 皆口々に、心からの喜びを口にする。 もちろん、悠理も。 「おめでとう、可憐、魅録!」 上手に笑みを浮かべることができた。本心から。 泣きたくなるほど、ふたりが眩しかったけれど。 ふいに肩に温もりを感じた。 ソファに座る悠理の背後に立っていた清四郎が、肩に手を置いたのだ。 「・・・おめでとう」 可憐と魅録に顔を向けながら、清四郎は悠理の肩に触れた手に力をこめる。 その手にこもった思いやりと気遣いが面映く、悠理は清四郎の手にそっと手を重ねた。 ――――大丈夫だから。 泣きだしたりなんかしない。だって、心から二人の幸せを喜べるから。 悠理の気持ちが伝わったのか、清四郎の手はそっと肩から離れた。 振り返らずとも、清四郎がどんな顔をしてるか分かる。 あの深い黒い瞳を感じられた。 悠理の隣で、少し驚いたように野梨子が清四郎を見上げている。 可憐もポカンとした顔で、悠理と清四郎を見つめている。 「なに?」 悠理は首を傾げた。 皆の表情が解せなかった。 自然に笑えたつもりなのに、どこか変だったのかと、不安に駆られた。 美童と魅録もあっけにとられたような顔でこちらを見ているから。 「それで、式の日取りは決まったんですか?」 清四郎の落ち着いた声。 清四郎の声には、安静効果がある。そして、鎮痛効果も。 不思議なくらい、心は痛まなかった。 悲しくなんかない。泣いたりなんかしない。 替わりに悠理の胸に広がるのは少し切ない安堵感。 「あ、うん。来年の春にするつもり」 「え?そんな先ですの?」 「俺は研修期間が終わったばっかだからな。まだ半人前もいいとこ。可憐には悪いけどさ」 魅録がまた短い髪を撫でる。どうも自分でもまだ慣れないらしい。 そんな彼の照れた仕草に、仲間たちは微笑した。 「まったくよね。こんないい女、待たしてばっかでさ」 言いながら、可憐は幸福そうに微笑している。 不器用な魅録。そして、可憐は確かに言葉通り以前よりいい女になったように思う。 少女期を抜け出て、内側から輝くような美しさが増した。それはまるで、その指に光る宝石のように堅固な輝き。 鷹揚で度量が広いのは魅録の方だったはずなのに、今では彼女が彼を包み込んでいるように見えた。 「春ですか。4月?」 「ええ。GW前後になりそうだわ。どうせ、休みもあまり取れないでしょうから」 可憐が諦めたように肩をすくめる。 「そうですか・・・それは困ったな」 「え?」 意外な清四郎の言葉に、全員が彼に注目した。 「いえ、実はちょうどその頃、日本を離れているはずなんですよね」 「まぁ、仕事でですの?」 「ええ。欧州を色々と。でも、結婚式にはなんとしてでも帰って来れるよう、都合つけますよ」 「へぇ、また出張なんだ?」 清四郎は会長室付きだ。海外出張は珍しくもない。 なにげなく聞いた悠理の言葉に、清四郎は首を振った。 「いえ。あちらで新規事業を立ち上げる予定なんで、出張でなく赴任ですかね」 「海外赴任?あっちに住むのか?」 美童が驚いて声を上げた。 「初めて僕が全権任されたんです。拠点はまだ決めてませんが、当分海外暮らしですね」 「「「嘘!」」」 可憐、野梨子、美童の声が重なる。 「当分って・・・どのくらいなんだ?」 魅録が固い声で問う。 「ふむ、半年か、一年か・・・どの位で軌道に乗せられるやら」 清四郎は腕を組んで、顎を撫ぜた。少し楽しげに目を細めている。 その清四郎の顔を、穴の開くほど悠理は見つめていた。 あまりに驚いて、息が止まる。 それはまるで、突然冷水を被ってしまったときのような、衝撃。 「・・・あたい、聞いてないよ・・・」 ようやっと出せた声は、震えていた。 全身の血が引いてしまったように寒くて。 「そりゃあ、言ってませんでしたから。――――え?悠理?」 清四郎が焦った声を出した。だけど、見上げた清四郎の姿は曇って霞んだ。 「ひ・・・ひぃっく・・・」 抑えきれずに嗚咽が漏れる。溢れ出す涙。 「まぁ、悠理・・・」 隣に座っていた野梨子が、膝の上の悠理の手を握ってくれた。だけど、凍ったように冷たい指先の感覚は戻らない。 「悠理!」 「悠理、そうだったのね」 美童と可憐が駆け寄ってきてくれる。涙で霞んで、姿は見えないけれど。 柔らかな腕に肩を抱きしめられる。可憐の温かで優しい腕。 ずっと、可憐の前では泣かないように頑張ってきたはずだったのに。 悠理の決意は脆くも崩れた。意識するよりも先に、涙が零れてしまった。 苦しくて、苦しくて。 大声を上げて泣きたかったけれど、胸が痛くてできなかった。 「う・・・うぅ・・・」 涙と嗚咽だけが溢れて零れる。 可憐の豊かな胸に顔を伏せ、奥歯をかみ締める。 いつも悠理の涙を吸い取ってくれたのは、清四郎の胸。 心に空いた穴を満たし、温めてくれた優しい腕。深い色の瞳。 ――――清四郎がいなければ、だめだ。 「悠理、いったいどうしたんですか?」 戸惑いを乗せた清四郎の声が胸に刺さる。 悠理の泣き顔なんて見慣れているはずなのに、清四郎は驚いた声。 悠理がどれほど清四郎に精神的に依存していたか、彼は知らない。 悠理自身も、気づいていなかったのだ。 失恋も、淋しい夜も、清四郎が居てくれたから乗り越えられた。 彼が居なくなると思っただけで、激しい拒否反応。涙は生理現象。 彼が居ないとだめだ。清四郎じゃないとだめだ。 こんなふうに泣いてしまえば、変に思われる。 そう分かっていても、悠理の涙は止まらなかった。 悠理の手を握っていた野梨子が、すっくと立ち上がった。 「・・・清四郎、お聞きしたいことがあるんですが」 強張った声。 悠理を抱きしめて背を撫でてくれていた可憐も立ち上がる。 「あたしもよ。ちょっと、あちらで話しましょう!」 野梨子と可憐は清四郎を両側から挟むように腕を取り、無理やり促す。 「・・・は?」 女性二人の剣幕に清四郎は困惑顔。否応もなく、可憐の部屋へ連れ去られて行った。 三人が去った居間に残されたのは、美童と魅録。そして泣き続ける悠理。 「悠理・・・清四郎が好きなんだ?」 野梨子がそうしていたように、美童は悠理の手を握る。 その手に涙がポタポタ落ちた。 否定しようとして頭を振ろうとしても、体が強張って動かない。 苦しくて、苦しくて。 あまりに大きすぎる喪失感。 ――――清四郎が、好きなんだ? 美童の問いかけが、真っ直ぐ突き刺さる。 癒えかけていた胸の傷跡に。空洞になっていたはずの心に。 ただ、苦しくて、苦しくて。 声が出せない。 黙って涙を流す悠理の隣に魅録が座った。可憐がそうしていたように肩を抱き寄せる。 「声も出さず泣いてるなんて、悠理らしくねぇな」 魅録のTシャツに悠理の涙が滲みる。 大好きだった魅録。それなのに。 あまりにも唐突に襲い掛かった喪失感が激しすぎて、悠理は凍り付いてしまった。 あれほど欲しかった彼の手が、抱きしめてくれるのに。 心が反応しない。 ぼやけたままの視界。胸の痛みだけがリアルに感じられる。 清四郎が、目の前からいなくなる――――その事実が、悠理の思考を呪縛する。 失うなんて、思いもしなかった。 清四郎の声。手の温もり。広い胸。包み込む匂いまで。 清四郎、清四郎、清四郎――――出せない声の代わりに、胸のうちで名を繰り返す。 こんな痛みには、とても耐えられない。 清四郎じゃなければ、駄目だ。 「さっきのおまえらの様子見て、俺はてっきり付き合ってんだと思ったんだけどな」 「だったら、あの清四郎の発言はあんまりだよね。今頃女の子達にシメられてるだろうけど」 魅録と美童はため息をつく。 「悠理・・・あいつには、気持ちを告げてないんだ?」 優しく美童に問われ。 悠理は小さく頷き、そして左右に首を振った。 「・・・ちがう・・・」 ポタポタ涙が散る。 ――――清四郎が、好き? これが”好き”という気持ちなら、どうしてこんなにつらいのか。 自覚したときには終わっていた魅録への初恋でさえ、こんなにも痛くはなかった。 永遠に会えないわけじゃない。半年か一年だと彼は言ったのに。 それなのに、耐えられない。 だって。 「・・・清四郎には、好きな人がいるんだ・・・」 悠理の言葉に、友人達は驚いた顔をした。 清四郎は、誰かを愛している。 そんなことは分かっている。だけど、それは悠理にとってほとんど現実的なものではなかった。 片思いだと彼が言ったから? その悠理の知らない誰かさんは、清四郎を連れ去ってはいかないと思っていたから? 彼の恋が叶う事を願ったはずなのに、いつの間にか懼れていた。 ずっとそばにいてくれた。いつだって、悠理を包み込んでくれた。 あの手を失うことがなによりも恐かった。 止まっていたはずの時間は、流れていた。 もう、悠理も気づいてしまった。 一番かけがえのない人が誰かということを。 ――――そばにいてくれるなら、誰でもいいのか。 魅録に失恋したから、今度は清四郎? 喪失感からくるショック状態から抜け出し。 自分の心の奥に棲んでいた想いに気づいた悠理は、今度は自己嫌悪で胸が苦しくなった。 あまりにお手軽な恋心に、吐き気がした。
ええと・・・ごめんなさい。悠理ちゃん、このシリーズでは最初から最後までベソベソしてます。梅雨にやだなぁ、こんなお話。
ですので、サクッと終わらせたくて前編アップ。しかし、次で終わるかどうかはまーったく見えません。とにかく、笑顔で終わらせたいものです。 |