思いがかさなるその前に

中編



どうして、清四郎を好きだと気づいてしまったんだろう。
どうして、清四郎でないと駄目なのだと、こんなにはっきりと分かるんだろう。
どうして、どうして。

あの腕は悠理のものではないのに。あの胸には誰かが住んでいるのに。
清四郎には、愛する人がいる。それを一番良く知っているのは、悠理のはずなのに。

どうして、悠理の恋はいつも手に入らない相手に向ってしまうんだろう?



********




悠理の涙は止まらなかった。
清四郎がリビングに戻ってきたときも。

野梨子と可憐に左右から両腕を取られ、清四郎は心配そうに悠理を見つめている。
野梨子と可憐は打って変わってどちらも笑顔。先程までの硬い表情は消えていた。
可憐に至っては、魅録にピースサインまで掲げて見せる。

悠理の胸がドキンと鳴った。

清四郎の視線を感じ――――思わず、ぎゅ、と魅録のTシャツを握りしめる。
先程からずっと、声も立てず涙を流す悠理の肩を、魅録は抱いてくれていた。
悠理と魅録が寄り添っていたからといって、可憐の笑顔は曇らない。清四郎の目にも、驚愕や困惑の色はない。
黒い瞳に浮かぶのは、悠理への憐憫。
そうあって欲しい嫉妬の代わりに。

「どうして・・・」
小さく呟いた悠理の言葉は、魅録にしか聞こえなかった。
「悠理?」
問いかける魅録の胸に顔を埋めるように、悠理は顔を伏せた。

見られたくなかった。
泣きはらした顔を。

誤解されたくはなかった。
魅録を想って泣いているのだとは。

それでも。

知られたくなかった。
悠理の心変わりを。

どうして、いつまでも魅録だけを想い続けていられなかったんだろう。
魅録にはなにも求めなかった。このまま、一生、片思いでもいいと思っていた。
自然に距離が開き――――ゆっくりと、慣れてゆけばいいと思っていた。彼の隣に自分の居場所がないことを。
それでも、かわらず親友でいられると思った。

魅録の煙草の匂いが悠理を包む。そして、甘い芳香。
初めて顔を埋めた魅録の胸は、悠理の知っている広い胸とは違った。
悠理の髪を撫でてくれる手が、柔らかい女性のそれに替わる。
可憐の香水と魅録の香りが優しく溶け合った。
「悠理、あんた清四郎に送ってもらって帰りなさい。お昼ご飯なんて喉を通らないでしょ」
悠理はふるふる首を振る。
確かにどんな料理も喉を通りそうにないけれど、このまま清四郎とふたりになるのも怖かった。
一度溢れ出してしまった思いはもう隠せない。ふたりきりになれば、清四郎にだって知られてしまう。
皆に知られてしまったように。

「いつだって何度だって、ご馳走したげる。これからはもっと顔を出してよ」
優しい可憐。魅録と可憐に抱きしめられていると、ふたりの子供になったような安堵感。
それはいつか見た夢を思い出させた。
悠理が初恋から解放される夢。横恋慕を忘れ、親友たちに赦される夢。
欲しかったはずの魅録の温もりと、可憐の笑顔。
だけど。
あの夢の中でさえ、悠理が無意識で求めたのは清四郎の腕だった。
呼んだのは、清四郎の名だった。

悠理は顔を上げた。
涙で霞んだ視界の向こうで、野梨子と美童が悠理を心配そうに見つめている。
そして、清四郎が。

嫌になるほど、はっきりと清四郎の顔が見えた。
嫌になるほど、はっきりと清四郎の思考が読めた。
清四郎は、悠理の突然の情緒不安定を、魅録の結婚のせいだと思っている。

「清四郎、あなたの責任ですわよ。悠理を送ってあげてくださいな」
野梨子が幼馴染を睨み上げる。
「・・・ええ」
困った顔で、清四郎は頷いた。
「いきなり海外なんて聞かされちゃ、悠理もパニクるよね。清四郎、女心に鈍すぎるよ」
美童の非難に清四郎は苦笑を浮かべている。
仲間達の誤解を解こうとしないのは、彼の悠理への憐憫の情。

いつだって、清四郎は優しかった。
悠理の傷を癒してくれた。包み込んでくれた。
そしていつの間にか、悠理の胸一杯に、棲みついてしまった。
悠理のものには、ならないくせに。
好きなひとが、いるくせに。

「悠理、清四郎とちゃんと話し合った方が良くってよ」
勘違いしている野梨子。美童も、魅録も、可憐も。
話し合うことなんて、何もない。

清四郎は大きな仕事を任されて、海外へ。
友人として、悠理は見送るだけ。

行かないで、なんて言えるはずはない。
好きだなんて、言えるはずはない。

『魅録が可憐と結婚するから、諦めがついちゃった。おまえも好きな人を諦めて、あたいにしない?』
なんて、明るくバカを言う自分を想像し。
また吐き気がした。

軽蔑されるのは嫌だった。まだ、憐れみの方がいい。

――――僕は、諦めません。振り向くはずのない相手でも。

かつて清四郎はそう言った。
清四郎にとっては、悠理のこの想いは裏切りも同然だろう。
心変わり。横恋慕。

だけど、彼の恋の成就を、悠理はもう願えない。



********




可憐の駐車場に入れた車を出し、清四郎が助手席の扉を開けた。
「悠理」
当然のように呼ばれて、悠理は諦めて乗り込んだ。
家に帰るなら車を呼ぶか電車にする、という悠理を、野梨子と可憐がなかば無理やり止めた。
ふたりは何度も、清四郎と話し合いなさい、と言う。
大丈夫だから、と。

なにが大丈夫なのか、わからない。
悠理の心はボロボロだった。自己嫌悪と、気づいてしまった叶わぬ恋で。

車は静かに走り出す。
清四郎から顔を逸らせて、悠理は窓の外に顔を向けた。
これ以上、無様な姿を見せたくはない。せめて、悠理の裏切りに気づいて欲しくない。
友人としてでさえ、軽蔑されてしまうのが怖かった。

景色が目に残らないまま、どれくらい車は走ったのか。
「・・・あいつらを、誤解をさせてしまいましたね」
清四郎がポツリと言った。
悠理は窓を向いたまま、頷く。
「でも、誤解された方が良かったかもしれませんね、おまえにとっては」
清四郎の静かな口調。
過ぎる景色が滲んで消えた。
車中には沈黙が満ちる。
悠理は必死で嗚咽を耐えた。

どうしてこんなに、清四郎の気持ちがわかってしまうんだろう。顔を逸らしているのに。
彼は悠理が魅録への想いを爆発させてしまったと思っている。
そして、清四郎と付き合っていると皆が誤解したことで、魅録への横恋慕を知られずに済んだのだと。
それで良かったと悠理も思うべきなのだろうか。
横恋慕、心変わり。
それを、清四郎に気づかれずに済んでいるから。



********




「悠理、着きましたよ」
剣菱財閥の豪邸が視界に入った。
車は正門の前に横付けされる。守衛が清四郎に気づき門を開けようとするのを、清四郎は片手を上げて制した。
「ここでいいでしょう?」
降りろと促されて、悠理は車のドアに手を伸ばした。清四郎の顔を一度も見れないまま。

ドアを開けようとした悠理の背に、
「・・・悠理、悪かった」
清四郎の謝罪。
びくりと、悠理の肩が揺れる。
「な、なに・・・が?」
無理やり、明るい声を出そうとした。
「おまえがあいつらの前では泣くまいと、懸命に耐えていたことを知っていたのに・・・僕が 我慢を無駄にさせてしまったんだな」

その言葉に、もう悠理は耐えられなかった。
「やだ・・・やだよ・・・清四郎」
悠理は清四郎に顔を向けた。涙でぐしゃぐしゃのまま。

駄目だと――――言ってはいけないと、分かっているのに。
「おまえがいなくなるなんて、あたい・・・」
言葉と嗚咽が、堰を切ったように溢れ出す。
運転席で、清四郎は愕然と固まっている。その袖に額を押し付け、悠理は 懇願した。
「清四郎がいてくれないと、だめだよ!」
叫んで、清四郎の肩にすがりついた。

「お願いだよ、そばにいて・・・!」

「・・・・悠理・・・・」
呆然と呟かれた声は、彼らしくなく狼狽していた。
かすれた震える声。
悠理の肩に置かれた手も、震えていた。



********




抱き合うわけでもなく、ただ、寄り添い。
どれほど、そうやっていたのか。

清四郎の手が悠理の肩を優しく押した。
「悠理・・・僕はすぐに消えていなくなるわけじゃないんですよ?」
押し付けていた額を離し、悠理は顔を上げる。
首を振る。
「それがずっと先でも・・・嫌」
頬を伝う涙を拭えない。
「嫌だよ。どこにも行かないで」
駄々っ子のように、首を振ることしかできない。

――――ただ、そばにいて。
いつものように、抱きしめて。

言葉にできない想いを込めて見つめる。
黒い瞳に映る感情。揺らいでいるのは、驚愕、疑念、憐憫の色。何かを耐えるように、引き結ばれた口元。
清四郎は目を伏せた。
だから、見えなくなる。いつも悠理を落ち着かせるあの黒い瞳が。

「・・・どうしてだ?悠理」
清四郎がかすれた声を吐き出す。目を伏せたまま。
「どうして、僕に?」

残酷な問いだった。
もうこんなに、悠理の想いは溢れてしまっているのに。誰の目にも明らかなほど。
口に出してしまえば、友情も優しい時間も失ってしまう。
だから、言えない。
そのはずなのに。

涙とともに言葉が溢れ出た。
「あたい、あたい・・・清四郎が・・・」

悠理の肩にかかっていた清四郎の指に力がこもった。
痛いほどつかまれ、引き寄せられる。
広い胸に、抱きすくめられた。

清四郎のシャツに悠理の涙が吸い込まれる。
大きな手が、髪に差し込まれ、頭を胸に押し付けられる。
きつく、きつく抱きしめられ。
込み上げ溢れ出すのは、信じられないほどの幸福感。安堵と歓喜。
眩暈がして、溺れる者のように清四郎にすがりついた。

清四郎の胸から激しい鼓動が聞こえる。
誰を愛していてもいい。今、こうして抱きしめてくれるだけで。

何度も抱き合ったことはあるのに、体が火照って抑えようもなく震えてしまう。
気さえ遠のきそうになった。

「・・・悠理・・・おまえは、混乱してるんだ」
だから、耳元で囁かれた清四郎の声を、悠理は夢見心地で聞いていた。
低い、かすれた声。
まるで泣いているかのように、震える声。
「淋しくてたまらないのに、僕にまで突き放されたと思ったんだな」
清四郎の言葉が理解できない。泣きすぎてぼんやりした頭では無理だ。
「野梨子や可憐には白状させられたけど、今のお前に告げる卑怯はわかっています」
清四郎の腕から力が抜けた。
それでも、離れるのが嫌で、悠理は清四郎の胸に顔を埋めたまま。

「おまえが好きなのは、魅録だ。――――僕じゃない」

だけど、腕よりもその言葉が、悠理を突き放した。
一瞬の、苦しいほどの幸福感から。

ゆっくりと、清四郎の言葉が悠理の心に沁み込む。



********




――――ずっと魅録が好きだった。それは本当。
いつも淋しさを癒してくれる清四郎にすがって。依存して。
なのに、その清四郎が遠くに行ってしまうと聞いて、勘違いしているだけ。
独りになる淋しさと、恋を。



********




「おまえが恋しているのは、魅録だ」
もう一度、清四郎はそう言った。

違う――――そう、否定することはできない。
魅録を思うと、まだ胸が疼く。
淋しいのも、たぶん本当。
最初から、清四郎には甘え依存してしまっていたことも。

まるで暗示のように。
清四郎の言葉は、悠理を縛りつける。

胸の奥が冷たく凍った。
石を呑んでしまったようだ。
冷たい塊が胸に詰まって、息ができない。
涙さえ、凍ってしまったようだ。

止め処もなく流れていた涙が止まり。
体の震えも止まった。熱くなっていた頭も冷える。
ゆっくりと、悠理は清四郎の胸から身を離した。
両手で押し退けた熱い胸。
清四郎の心臓の音を掌に感じ。
空っぽの心が、しくしくと痛んだ。

誰かを愛している。
切ないほど一途に。

悠理の裏切りも弱さも、清四郎は許してくれるだろう。
清四郎の言葉は、いつだって悠理を落ち着かせる。
安静効果。鎮痛効果。
だけど、胸の痛みは消えない。

悠理は清四郎の顔をふたたび見上げることができなかった。
恥ずかしくて、苦しくて。
息ができないほどの絶望感。

清四郎から顔を逸らせたまま、車のドアを開けた。
逃げ出すように車から降りる。
「悠・・・」
清四郎の声が背中に追って来たが、悠理は振り返ることなどできなかった。

もう、自分の気持ちも、清四郎の心も見えない。見たくない。
ただ、この胸の痛みを癒す特効薬などないことだけは、分かっていた。








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ハイ、前回から泣かせすぎたので、悠理ちゃんの涙をがんばって止めてみました。・・・うわっ天から石礫がっ!
おかしいなぁ。そろそろ終わるはずだったんだけど。
可憐と野梨子のみならず、BBSで皆様に引っ叩かれている清四郎ですが、このお話は「一途な夜〜」の翌日の話なんですよね。可哀相な片思い男なんですよ? 同情の余地はありますよね?ね?・・・うわぁ、また石がっ!投石禁止!

きっと、可憐と野梨子には詰め寄られ、あっさり白状したと思われ。
「あんた、悠理のことどう思ってんのよ?!」
「・・・それは、その」
「どうですの、清四郎?!」
「・・・まだ本人には言ってませんが・・・愛してますよ、もちろん」
それで、無罪放免。「さっさと告って来い!」と背中を張られた程度かと。

え?代わりに殴ってやる?きゃーっ、暴力反対〜〜!

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