中編
どうして、清四郎を好きだと気づいてしまったんだろう。 どうして、清四郎でないと駄目なのだと、こんなにはっきりと分かるんだろう。 どうして、どうして。 あの腕は悠理のものではないのに。あの胸には誰かが住んでいるのに。 清四郎には、愛する人がいる。それを一番良く知っているのは、悠理のはずなのに。 どうして、悠理の恋はいつも手に入らない相手に向ってしまうんだろう? 悠理の涙は止まらなかった。 清四郎がリビングに戻ってきたときも。 野梨子と可憐に左右から両腕を取られ、清四郎は心配そうに悠理を見つめている。 野梨子と可憐は打って変わってどちらも笑顔。先程までの硬い表情は消えていた。 可憐に至っては、魅録にピースサインまで掲げて見せる。 悠理の胸がドキンと鳴った。 清四郎の視線を感じ――――思わず、ぎゅ、と魅録のTシャツを握りしめる。 先程からずっと、声も立てず涙を流す悠理の肩を、魅録は抱いてくれていた。 悠理と魅録が寄り添っていたからといって、可憐の笑顔は曇らない。清四郎の目にも、驚愕や困惑の色はない。 黒い瞳に浮かぶのは、悠理への憐憫。 そうあって欲しい嫉妬の代わりに。 「どうして・・・」 小さく呟いた悠理の言葉は、魅録にしか聞こえなかった。 「悠理?」 問いかける魅録の胸に顔を埋めるように、悠理は顔を伏せた。 見られたくなかった。 泣きはらした顔を。 誤解されたくはなかった。 魅録を想って泣いているのだとは。 それでも。 知られたくなかった。 悠理の心変わりを。 どうして、いつまでも魅録だけを想い続けていられなかったんだろう。 魅録にはなにも求めなかった。このまま、一生、片思いでもいいと思っていた。 自然に距離が開き――――ゆっくりと、慣れてゆけばいいと思っていた。彼の隣に自分の居場所がないことを。 それでも、かわらず親友でいられると思った。 魅録の煙草の匂いが悠理を包む。そして、甘い芳香。 初めて顔を埋めた魅録の胸は、悠理の知っている広い胸とは違った。 悠理の髪を撫でてくれる手が、柔らかい女性のそれに替わる。 可憐の香水と魅録の香りが優しく溶け合った。 「悠理、あんた清四郎に送ってもらって帰りなさい。お昼ご飯なんて喉を通らないでしょ」 悠理はふるふる首を振る。 確かにどんな料理も喉を通りそうにないけれど、このまま清四郎とふたりになるのも怖かった。 一度溢れ出してしまった思いはもう隠せない。ふたりきりになれば、清四郎にだって知られてしまう。 皆に知られてしまったように。 「いつだって何度だって、ご馳走したげる。これからはもっと顔を出してよ」 優しい可憐。魅録と可憐に抱きしめられていると、ふたりの子供になったような安堵感。 それはいつか見た夢を思い出させた。 悠理が初恋から解放される夢。横恋慕を忘れ、親友たちに赦される夢。 欲しかったはずの魅録の温もりと、可憐の笑顔。 だけど。 あの夢の中でさえ、悠理が無意識で求めたのは清四郎の腕だった。 呼んだのは、清四郎の名だった。 悠理は顔を上げた。 涙で霞んだ視界の向こうで、野梨子と美童が悠理を心配そうに見つめている。 そして、清四郎が。 嫌になるほど、はっきりと清四郎の顔が見えた。 嫌になるほど、はっきりと清四郎の思考が読めた。 清四郎は、悠理の突然の情緒不安定を、魅録の結婚のせいだと思っている。 「清四郎、あなたの責任ですわよ。悠理を送ってあげてくださいな」 野梨子が幼馴染を睨み上げる。 「・・・ええ」 困った顔で、清四郎は頷いた。 「いきなり海外なんて聞かされちゃ、悠理もパニクるよね。清四郎、女心に鈍すぎるよ」 美童の非難に清四郎は苦笑を浮かべている。 仲間達の誤解を解こうとしないのは、彼の悠理への憐憫の情。 いつだって、清四郎は優しかった。 悠理の傷を癒してくれた。包み込んでくれた。 そしていつの間にか、悠理の胸一杯に、棲みついてしまった。 悠理のものには、ならないくせに。 好きなひとが、いるくせに。 「悠理、清四郎とちゃんと話し合った方が良くってよ」 勘違いしている野梨子。美童も、魅録も、可憐も。 話し合うことなんて、何もない。 清四郎は大きな仕事を任されて、海外へ。 友人として、悠理は見送るだけ。 行かないで、なんて言えるはずはない。 好きだなんて、言えるはずはない。 『魅録が可憐と結婚するから、諦めがついちゃった。おまえも好きな人を諦めて、あたいにしない?』 なんて、明るくバカを言う自分を想像し。 また吐き気がした。 軽蔑されるのは嫌だった。まだ、憐れみの方がいい。 ――――僕は、諦めません。振り向くはずのない相手でも。 かつて清四郎はそう言った。 清四郎にとっては、悠理のこの想いは裏切りも同然だろう。 心変わり。横恋慕。 だけど、彼の恋の成就を、悠理はもう願えない。 可憐の駐車場に入れた車を出し、清四郎が助手席の扉を開けた。 「悠理」 当然のように呼ばれて、悠理は諦めて乗り込んだ。 家に帰るなら車を呼ぶか電車にする、という悠理を、野梨子と可憐がなかば無理やり止めた。 ふたりは何度も、清四郎と話し合いなさい、と言う。 大丈夫だから、と。 なにが大丈夫なのか、わからない。 悠理の心はボロボロだった。自己嫌悪と、気づいてしまった叶わぬ恋で。 車は静かに走り出す。 清四郎から顔を逸らせて、悠理は窓の外に顔を向けた。 これ以上、無様な姿を見せたくはない。せめて、悠理の裏切りに気づいて欲しくない。 友人としてでさえ、軽蔑されてしまうのが怖かった。 景色が目に残らないまま、どれくらい車は走ったのか。 「・・・あいつらを、誤解をさせてしまいましたね」 清四郎がポツリと言った。 悠理は窓を向いたまま、頷く。 「でも、誤解された方が良かったかもしれませんね、おまえにとっては」 清四郎の静かな口調。 過ぎる景色が滲んで消えた。 車中には沈黙が満ちる。 悠理は必死で嗚咽を耐えた。 どうしてこんなに、清四郎の気持ちがわかってしまうんだろう。顔を逸らしているのに。 彼は悠理が魅録への想いを爆発させてしまったと思っている。 そして、清四郎と付き合っていると皆が誤解したことで、魅録への横恋慕を知られずに済んだのだと。 それで良かったと悠理も思うべきなのだろうか。 横恋慕、心変わり。 それを、清四郎に気づかれずに済んでいるから。 「悠理、着きましたよ」 剣菱財閥の豪邸が視界に入った。 車は正門の前に横付けされる。守衛が清四郎に気づき門を開けようとするのを、清四郎は片手を上げて制した。 「ここでいいでしょう?」 降りろと促されて、悠理は車のドアに手を伸ばした。清四郎の顔を一度も見れないまま。 ドアを開けようとした悠理の背に、 「・・・悠理、悪かった」 清四郎の謝罪。 びくりと、悠理の肩が揺れる。 「な、なに・・・が?」 無理やり、明るい声を出そうとした。 「おまえがあいつらの前では泣くまいと、懸命に耐えていたことを知っていたのに・・・僕が 我慢を無駄にさせてしまったんだな」 その言葉に、もう悠理は耐えられなかった。 「やだ・・・やだよ・・・清四郎」 悠理は清四郎に顔を向けた。涙でぐしゃぐしゃのまま。 駄目だと――――言ってはいけないと、分かっているのに。 「おまえがいなくなるなんて、あたい・・・」 言葉と嗚咽が、堰を切ったように溢れ出す。 運転席で、清四郎は愕然と固まっている。その袖に額を押し付け、悠理は 懇願した。 「清四郎がいてくれないと、だめだよ!」 叫んで、清四郎の肩にすがりついた。 「お願いだよ、そばにいて・・・!」 「・・・・悠理・・・・」 呆然と呟かれた声は、彼らしくなく狼狽していた。 かすれた震える声。 悠理の肩に置かれた手も、震えていた。 抱き合うわけでもなく、ただ、寄り添い。 どれほど、そうやっていたのか。 清四郎の手が悠理の肩を優しく押した。 「悠理・・・僕はすぐに消えていなくなるわけじゃないんですよ?」 押し付けていた額を離し、悠理は顔を上げる。 首を振る。 「それがずっと先でも・・・嫌」 頬を伝う涙を拭えない。 「嫌だよ。どこにも行かないで」 駄々っ子のように、首を振ることしかできない。 ――――ただ、そばにいて。 いつものように、抱きしめて。 言葉にできない想いを込めて見つめる。 黒い瞳に映る感情。揺らいでいるのは、驚愕、疑念、憐憫の色。何かを耐えるように、引き結ばれた口元。 清四郎は目を伏せた。 だから、見えなくなる。いつも悠理を落ち着かせるあの黒い瞳が。 「・・・どうしてだ?悠理」 清四郎がかすれた声を吐き出す。目を伏せたまま。 「どうして、僕に?」 残酷な問いだった。 もうこんなに、悠理の想いは溢れてしまっているのに。誰の目にも明らかなほど。 口に出してしまえば、友情も優しい時間も失ってしまう。 だから、言えない。 そのはずなのに。 涙とともに言葉が溢れ出た。 「あたい、あたい・・・清四郎が・・・」 悠理の肩にかかっていた清四郎の指に力がこもった。 痛いほどつかまれ、引き寄せられる。 広い胸に、抱きすくめられた。 清四郎のシャツに悠理の涙が吸い込まれる。 大きな手が、髪に差し込まれ、頭を胸に押し付けられる。 きつく、きつく抱きしめられ。 込み上げ溢れ出すのは、信じられないほどの幸福感。安堵と歓喜。 眩暈がして、溺れる者のように清四郎にすがりついた。 清四郎の胸から激しい鼓動が聞こえる。 誰を愛していてもいい。今、こうして抱きしめてくれるだけで。 何度も抱き合ったことはあるのに、体が火照って抑えようもなく震えてしまう。 気さえ遠のきそうになった。 「・・・悠理・・・おまえは、混乱してるんだ」 だから、耳元で囁かれた清四郎の声を、悠理は夢見心地で聞いていた。 低い、かすれた声。 まるで泣いているかのように、震える声。 「淋しくてたまらないのに、僕にまで突き放されたと思ったんだな」 清四郎の言葉が理解できない。泣きすぎてぼんやりした頭では無理だ。 「野梨子や可憐には白状させられたけど、今のお前に告げる卑怯はわかっています」 清四郎の腕から力が抜けた。 それでも、離れるのが嫌で、悠理は清四郎の胸に顔を埋めたまま。 「おまえが好きなのは、魅録だ。――――僕じゃない」 だけど、腕よりもその言葉が、悠理を突き放した。 一瞬の、苦しいほどの幸福感から。 ゆっくりと、清四郎の言葉が悠理の心に沁み込む。 ――――ずっと魅録が好きだった。それは本当。 いつも淋しさを癒してくれる清四郎にすがって。依存して。 なのに、その清四郎が遠くに行ってしまうと聞いて、勘違いしているだけ。 独りになる淋しさと、恋を。 「おまえが恋しているのは、魅録だ」 もう一度、清四郎はそう言った。 違う――――そう、否定することはできない。 魅録を思うと、まだ胸が疼く。 淋しいのも、たぶん本当。 最初から、清四郎には甘え依存してしまっていたことも。 まるで暗示のように。 清四郎の言葉は、悠理を縛りつける。 胸の奥が冷たく凍った。 石を呑んでしまったようだ。 冷たい塊が胸に詰まって、息ができない。 涙さえ、凍ってしまったようだ。 止め処もなく流れていた涙が止まり。 体の震えも止まった。熱くなっていた頭も冷える。 ゆっくりと、悠理は清四郎の胸から身を離した。 両手で押し退けた熱い胸。 清四郎の心臓の音を掌に感じ。 空っぽの心が、しくしくと痛んだ。 誰かを愛している。 切ないほど一途に。 悠理の裏切りも弱さも、清四郎は許してくれるだろう。 清四郎の言葉は、いつだって悠理を落ち着かせる。 安静効果。鎮痛効果。 だけど、胸の痛みは消えない。 悠理は清四郎の顔をふたたび見上げることができなかった。 恥ずかしくて、苦しくて。 息ができないほどの絶望感。 清四郎から顔を逸らせたまま、車のドアを開けた。 逃げ出すように車から降りる。 「悠・・・」 清四郎の声が背中に追って来たが、悠理は振り返ることなどできなかった。 もう、自分の気持ちも、清四郎の心も見えない。見たくない。 ただ、この胸の痛みを癒す特効薬などないことだけは、分かっていた。
ハイ、前回から泣かせすぎたので、悠理ちゃんの涙をがんばって止めてみました。・・・うわっ天から石礫がっ! |