後編
涙はもう出なかった。 だけど、心はもっと痛かった。 車を降りた悠理は、自宅の正門を素通りする。 誰にも会いたくなかった。門前の守衛にも、五代たち使用人にも。 留守がちな家族とは顔を合わさずに済むだろうが、剣菱家は人の出入りが激しい。 人目を避けて、正門から少し距離のある小さな通用門まで一気に駆けた。 夜分の出入りに悠理がよく利用するこの門の鍵はいつも持っている。 青銅色のフェンスの門を開けて、後手に扉を閉めたとき。 門柱にかけていた手を、暖かい手に掴まれた。 弾かれたように振り返った悠理の目の前に、清四郎が息を切らして立っていた。 鉄柵越しの彼は、険しい顔をしていた。まるで怒っているような。 清四郎の後ろに広がる青空が、ひどく目に痛かった。 ひくり、と息を飲む。 「な・・・」 怯えて握られた手を引こうとするが、清四郎は放してくれない。 「待って、ください」 寄せた眉。強い瞳。引き結ばれた口元。吐き出された言葉は、まだかすれていた。 清四郎は怒っている。悠理の裏切りに? だけど今さら、悠理はもう自分を繕うことなどできない。 魅録に片思いしていたくせに、そばに居てくれる清四郎をいつの間にか頼っていた。 彼なしではいられないほど。 清四郎には、好きな人がいるのに。彼の恋を応援すると、誓ったのに。 心変わり。横恋慕。 勘違いかもしれない。彼の言うように。 間違っているのだろう。悠理のこの想いは。 それでも、もうごまかせない。 清四郎に恋している自分を。 清四郎の大きな手に包まれた手が震えた。 門扉越しの彼の手を振り払うなんて、簡単なことのはずなのに。 悠理は身動きすることもできなかった。 凍りついたはずの自分の心臓の音だけが、聞こえた。 清四郎が悠理の手を握ったまま、大きく息を吸い込んだ。 「また、来週、”終電に乗り遅れる"でしょう?」 悠理はうつむいて首を振った。 「・・・僕が渡欧するまで、もう会わない気ですか」 悠理はまた首を振った。 どうすればいいかわからなかった。 会えば、すがってしまう。望んでしまう。 どうして、こんなに清四郎には欲張りになってしまうのだろう。 魅録には何も望んだことなどないのに。 誰かを愛していてもいいから――――なんて、嘘だ。 悠理だけを見つめて欲しい。 抱きしめて欲しい。 醜い、独占欲。駄々っ子のようにもう一度、泣き叫びたい。 愛して欲しい、と。 だけど、会えなくなるなんて、耐えられない。 離れるなんて嫌だ。いま重なったこの手さえ、離せないのに。 清四郎は悠理の手を握る手に力を込めた。 「情緒不安定になっているおまえに、こんなことを言うのは、卑怯だとは思うんですが・・・」 怒ったような硬い声。 それだけで、悠理の体はびくりと震える。 怖くてたまらなかった。 迷惑だと――――最後通牒を突きつけられても、悠理にはどうしようもないから。 耳を塞ぎたくても、それさえできない。 魅録や可憐の前では、いつも笑えたのに。それは虚勢だったのだろうけど、いつか本当に強くなれると思っていた。 破れた恋の痛みに、耐えられると思っていた。 清四郎が居てくれたから。 彼が悠理のそばから去ってしまうなんて、想像すらしたことがなかったから。 「僕が、どうして渡欧しようとしているか、わかりますか?」 清四郎の言葉にうつむいたまま答えた。 「・・・仕事、だろ?」 友人として、悠理は喜ばなければいけないのだろう。悠理にだってわかる。学生時代から事業にかかわっていたからといって、 本格的に剣菱で働き出したばかりの清四郎が、海外でのプロジェクトを任されたということの意味の大きさは。 「どうして、僕が剣菱で地盤を固めていると?」 悠理は虚ろな瞳を清四郎に向けた。 清四郎が何を言いたいのか、わからない。 ただ、彼が行ってしまおうとしている事実だけしか、わからなかった。 清四郎は眉を寄せて、悠理をじっと見つめていた。 黒い瞳は、強い感情を宿している。 怖いくらい、真剣な目。こんな清四郎の目は、初めて見た気がする。 「おまえの、そばに居たいから・・・居続けたいからです」 痛いのは、きつくつかまれた手ではなく、心だったけれど。 「なに・・・?どこにも、行かないの?あたいのそばに、居てくれるの?」 一縷の希望にすがり、幼子のように問い返してしまった。 ふ、と彼の目が和らぐ。 いつもの、少し悲しげな優しい目に戻った。悠理を包み込んでくれる、黒い瞳。 「僕が振られたら、慰めてくれるって、約束しましたよね?」 だけど。 清四郎の言葉に、ふたたび悠理の息は止まった。 凝固した体に、フェンス越しに彼の手が伸びる。 ぐい、と体を引き寄せられた。 抱きしめられるのかと思った。門扉越しに。 「・・・っ」 ガシャン、と鉄柵が頬に当たった。 驚いて目を閉じた瞬間、唇を塞がれていた。 それが清四郎からの口付けだと、気づくのに数秒かかった。 柔らかく、熱く、唇を吸われ。 歯の根が合わず、カチカチと震えた。 触れるだけのキス。 初めてのキスの味は、甘くなどなかった。 苦くしょっぱい、涙の味がした。 それで、気づかされる。止まったはずの涙が、頬を濡らしていたことを。 髪の後ろに回っていた手が、頬を包んだ。 清四郎がふたたび顔を寄せる。 頬に口付ける唇が、涙を拭い取る。 「・・・僕はひどい男だな・・・。弱っているおまえにつけこんで」 清四郎は苦笑している。 「可憐や野梨子に知られてしまったから、もう隠しておくことはできませんね。あいつらから聞かされ たら、お前も困るでしょう」 悠理は目を見開いて固まっていた。 どうして、彼が笑えるのか分からない。 いまのキスの意味も。 「なぐさめる・・・って、」 こんな意味なのか、と愕然とした。 どこかで、それでもいいと思ってしまう卑屈な恋心を感じ、自己嫌悪がいや増す。 「他に好きなひとがいるのに、どうして・・・!」 涙声で、叫んでいた。 虚ろだった心に、怒りと悲しみの奔流。 怒りに身を任せた方がよほど楽だった。 絶望感と自己嫌悪に苛まされているよりは。 「どうしてだよ!!」 「言ったでしょう。振られても、諦めないって」 清四郎は悠理の手を握ったまま、静かに告げた。 「他の男を好きでもいい・・・おまえが僕を想って泣いてくれたようで、嬉しかった」 清四郎は笑みを浮かべている。悲しげな瞳で。 そのとき、悠理は初めて気づいた。 彼の笑みは、自嘲の笑みだ。悠理への憐憫ではなく。 「いまは、まだ魅録のことが忘れられないでしょう。だけど、いつか・・・いつか、おまえがあいつを忘れたら」 痛みに耐えるように、歪んだ口元。 「僕の存在でおまえの心を占めてしまいたい」 その目に映るのは、懇願。 「一生、消えない傷のように、おまえの中に刻み込みたい。僕がおまえを、愛してることを」 清四郎は身をかがめ、両手で握っていた悠理の手に唇を落とした。 愛を乞う仕草。 「・・・え・・・?」 口付けられた手の甲が、熱い。 身をかがめて下から見上げてくる清四郎の目が、見間違いようのない想いを浮かべて悠理を見つめていた。 愛を乞う瞳。 「み・・・ろくを、忘れて・・・?」 呆然と呟いていた。 「あい・・・して?」 悠理は無意識で首を打ち振っていた。 清四郎が吸い取った涙が、また零れ落ちる。 繋いだままの手を濡らす。 「嘘・・・だって、清四郎には好きな人が・・・恋してるって・・・」 ――――清四郎、恋してる? そう問いかけたのは悠理。 ――――ええ、悠理。 答えた清四郎の瞳に映っていた、想い。 「ずっと、前から」 清四郎は祈るような姿勢のまま、呟いた。 「おまえだけに恋しています、悠理」 魅録を忘れるなんて、できない。 思い出が多すぎる。一番の親友。そして、初恋の人。 気づいたときには破れていた恋でも、一生忘れることのできない想い。 「むり・・・無理だよ」 悠理の言葉に、清四郎の瞳が揺らいだ。 それは、これまでも何度も悠理を見つめていた深い色。 そして。 悠理にはわからない。 「もうあたいの中は、おまえでいっぱいだよ・・・これ以上なんて、無理だ」 こんなに愛してることを、どうやって伝えればいいのか。 清四郎の目が見開かれた。 苦しげに引き結ばれていた口元が綻ぶ。 ”ゆうり”と唇が形作る。 だけど、彼の口から言葉はでない。 悠理も気づく。 彼もまた、言えない言葉に、秘めた想いに、苦しんでいたのだと。 これまで、ずっと。 あんな目で見つめられてきたのに。 あの胸に抱きしめられていたのに。 気づけなかった。 ――――おまえが恋しているのは、魅録だ。僕じゃない。 そう言った清四郎の、想いを。 ずっと、そばで悠理の恋を見つめ続けてきたのは、彼だから。 どうして、信じてもらえるのか、わからない。 だけど、言いたかった。 「信じなくて、いいよ・・・だけど、お願いだから」 さっき言いたくて言えなかった言葉。 自己嫌悪と清四郎自身にさえぎられた言葉。 「お願いだから、言わせてよ」 それは、生まれて初めての告白。こんな想いを告げたことはなかった。 こんな想いを抱いたことはなかった。 「好きだよ、清四郎・・・・・・・・・離さないで」 誰にも。魅録にさえも。 清四郎に対しては、どうしてこんなに欲張りになるんだろう。 そばに居て欲しい。愛して欲しい。そして。 抱きしめて欲しい。強く、強く。 門を開けようとする悠理を止めたのは清四郎だった。 閂に掛けた悠理の手を強く手を握りしめることで。 「せいしろ・・・?」 ふたりを隔てる門扉がもどかしくて。 その腕の中に、飛び込みたくて。 門を開けようとする悠理に、清四郎は首を振った。 「・・・・いま、ここを開けたら、僕は抑えがきかなくなる」 清四郎の手が、震えている。痛いほどきつく悠理の手を握り締めている手が。 懇願するような瞳が苦しげに揺れていた。 その目に気づかされる。 清四郎は、まだ信じていない。悠理の想いを。 「・・・っ!」 悠理は苛立って、清四郎の手を振り払った。 ガチャガチャと音を立てて、青銅色の門を開ける。 性急にフェンスを引き開け、立ちすくんでいる清四郎の胸に体当たりした。 拳でドンと清四郎の胸を叩く。 「・・・馬鹿野郎!」 清四郎が悠理の手首をつかんだ。 殴りつけた拳を押し付けた胸のうちで、彼の心臓が激しく鼓動を繰り返す。 愛してる――――と。 「・・・後悔・・・するぞ」 悠理を愛してると、清四郎の心音が叫んでいる。 怖いくらい強い力を持った瞳が。 それは、優しかった友人の目ではなく。 ”男”の瞳。 無意識で体に震えが走る。だけど、本能的な怯えよりも、もっと。 「する、もんか!」 彼が欲しかった。 心も体も、すべて。 腰を引き寄せられ。手首をつかまれたまま、ふたたび唇を奪われていた。 瞳そのままに、ひどく激しく。 それは、先ほどのような優しいキスではなく。 重なった唇から、息をすべて奪われる。 歯列を割り進入した舌が、怯える悠理の舌を絡め取る。 唾液も戸惑いも、すべて吸い取られる。 ねじ込まれ、ぶつけられた激しい感情。 包み込むような彼の優しさしか受けたことのない悠理には、それは激しすぎる感情だった。 頭の芯が痺れる。 体から力が抜け、立っていられない。 「ん・・・ん」 苦しげにうめいても、清四郎は悠理を離してはくれなかった。 離して欲しかったわけじゃない。 抱きしめて欲しかったのは、悠理の方だったから。 清四郎の前では、どうしてこんなに自分が女であることを意識させられるのか。 全身を重ね、息も止まるほど抱きしめられて。 それは苦しいほどだったのに、胸に溢れるのは幸福感だった。 愛され、求められている確信。 目も眩む絶頂感。 青空が滲んで溶けた。 閉じた瞳の裏に映ったのは、初恋の彼ではなく。 あの日ふたりで見つめた星空だった。 清四郎の目に映ったあの星を、忘れない。 自然に薄らぎ見えなくなる夜明けの星のように――――消えた、幼い恋のかわりに。 それから。 短すぎるいくつかの季節が過ぎていった。 やがて来る別れのとき。 淋しくて、そばに居て欲しくて。 それは同じだったけど、悠理は彼を見送ることができた。 笑顔は上手く作れなかったけれど。 青空の向こうにも、見えない星は瞬く。 心の中で、初恋が色褪せることはない。 だけど、もう悠理は知っていた。 いつか、帰りたいと願った森が、どこにあるのか。 涙も傷も宝物になる。 たとえ離れていても、もう、ひとりじゃないから。 いくつ季節が変わろうとも、重なった手は、心は――――離さない。
ああようやっと、悠理たんの涙は止まりました。これで完結編のつもりでしたが、もうちょっと続きます。 |