死んでもいい




〜前編〜


本日は快晴。
四十二階の窓からは東京湾が一望できる。
しかし、悠理の目は室内のきらびやかなワードロープに向けられていた。
光沢のある赤いカクテルドレス。薄い水色の広がった短い裾。肩を出したピンクのマーメイドライン。
吊るされた衣装の数々に、悠理は思いっきり大きくため息をついた。
この中から選べ、ではなく、これを全部着ろ、とは母親の指示。
切れそうな血管を押さえて、ちらりとマネキンに目を移す。
悠理の体型を模した顔のないマネキンが一体、色鮮やかなドレスの数々の隣に鎮座している。 威風堂々と身に着けているのは、フランス製総レースの白い花嫁衣装。

「・・・マジかよ、二度目でこれか?」
悠理の忍耐も限界だった。
「クソッ、付き合ってられっか!」
ひとり口の中で毒づき、悠理はマネキンに蹴りを入れた。
ガタンと倒れる人形を跨ぎこす。
悠理の頭には”逃亡”の二文字しかなかった。

なにしろ、離婚した元夫との復縁。本来ひっそりと身内に報告して終わるべきだろう。それに盛大な披露宴を (それでも政財芸能界総呼びTV中継まで有りの一度目よりまだ控えめだとはいえ)催すという感性が信じられない。
とてもこんな茶番には、付き合ってはいられなかった。
悪趣味な両親にも、恥知らずのあの男にも。
この剣菱グランドホテルで本日の午後から始まるパーティを無断欠席することを決意する。
主役の片割れである悠理がいなくとも、清四郎がなんとか場を収めるだろう。彼の事態収拾能力はピカイチだ。

花嫁控え室を出るとき振り返ると、床に伏せた人形が目に入った。
うつぶせでベールに覆われているため、まるで花嫁惨殺事件の現場のようだ。
部屋を覗きに来た者は驚くだろうか?
それがあの男ならばいい、と、悠理はほくそ笑んだ。ちょっとは胆を冷やせばいいのだ。
半ば無理やり婚姻届に判を押させ、それなのに役所に提出するのも悠理一人に行かせた意地悪男。
すでに法的には夫婦となっている長年の悪友のすまし顔に、悠理は胸のムカつきを覚えながら部屋を出た。
ほとぼりが冷めるまで数日は姿をくらますつもりで。



*****




ジーンズとシャツ姿でこっそりとホテルの裏口から出た悠理だったが、大通り沿いに出たところで、ギクリと固まった。
目に入ったのは制服警官。
悠理はまるで犯罪者のように首を竦める。
まだ招待客が姿を見せる時間ではないと高をくくっていたが、悠理の逃亡が発覚すれば、招待客の警視総監自ら指揮を執り非常線を 張りかねなかった。
清四郎と松竹梅親子が共同捜査をするとなると、数日どころか数時間ももたないかもしれない。
「パスポートはどこだっけ?」
一瞬、安易に国外逃亡を検討した悠理だったが、パスポートを取りに剣菱邸に戻ることは論外だった。
第一、逃げ出したはいいものの、所持金もろくに持っていないのだ。カードが止められる前に、まずは金を引き出さなければならない。

――――ったく。バカは死んでも治りません。
嫌な男の言葉が脳裏を過ぎった。
――――悠理が僕から逃げられるわけはないでしょう?
冷笑。嘲笑。

悠理の大嫌いな傲慢な顔に、思い切りアカンベーをした。
通行人が驚いた顔で悠理を見つめていることに、はた、と気づく。
悠理は慌てて駆け出した。
確たる目的地もなしに。

湾岸線を埋め立て、高級ホテルやビジネス遊戯施設が林立する副都心。休日の広い通りには観光客や都心から訪れた人の波が絶えない。
取りあえずその場を離れようと大通りを悠理は疾走した。ふと、道行く者が何人か振り返って悠理を見ていることに気づく。
すっかり指名手配犯の心境の悠理の心臓はそのたび、びくついた。
単に目立つ容姿の悠理(しかもこの日のために百合子にエステを強制され、美貌に磨きがかかっている)が、 通りを駆ける様を見送っているだけなのだが。
いつも周囲の目など気にしない悠理も、逃亡犯の今は敏感にならざるを得ない。
自分の姿を隠したくて、取りあえず目に付いた建物に、悠理は飛び込んだ。

そこは、外車のショールームだった。
「そうか、足がいるな・・・」
悠理はポケットのカードを探る。現金はなくても、剣菱VIPカードは威力を発揮するだろう。
「一番、速く走るのって、どれ?今すぐ乗って帰れる?」
「は?」
営業スマイルの店員の顔が、悠理の問いかけに引きつった。

しかし、やはりゴールドカードの威力は絶大だった。
「これはこれは剣菱財閥のお嬢様であられましたか。お好みの車を試乗なさっては如何でしょうか?お気に召しましたら、 後日お届けいたします。ええ、本日はお好きに乗って下さって結構です。乗り捨てて下さっても、サービスマンが引き取りに 向いますゆえ、お気軽にお遊びになって下さいませ」
悠理の望みを聞いた店長が揉み手をしながら笑顔で告げた。
「え?無料で乗ってっていいの?」
恭しくカードを返され、悠理は目を丸くする。
店長は慇懃に頷く。悠理の背後、ショールームのガラス窓の向こうには、数ブロック先の剣菱グランドホテルが聳え立っていた。
カードは悠理の身元保証になったようだ。もとより、店長は高級車の営業マンとして財閥令嬢の顔は雑誌などで見知っていたのだが。

悠理はピカピカ光る新車のポルシェの運転席に乗り込んだ。
車種など興味のない悠理だったが、この車の真っ赤な外装に惹かれた。
免許は数年前に取っている。ペーパードライバーというわけでもない。バイクを転がす方が多かったものの、運転は好きだ。

ご機嫌で悠理は誘導に従い、車で通りに乗り出した。副都心の道路は走りやすい。
海沿いをポルシェに風を切って走らせるのは気持ちよいだろう。
悠理は左ハンドルの窓を全開に開けた。頬をなぶる海風。
心を覆っていた鬱屈が吹き飛んでしまいそうだ。解放感。

しかし、車を発進させて一分もたたないうち、大通り最初の信号に、悠理はつかまった。
そして、置き去りにしたはずの男に。



*****




バンッ

体重をかけられ、わずかに車体が揺れた。
横断歩道上から、ポルシェのフロントに両手をついてガラス越しに男が悠理を睨みつけている。
ネクタイは取っているものの、明らかに礼装。本日の主役の一人なのだから、当然。
悠理は恐怖で身動きできない。
清四郎は怒っていた。それも、長い付き合いの悠理でも見たことがないほど、激怒していた。
「・・・悠理」
「ハ、ハイイッッ」
静かに名を呼ばれただけで、悠理は裏返った声を上げた。
「新車でドライブですか。ご一緒させて貰いますよ」
悠理に対しては敬語をあまり使わない清四郎の慇懃無礼な言葉に、彼の怒りが滲み出ている。
丁寧な物言いに反して、ニコリともせず。窓から手を差し入れロックを外した清四郎は、乱暴に運転席のドアを開けた。
「ひえぇぇぇっ」
悠理は咄嗟に隣の助手席へと這うようにして逃げた。
清四郎は空いた運転席に乗り込む。
ちょうどその時、信号が変わった。
シートベルトもしないまま、清四郎がアクセルを踏み込む。
「うぎゃっ」
急速発進によるG。悠理はシートの上で転がる。
かまわず、清四郎はスピードをなおも上げた。

車は副都心の広い道路を疾走する。すぐに商業区域を抜け、湾岸沿いに達した。
片側は海。広大な倉庫郡を、ポルシェは走り抜けた。
「せ、清四郎、どこに?」
剣菱グランドホテルは、すでに背後に小さく見えるのみ。
清四郎がどこに向かう気なのか、悠理にはさっぱり分からない。
まだ披露宴開始時刻までは間があるとはいえ、てっきりすぐにホテルに引き返し説教三昧かと思っていた。
悠理はそろそろと運転席の男の横顔を仰ぎ見る。
そして、ぎょ、と胸を衝かれた。
前方を見つめる清四郎の堅い表情。強い感情を宿した底光りのする眼。
これほど、怒りをあらわにした清四郎を見るのは初めてだった。
「・・・せいしろ?」
おそるおそる名を呼ぶ。
悠理の方を見もせず、清四郎は眉を寄せたまま、目を細めた。

「・・・どこに逃げるつもりだったんだ?」
やはり、清四郎は悠理のドタキャンに怒り心頭らしい。
「ええ〜と、別に決めてなかったけど・・・どっか遠く」
ほとぼりが冷めるまで――――と、正直に白状しかけた悠理に、清四郎が激昂した。

「それほど、嫌なのか?!僕から少しでも離れようと?!」

男の怒声に、悠理は震え上がった。
「ハ、ハイイッッ」
思わず答える。
「・・・!!」
清四郎が痛みを堪えるように、顔を顰めた。
踏み込まれるアクセル。開いたままの窓から風が轟音を立てて吹き込む。
「せ、清四郎!スピード上げすぎ・・・!」
自分の叫んだ言葉も、風に千切れ飛ぶ。
清四郎が何か言った気がした。声はもちろん、聞こえない。
悠理はドアに取りつき、パワーウインドを閉めた。
ようやく、轟音は収まる。しかし、スピードは減じられてはいない。

「・・・どうやっても、捕まえられないのか?」
窓を閉めたために、清四郎の言葉が聞き取れた。
「悠理、どうすればおまえは・・・」
独り言のような呟き。
清四郎は苦しげに顔を歪め、前方を見つめている。しかし、その目には風景など映ってはいない。

「それほど、僕が嫌なのか?!」
搾り出すような叫び。

あまりにも悲痛なその声音に、悠理の心臓が引き絞られた。
恐れ以外の感情に。
「ち、ちがっ・・・」
焦った裏声で清四郎に首を振った悠理へ、初めて清四郎が顔を向けた。
蒼ざめ強張った顔。
清四郎の目の中に、狂おしい炎が見える。怒りと悲しみ。そして――――

「僕のものにならないなら、いっそ・・・」
清四郎は唇を噛み締めた。
悠理は初めて見る男の歪んだ表情に、呆然と言葉を失う。
ハンドルに手を添えたまま、真っ直ぐ悠理を見つめる瞳。
彼から発せられる激しい感情の奔流が、悠理を呪縛する。



*****




飛ぶように流れ去る窓の外の景色に、悠理は我に返った。
「ま、前見ろ、前!」
200キロ近いスピードで疾走する車。
眼前に広がる海。
悠理は咄嗟に、ハンドルに飛びついた。
清四郎も我に返ったのか、ブレーキを踏み込む。
車は急激な操作に、タイヤを軋ませて回転した。
「うわわわわわっっ」
横転こそしないものの回転する車の中で、悠理の目も回る。思わずハンドルを放してしまった。
清四郎が悠理の上に覆いかぶさる。シートベルトをしていない悠理をシートに抑えつける。
体にかかる重圧。しかし、悠理が圧し掛かる清四郎の体の重みを感じたのは、車が止まってからだった。

「・・・・た、助かった・・・・」
清四郎の胸に両手を回し、悠理は脱力感とともに呟いていた。
車は埠頭の端で止まっている。九死に一生を得た事は明らかだった。
全身に冷や汗。動悸がなかなか治まらない。
覆いかぶさる清四郎の心臓も激しく高鳴っていた。
「おい、死ぬかと思ったぞ・・・運転下手すぎ!」
悠理の非難に、清四郎もようやく身を起こす。

「・・・死んでもいいと、思ったんですけどね」

清四郎は乱れた髪の下の額の汗を拭った。
その言葉には一瞬、固まった悠理だが、彼の口元に笑みが浮かんでいるのに気づいた。
「ふ、ふざけんな!説得力ねーぞ」
清四郎が悠理を守ろうとしたことは明らかだ。
それに、車が横転し崖から海に一緒に落ちたこともある。その後狙撃されようが生き残った彼らが、 こんなところで簡単には死なないだろう。

悠理から離れた清四郎は、ハンドルに上体を預け、悠理を見つめている。
暗い瞳。まだ狂おしい光がその目の奥に見える。

「ククク・・・」
清四郎は肩を震わせて、笑い出した。
「『結婚式の当日、花嫁に逃げられ無理心中』・・・三面記事のトップを取れますな」
ハンドルの上で両手を組み、頭をもたせ掛け。心底おかしそうに、清四郎は笑っていた。
見覚えのある、冷笑。嘲笑。
しかし、その目はやはり笑ってはいなかった。

悠理の胸がずきんと痛んだ。
歪んだ嘲笑が、彼女に対してのものではないと、さしもの悠理にもわかったから。








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悠理ちゃんが可哀相、と言われる「ららら」シリーズですが、清四郎くんが離婚2回目「アジアの純真」時点で、 なぜああも食えない男になってしまったのかを、今回書いてみました。「下克上〜」で肉体的にいたぶられ、こちらでは 精神的に追いつめられております。そう。逃亡花嫁のせいだったんですね〜〜。無自覚に男心を踏みにじる悠理。 やはりこの夫婦、どっちもどっちです。

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