情熱に届かない

〜1〜





【和子】
   


「そろそろ僕らも考えていいんじゃないですか?・・・・・・結婚を」

自室のベランダで、偶然聞いてしまったのは、まぎれもなく、弟の声だった。
私は驚いて、咥えていた煙草をあやうく落としかけた。
医者のくせにと罵られるだろうから家族には秘密だが。研修医時代はなかった喫煙の悪癖が、外科医として手術を任されるようになってから、 身についてしまった。こっそりと蛍族とは情けないが、たまの休日、寛ぎの一服の誘惑には逆らえなかった。

外出していた弟が帰宅したところに行き合わせたのは、まったくの偶然だった。
まだ火を点ける前だった煙草を口から外し、私は音を立てないよう、そっとサッシから身を乗り出す。
すっかり日が落ちるのが早くなった。夕闇は藍色が濃い。
若干距離があるが、外灯に明かりが灯り、二人の姿ははっきり見えた。
さして大声で話していたわけでもないだろうに、声がはっきりと聞こえるのは、風向きの幸運。

「・・・何を突然・・・・」
「僕が、嫌いですか?」

彼女の表情は見えないが、戸惑いは声に現れている。
街灯に照らされた清四郎の顔は、陰影が濃い。
真剣なのだと、わかった。

「好きか嫌いか、答えろと?」
彼女の声が震えている。突然のプロポーズに、困惑しているのだろう。
幼馴染からの不意打ち。
「今さら僕らには愚問でしたね、野梨子。ええ、好き嫌いの問題じゃない」
清四郎は、野梨子ちゃんの肩に手を置いた。
「あなたとなら、このまま一生歩いて行けると思います」

おやおや。
このままラブシーンでも見れるのかしら、と期待したのもつかの間。
「野梨子?」
通りの先から声がかかった。
「父さま!」
現れたのは、隣家の主である白鹿清州そのひとだった。

そのときの、清四郎の顔は見ものだった。
唖然呆然。
プロポーズした現場を当の彼女の父親に見られてしまったのだから、当然だろう。
道端、それも家の前で結婚を申し込む方が悪いのだ。ムードもへったくれもないところが、奴らしいといえばそうなのだが。

「せ、清四郎くん・・・」
清州氏も、思わぬ遭遇に動揺している。
冷や汗をかいただろう清四郎は、しかしさすがに瞬時に表情を改めた。
「おじさん、今晩は。今日も野梨子を連れ出してしまいました。お許しください」
「ああ・・・いや・・・」
”お許し”は、デートに連れ出したことに対して。”結婚の”ではない。
それでも、気の毒なおじさまは、もごもご口ごもり、返事も返せない。
「今日はこれで失礼します。じゃあ、野梨子、また」
清州氏に促され、木戸に手をかけていた野梨子ちゃんは、別れ間際、清四郎に顔を向けた。

「・・・清四郎、さっきの言葉は聞かなかったことにいたしますわ」
「僕は本気ですよ」
「私たちの長い友情を、無茶苦茶にするおつもり?!」
野梨子ちゃんの声に明らかな怒りが混じった。
「の、野梨子・・・」
清州氏はオロオロしている。
「突然だったのは、謝りますよ」
清四郎は冷静に答えた。笑みさえ浮かべて。
「・・・!」
野梨子ちゃんは、らしくなく乱暴に、清四郎の鼻先でピシャリと木戸を閉めた。

清四郎は軽く門に向かって一礼する。
「くくく・・・」
肩を震わせているのは、笑っているからか。顔を上げた清四郎の口元には、はたして、笑みが浮かんでいた。
振られたくせに、余裕の態度ではないの。
まあ、野梨子ちゃんは筋金入りの潔癖症。彼女のことを誰より理解している清四郎のことだから、あんな反応は想定範囲内、といったところか。

「ふ〜ん」
思わず、小さく声を発してしまった。
弾かれたようにこちらに顔を上げた清四郎と目が合う。
ニヤリと笑みを浮かべ片手を上げてやると、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「・・・悪趣味ですね」
「覗いてたわけじゃないわ。勝手に聞こえちゃったのよ」
清四郎は肩をすくめて、わずかに頬を染めた。
鉄面皮の弟のこんな顔は久しぶりだ。
「結婚の申し込みを、道端でする方が悪いのよ。野梨子ちゃんもおじさまも困ってたじゃない。ま、今日のところは、間が悪かったわね」
せっかく慰めてやったのに、弟は私をシカトして、玄関に向かった。
私は急いで、室内に戻る。
弟を久しぶりにからかえる、とほくそ笑みながら。

社会人となって数年。元々、可愛げのなかった弟清四郎は、昨年三年間の海外勤務から帰国してからはいっそう、 姉の私にすらなかなか隙を見せないふてぶてしい男に成長していた。
それなりに男として遊んではいたのだろうが、色恋沙汰の影さえなかった清四郎が、結婚を考えていたとは、驚きだった。
帰国後実家に戻ってきたものの独立のために部屋を探しているようだ、と母は言っていたが。
三十路突入の姉の私を差し置いて結婚とは、生意気な。

しかし。
確かに、弟もそんな年頃にはなっているのだ。
清四郎の仲間、あの有閑倶楽部の面々だって、すでに結婚し家庭を持っている者もいる。
倶楽部内で一組。そしてもう一人も、そろそろ結婚が決まったと聞いている。
清四郎と野梨子ちゃんが結婚すれば、倶楽部内で二組目のカップル成立か。
無邪気に男女を越えた友情で結びついているように見えた彼らも、いつの間にかそういう段階に代わっていったのだろう。

「・・・それにしても、野梨子ちゃんねぇ」
清四郎とは生まれたときからの、幼馴染。私にとっても、妹同然。
納得できるといえば、これ以上納得いく組み合わせもないが、私は苦笑を禁じえなかった。
結局、情緒障害者の清四郎は、恋なんてできる人種ではないのだ。

清四郎が野梨子ちゃんに情熱的な恋心を抱いているとは思えない。
野梨子ちゃんのあの様子では、ふたりは幼馴染のまま、関係を育んできたのだろう。
彼女は、誰よりも清四郎を知っている。あの、外面に隠された本性も。
それでも、ふたりはかけがえのない友情を続けてきたのだから、それは、確かに愛の形のひとつだろう。

――――あなたとなら、このまま一生歩いて行けると思います。
朴念仁にしては、気の利いたことを言うじゃないの。

結婚とはいうものは、そういうものなのかもしれない。
情熱的な恋よりも、ふたりで育てることのできる愛。

恋愛に不向きな男だと、侮りながら。
本音を言うと、少し悔しかった。そんな選択ができる大人の男になってしまった清四郎が。

仕事に追われ目下恋人もいない私としては、せめて久々にからかって憂さを晴らしてやろうと、弟を捕まえるべく階下に下りた。
今は戸惑っているに違いない愛すべき隣家のご令嬢を、いつか妹と呼べるだろうと確信しながら。






【清州】



清四郎くんの「清」の字は、私の名から一字とったのだと、知る者は少ない。
隣家の菊正宗家で待望の長男誕生。親しくしている菊正宗修平氏からのたっての要請で、私が付けた名だ。

「野梨子・・・」
目の中に入れても痛くない、私にとっては四十を越えてから授かった一人娘の野梨子。
思えば、娘ももう二十も後半。いつまでも変わらず子供のままでいて欲しいと願うのは親の我がままに相違ない。
野梨子の友人たちの中でもすでに家庭を持つ者もいるのだから、とうに覚悟をしておくべきだった。
どこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘なのだから。

後ろ手で扉を閉めた野梨子は、そのままの姿勢で俯いている。
私は大きく息を吸い込み、動揺を悟られないようゆっくり言葉をかけた。
「清四郎くんならば、私に異存はないよ」

野梨子は弾かれたように顔を上げた。
年頃の娘らしく、羞恥に赤らんだ頬。しかし、寄せられた眉と見開かれた目に映っているのは、明らかな怒気だった。
激しい感情が揺らめく瞳に、私は息を飲んだ。
「・・・父さま、馬鹿なことをおっしゃらないで」
「い、いや。清四郎くんはいつだって、お前の一番の仲良しだっただろう?私も彼ならば・・・」
野梨子を、任せられる。
本音を言えば、いつまでも手放したくはない。けれど、嫁に出すならば、隣家の長男ほど、安心できる相手はいない。
「良い青年に成長したものだと、常々思っていたのだよ。あんな息子を欲しいものだと、いつも・・・」
「あれは、”ろくでなし”ですわ!」
激しい語調で、野梨子が私の言葉を遮った。
「なに?」
聞き間違いかと、私は目を見張る。
「清四郎は、”ろくでなし”だと言ったんです。まったく男の方って、どうしてあんなに愚かで自分勝手なのでしょう!」
「清四郎くんが・・・かね?」
私はあっけにとられて聞き返すしかなかった。

幼少の頃から神童の誉れも高く。文武両道、切れすぎるぐらいに頭の切れる青年。
「大馬鹿者です!」
これほど、彼にそぐわない罵倒もないだろう、と思うのだが。

野梨子は私を通り越して、中空の一点を凝視している。顔を怒気に赤らめ睨む先に、幼馴染が居るとでもいうように。
「もう、私に甘えるのもたいがいにして頂きたいですわ!」
ひとり言のように吐き出されたその言葉は、確かにここには居ない青年に向けられたものだろう。

「甘える・・・か」
ようやく、私は理解した。
難しい年頃の娘、それも突然の求婚に混乱している娘に、これ以上話し掛ける愚を。
野梨子はひどく困惑しているのだ。
おそらくは、生まれて初めての結婚の申し込みに。もっとも信頼する幼馴染からとはいえ。

触らぬ神に祟りなし。
玄関先でいつまでも佇んでいる野梨子を案じつつも、私はその場を離れることにした。
今は、そっとしておくのが得策だろう。
結局は、落ち着くところに、落ち着くのだ。
娘が幸せな未来に続く道を選択することを祈りながら、私自身も寂しさを禁じえない。

これまであまり目にすることのなかった感情を露にした娘の姿は、若かりし頃の妻を思わせた。
親子ほどに歳の違う私に、駆け落ち同然に嫁いでくれた頃の。
私たちは情熱的な恋愛結婚だったのだ。
すでに、野梨子はあの頃の妻の年齢を越している。

野梨子と清四郎くんの関係がそういうものでないだろうことは、画家の目で改めて検証しなくとも明らかだ。
穏やかな愛情。
積み上げてきた歴史。
それは、怒涛の恋愛ではないだろうが、肉親や夫婦の愛に似ている。

寂しさを胸に抱きながら、それでも私は笑みを浮かべて自室に向かった。
親としての願い。
身を滅ぼすような激しい愛でなくていい。近くにある幸せをつかんで欲しい。

はからずも知ってしまった娘の人生の一大事を、妻に報告しよう。そして、私の名づけ子が、近い将来本当の息子になるに違いないと。
娘が正しい選択をしてくれることを、私は確信していた。







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「清×野」。このカプ表示を見ただけで泣きそうになってしまう、清×悠原理主義者の私ですが、 先日立て続けに清×野な夢を見てしまい、号泣しながら目覚めました。 落ち込みから立ち直るべく、開き直って書いた内の一本がこのお話です。
ちなみに、夢では私はずーずーしくも悠理たん。清四郎のプロポーズを聞いてしまうのは、和子さんではなく、悠理でした。
浮かれた清州さんに「小さい頃から野梨子は清四郎ちゃん清四郎ちゃんだったよ。まさに運命だなぁ。実は清四郎くんの清の字はなぁ♪」と、 えんえん清野話を聞かされ、ベソベソ泣くしかありませんでした。 そんなお話はしんどいので、和子さんに変更。悠理ちゃんは最後にちらっと出てくる・・・かな?