情熱に届かない

〜3〜





【和子】



私が弟をようやく捉まえたのは、夜も更けてからだった。
階下に駆け下りたものの、母親が出迎えていたために、突っ込んだ話はできず。その後清四郎は夕食にも顔を出さなかったので、今夜は無理かとも思った。
自室に押しかけ、先ほどの求婚劇をからかえるほど、フランクな姉弟関係ではない。

ところが、思いもかけず。台所で寝酒を作っていたところ、風呂上りの清四郎がひょいと顔を出した。
いつもきっちりと着込んでいるパジャマのボタンが外れている。家族にも隙を見せたがらない弟にしては珍しい。
「夏はもう終わりだと思っていましたが、まだまだ暑いですね」
濡れた髪をタオルで拭きながら、清四郎は言い訳のように笑みを見せた。
「そぉ?肌寒いくらいだと思うけど」
赤らんだ顔。潤んだ目。
それで、ピンと来た。

「あんた、夕食ブッチして、ひょっとして、一人で飲んでたわね?」
それも、相当量。清四郎の許容酒量は限りなく底なしだ。その奴が顔に出るくらいなのだから、かなり飲んでいると見た。
清四郎は肩をすくめた。
「ちょっとだけですよ」
「血中アルコール度数、計ってあげようか。飲酒して長風呂なんて、馬鹿じゃない?ぶっ倒れても知らないわよ」
清四郎はニヤリと口の端を引き上げ、余計なお世話だ、と言わんばかりに私に背を向けた。

逃してたまるか。

「振られた、自棄酒?」

私の言葉に、パジャマの背が凝固した。
かなり酔っているのなら、好都合。いつもならはぐらかされる話だろうが、今なら動揺は隠せまい。

「・・・・そりゃあね」
清四郎は振り返って、ため息をついた。
「僕だって、みっともないことをしたとは思いますよ」
口の端を引き上げたそれはいつもの笑みだったけれど、目が違った。
暗い目。しかし、そこには意外なほどの激情が揺らめいていた。
「・・・飲む?」
思わず、作ったばかりの水割りのグラスを差し出していた。
「血中アルコールはいいんですか?」
清四郎はそう言いながら、グラスを受け取った。
くい、と一気に飲み干す。
喉が動き飲み干すのは、酒よりも苦い感情。

立ったまま、台所でテーブルを挟み。
私は初めて見る弟の姿に、驚愕の思いを噛み締めていた。

野梨子ちゃんへの想いは、てっきり幼馴染に対する親愛の情に過ぎないと思っていた。
育った環境、これまでの関係。性格も容姿も、結婚相手として申し分のない彼女だから、求婚したのだろうと。

――――あなたとなら、このまま一生歩いて行けると思います。
それは言い換えれば、激しい恋情を抱くことはなくても、信頼と愛情を培ってゆけるのだという意味だと思っていた。

だけど、それは間違いなのだと、目の前の男の目は語っている。
なんということだろう。
清四郎は、恋をしている。
冷血漢で、傲慢で。恋愛なんかできないに違いないと思っていた私の予想を超えて。



テーブルに置いたグラスを両手でつかみ、清四郎は激情を堪えるように顔を伏せた。
わすかに、手が震えている。
二人の間に、なにかあったのだろうか。それとも、清四郎はこの激情をこれまで押し隠してきたのだろうか。
「・・・・・・・ごめん」
私は清四郎のグラスに酒と氷を足す。思わず口をついて出たのは、謝罪。
「振られた、なんて冗談よ。野梨子ちゃんは、驚いただけだと思うわ」
清四郎は弾かれたように顔を上げた。
黒い瞳に、私の困惑顔が映っていた。
無垢にさえ見える、透明な黒。
無防備な清四郎。

この弟を、どれほど私は知っているというのか。腹を割って話したことなど、これまでなかったかもしれない。成人してからはいっそう。 ましてや、三年もの間、離れていたのだ。

「・・・・・・・・ああ、いえ・・・そうですよね」
清四郎は言葉を押し出した。
クッと喉の奥で音を立てる。
それが嗤い声なのだと、しばらくして気がついた。
冷笑を浮かべた唇。双眸には暗い激情が宿っている。

「なんだか、帰国してから、あんた・・・変わったわね」
日常生活に目立った変化が現れていたわけではない。相変わらず規則正しく秩序だった毎日。さすがにあちらこちらに顔を突っ込んでいた多趣味多方面への興味は 仕事のせいか薄れているようだが。
外出は野梨子ちゃんや仲間たちと。それも、あまり変わらない。

「そうですか?」
だけど、こんなに、感情を表に出す男だっただろうか。
清四郎は、ひどく参っているようだった。隠そうとしていても、深酒のために隠し切れないでいる。

「・・・・あちらでの生活で、思い知らされたんですよ」
「何を?」
「自分が大馬鹿者だってね」
清四郎は自嘲の笑みを浮かべた。

「らしくないじゃない。仕事で大失敗でもしたの?でも凱旋帰国で思いきり出世したんじゃなかった?」
私の言葉に、清四郎は無言で肩をすくめた。
それは、挫折を知る男の表情だった。

神童ともてはやされ、輝く勝ち組街道を突っ走ってきた清四郎も、手酷い挫折を味わったのだろうか。
勝手なもので、こんなときは私も姉。いつも優秀すぎて可愛げのない弟の高いプライドをへし折ってやりたいと思っていたはずなのに――――不愉快だった。

「なによ、それでヘコんでたの?がむしゃらに頑張りなさいよ!見返してやりたいと、思いなさいよ!」
そう言ったら、清四郎は微妙な顔をした。
「見返して・・・ですか?そんな気はなかったんですけどね」
歪んだ笑み。
「いや。どこかで、そんな思いもあったのかも知れない・・・野梨子が怒るはずですな」
グラスに口をつけながら、ひとり言のように。
「え?どういう」
・・・意味?

私が清四郎に尋ねかけた時。
インターフォンが割って入った。

すでに随分酔っているだろうに、清四郎は台所にあるモニターボタンを機械的な動作で操作した。
「ハイ?」
『清四郎?私です。遅くにすみません。お話がありますの。よろしいかしら』

鈴の鳴るような、透明な声。彼女の気高さと聡明さと、純粋さの滲んだ声。
そして、誰よりも弟を理解している、優しい声。

「・・・・・・・野梨子」
モニターに映った野梨子ちゃんに目を向けず、清四郎は壁に手をつき頭を伏せた。
「僕は、今夜は・・・・」
清四郎が答える前に。

玄関のチャイムが鳴った。
確かに、我が家は隣家の日本家屋とは違い、門を入ればすぐに扉だが。野梨子ちゃんもらしくなく性急だ。
私は台所の玉暖簾を手で払い、玄関へ向かった。
「清四郎、私が出るから。その間にシャツのボタンくらい留めなさいよ」
清四郎はインターフォンの受話器を置きながら、苦笑していた。
覚束ない指先でボタンを探る仕草。外科医となった私が嫉妬するほど、器用な指を持っていることを知ってはいるけれど。
思いもかけないほど、この弟が可愛く見えた。
本当は、ひどく不器用な男なのかもしれない。



もう一度、チャイムが鳴った。
「はいはい、ちょっと待ってね」
サンダルに足を突っ込み、玄関の鍵を開ける。
ドアを開けた私の前に、佇んでいた彼女。

「・・・・・・・・っ?!」
私は意外な姿に、絶句した。
唇を切れるほど噛み締めた、強張った顔。頬にはっきりと残る涙のあと。
だけど、私を見つめた揺れる瞳は強い感情を浮かべ。
その激しさに圧倒され、私は動けなくなった。


「姉さん?」
清四郎が玉暖簾を揺らす音。
私と対峙している訪問者の姿が目に入ったのだろう。
息を飲む気配。

一瞬、時が止まったように思えた。

「・・・清四郎!!」

名を呼んだのは、彼女が先だった。

「悠理?!」

だけど、私の横をすり抜け、裸足のまま扉に駆け寄ったのは、清四郎だった。

「ごめん、ごめん・・・清四郎!」
彼女の両手が清四郎に向かって伸ばされる。
涙が堰を切ったように溢れ出す。
それが零れ落ちるよりも先に、清四郎は彼女を抱きしめていた。
全身で包み込むように――――いや、まるで溺れる者が差し出されたたったひとつの手に、すがりつくように。

「悠理・・・悠理・・・」
あえぐように、清四郎は彼女の名だけを繰り返した。
あまりにも、雄弁に感情を伝えるその声音。
それで、私にも知れた。

たった一つの手。
確かに、清四郎にとっては、彼女の手がそうだったのだ。

抱き合ったふたりの姿にあっけにとられながらも。
どこかで、ピースの嵌まる音が聞こえた。
医師になる道を選ばず、剣菱に入った清四郎。
以前の婚約破棄の一件があったから、悠理ちゃんとは親しい友人以上の関係だとは、私たち家族は思いもしなかった。

そして、清四郎の帰国後、耳に入ってきた剣菱家御令嬢の結婚話。
たぶん、それがすべての解答。

幼馴染への突然の求婚。自暴自棄なヤケ酒。
大馬鹿でみっともない――――我を失うほど、恋をしている男。

ふたりはお互いの名を口にしただけで、すべてを伝え合ったのか。人前もはばからず抱き合ったまま。
しばし金縛りに捕らわれていた私は、ふたりの背後で佇む野梨子ちゃんにやっと気がついた。
数時間前は義妹になるだろうと思っていた彼女は、涙に滲んだ笑みを浮かべていた。

その目には、確かに愛が溢れていた。
愚かで手のかかる、幼馴染ふたりに対しての。








NEXT
TOP


やっと悠理ちゃん登場。はい、こういうお話だったんですね。そうでなければ、書きません!(きっぱり宣言)
いつものように、いやいつも以上にバカップルなふたりでございました。次回最終回予定。 当初は、悠理サイドのお話として豊作さんで締めるつもりでしたが、野梨子編に変更。野梨子さんの愛は一体どこへ行くのでしょう。書いてみるまで、私にもわからない・・・。