【野梨子】
日本庭園に不似合いな向日葵の長い背が、風に揺れていた。
清四郎と一緒に植えたのは、まだ幼稚舎の頃。
毎年、おば様が植え替えてくれているのか。
隣家の庭から見えるその花が、私は好きだった。
清四郎も、きっと。
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夜半の訪問者は、我が家の庭に立ち、縁側に座る私を真っ直ぐ見つめた。その目は強い意志を宿していたけれど、潤み濡れていた。
夜風がふわふわの短い髪を揺らす。向日葵の花弁のように。
「ごめん・・・野梨子、ごめん」
悠理はそう言ったきり下を向き、ポロポロ涙を零した。
「どうして、私に謝るんですの?」
私は驚きと共に、喜びを感じていたのに。
悠理の顔を見るのは、久しぶりだった。もう、半年・・・一年ぶりになる。今日も魅録と可憐の家に皆で集まったのに、
悠理は姿を見せなかった。
そう、清四郎が帰国してから、一度も彼女は私たちの前に姿を現さなかったのだ。
「だって、だって・・・あたい、清四郎が・・・」
激しい感情と決意のこもった瞳をしながら、悠理はそこで言葉を切った。嗚咽が漏れる。
泣き虫で意地っ張りで、馬鹿な悠理。
彼女が変わっていないことが嬉しい。
「ごめん、野梨子」
重ねて謝られ、私も悟る。
清四郎からのプロポーズは私にとってはあまりに突然のことだったけれど、周囲にはそうではなかったのだと。
清四郎が帰国して以来、私たちは休日を共に過ごす事が多かった。
もともと趣味が合う部分も多かったし、学生時代は朝晩一緒に登校し倶楽部でも共に過ごしていたのだから、私にとっては、
不自然なことではなかったのだ。
それに、すでに私は知っていた。
清四郎の心に誰が住んでいるのかを。
かつて、清四郎と悠理が婚約したとき。
私は清四郎をなじった。彼が、悠理を愛しているとは、思えなかったから。
――――私に、愛の何がわかっていたというのだろう?
あの頃、清四郎がどこまで自覚していたのかは、今でも怪しんではいるが。
悠理にこっぴどく拒絶され、婚約を解消し。その高いプライドにもかかわらず、清四郎は彼女との関係を修復した。
ただの、友人として。
皆が、私が、清四郎の本気を知ったのは、やはり卒業してからだ。
悪友のまま悠理のそばに居続ける、彼の態度が変わったわけではないけれど。
いつも、そばに。
ただ、彼女を守るために。
清四郎と悠理が付き合っていたのかどうかは、知らない。
けれど、清四郎が剣菱に入り。今度は自分自身の力で、地盤を固め。
そして、悠理は見違えるほど、綺麗になっていった。
ふたりが共に居る姿が、いつしか私たちにとって、自然なものになり。良い恋をしているのだと、誰もが気づいていた。
清四郎の海外生活の間も、悠理の姿はほとんど日本にはなかった。
だから、清四郎が帰国し、悠理が他のひとと婚約したと聞いたときは、驚いたものだ。
ふたりに何があって、どんな別離をしたのかも、私は知らない。
ただ、悠理と顔を合わせることはなくなってしまった。彼女が明らかに、清四郎を避けていたから。
魅録のところには顔を出していたようで、彼らから噂を聞くしかなかった。
今日も聞いたところだ。悠理の式の日程が決まった、と。
そして、甘ったれの大馬鹿者からの、プロポーズ。
私は怒りと共に、諦めと淋しさを感じていたのだ。
ふたりが、とても好きだったから。
「私と清四郎が、交際していると思っていますの?」
悠理は無言で俯く。涙が玉砂利に落ちた。
美童か可憐あたりが、悠理に告げたのだろう。彼らがどこまで、清四郎と悠理のことを知っているのかは分からないけれど。
どうせいつだって、こういうことは私が一番疎いのだ。
「・・・まだ、間に合いますわ」
私はそう言って、悠理を促した。
笑顔は心から浮かべることができた。
まだ、間に合ったから。
悠理には、言わない。あのロクデナシにも、知られたくはない。
だけど、自分の心には告白しよう。
――――私は、清四郎を愛している。
********
清四郎は裸足のまま玄関に飛び降り、悠理を抱きしめた。
おそらくは、もう二度と会えないと覚悟していた、彼がたったひとり愛した女を。
清四郎は私に気づきもしない。
抱き合うふたりの姿が涙で滲んだ。
だけどそれは、淋しさのためではなかった。
私たちは二人で居ながらも、いつももう一人の存在を感じていた。
彼の心には、ずっと彼女が居続けていたのだ。ほんの、幼い頃からずっと。
――――あなたとなら、このまま一生歩いて行けると思います。
その言葉がすべて偽りであったとは思わない。
悠理の身代わりにされたとも、思わない。
自棄と衝動と、私に対する甘えが言わせた言葉だとは分かっている。
だけど。
心が揺れなかったといえば、嘘になる。
いつか、本気で彼が私にそう言う日も、来たかもしれない。
私たちの間には、確かに何らかの絆があるから。
時として、甘えや依存が混じることはあっても、私たちは尊敬し理解しあえる穏やかな関係を築いてきた。
兄妹のように、親友のように。一生を、共に過ごしたいと思うほどに。
私が異性として彼を愛しているか、愛せるか。そう問われれば、分からないと答えるしかない。
いつか、私たちが本当に結ばれることもあり得たのかもしれない。
清四郎の胸のうちに、これほど激しい情熱が渦巻いていることに気づかずにおれたなら。
彼が、決して忘れることの出来ない想いを、それでも思い出に変えることができたなら。
私は安堵していた。
私たちは、このままの距離で、一生歩いて行くのだ。時に交錯することはあっても、重なることがない、このままで。
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ほんの数時間前に、私に求婚した清四郎も、あれほど私に謝っていた悠理も、もう私の存在など忘れている。
お互いしか見えていないふたりに、呆れつつも。私は嬉しかった。
紆余曲折を経て、もうふたりが離れることはないだろう。
悠理も私にとっては、大事な幼馴染。
私にはない彼女の無邪気さが好きだった。
あまりに私とは違いすぎる彼女に、嫉妬を覚えたことはない。
衝動的で愚かで堪え性がなくて。
彼女のそんな部分が、いつの間にか、私よりも正反対であったはずの清四郎に移ってしまっていることが、おかしかった。
茫然自失状態だった和子さんが、私に目を向けた。
私は微笑を返した。
「和子さん?どなたか来られたの?」
廊下の向こうからおば様の声がし、和子さんは慌ててそちらに顔を向けた。
「あ・・・ママ、いいえ!」
頬が赤らんでいる。
和子さんは、まだ玄関先でラブシーンを続けているふたりから目を逸らし、私に小さく会釈をして廊下の向こうへ小走りに去った。
私もふたりに背を向ける。
ものの見事に私を無視してくれた清四郎に、明日は嫌味をダース単位で進呈しようと決意しながら。
幼馴染ふたりの姿に思い知らされる。
恋はするものでなく、落ちてしまうもの――――。
もう随分昔のことになる、淡い初恋の記憶が胸を過ぎる。
何もわからなかった、何一つ捨てることのできなかった、遠い日の記憶。
夏の終わりを告げる夜空の星に、いつの間にか面影は遠くなっていた。
私の胸をいま満たす、この愛。
清四郎を、悠理を。彼らの愚かな姿さえも、愛しくてならなかった。
秋の匂いのする風に、向日葵が揺れている。
この花を共に植えた頃から、彼の中には彼女が住んでいた。
私の中にも、きっと。
私たちは二人で居ながらも、二人じゃなかった。
――――私は、悠理を愛している。
愚かで衝動的で、真っ直ぐな彼女を。
私は失恋したのだろうか?
ふたりの中に、私の存在はおそらくないだろうから。
だけど、始まってもいない恋は失えない。
愛は、消えない。
私の胸をいま満たす、この安堵。
それが、幼稚で頑なな怯えゆえでないといいと思う。
世界を一変させてしまう怒涛の恋に対する、怯えではないと。
いつの日か、私も恋に落ちるのだろうか。
すべてを捨てて、追いかけたいと思うほどの。
情熱に、届くほどの。
――――恋がしたい。
はっきりと、季節が変わってゆくのを、感じながら。
生まれて初めて、そう思った。
END
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