虹のラララ




早朝、この寺を訪れたときはまだ振っていた雨は、朝稽古が終わる頃には、上がっていた。

「いよう、馬鹿夫婦!」

顔を合わせるなりの第一声に、ふたりは同じように顔をしかめた。
「ご挨拶ですね、和尚。”馬鹿”は余計です!」
「いまは一応”夫婦”だけどな、一緒くたに呼ぶない!」
気に障ったのは、別のところで、だが。

休日の早朝から稽古に参加していたふたりが、和尚と顔を合わせたのは昼過ぎになってから。 和尚が夜遊びだかなんだかで、外出していたためだ。

「先日復縁したそうじゃな。招待状をもらったが、アホらしくて出席せなんだ」
雲海和尚は、愛弟子清四郎と、その相棒――――幼馴染の友人で同居人で目下ふたたび妻になったばかりの悠理に、目を細めた。
「おまえらも、いい加減懲りんのぉ。くっついたり別れたり、何回目だ?6回目?7回目か?」
和尚の心底からの呆れ声に、ふたりは眉を顰める。
「人聞きが悪いですね。離婚は一回しかした覚えがありません」
「そーだじょ。まだ一回だけだい!」
「婚約破棄はそのくらいしとるじゃろうが」
「「・・・・・・・・・・・・・・・・。」」
事実だったので、ふたりは反論しなかった。

雨上がりのぬかるむ地面。水溜りには、屈託のない青空が映っている。
しかし、この腐れ縁夫婦の空は快晴とばかりはいかないらしい。
四歳の清四郎が東村寺に通い始めて以来二十数年。愛弟子が可愛くてしかたがないのは当然だとしても、 ふたりの最初の婚約にもかかわってしまった和尚だ。
清四郎が武道を始めたのも、悠理に蹴り飛ばされたことが原因なのだから、因縁浅からず。
この迷走カップルを、あきれ果てつつ見守る立場に甘んじている。

水溜りをひょいと飛び越え、悠理は縁側の和尚の隣に腰掛けた。
庫裏から奪ってきたらしい、昼飯の残りの御ひつを大事そうに抱えている。
清四郎もその横に腰を下ろす。
「じっちゃん、昼飯、食った?」
「おお、出先でな」
和尚の返答を聞いた悠理は安心顔で、御ひつの蓋を開けた。中には握り飯。
「・・・まさか、それをワシのために、嬢ちゃんが?」
「いんや。庫裏で坊さんが握ってくれた」
「悠理、まだ食べる気ですか?腹を壊しますよ」
清四郎は呆れ顔で悠理を睨んだあと、悠理の向こうの和尚に顔を向けた。
「今日は、復縁のご報告もですが、頼みごとがあって来たんですよ」
「ワシに?」
口をもぐもぐさせながら、悠理が割って入った。
「うちの庭にさ、道場を作ったんだよ。ちっちゃいけど、神棚のある本格的なやつ。だけど、なんかこうピリッとしなくてさぁ。 じっちゃんに一筆なんか書いてもらって、額でも飾ったらいいんじゃないかと思ってさ」
「ほう。道場を剣菱邸の庭に?」
清四郎は苦笑して頷いた。
「悠理と毎朝組み手をしてるんですがね。だんだんとお遊びの粋を越えて来まして。あとで見てやってください」
「清四郎には師範免状をやったじゃろう。おまえが教えとるなら、問題ない」
和尚は悠理の向こうの清四郎に、ニヤリと笑みを向ける。
「庭に道場とは、おまえ、復縁したのはいいが、お嬢に部屋から追い出されて、そこで住まうのか?」
「馬鹿言わないで下さい。道場は悠理の遊び場ですよ。住むなら悠理の方ですね」
清四郎は肩をすくめた。
悠理は口を尖らせる。
「なーに言ってんだよ。もともと部屋はあたいのじゃないか。おまえが本やらコンピュータやら、やたら積み上げて狭くなっちまってるけどさ!そのくせ、 あんまり帰って来ないんだから、無駄だよなーっ!」
子供のようにぷっくり膨らんだ頬。
そのピンク色に染まった顔には、だけど子供にはない憂いが滲む。

和尚は悠理の横顔に、目を細めた。
「ほう・・・清四郎はそんなに帰って来んのか。浮気でもしとるのか?」
和尚の言葉に清四郎は思いっきり冷たい視線。
「あるわけないでしょう。そんな、面倒な」
「そーだよな。あり得ねーよな。仕事中毒だもん」
清四郎に浮気はない、と同意しながらも、悠理の唇はまだ尖っている。
「なんだったら、ワシがまた代わってやろうか?」
「「なにを?」」
「嬢ちゃんの夫の座」

清四郎の視線の温度がまた下がる。
悠理は一気に蒼ざめ、縁側を飛び降り、和尚から2メートルは離れた。
なにしろ悠理は、和尚とは婚約もどきをした上に、夜這いラブラブ攻撃をしたくもないのにした過去がある。彼女にとっては、笑い飛ばすには重過ぎる過去だ。

「冗談じゃ、冗談!」
「あたりまえです!」

カカカと笑う和尚と清四郎の言葉に安堵して、悠理は縁側に戻る。ただし、今度は和尚の隣ではなく、清四郎の隣に。
清四郎の肩に顔半分隠しつつ、和尚を睨む。
「冗談でも言うな!ほんとは夫なんざいらねーんだからな!」
肩にすがりつかれながらのこの台詞に、清四郎の口元がひきつった。
和尚に向けられた言葉だったが、清四郎にグッサリ刺さったようだ。

清四郎の鋭角な頬に、影が差す。
木の緑。空の青。そこに溶け込む、ほのかな紅色。

「ん?」
光線のマジック。

「虹だ!」

悠理が叫んで、再びぴょんと縁側を飛び降りた。
彼女の指差した先。高い空に、大きな虹が掛かっていた。

「おお・・・見事じゃのう」
「虹なんて、久しぶりですねぇ」

光線がきらきらと降り注ぐ。
「すっげーっ!」
悠理もきらきらと顔を輝かせる。
「清四郎ー!すごいよ、あたいこんなの初めてだ!」

虹は一つだけではなかった。
寺の屋根から、ブナの木にもかかっている。
二重の虹の橋が、その下の悠理に不思議な反射を与えている。
屋根から滴り落ちる雨の雫が、七色にきらめいた。
悠理の表情も、七色にきらめいた。

「あ、消えちゃう・・」
ブナの木から虹が薄く消えようとするのを惜しんで、悠理が手を伸ばした。
揺すられた木から、水滴が舞い散った。
まだ大空に掛かる虹が、光線を投げかけ、反射させる。
はしゃぐ悠理に、幻想的な雨が降り注いだ。

縁側に腰を下ろした師弟は、その光景に見惚れていた。

「嬢ちゃんは、綺麗になったな」
「・・・そうですか?」


「清四郎!じっちゃん!こっち来いよぉ!」
笑いながら手を振る悠理に、清四郎は手を振ってかえす。
「嫌ですよ。木を揺すってびしょ濡れにする気でしょう!」
「バレたかー」
あはは、と笑う悠理は、無邪気な子供のままの顔をしている。


「あいつは、あいかわらずですよ?」
「まぁ、そうじゃな」

まだ消えない大空の虹が、風景を縞々模様に見せる。
角度を変えれば、色が変わる。

「雨降って、地、固まるじゃな」
「は?」
ぬかるんだ地面の水溜りに映った虹。
乾かない地面は固まる気配もない。
「おまえらの、ことじゃよ」
和尚は、悠理の笑顔を指差した。
清四郎は眉を顰める。
「どこが、ですか?固まるどころか、泥炭地で足を取られまくりですよ」
ため息をついて、清四郎は左手の薬指に目を落とした。
プラチナの指輪を指先で回して緩める。外すでもなく、もてあそぶ。

離婚している間も、清四郎の指からは取られなかった指輪。
剣菱内で地盤を固めつつある彼は、体面が悪いからだの、面倒だからだの、言っていたが。
大々的に再婚式までやっておいて、いまさら体面もなにもないだろう。

「復縁しても、まだ不安か?」

和尚の問いかけに、清四郎は顔を上げた。
「なにがです?」
訝しげに眉を顰めた清四郎に、和尚は苦笑する。

「うわっ」
清四郎が、突然顔色を変えて立ち上がった。
そのまま、飛び出す。

ダッシュした先には、ブナの木。悠理が木によじ登っていたのだ。
大空にかかる虹に、少しでも近づこうとするように。

清四郎が両手を広げて木の下に到達したとき、悠理が張り出した枝に飛び移った。
落下を危惧した彼の予想に反して、悠理は雨に濡れた木にも巧みに登ってみせた。
悠理の代わりに、水滴がパラパラ清四郎の両腕に降り注ぐ。
七色に輝きながら。

清四郎は濡れながら、空いた両腕をなすすべもなく下ろした。
「バカ、幾つなんですか、おまえは!」
「だって、虹の果てって見たことある?興味ない?」
悠理は届かない大空に、手を伸ばした。



「・・・まったく、清四郎もえらいのに、惚れたもんじゃな」
和尚は縁側でひとり呟いた。
清四郎に聴こえたら、即座に否定するだろうが。

『腐れ縁と打算の末の、愛のない結婚。』
当人たちは、強固にそう主張している。
誰がどう見ても、離れられないくせに。


「あ、痛っ」
「どうした、悠理?」
「お・・・お腹、気持ちわる・・・」

突然、悠理は枝に跨ったまま、腹を抱えこんだ。
「悠理?!」
俯いて身を丸めた悠理は、口も押さえる。
「は、吐きそ・・・」
悠理の顔は蒼ざめ、額には脂汗が浮いている。
「ったく、食べすぎたんですよ。いいですよ、そのまま降りなさい。受け止めてやるから」
清四郎はもう一度両腕を広げる。
「・・・ん」
悠理は意地を張る余裕もないのか、俯いたまま上体を傾ける。そのまま、横倒しに枝から離れた。
なんの躊躇もなく落下する悠理を、清四郎が抱きとめた。
今度は、しっかりと腕の中に。

「吐きそうなのか?」
「ん」
悠理は清四郎に抱かれたまま、口を押さえて頷いた。
そのまま運んで行こうとした清四郎を制して、腕の中から飛び降りる。
たたたたと、悠理は口を押さえたまま駆け去って行った。

清四郎は呆れ顔で、悠理の背を見送る。
「あれだけ走れるなら、腹痛はたいしたことがないようですね。絶対、食べすぎですよ。さっき、庫裏の食材を空にしたんですから。 あいつといると、出先にも薬を手放せません」
胃薬、整腸剤、切り傷擦り傷打ち身用。清四郎は慣れた仕草で、縁側に置いていたデイパックから薬を取り出した。
濡れた髪についた水滴が、まだ光を弾いている。
どこか楽しそうな横顔に、虹が色を乗せる。

「お嬢は、変わらんなぁ」
「まったく、困ったもんです」


変わらない彼女が、たまらなく愛しいくせに。
腐れ縁の幼馴染。政略結婚。
そんな言葉でごまかして、変わらない関係を望んでいるのは、清四郎の方なのだろう。
彼女を捕らえ自分だけのものにしてしまいたいと、葛藤しながらも。


「嬢ちゃんも、気の毒にな・・・」
「は?どうしてです?」
「おまえは、我がままで欲張りじゃからのう」


女としての彼女を求めながら、子供のままでいて欲しい。
踏み出す新たな関係よりも、変わらない関係を求め。
自由に駆け回る彼女を愛しながら、そばから離れることを許さない。

――――我がままで、身勝手な男。

「そのくせ、自覚しとらんのじゃから、平行線なわけじゃよ」
同じことを懲りもせず繰り返すのは、彼がそれを望んでいるから。おそらくは。

「は?」
清四郎は怪訝顔。

虹が作ったプリズムが、様々な色を映す。気まぐれな自然の作用。
虹の端は見えない。架けられた、渡れない橋。


「・・・せいしろ」
ふらふらと、蒼ざめた悠理が手洗いから戻って来た。
「悠理、戻して楽になったか?」
「・・・ちょっとだけ・・・」
そう言いながら、まだ悠理の顔色は冴えない。よろりと清四郎の胸にもたれこむ。
体調の悪いときは、悠理はいつも素直だ。
清四郎は悠理を抱きしめ、頭を撫でた。
「一応、薬を飲んでおいた方が良さそうですね。腹痛は?」
清四郎の腕の中で、悠理はふるふる首を振る。
「じゃあ、これかな」
清四郎が薬を選び、悠理に差し出す。
悠理はふたたび、首を振る。
「悠理?」
「薬は、いい・・・」
悠理は口を押えて、俯く。
泣き出しそうに顔を歪めている。
すり、と胸に頬をすりつけられ、清四郎は当惑した。
「どうしたんだ?」
蒼ざめた悠理の顔を、清四郎は覗き込む。
「吐き気が収まらないんでしょう?この薬なら・・・」
悠理は俯いたまま、激しく首を振った。
蒼白な顔の中、ほのかに耳が赤い。

「悠理、一体どうしたんだ?」
様子のおかしい悠理に、重ねて問う清四郎に。
和尚がポリポリ顎を掻いた。

「嬢ちゃん・・・ひょっとして、おめでたかの?」

「「・・・・・・・・・・・・・・・・っっ!!!」」

弾かれたように顔を上げた悠理。
清四郎は愕然と固まる。

悠理は目に涙を滲ませた。
「赤ちゃん・・・だったら、どうしよう・・・せいしろぉ〜〜」

それは、新妻の恥じらいでも喜びでもなく。不安でいっぱいの、子供の顔。


「・・・・ふ」
真っ白になっていた清四郎は、即座に立ち直った。
口の端を引き上げる。
「ふはは・・・はっはっは!」
悠理を抱き寄せていた手を離し、身を二つ折りにして笑い出す。
「せ、清四郎?」
半べその悠理に、清四郎は嘲笑を浴びせた。
「はははは、たんなる食べすぎですよ、何勘違いしてるんですか」
「だ、だって・・・」
「妊娠なんて、あり得ません。避妊はしっかりしてますよ。僕に取りこぼしはありません!

唖然としている和尚の前で、悠理の頬が見る間にぷうぅと膨らんだ。
片手でペタンコの腹を押えたまま、もう片方の握られた拳が震えている。
悠理の怒りの表情を前に、清四郎はまだ笑っていた。

「だったら、おまえの子じゃないんだ!

悠理は拳骨を、清四郎の腹にぶち込んだ。
「おっと」
硬い腹で拳を受け止め、清四郎は眉を顰める。

悠理はそのまま、踵をかえして廊下を駆け去って行った。
清四郎は殴られた腹に手をやり、痛そうに顔を歪める。

「僕の子じゃないって・・・?」

愕然と呟かれた清四郎の言葉に、和尚は吹き出した。
「なにを動揺しとる。何年、嬢ちゃんと付き合っとるんじゃ」
「・・・・・・・・・・。」
和尚の言葉に、清四郎は初めて頬を染めた。

「時代劇の悪代官みたいな笑い方をしよって。あれでは、嬢ちゃんが怒るのもあたりまえじゃ」
「だって、あの悠理ですよ?さっきまで木によじ登ってたくせに。まだまだ考えられませんね」
はん、と清四郎は鼻で冷笑。それは、照れ隠しなのだろうが。
「なに言っとる。子供のできるようなことは、しっかりしとるくせに」
「・・・・・・・・・・。」


ふたりの間に架かる橋は、色を変える。たしかに、そこにあるのに、果ては見えない。
まだ、渡れない。


「さて、と。何か一筆とな。清四郎、墨を磨ってくれんか」
和尚が縁側から腰を上げた。
「ええ」
「なんの文字がいいかのう」
「悠理は『悪霊退散』を希望してますがねぇ。『質実剛健』とか『乾坤一擲』がいいかと」
「おまえには、『煩悩退散、色欲消滅』がいいんではないか?」
カカカ、と雲海和尚は絶句した弟子を笑い飛ばした。

師匠の前では、清四郎も子供扱い。
赤面して拗ねたように口を尖らせる様は、彼の妻に似ている。

「まだまだ、青いのぉ」

青空にかかる虹は、もう薄れて見えない。
まだ縞々模様の雲の向こうから、太陽が顔を出す。
白日のもとでは、明らかなことなのに。
それでも、ふたりには、見えないのか。

ふたりの間を繋ぐ、消えない虹。

虹の果て。たどりつきたい場所。
その胸にかかる虹を、まだ渡らない。

だけど、きっと。
ずっとそばで。変わらないまま。
いつか、あの虹も渡ろう――――ふたりで。





END 2005.9.12


「憂鬱なるスパイダー」の前日のお話です。 傍から見れば一目瞭然、清四郎も愛を自覚しつつありますが、そのままの関係を望むあまりに結果的には悠理ちゃんが不幸に。 離婚のたびに悠理は傷ついてますが、清四郎は最初の一回だけでしょ、ダメージは。やっぱ、酷い男です。(笑)
タイトルのお歌、MISIAの「虹のラララ」を教えてくれた麗さん、ありがとv サイト開設、おめでとうございます♪

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