夜の水族館に行こう、と言い出したのは美童と可憐だった。どうも、デートの下見のつもりらしい。 なにしろ、平日の夕刻だ。 臨海地区の鈍行電車の終点、海浜公園の一角にある水族館は、思いのほか空いていた。
「わぁ、思ったより広いなぁ!」 電車の中ではほとんどずっと居眠っていた悠理も、水族館に入るなり、元気を取り戻した。 「剣菱電鉄が都から買い上げた公園施設でしょう?悠理、初めてですの?」 「うん。水族館は万作ランドにもでっかいの作ったからなぁ」 あちらは大型遊戯施設。もともと公設の小さな水族館とは比べるべくもない。
が。夜の闇に浮かび上がった大型水槽の幻想的な光景は、水族館独特の夢空間を作り出している。 「人の少ないところも、ムードたっぷりよねぇ」 「そうだね。施設は綺麗だし、表のレストランも良い感じだったよ」 可憐と美童は心のメモにデータを記入しているらしい。
「お、ニモだぞ、ニモ」 「わぁ、隠れちゃったよ。今のが、パパかな?」 小さな水槽の窓に、悠理と魅録が顔を寄せ合って覗き込んでいた。 後ろから、僕はゆっくりと近づく。 彼女を、驚かさないように。 「クマノミは、コロニーを守るリーダーがメス化して卵を産むので、あの映画は設定そのものに無理があるかもしれませんね」 だけど、僕の声に、彼女の向けられた背がビクンと凝固した。 「へぇ、そうなんだ」 「ふ、ふぅぅん」 顔を上げた魅録の隣で、返事こそしたものの、悠理はまだ小さな水槽に齧りついている。
諦めに似たわずかな痛みが胸を焼く。 わかっては、いたことだけど。 僕は一歩、後ろに下がった。 彼女との距離を取るために。
「清四郎、この水槽ではサメと他の魚が一緒に泳いでるけど。食べられたりしないの?」 「回遊魚って、泳ぎ続けなきゃ、死んでしまうのかい?」 可憐と美童が矢継ぎ早に質問してくる。 「ここに説明が書いてありますわよ」 野梨子が暗闇に淡い光を放つ説明版の前で、友人たちに眉を顰めている。 「だって、清四郎に訊く方が早くて詳しいんだもの」 「薀蓄王だからね。使えるネタもあるかもしれないし」 なんに使う気なのか問いたくもないが。今は美童と可憐に顔を向けて話すことができて、僕は内心安堵していた。
ほんの少し開く、彼女との距離。
美童たちに話しながら目の端で捉えた悠理の背から、強張りが解ける。 おそらくは、僕が与えた緊張が、生まれた距離で解けたのだ。 その事実に、目の奥が疼いた。
ここに来る電車の中で。 暗い窓にはっきり映っていた彼女の表情。 いつも僕から視線を逸らす悠理と、ガラス窓越しに目が合った。 濡れた瞳は、眠りから醒めたばかりのためだったのだろうけど。 それでも、肩と肩が触れ合う距離に座る彼女の目を直視することはできなかった。
暗い水族館の中では、浮かび上がるのは青白い水。銀に光る魚たちの群れ。 水泡の向こうに、彼女の顔は見えない。 ガラス越しでさえ、見つめることが許されない。
「清四郎?どうかしまして?」 眉根をもんでいると、野梨子が案じてくれた。 僕は笑顔で首を振る。 「いえ、なんでもありません」 野梨子と他愛ない話をしていると、少しは気がまぎれる。 自分のペースを取り戻す。
野梨子に暖流のプランクトン量の話しをしながら、そっと、悠理の横顔を見つめる。 水槽のガラスに張り付かんばかりに顔を近づけている彼女の目は、やはり少し曇っていた。
彼女の笑顔を見たいのに。 ただ、そばにいたいだけなのに。
いつ頃からか、生まれた緊張。 不自然な距離。
理由は、わかっている。 ただ、僕のこの思いに、本能的に気づいてしまったのだろう。 幼すぎる悠理には、たぶん、受け止めきれないほどのこの感情を。 友人としてさえ、嫌われているなどと思いたくはない。
魅録に促されて、次の水槽に向かう悠理の背中に、僕は小さく溜息をついた。
水槽には、彼女の姿が暗い影としか映らない。 それでも、僕は祈るような思いで見つめる。 抑えきれない思いをもてあましながら。
気づかないで。逃げないで。 ただ、そばに居させて欲しい。
「ナポレオンフィッシュ〜?変な名前だなぁ」 「名前よか、顔の方が変だぜ」 「ナポレオンに似てるからかな?」 「それよか、物理の先公に似てねぇか?」 「あ、似てる、似てる!」
魅録とはしゃぐ彼女の顔に戻った笑顔。 きらきら輝く瞳。 耐え切れず、僕は目を逸らした。
そばに居たいだけ、なんて嘘だ。 気づいて欲しい。応えて欲しい。 そして――――抱きしめたい。
そんな僕の愚かな貪欲さを彼女は察して、怖れているのだろう。
だから。 気づかないで。 笑顔のままで。
そう願う僕も、また真実なのだ。
静かな、夜の水族館。 仲間たちのはしゃぐ声だけが響く。 そして、わずかに聞こえるモーター音と水槽からの水泡が消える音。
いつの間にか、仲間たちの姿が消えていた。ぼんやり立ち尽くしているうちに、置いていかれたらしい。 開きすぎた距離に、僕は悠理の姿を探した。 大きな水槽の向こうに、彼女を見つける。 青い水槽の反対側の部屋に居る仲間たちの姿が、揺れてぼやけ見えた。 悠理は、ガラスに額をくっつけるようにして、こちらに顔を向けていた。 僕も同じように、ガラスに身を寄せる。
太平洋を模した、この水族館で一番大きな水槽。 僕に気づいているのか、いないのか。遠い表情は、よく見えない。 僕たちの間を悠然と、魚たちの群れが通り過ぎた。
届け、届け。
僕は、ガラスの向こうの悠理に、テレパシーを送る。
どうか、逃げないで。 笑顔を見せて。
それでも、人工的な海の向こうの悠理の顔は、泣きだしそうに歪んで見えた。
「あ、もう9時よ!レストランのラストオーダーって、何時だっけ?」 「確か、9時半ですわ。ここの閉館も」
仲間たちの声が聞こえる。 僕はガラスから身を離し、水槽の向こう側へ回る通路に向かった。
仲間たちが居たのは、最後のコーナー。 悠理はまだ、先ほどと同じ姿勢で水槽に張り付いていた。
「あそこのレストランの味もチェックしなきゃ」 「んじゃ、晩飯はあそこだな」
仲間たちの明るい声は、出口への回廊に移動している。 「悠理、清四郎、行くわよ〜」
「うん、もちょっと見てから追いかけるよ」 悠理は、水槽から顔を離さないまま、後ろ手に仲間たちにひらひら手を振る。 「じゃ、先に行ってますわね」 僕の方を見た野梨子に、すぐに行く、と頷き合図する。野梨子は微笑して、回廊に消えた。 幼馴染には、言わなくても通じる。 悠理には、何も通じはしないのに。
悠理はまだ水槽に顔を向けたまま。 慎重に距離を保ちながら、僕は冷静さを装った声を掛ける。 「なにを、そんな熱心に見てるんです?」 声を掛ける方が、自然だろうから。 「うわっ」 悠理は弾かれたように振り返った。
静かな水族館。 僕は絶句していた。
振り返った悠理の鼻の頭は真っ赤で。大きな目には、涙が溜まって今にも零れ落ちそうだったから。 「悠理・・・」
抱きしめたくて。 胸が苦しくて。
だめだ、だめだ、と理性が制する。 怯えさせてしまう。気づかれてしまう。逃げられてしまう。 二度と、彼女の笑顔を見られなくなる。
それでも。 僕の感情は、彼女に向かった。 とめどなく、奔流のように、激しく。
「どうした・・・?なんで、泣いてるんだ?」 彼女を抱きしめてから、言葉が出てきた。 「泣くな」
きつく、抱きしめたわけじゃない。ぎこちなくそっと肩を抱き寄せただけ。 柔らかな髪に顔を埋め。激しい感情を抑える。 「泣くな、悠理」 もう一度、そう口にする。 僕の方が、泣きたくなったのだけど。
「清四郎・・・」 悠理が僕の胸に、頬を押し付けた。 その柔らかな感触に、体が震える。
哀しいときも、泣きたいときも。 いつも、僕が受け止めてあげたかった。 守りたかった。彼女の笑顔を。
静かすぎる水族館で、僕の鼓動だけが響く。
好きだ、好きだ、好きだ――――と。
もう、気づかせずにいるなど、無理だ。 これほど、彼女を求める気持ちを。
「清四郎・・・ごめん」 悠理が僕の胸に掌をついた。 わずかに生まれる隙間。 「ごめん、なんでもないんだ。心配しないで」 顔を上げないまま、悠理は僕と距離を取ろうとする。
逃げないで。 怯えないで。
僕は祈りながら、悠理の手を握った。 「・・・皆が待ってますよ。僕らも行きましょう」 悠理が頷く。 僕は、出口へと向かう暗い回廊へ向かった。 悠理の手を握り締めたまま。
悠理はおとなしく、僕のあとをついてくる。 足音は床のマットに吸い込まれ、聞こえない。 静かな空間で、彼女の鼻をすする音と、僕の鼓動だけが響く。
僕の手の中の悠理の小さな手が、ひどく冷たい。 ふたりきりの暗い回廊を歩きながら、僕は決意していた。 このまま、彼女が僕の手を振り払わないでいてくれたら。
悠理に、告げよう。 好きだと。おまえだけが。友達としてじゃなく。
もう隠し通すなんて、無理だから。 たとえ、それで、永遠に彼女の笑顔を失おうとも。 友人に、戻れなくても。
だから、もう少し。 この音のない空間が続けばいい。 まだ、友達でいられる、いまこのときが。
胸苦しく愛しい、この最後の時間が。
2005.10.15
子供と水族館に行って、こんな妄想に浸っておりました。しかし、無料日でしたので、満員。ロマンのかけらもありゃしねー。(笑) このあと、悠理ちゃんに逃げられ、キレて押し倒す清四郎・・・なんて、嘘です。冗談です。 |