目には見えないチカラ

 

清四郎と悠理の結婚が決まったのは、その秋。

もう、一時も離れられないというように、清四郎は家を出て、剣菱家に入った。

 

仲間たちは友人たちの新しい関係に、驚きつつ喜び祝福した。

もちろん、野梨子もそのひとり。

 

 

 

剣菱家で、仲間たちだけのささやかな祝福のパーティが催された夜のこと。

もともと酒に強いわけではない野梨子だったが、悠理と付き合いだしてからすっかり飲みなれてしまったワインに、この日はどうしたことか酔ってしまったようだ。

少し頭を冷やそうと、野梨子はテラスに出た。そっとガラス扉を閉める。

月が綺麗な夜。

可憐は身重だったので、夫の魅録と一緒に先ほど席を辞している。

広間に残っているのは、恋人たちと、美童、そして号泣しつつも喜んでいる、近々花嫁の父となる万作氏。

野梨子は窓の外から一同の様子を微笑みながら見守っていた。

秋の風はもう肌寒い。

それでも、今はテラスが心地いい。

 

淋しいわけではなかった。

こうなることを、一番望んでいたのは、野梨子だったから。

それでも、ついに結ばれる幼馴染たちの幸福に、多少の感傷があることは事実だ。他の友人たちよりは、ほんの少し多く。

子供の頃から、ずっと。清四郎は、野梨子にとって一番近い存在だった。長い年月を、共に歩いてきた。つかず、離れず、いつも隣に。

野梨子の初恋が破れたときも、彼が悠理に恋してからも。

大人になり、彼が海外にいたときでさえ。

野梨子の心には、彼がいた。

異性として彼に恋したわけではなかったけれど。

たぶん、いつまでもこの感情は消えないのだろう。

誰か、他のひとを愛しても。

 

 

秋の輝く月が、暗闇を払う。

テラスに面した中庭を急ぎ足で突っ切って来る人影に、野梨子は目を見開いた。

「豊作さん?」

「ああ、野梨子ちゃん」

悠理の影の薄い兄は落ち着きなく書類を抱えなおし、野梨子に焦った顔を向けた。

「もう、パーティは終わってしまったのかな?早く帰って顔を出せと、悠理に厳命されてたんだが」

妹の怒りに怯えたような彼の焦り顔に、野梨子はクスリと笑った。

仕立ての良いはずのスーツ、容貌も悠理と同じく母の血を引いて、ハンサムといえる。それなのに、どうしてこの人はこうも野暮ったいのか。

財閥の御曹司というよりも、市役所の職員か高校教師のような印象を受ける。

そういえば以前、清四郎が変装で髪を分け眼鏡をかけたときに、豊作氏そっくりだと、可憐が驚いていた。

しかし、野梨子から見ると、彼は清四郎とは正反対に見える。

傲慢なまでの自信と実力のオーラを身にまとい、冷徹なまでに情の薄い、野梨子の知る清四郎とは、反対に。

 

「大丈夫ですわ。魅録と可憐は帰ってしまいましたが、まだ賑やかですもの。おじさまは、夜通し飲むべ、なんて、おっしゃってましたわ」

「うわ・・・付き合いたくないねぇ、それは」

「でも顔を出してあげてくださいな。おば様がいないので、豊作さんが居てくださると、悠理も清四郎も喜びます」

 

豊作は眼鏡の奥の目を細めた。

「・・・野梨子ちゃんは、まるでふたりの姉のようだね」

「あら、出すぎた言葉でしたわね」

「い、いやいや、とんでもない!」

豊作はますます焦った顔をした。両手を顔の前で振るものだから、脇に挟んでいた書類がハ゛サリと落ちた。

「あああ・・・」

「あらあら」

二人してテラスにしゃがみこみ、書類を拾った。

 

「・・・ごめんな、野梨子ちゃん」

おそらく剣菱の重要機密書類に違いない紙を拾って手渡したとき、しゃがんだまま受け取った豊作がペコリと頭を下げた。

豊作は書類を抱え、頭を下げたまま動かない。

まるで、それは拝むように敬虔な姿だった。

「まぁ、そんな恐縮なさらないで」

大げさな、と野梨子は戸惑う。

豊作は膝を抱えるような姿勢のまま、俯いてポツリと呟いた。

「・・・悠理と清四郎くんのこと、申し訳なかったね」

「?!」

野梨子は思わず絶句する。

「・・・今日、ウチの母親が欠席しているのは、まだ腹を立てているからだ。悠理が母の選んだ相手との婚約を破棄したのは、ついこの間だからね」

 

 

 

『あたい、やっぱり、結婚しない!』

涙に濡れた強張った顔で、悠理が家族に宣言したのは、夏の終わり。

『そんな、悠理・・・いまさら何を言いだすの?もう式の日取りも決まってるじゃありませんか!』

『だめなんだ、あたい、あいつでないと・・・清四郎じゃないと・・・!』

その悠理の言葉に、家族一同あっけに取られた。

清四郎こそ、彼らが悠理の婿にと、誰よりも望んだ相手だったからだ。婚約までした高校時代から、大学を出た清四郎が剣菱に入ってからは、いっそう。

いつか彼が剣菱の後継者になるものと、剣菱家では算段していた。悠理が清四郎と決定的別離をし、見合いをする、と言い出すまでは。

『清四郎くんは、どう言ってるだ?!なしてあいつが挨拶に来ねぇだ!』

最初に激怒したのは、百合子よりも万作だった。悠理と別れてからも、仕事上では万作は清四郎を信頼し、将来有望な幹部として変わらず接してきた。

その彼に一言もなく、こうして愛娘をひとりで泣かせている。父親としては、相手の男に腹が立つのも当然だった。

『違う・・・違うんだ・・・』

悠理は力なく、頭を振った。

『あいつは、きっともうあたいのことなんか、忘れてるよ。みんなは、近いうちに清四郎は野梨子と結婚するだろうって・・・』

 

 

 

 

「『それでも、清四郎だけが好きなんだ』――――馬鹿妹は、そう言って家を飛び出したんだよ」

豊作は顔を伏せたまま、語り終えた。

「・・・・・・。」

野梨子は思い出す。そこから先は知っていた。

家を飛び出した悠理が向かったのは、野梨子の家。そして、清四郎の腕の中。

『ごめん、野梨子、ごめん』

泣きじゃくっていた悠理。きっと、横恋慕に対する、詫びだったのだろう。

それでも、清四郎の姿を見るなり、両手を差し出した。彼が我を忘れて駆け出し、彼女を抱きしめる前に。

変わらない彼の心を、確信していたわけではないだろうに。それは、自然な行動だったのだろう。

そう。

自然に、惹かれあったふたり。

情の薄い、理性的な野梨子の幼馴染が、悠理の前でだけは、そうではなかった。

ずっと、彼には、彼女だけだった。

それはもう、運命的なほど。

 

 

「・・・・豊作さん、顔を上げて下さいな」

企業のトップにしては人の良すぎる内面を表した彼が、顔を上げる。

「私と清四郎は、そんな関係じゃありません。ただの幼馴染ですわ。悠理は皆に騙されたんです」

素直に感情を表に出すところが、思いもかけずこの兄妹は似ていた。他に似ているところは見あたらないのに。

「昔は、私は清四郎を完璧な人間だと思っていましたのよ」

男としての生々しい性を感じさせない清四郎に、頑なな少女だった野梨子は安心できた。

愚かな感情を理性で制していると思っていた。

「とんでもない間違いでしたわ」

野梨子は豊作に微笑みかけた。

豊作は、眉を下げて苦笑を返した。

「・・・何年も一緒に仕事をしてきた僕にも、清四郎くんは完璧な男に見えるけれどね。悠理に惚れたこと以外は」

「まだまだ、甘いですわね。じきに分かりますわよ。兄弟になるんですから」

幼馴染のメンツのために、やけっぱちになった彼が取った行動――――本当に野梨子にプロポーズまでしたことは、話さない。それぐらい、清四郎に貸しがあってもいい。

 

 

コロコロ笑う野梨子に、豊作もフフ、と声を漏らした。

「君は大人だね、野梨子ちゃん」

二人、暗いテラスでしゃがみこんだまま、膝を突き合わせて笑い合ったあと。

「ありがとう、本当に」

そう言って豊作は、野梨子にもう一度頭を下げた。

「・・・豊作さん」

野梨子は意外な思いで、友人の兄を見つめた。

決断力がなく、人望もなく、生真面目なだけが取り得で。

派手で目立つ家族の中で、印象の薄い地味な人だとしか思ったことがなかった。

 

子供の頃には、見えなかったものが今は見えるかもしれない。

 

「おば様がまだお怒りになっておられても、万作おじ様は清四郎が悠理と結婚し剣菱家は安泰だと喜んでおられますわ。でも・・・貴方はどう思ってらっしゃるの?剣菱家の跡継ぎは本来、貴方ですのに」

野梨子は少し意地悪な気分になっていたのかもしれない。朴訥そうに見えるこの男性の真意を知りたかった。

「僕がトップに立てる器でないことは、とうに分かっているよ。僕よりも、彼がふさわしい。そして、それが僕は嬉しいんだ」

それが、自棄や諦めの言葉であれば、野梨子は不快感を感じたかもしれない。

「本当は、剣菱もいつまでも旧い世襲などすべきではないんだ。もう、そんな規模の会社ではないんだから。剣菱の家に生まれ、子供の頃から他の道を考えたことがなかったけれど、あまり僕は企業経営者に向いているとはいえないかもね。より相応しい人物を迎えられて、嬉しいよ」

豊作は眼鏡を外した。袖でガラスを拭いて付け直す。

「これでも、結構愛社精神は持っているんだ」

月光に照らされた顔に浮かんでいるのは、苦笑ではなく、はにかんだような柔らかな笑み。

野梨子は、一瞬、その笑みに見惚れていた。

家元の娘に生まれ、子供の頃からその道に生きてきた。なんの疑問もなく。

そんな自分の幼さが恥ずかしかった。

このひとは、柔軟で優しく強い。そんな彼に、無遠慮な質問を投げつけた傲慢さが、恥ずかしかった。

 

野梨子は立ち上がって俯いた。

「私は・・・まだまだ子供ですわ」

豊作も立ち上がり、野梨子の赤らんだ頬を、不思議そうに見つめている。

野梨子はますます恥ずかしくなり、両頬を押さえた。

思いのほか熱を持った頬に、自分でも戸惑った。

「野梨子ちゃん・・・?」

 

月光は、隠してくれない。小さくて愚かな自分を。

この男性の前で、それを恥じている自分を。

 

 

「あああーーー!兄ちゃん、帰ったの?!」

テラスに佇む二人に、室内から声がかかった。

ガラス戸が押し開けられ、悠理が転がるように飛び出してくる。

オフホワイトのニットのドレスを着たこの夜の主役は、眩しいほど綺麗に見えた。

悠理が美人なのは生まれつきだけれど、今の彼女を輝かせているのは、裡から溢れ出る光。

恋をつかまえた、幸せの輝き。

悠理は真っ直ぐ豊作の胸に飛び込んできた。

「兄ちゃん、遅いぞっ!」

悠理の体当たりに、さして体格の良いわけではない豊作はよろめく。

「おいおい、転んで怪我したらどうするんだ」

悠理は少し酔っているのだろう。火照った頬を、豊作の胸に押し付ける。

「兄ちゃんまで、来てくんないと、どうしようかって・・・あたいと清四郎のこと、反対してるのかもって・・・」

「馬鹿だな。お前はいくつになっても」

歳の離れた妹のふわふわの髪を、豊作は撫でた。

「お前のような奴にはもったいな過ぎる恋人を捕まえたんだから、僕が反対するはずはないじゃないか」

悠理の口からは、”いつもガミガミ口うるさい歳の離れた兄”としか聞いたことはないのだけど、この兄妹の間の絆をはっきりと感じる。

一人っ子の野梨子は、初めて悠理を羨ましいと思った。

野梨子にも、兄とも思う人はいるのだけど。

 

窓辺に佇むその彼に、野梨子は視線を移した。

清四郎は悠理の放り出したとおぼしきシャンペングラスを持って、微笑を浮かべていた。

彼もまた、悠理と同じように幸福に輝いて見える。

恋人とその兄を穏やかに見つめている清四郎に、野梨子も思わず表情を緩めていた。

きっと、豊作の顔に浮かんだ笑みと、それは同じ。

 

野梨子は兄妹に、そっと耳打ち。

「・・・御覧なさい、清四郎がこちらを見ておりますわ」

「ああ」

豊作は顔を上げて、清四郎に軽く会釈。

清四郎も挨拶を返す。

 

「みっともないですわね」

「「え?」」

野梨子の言葉に、豊作も悠理も驚いた顔。

「気づきまして?右眉の端が引き攣ってますでしょう。清四郎ってば、妬いてるんですわ。豊作さんにまで」

「げっ」

「まさか」

真っ赤になった悠理と、ははは、と力なく笑う豊作。

野梨子は首を振った。

「まだまだ甘いですわね。清四郎はそういう人間ですのよ。ね、悠理」

悠理は赤面したまま、兄の胸を離れ、恋人の方に駆け戻った。

なんの躊躇も未練もなく離された妹の華奢な体に、豊作は苦笑している。

きっと、野梨子自身の顔に浮かんだ笑みと、それは同じ。

 

他に愛する人ができても、この思いは消えない。

それでも、子供の頃には見えなかったものが今は見える。

いや、目には見えないチカラを感じることができる。

 

たとえば、今隣に立つ男性の、穏やかな風貌の向こうに。

 

やわらかな月光が差す庭で、新しい自分がひっそりと生まれる。

 

それは、まだ小さな予感――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

2005.10.8

 


あきさんのリクは、「豊作×野梨子(しかも野→豊)のコメディ」でございました。ぜんぜんコメディちゃうやん。(汗)「情熱に届かない」の続きにしちゃったのが敗因でしたね。ごめんなさい、あきさん。

きっとこのあと、豊作を意識しだした野梨子のコメディが展開される・・・かもしれない。そんでもって、オチは「あの恐怖の母とは正反対の大和撫子」をゲットしたはずの豊作氏が野梨子の尻に敷かれて、完。ほ〜ら、コメディ!書けや、って?(爆)

豊作×野梨子のつもりなのに清×悠が出ばっちゃいますからね〜。誰を一人称にしても、私の清四郎愛は隠せず。

ところで、タイトルは東真紀の1stアルバムタイトルから。「ジョンの純な恋物語」の1節なんですけどね。犬好きには泣ける歌です。彼女の「向日葵〜一期一会の命〜」が大好きvv

 背景:Pearl Box様

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