鏡の国のアリス 

9

 

 

暗闇の中、お互いの姿は見えない。

だけど、触れるだけで満たされる心が、間違いようのない存在を教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・・・悠理」

息を詰めていた清四郎が、小さく名を呼んだ。

熱い吐息が耳にかかる。

「・・・まさか、また入れ替わったのか?」

わずかにかすれた声が、彼の動揺を悠理に伝えた。

 

悠理は口を尖らせた。彼が何を言いたいのかがわかるから。

「おまえ、ひょっとして、区別つかないのかよ?」

清四郎は、向こうの世界の悠理と混同している。

なんだか、哀しくなってしまった。悠理は、絶対に間違わないのに。

たとえ、この闇で顔が見えなくても。

 

だって、あちらの清四郎と違い、現実の清四郎は恋なんて語らない。

悠理を、愛したりなんかしない――――そんなことは、わかってる。

 

 

頭をもたせ掛けていた清四郎の胸から、悠理は身を起こした。

まだ暗闇の中。彼から離れたかったわけではない。

清四郎の腕の中で体勢を替え、見えない彼の方に顔を向けて、悠理は手を伸ばした。

 

手探りでたどる、清四郎の肩。そろりと首に触れ、鋭角な顎と頬へ。

 

同じ顔、同じ声でも、彼が彼であることを、間違ったりしない。

彼は、悠理の清四郎だ。

鏡の向こうのもうひとつの世界が、もう遠く分たれてしまったことを、悠理は本能的に察していた。

最後に目に焼きついた、鏡越しの笑顔を想った。あの彼に愛されている、幸せなもうひとりの自分と。

 

 

そのとき。

清四郎の顔に触れていた悠理の手が、大きな手に阻まれた。

指が絡めとられ、悠理の手は清四郎に拘束される。

怒らせてしまったのかと身を竦ませる悠理の頬に、清四郎のもう一方の手が触れた。

先ほどの悠理がそうしたように、暗闇の中で清四郎の指が悠理の頬を辿る。

乾いた、大きな手。悠理の大好きな清四郎の手の感触。男のくせに滑らかな、だけど、この世で一番安心できる掌。

 

 

指は確かめるように輪郭を探りながら悠理の頬を包みこむ。

ぐ、と顎をすくい上げられ、顔を持ち上げられた。

突然の呼吸困難。

 

「・・・!」

悠理は唇を塞がれていた。触れているのは指先ではなく、柔らかく熱い彼の唇。

悠理の息も思考も、すべて奪おうとする、激しい口づけ。

 

それは、憶えのある感触だった。

何度も何度も、愛の言葉とともに与えられ、慣らされたキスの感触だった。――――向こうの世界の清四郎に。 

意識が混濁し混乱する。

悪友の、現実の彼から与えられるはずもない、陶酔だった。

 

舌をからめ、息を吸い、徐々にキスは深くなる。

抱きすくめられ、唇を奪われ。

激しい熱と欲望を感じても、悠理の体も思考も、痺れたように動けない。

侵入し奪いつくそうとする彼の存在以外、何も感じられなかった。

全身の血が沸騰する。

熱は、彼の欲望か、悠理の内側からなのか。それさえ、分からなかった。

 

 

 

 

 

消えたときと同じように、唐突に明かりが戻った。

 

閉じた瞼越しに感じる眩しい照明。悠理はゆっくりと瞼を開く。

同時に清四郎が悠理を解放した。名残惜しげに、唇をなおもついばみながら。

 

唇は離れても、悠理は夢うつつ。意識はまだ霞の中だ。

瞼を焼いた明かりが、徐々に覚醒を促した。

悠理は眩しさに目を細める。

周囲一面の鏡に映った寄り添うふたりの姿が目に入った。

先ほどよりも少し短めの悠理の髪。左手の指に、リングはない。

ふたたび二つの世界が分かたれたことは、あの暗闇の中でもうわかっていた。

 

だけど、あの口づけは――――

 

至近距離の清四郎の顔を、悠理は見上げる。

片腕で悠理の体をささえ、もう一方の手を悠理の頬に添えたまま、清四郎は酔ったような表情で悠理だけを見つめていた。

 

悠理の心臓がドキンと跳ねる。

清四郎の目の中に、見知った色を見つけて。

 

黒い瞳に映った、見間違いようのない色。

揺らめく炎のような、激しい感情。

 

――――まさか、そんな。

悠理にもわからなくなる。絶対に、間違わないはずなのに。

鏡の向こうに消えたはずの、別世界の清四郎と同じ瞳が、悠理を見つめていた。

 

「せ・・・いしろ」

喉がからからで、言葉が出ない。

体が強張る。怖れに似た感情に。

 

悠理の怯えを悟ったのだろう。清四郎の目が、曇った。

迷い。揺らぎ。

「・・・悪かった、悠理」

戸惑いと動揺を隠しきれないでいる清四郎の目から、それでもあの熱は消えない。

 

「わかってる・・・・おまえの好きは、そういう意味じゃないってことは」

清四郎は、ふ、と口元に笑みを浮かべた。

「おまえは、僕に恋なんかしない。そんなことは、わかっている」

笑みを浮かべながらも、やるせない瞳が、悠理を真っ直ぐに見つめていた。

 

「だけど、いまだけは・・・もう少しこのままでいさせてくれ」

 

清四郎が見えなくなる。

胸に引き寄せられたために。

耳元に、彼の吐息を感じ、悠理は震えた。

今度は怯えのためじゃなく。体を貫く、熱い奔流のために。

 

「・・・・好きだ」

 

悠理の髪に顔を埋め、清四郎は呟いた。

 

真正面から合わさった胸、彼の鼓動が聴こえる。

ドキドキと早鐘を打っている。悠理のそれと同じように。

 

重なった体から、熱が伝わる。

想いが重なる。

悠理の中で、二人の清四郎が一つに重なる。

 

どちらの彼も、清四郎だったから。

幼馴染の悪友で、傲慢で意地悪で、だけどいつも悠理を守ってくれる――――悠理が初めての恋をした、清四郎。

 

  

 

 

 

まるで世界にふたりきりのような一瞬。

だけど。

止まっていた時間は、動き出した。

ここは鏡の国ではなく、レジャーランド。

あまり遠くないところで、仲間たちの声が聴こえた。先程よりも近づいている。

 

 

「・・・・。」

清四郎の腕が、やっと悠理の体から離れた。

「皆を待ちますか?」

もう、清四郎の声はいつも通り落ち着いていた。

だけど、まだ呆然と立ちすくむ悠理を見つめる彼の目は、先ほどと同じ。

熱をはらんだ、黒い双眸。痛みを抱えたような、切なげな瞳。

 

「・・・僕は、先に行きます」

清四郎はそのまま踵を返し、悠理を残して立ち去ろうとした。

「待てよ!」

悠理は慌てて、清四郎の袖をつかんだ。

「一緒にいてくれるって、言ったじゃないか!」

 

(――――“好き”って、言ったじゃないか!)

 

本当はそう言いたくって。

あんまり頬が熱くて、視界が滲んで見える。高熱に浮かされたときのように。

 

『――――おまえの、”好き”は、そういう意味じゃない』

彼の謝罪と、その言葉が胸を締め付けた。

わかっていない。清四郎は、悠理のことなんて、何も。

 

焦燥感。 

衝動的に悠理は両手を強く引いた。彼の袖をつかんだまま。

清四郎の体勢が崩れる。

悠理は背伸びして、彼の唇に自分のそれを押し付けていた。

ぎゅ、と強く目をつぶって。

 

ぎこちない、キス。感情の高まりのまま、体が動いていた。

 

 

悠理が身を離しても、清四郎は体勢を崩したそのままの姿勢で凝固していた。

茫然自失。魂の抜けたような呆けた顔。

それは、常に傲岸で冷静沈着な清四郎らしくなかったけれど――――ここにいるのは異世界の彼ではなく、恋愛などに縁のない朴念仁のあの悪友なのだと、悠理に確信させた。

 

そう。悠理に、『好きだ』と告げたのはあの友人。悠理がキスしたのは、現実の彼。

そう意識した途端。

悠理は羞恥のあまり、沸騰した。

 

「う・・・ひゃぁぁぁあっ!」

 

無性に恥ずかしくなった悠理は、清四郎から飛んで離れた。

バン、と背が鏡に当たる。

だけど、そんな悠理を呆然と見つめる清四郎の顔を見て、沸騰していた頭が少し冷えた。

だって。

「・・・清四郎、おまえ・・・」

あまりに見慣れないものを見た驚きで、悠理も呆然。

「顔、真っ赤だじょ?」

指摘すると、清四郎の眉が怒ったように寄せられた。

「・・・おまえも、ですよ」

そう言って、ふたたび清四郎の顔が近づいて来た。鏡に背を押し付けた悠理の前で清四郎は身をかがめる。

触れると火傷しかねないほど、双方熱を持った頬。熱をもった唇。

 

「・・・ん・・・」

三たびふたりの唇が重なる。

 

想いのたけがこもった、深い口づけ。

慣れた陶酔と、慣れない歓喜が押し寄せる。

 

――――ふたり同じ想いを抱いていたのだという、奇跡。

 

深く触れ合った部分から、信じられないほどの快感が全身に走った。

無理やり掘り起こされた性感に、それは似ていた。

 

目を閉じても、清四郎を感じられる。彼の想いも欲望も。

 

清四郎の唇が、燃えるような頬を辿り、耳をかすめ首筋に降りてゆく。

セーターの襟から素肌を辿る彼の指。あとを追う唇。

そこは、あの夜、もうひとりの彼に愛された場所だった。

肌についた痕は消えても、心についた痕は消えない。快感の記憶に胸が疼いた。

 

好きだから、感じるのだ。

好きだから、求めるのだ。

お互いを。たった一人の、相手を。

 

 

清四郎がゆっくりと身を離しても、悠理はまだ陶酔に眩んでいた。

足が崩れる。背を鏡に押し当てたまま、ずるずる悠理はその場にしゃがみこんだ。

それなのに、清四郎は助け起こしもしてくれず、悠理に背を向けた。

 

「・・・やっぱり、先に行きます」

そっけない言葉が、悠理に投げかけられる。

 

「このままでは、止められなくなりそうだ」

だけど、共有した快感も繋がった心も、幻じゃない。

後姿でもわかる。まだ耳まで真っ赤に染めた清四郎。

「僕は、無理強いなんてしたくないですから。どこかの誰かのようには」

不条理な嫉妬のにじんだ声だった。

 

「・・・・どっかの誰かって・・・・」

(おまえじゃん!おんなじじゃん!)

 

そう言いたかったけれど。

清四郎が足早に立ち去ろうとするから、悠理は慌てた。

ガクガクする足を叱咤して立ち上がる。

 

「に、逃げるなぁ!」

 

「人聞き悪いですね。競争だと言ったのは悠理でしょう」

一緒に行こう、と言ったくせに。得意の詭弁を弄し清四郎は足を止めない。遠ざかる背中が迷路の角を曲がる。

 

叫んだ悠理の声を聴きつけたのか、仲間たちの声が後方から聴こえてきた。

 

仲間たちに追いつかれる前に。

清四郎の背中を追って、悠理は走り出した。

 

騙し絵のような鏡の迷路。

彼の姿が現れては消える。

だけど、悠理に迷いはなかった。

もう、間違わない。彼を見失わない。

 

 

ガラス越しか鏡越しか。追いかける悠理と、清四郎の目があった。

彼は目を細めて、微笑を浮かべた。

照れたように、まだ頬を染めたままで。

 

 

彼に釣られるように。

悠理の顔にも笑みが浮かんだ。

「・・・ここから出たら、覚悟しろ」

 

 

――――その胸に飛び込むから。

きっと、受け止めてくれるよね。

 

 
もう、悠理だって止められない。止まらない想いが、清四郎を求めてる。

悠理は走り出した。鏡の国から、光のもとへ。
真っ直ぐ、彼に向かって。

 

 

 

 

 

end

(2006.2.24)

 

 

haruka様、大変お待たせしました。しかもリク「悠理失踪・18禁」から遥かあさっての方にダッシュをかましたようなお話になってしまい、申し訳ございません。ペコリ。 まったく続きを考えず行き当たりばったりで書き出しまったため、えらく難産でございました・・・。

一度書上げたものの、健全極まりない軽いチュウで終わっていて、どうも納得がいかず。(←そこか、自分!)暗闇の中でディープキスは?とを振ってくれた@@子、ありがとうvv すでに指だの舌だの入れられてる半済み娘(爆)の悠理だから、少々やっちゃっても大丈夫よ、と的確なアドバイスをくれた、エ@リーヌもねv

しかし、このAカプも、初体験時に清四郎が悠理をネチネチ責めそうだな。「どんなことをされたんだ?」「こうか?これか?」とか・・・Bエロ男と結局一緒やん!と、いうわけで、悠理ちゃんの心理も、そういう結論に落ち着きました。(笑)

ここまで挫折せず読んでくださった方、本当にありがとうございます。皆様のご感想に元気付けられ、ネタをもらい(笑)なんとか書き上げられました!

 

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