記憶を消せる装置ってのがあるらしい。 薬と暗示を併用して、ある特定の記憶を消してしまう。 それは時を遡って、特定の人物との出逢いからを、すべてなかったことにしてしまう魔法の装置。
エターナル・サンシャイン
ただ一人のひとを思い続け、何度でも出逢い恋をする――――なんて。 「どーせ映画だ、こんなこと本当にあるわきゃねーだろっ」 部屋に閉じこもりDVDばかり観ていた週末。悠理はDVDケースをやつあたり気味に放り出し、ベッドにダイブした。 「・・・う〜〜っっ」 適当に選んだDVD、アクションばっかりだと思ってたのに、切ない恋物語なんかが混じってたのがキレた理由。 枕に顔を押し付け、息を止める。 本当は止めたいのは息なんかじゃなく、あいつのことばっかり考えてしまう思考。 油断すると、壊れた蛇口みたいに溢れる涙。
『いつまでたっても平行線ですな。なかなか、言葉が通じませんね・・・。』 呆れたような、諦めたような。 ふう、と吐き出される彼のため息が嫌いだった。
『悪かったな、馬鹿でよ!』 憎まれ口を言って争って。 それでも、言葉以上に、あのため息が耐えがたかった。
いつだって、違いすぎるふたり。 似ているのは、恋愛に不向きなところだけ。
――――好きだ。 なんて、どちらも言葉にしなかったのに、なんとなくふたりで過ごすことが多くなって。 どちらからともなく、そっと触れるだけのキスをしたのは、夏の浜辺。
ぎこちない恋の始まり。 そうして夏の熱気に浮かされたような関係が始まったけれど、もともと長い付き合い、お互いの性格はよく知っている。 季節が変わり北風に凍える頃には、すれ違う気持ちばかりが、肌をひりひりと刺すようになっていた。
『もともと、あたいとおまえじゃ、合うわけなかったんだ。』 そう言った悠理に、清四郎は否定も肯定もしなかった。 日頃饒舌な、彼の沈黙が耐えがたかった。
苦しくて、苦しくて。 「・・・くそ・・・まだ痛えよ。あの馬鹿力・・・」 ベッドにうつぶせたまま、枕を抱く自分の腕を撫でた。もう、そこに彼の指痕はないけれど。
『やっぱり、おまえと付き合うのやめる。』 そう言って背を向けた悠理の腕をつかんだ、彼の手の感触だけがまだ残る。 『・・・・いまさら、なにもなかったように、友達に戻れるのか?』 強い力で引き寄せようとした手を、振り払った。 清四郎の顔を見ないように、目を伏せたまま駆け出した。
記憶したくなかった。彼の姿を。 忘れてしまいたかった。何もかもを。 あのため息も、沈黙も。
深い色の優しい瞳。囁く低い声。髪をかきあげて照れくさそうに笑う顔。悠理しか知らない、意外に不器用な恋人のすべてを。
「友達になんて・・・戻れないよ。」 意地悪な声音。冷静な物腰。余裕の笑み。いつだって頼りになった、悪友の姿さえも。
すべて、忘れてしまいたい。 自分の中から彼の存在すべてを消してしまいたい。古いカセットテープを巻き戻して消去するように。
高校時代の、冒険を共にした日々も。中学時代の、反発を覚えるほどのもどかしい距離も。もっと子供の頃の、出逢いの記憶さえも。
悔しくて、悔しくて。 気づけば、あまりに彼一色に染められた景色が。鮮やか過ぎる記憶の断片が。
「ちくしょ・・・清四郎なんか、巻き戻して、消去してやる。削除だ、削除!」
悠理は無実の枕を殴りつけた。
望みはただひとつ。 悠理の中から、清四郎を消去する装置が欲しい。
「・・・・ひどいな。」 自室の戸口から聞こえて声に、驚いて悠理は跳ね起きた。 いつの間に、やってきたのか。清四郎は扉に背を預けるように、佇んでいた。
「お、おまっ・・・・なんで、勝手にひとの部屋に・・!」 「いつものように、通してもらえましたよ。」 まだ家の者たちは、悠理が清四郎と別れたことを知らない。付き合う以前から、剣菱家では彼はフリーパスだ。 「ノックだって、ちゃんとしました。」 清四郎は一歩室内に足を進めた。悠理はびくりと、ベッドの上で身を竦める。 彼の目が、強い光を宿していたから。
怒り。困惑。そして、その奥にかすかな諦観。 「悠理、僕は納得していません。」 それでも、彼はそう言った。 常の余裕をかなぐり捨てて、強張った表情の清四郎。 悠理は慌てて目を逸らした。 こんな彼の姿を見たくなかった。これ以上、記憶に留めたくはなかった。
「・・・無駄だよ。話し合いで解決するわけないじゃん。」 言葉が通じない、と言ったのは彼なのだから。
「別れるなら、徹底的に憎み合って別れましょう。」 「な、なんだよ、それ!あたい、そんなん・・・」 嫌だ――――そう叫ぼうとして、悠理は思わず顔を上げてしまった。彼の方に。
強い、強い、瞳。 すでに憎悪されているかのように、激しい怒りを隠さない双眸。
清四郎は床に落ちたDVDケースを拾い上げた。コツリとそれで自分の額を叩く。
「記憶を消す装置・・・か。」 口元には苦い微笑。 「おまえの存在を、僕の中から消すには、どこまで遡らなければいけないんでしょうね?どこまで巻き戻して、消去すれば?」
整えられた前髪が乱れ、額を隠した。だけど、視線までは隠れない。阻むもののない強い意思が、真っ直ぐに悠理を貫く。
「――――僕を忘れるなんて、許さない。憎まれてもいい。忘れさせてやらない。」
悠理は彼から目を逸らせないまま、首を振った。
涙が溢れて止まらなかった。
言われなくても、わかっている。
出逢ったのは、ほんの幼い頃なのだ。時間と空間のみを共有したに過ぎないにしろ。
それは、ほとんどこれまでの人生すべて。
忘れることなんてできない。
だから、装置を願った。映画に出てくる、幻の機械を。
悠理の涙に、怒りに燃えていた清四郎の瞳が、揺れた。
彼の口元には、もう皮肉な笑みは浮かんでいない。 震える唇。瞳を曇らせる薄い皮膜。くしゃりと端整な顔が歪む。
「・・・ずっと、愛していたんだ。こんな簡単に、終わらせやしない!」
それは、初めての愛の言葉だった。 どこまでも、間の悪い男。タイミングの合わないふたり。
違いすぎるふたりだから、惹かれた。違いすぎるふたりだから、すれ違う。 だから、傷つけあう前に、離れたかった。 なんとなく始まった関係だから、なんとなく終わらせたかった。 思い出を色褪せさせたくはなかったから。 誰よりも悠理自身が、過ぎた日々を大切に思っていたから。
消去したかったのは、思い出ではなく、恋心。長い長い、片恋の日々。
本当は、ずっと悠理も彼を好きだった。
初恋を思い出に変えてしまいたかったのに。
忘れられないならば、いっそ。
「なんで、いまさら・・・・」
悠理は、だけどそれ以上言葉を続けることができなかった。清四郎にきつく抱きしめられて。 それで、彼の表情は見えなくなった。プライドの高い男が、泣き顔を見せるはずもない。
慣れた温もりと彼の匂いに、全身を包まれて。 彼の震える背の、初めての感触に悠理は戸惑う。 それは、また新たに加わった、忘れがたい記憶だった。
悠理は涙に曇った瞳を閉じた。瞼の向こうに、先ほど観た映画の一場面が映った。
お互いの記憶を消した恋人たちは、それでも何度も出逢いなおすのだ。
「・・・無駄だよ・・・・どうせ、また同じことを繰り返すよ。」 違いすぎるふたり。通じない言葉。 「何度繰り返してもいい。そのうちに、わかりあえます。」 無理だ――――と、思った。 友達だったときから、気の合う仲間じゃなかった。それ以前は、もっと。 どうしようもなく惹かれる心を否定して、見ないふりをしてきた。ふたりを隔てる距離を本能的に知っていたから。 もしかしたら、永遠に、平行線かもしれない。
「”さよなら”なんて、言わせない。まだ、僕たちは何も伝え合っていない。」
衣服越しにさえ感じられる、触れ合った肌の温もり。
きつく抱きしめられ、心臓が悲鳴を上げた。
彼の鼓動が激しく脈打つ。
クールに見える彼が、こんなにも熱く激しくなれるのだと、初めて知った。
「忘れるなんて、許さない。」
心音は不協和音を奏でるけれど。 埋まらないかもしれない距離を、ふたりで手を差し伸べあえるなら。 もっともっと、愛して、ぶつかって。もしかして、憎みさえして。 思い出を重ねるのだろう。 忘れがたい思い出を。
「無駄・・・だよ。」
もう一度、悠理は呟いた。清四郎にではなく、自分に。
たとえ本当に記憶を消せる装置があるとしても。
もう一度巡り逢えば、きっと恋に落ちてしまうから。
この想いだけは、消せないから。
end
(2006.11.7)
ええと・・・映画「エターナルサンシャイン」からは、”記憶を消す”という一点だけ拝借引用いたしました。最初、この映画の設定を清×悠で・・と考えたんですが、書く前から切なくなって挫折。(笑)
清×悠のふたりって、どこかどうしても性格の不一致ってあると思うんですよね。無自覚の時の方がぴったり合ったりして。お互いに向き合うと、ぶつかって反発もするでしょう。
ま、すべからく男と女の間には、深くて暗い川が流れてるんで、仕方ないか。←殴
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