清四郎の傘を持つ手に雫が落ちた。 悠理の髪から流れ落ちた水滴が、清四郎の手を濡らしたのだ。 「・・・悠理、どうしてだ?」 びしょ濡れになって追いかけて来たことを、叱責したのだろうか。 それとも、『一緒にいたい』と、言ったことを? Lemonの勇気 〜後篇〜
タクシーに乗り込んだとき、運転手は嫌そうな顔をした。 悠理が全身ずぶ濡れだったから、当然だろう。 近場のショップや百貨店は閉店時間で、服を買うことができなかったのだ。 もっとも、タクシーの運転手は清四郎が行き先を告げるなり機嫌を直した。剣菱邸に向う客は、気前が良いと決まっている。
清四郎が一緒に車に乗り込んでくれたので、悠理も機嫌を直していた。 「家に帰ったら、一緒に飯を食おうな?」 タクシーの座席で並んで座る清四郎を伺ったら、苦笑が返って来た。 「悠理には、勝てませんね。」 困ったような顔。たぶん、呆れ果てているだけなのだろうけど、その笑みは柔らかかった。 清四郎は自分の上着で、悠理の頭を拭いてくれた。 柔らかな生地の高価そうなジャケットは、悠理の髪の水分を含んでぐしゃぐしゃになってしまった。 彼に世話を焼かせていることはわかっていたけれど。
ただ、嬉しかった。 清四郎がそばに居てくれることが。 悠理に向けられた優しい眼差しが。
やっぱり、鼻の奥がツンとする。 胸の奥は温かな何かで満たされ、もう淋しくはなかったのに。 泣きだしたい衝動は、去らなかった。 悠理にだって、どうしてかなんてわからなかった。 冷たくされても、優しくされても、胸が苦しい。
**********
家に着いた時には、携帯から頼んであった夕食の準備は整えられていた。 けれど、清四郎はとりあえず風呂に入って来るよう悠理に命じた。
「まさか、そのままずぶ濡れで夕食の席につくつもりですか?」 「わーったよぉ。」 水滴を滴らせながら、悠理は清四郎に背を向け階段を上る。背後から清四郎もついて上がって来ることに、安堵の息をついた。
「あ、そだ、」 悠理は階段の途中でくるりと振り返った。 「!!」 思いもかけないほど至近距離に、清四郎の顔。 あまりの近さに驚いて、悠理は体勢を崩した。
清四郎も悠理の急な動きにふいを衝かれたのか、目を見開いている。 「・・・っと、危ないですよ。」 清四郎が支えてくれたので、転ぶことはなかった。 「ご、ごめん。」 悠理の両脇を支えた大きな手は、すぐに離された。 「体が冷えきっているな、早く温まっておいで。夕食は逃げませんよ。」 清四郎は近づき過ぎた距離に、一歩階段を下がる。 その行動は悠理をほんの少し不安にさせた。 「・・・夕食は逃げなくても、おまえが逃げたりしない?」 悠理は疑わしげに清四郎を上目遣いで見つめる。 「あたいがシャワー浴びてる間に、帰ったりすんなよ!」 それを念押ししたくて、振り向いたのだ。 清四郎はまた、困ったような微笑を浮かべた。 口元は笑っていても、瞳は揺れている。 照れたように。惑うように。 ふと。 その目が訝しげに細められた。 口元からも笑みが消え、引き結ばれる。 「・・・魅録が先に帰ってしまって、そんなに淋しかったんですか?」 問われて、悠理はきょとんと清四郎を見返した。 「なんで魅録?別にあいつと夕飯の約束してなかったよ?」 思わず言ってしまってから、清四郎ともそんな約束などしていないことに気が付いた。 指摘される前に、悠理は慌てて踵を返す。 「風呂、行ってくる!」 階段を上りきって、自室に向おうと走り出したとき。
「・・・悠理!」
悠理の服から、廊下にぴしゃりと水滴が落ちた。 突然、悠理は腕を掴まれ、引き寄せられたのだ。 清四郎の胸に。
「?!」
背後から、ぎゅっと抱きしめられる。 びっくりして固まった悠理に対し、清四郎も無言。
回された腕は力強かったけれど、解くことができないわけではなかった。 だけど、悠理は動けない。 背中に彼の体温を感じ、彼の匂いに包まれ。 頭にカーッと熱が上り、何も考えられない。
どれくらい、そうしていたのか。 いつの間にか、悠理の服から落ちた雫が、廊下に小さな水溜りを作っていた。
「・・・やっぱり、僕はこのまま帰ります。」 「!?」
後ろから抱きしめられたまま。 耳元で囁かれる清四郎の言葉に、悠理は振り返ろうとした。 だけど、彼の腕がそれを制する。
「振り返らないで下さい。おまえの顔を見たら、帰りたくなくなるから。本当は、僕もおまえと一緒にいたい・・・・ずっと、こうしていたい。」 じゃあ、どうして帰ろうとするんだ、とか。 いいかげん離せ、とか。 言わなければならない言葉はたくさんあるはずなのに、悠理は舌を失くしたように何も言えない。 「おまえに、どちらかを選べなんて、迫るつもりはない。だけど、僕は自分がどうしたいのか、もう知っている。」 清四郎はやっと腕を解いて身を離した。 解放された悠理は、彼の言葉に反して振り返った。 清四郎は微笑し、眩しげに悠理を見つめていた。 「まぁ・・・と、いうわけなんで。」 清四郎の笑顔が少し歪んだ。 悪戯を見つかった子供のような笑み。 いや、何かを諦めたような男の笑み。 「これからは、今までどおりの友達でいられる自信はありません。」 その笑みに。 言葉に。 胸がきゅうと痛んだ。 苦しいのに、目を逸らすことができない。 「・・・引き止めてしまいましたね。風邪を引いてしまう。さぁ、行って。」 清四郎は悠理に風呂へ行くよう促し、自分は踵を返そうとした。 悠理は慌てる。 「お、おまえも、服、濡れちゃったよ?」 悠理がやっと出せた言葉は、トンチンカンだった。 清四郎は片眉を上げ苦笑する。 そうすると、いつもの彼に見えた。 意地悪な同級生。嫌味で余裕顔の友人に。 「じゃあ、いっそ帰らずに、一緒に風呂に入りますか?」 清四郎のからかい口調に、安堵したわけじゃないけれど。 「バ、バーカ!」 やっと、悠理もいつもの調子を取り戻す。 「い、いくらなんでも、んなことできるか!おまえ、あたいの性別、知らないんだろ!」 「・・・わかってますよ。」 清四郎は真っ直ぐ悠理を見つめた。 強い瞳には、からかいの色はなかった。
「僕は悠理が女の子なんだと、わかっていますよ。魅録よりも、余程ね。」
**********
風呂場に飛び込んだ悠理は、熱いシャワーのコックをひねった。 目を閉じて湯を顔から受け、息を止める。
――――『一緒に入りますか?』
耳元で囁かれた言葉が、ふと蘇った。 温かな胸の感触と。
――――『僕と間接キスになってしまいますよ?』
悠理は目を閉じたまま、自分の唇を人差し指でなぞった。 キスの経験はないけれど、間接キスは数え切れず。回し飲みなんて、日常茶飯事だから。 「・・・なーにが、キスだよ。」 呟いた途端。 鮮やかに瞼の裏に映る、清四郎の眼差し。
「・・・あ、あれ?」 足に震えが走った。 ドキドキと胸が騒ぎ出す。 悠理は慌てて湯船に身を沈めた。
あわや触れそうなほど、唇が近づいたのは、魅録と。 だけど、悠理の脳裏に浮かんだのは、清四郎の形の良い唇だった。 階段で転びかけた時、もう少しでぶつかっていたかもしれない。 ちょうど、上段の悠理の目の前に、下段の清四郎の顔があったのだから。
毒のある言葉を吐く、皮肉気に歪められた口元。 だけど、色の薄い唇が、思いがけないほど優しく微笑むのも知っている。 酷薄で冷たくも見え、情熱的な厚みもあり。 冷血漢のくせに、優しくて温かい清四郎。 その唇は、触れると冷たいのだろうか?熱いのだろうか?
――――『僕も、一緒にいたい。』
清四郎の言葉一つ一つに、胸が苦しくなる。 叫びだしてしまいそうだ。 嬉しいのか、腹が立つのか。 いてもたってもいられない。
悠理はぎゅっと自分の胸を両腕で抱きしめた。 彼にそうされていたように。 そのままぶくぶくと湯船に沈みかけて、悠理はようやく気がついた。 どうも、湯にのぼせてしまったらしい。 悠理は自室に駆け込んで、ベッドにダイブした。 シーツに顔を埋め、枕を頭に押し付ける。 「〜〜〜〜っっ」 悠理は投げ出した足をジタバタ振った。
夕食を忘れていることになど、気づきもしなかった。 胃がきゅうと縮み、食欲がない。 胸がいっぱいで、息をするのさえ困難だ。 だけど、それは不快な感覚ではなかった。 誰かに話がしたくてたまらなかった。 今日一日のことを。 清四郎に嫌われたようで、哀しかったこと。 だけど、そうじゃなかったこと。 清四郎の意味不明な行動に、爆発しそうな気持ちも。
こんなことは、両親や五代には話せない。 やっぱり、友達。 野梨子か、可憐? 美童も聞き上手だ。 だけど、誰よりも―――――
悠理の思考を読み取ったように、携帯が鳴った。 濡れた服と一緒に床に放り出したままだった携帯を、悠理はあわてて拾い上げる。 はたして、着信名には望んでいた名が光っていた。
「魅録!」
**********
悠理は携帯を抱えてベッドの上に飛び乗り、ぺったり座る。
『悠理、ちょっといいか?面と向って話せばいいんだけど、どうも・・・』 魅録の言葉を遮って、悠理は息せき切った。 「あたいも!あたいも、話したいことがあるんだ!」 逸る心を抑えられない。
「あのな、魅録、清四郎ってば今日・・・」 悠理は勢い込んで話し出してから、ふと我に返った。 「あ、ごめん。おまえの話を先に聞くよ。どーしたん?」 『・・・・・・。』 魅録が苦笑する気配が携帯越しに伝わってくる。 「ごめんって!で、なに?」 『・・・・悠理は変わんねーな。ほっとしたよ。』 「え・・・・・」 『いや、なんかここんとこ、俺ら、ろくに話もしなかっただろ。』 魅録の言葉で思い出す。悠理も、魅録とふたりきりになることを避けていたのだ。 なのに、今は、魅録ともっと話したい。 『俺の話は、別にいーよ。それよりもおまえの話を聞きたいよ。清四郎がどうしたって?映画の後、なにかあったのか?』 「な、なにって・・・・」 魅録の穏やかな声を聞いていると、あらためて恥ずかしくなった。 頭に血が上ってくる。
自分でも制御不能なほど舞い上がる心。 ふわふわと着地しない気持ちのまま、悠理は魅録に話していた。
大好きだったはずの映画が、観られなくなってしまったこと。 清四郎に突き放されたようで悲しかったこと。 馬鹿にされるのは慣れているのに、冷たくされたことなどなかったのだ。 頭のいい清四郎と、馬鹿な悠理が友人でいることの不思議。 それは、倶楽部の皆にも言えることだ。 六人が一緒にいられることが、どれだけ特別なことなのか、この数日で思い知ったから。
ずっと、皆と一緒にいたい。 それぞれ、大人になって恋もして、離れ離れになる時が来るとしても、今はまだ。
『・・・・ごめんな、悠理。』 思い付くまま話す悠理の言葉に、魅録はぽつりと呟いた。 「え?なんで魅録が謝るんだ?」 『なんかさ、美童と野梨子が付き合い始めたからって、俺は変な意識しすぎたんだよな。おまえとは、これまで通りの友達のままでいたかったのに・・・・俺がぎこちない態度を取っちまって。』 「・・・・・うん。」 悠理も小さく頷いた。 魅録に話すうち、だんだん悠理も落ち着きを取り戻していた。 いつでも、悠理は魅録のことが大好きだ。 だから話をすると楽しいし、落ち着ける。 清四郎とは、全然違う。
清四郎とは話はかみ合わないし、腹が立ったり悲しくなったり、胸が騒ぐ。 それでも。 大嫌いなはずなのに、一緒にいたい。 苦しくなるくらい。泣きたくなるくらい。
『でも、おまえ、よりによって清四郎かよ〜〜〜・・・ちょっと複雑な心境だぜ。』 「え?!」 悠理の胸がドキンと跳ねる。 さすがに、抱きしめられたことまでは魅録に話していないのに。 なにかマズイこと言ったっけ、と悠理は焦った。 「せ、清四郎が、なに?」 魅録は電話の向こうで大きなため息をつく。 『おまえと清四郎ってさぁ・・・・・・・いや、あいつだけは、何考えてるかわかんねぇよ、俺。』 しみじみとどこか情けない声音で言う魅録に、悠理も思いっきり同意した。 「あたいも!まったく、わけわかんないよ!さっきだって、"これからは今までどおりの友達でいられないかも"なんて言うんだぜ!薄情な奴!」 『・・・・それって・・・薄情って言うより・・・・』 魅録は押し殺した笑い声を上げた。
「?」 『いやまあ、真相はおいおいわかるだろうぜ。薄情者に白状させちまおうか。』 「それ、シャレのつもりか?おっさんくさいぞ。」 『え、やばい!親父のがうつっちまったかな。あいつ、オヤジギャグに嵌まってて、あっちでもこっちでもかますから、桜田門でも問題視されてるんだぜぇ。』 「うっわぁ、聞きたくないよ、おっちゃんのギャグ!」
ぎゃはは、と二人して笑った。 こうして話すと、変わらない空気を感じる。 それが悠理は嬉しかった。
『ところで、おまえ「ゾンビ・リターンズ」がダメだったなら、「エイリアンVSゴジラ」なんかも、ダメなんじゃねーか?来春3が来るのによ。』 「わ、よせやい!大丈夫だよ、エイリアンもゴジラもオバケじゃねーもん!」 『そ〜かぁ?』 「だ、だいじょーぶだって!たぶん・・・」
悠理は笑いながらベッドに腹ばいになった。 夜は更けて行くけれど、眠くはなかった。 くだらない話も、ちっとも飽きることなく。 話はいつまでも尽きなかった。
「魅録、あたい、おまえとはこんなふうに馬鹿話とか、ずっとしてたいよ。」 『ああ、俺もだ・・・・・もう間違わねぇよ。』
恋人には、なれない。 魅録が大好きなことに変わりはないけれど。 友達以上恋人未満の、男友達。 いつだって、笑いあいふざけあい、変わらない関係でいたい。 時が流れて、いつか遠く離れても。 それぞれ、別の人に恋しても。
「あたいたち、これからもずっと友達だよな?」 一番の友達。 『ああ、もちろん。俺は自分の気持ちもおまえの気持ちも、やっとわかった気がする。』 じゃあな、と魅録は電話を切った。 その最後の言葉に、もう一人の言葉を思い出した。
――――『僕は自分がどうしたいのか、もう知っている。』 耳元で囁かれた、清四郎の少し低い声。 「なにが、『と、いうわけ』?」 胸が締め付けられた。不安と高揚に。 悠理は電話を置いて、枕に片頬を埋める。 「・・・・意味不明だっつの・・・・」 呟きながら、悠理はそっと自分の唇を指でなぞっていた。 「あ・・・」 自分の無意識の仕草の意味に気づき、悠理はまたジタバタと暴れた。 罪もない枕にバシバシ頭突き。 キスなんてしていない。 彼の唇が冷たいのか熱いのか、なんて知らない。 ただ、抱きしめられただけ。 触れた彼の思いがけず熱い体温。 逞しい胸の感触。 耳元に触れた息の温かさにも、胸が震える。 いつも、しがみついたり抱きついたりしているのは悠理の方なのに。 羞恥と困惑に混乱したまま、悠理は枕から顔を上げた。 「友達やめようったって、許さないんだからな、薄情モン!」 この場にいない清四郎に向けて、ふくれっ面を作る。 ――――『僕は悠理が女の子なんだと、わかっていますよ。』
そんな言葉に、胸がざわめき、頬が赤らんでしまうのは、抑えようがないけれど。
(2007.8.1) 今回、大失敗です(ガックリ)・・・・・なんで、清四郎、抱きついちゃったりするのだ?! このお話は、友達か恋人かの曖昧な雰囲気で貫きたかったのに〜〜っ 中篇で悠理の手を振り払った清四郎が、後篇では手を握り返す、というくらいの淡〜い清×悠加減でいきたかったのに〜〜っ お手手繋ぐだけで胸が苦しくなるような初恋を書きたかったのに、思いっきり挫折しました。それはまた別の話でチャレンジしようっと。 |