―――――憂さを晴らすためやってきたラスベガスで賭けたのは、逃げ出し置いてきたはずのもの。

 

 

ミリオンダラー・ベィビー -4-

 

 

ざわめくカジノが、一瞬、静まり返った。大勝負のカードがめくられるのを、聴衆は固唾を呑み見守る。

だけど、当事者の悠理は、どこかで勝負の結果を他人事のように感じていた。傍らの清四郎の、静かな横顔を見つめながら。

 

 

*****

 

 

わずか、数十分後。

壮観なラスベガスの夜景を見下ろす最上階の自室で、悠理は身を乗り出して白いボールを思い切り突いていた。

弾かれたカラーボールが転がり、台のふちで跳ね返る。

キューを持つ手こそ様になっていたが、悠理はあまりビリヤードが得意ではない。

「相変わらずの腕前ですな。この部屋を取ったのは美童なんでしょう?彼の得意のビリヤードを教わらなかったんですか?」

グラス片手に清四郎が床に落ちたボールを拾い上げ台上へ戻す。

「はん、美童?」

悠理は鼻を鳴らした。

「あいつとは飯食う時間くらいしか一緒にいなかったよ。おまえ呼んだの自分のくせにさ、とっとと逃げちゃったじゃんか。」

悠理は乱暴に清四郎の手からブランデーグラスをもぎ取り、中身を呷ってから彼に放り返した。

清四郎は苦笑しながらグラスを受け取り、琥珀色の酒を注ぎ足す。

悠理は彼に背を向けて、もう一度キューを構えた。白いボールに意識を集中させる。

そうでもしていないと、どうにかなってしまいそうだ。

 

十億円の賭け。

それが、かつて悠理自身が定めた身代金と同額であるのは、意地悪な彼らしい皮肉に違いない。

「・・・・・おまえ、どんな手を使ったんだ?」

「イカサマを働いたとでも?」

「だって、よくよく考えたら、おまえが勝算のない賭けをするはずがないだろう。」

清四郎は苦笑する。

「確率に従っただけですよ。」

「バカ言え、おまえの前にずっと確率計算してたおばちゃんが居たけど、あたいのボロ勝ちだったんだ。カードが計算通り出るもんか。」

「僕がした確率計算は、カードの目じゃありません。おまえの背後にいる男を見て、勝利の女神を手に入れる確信が持てたんですよ。」

「・・・・・あ、まさか美童?!」

しかし、いかに美童が貧乏神だとはいえ、まさかそれに十億賭ける馬鹿はいまい。

なにかカラクリがあるに違いないといぶかしむ悠理に、清四郎は囁いた。

「・・・・教えて、あげましょうか。」

「え?」

清四郎はキューを持つ悠理の手に自分の手を重ね、腰を引き寄せる。

体ごと台に向き合わされ、初めて彼が教えようとしているのが、賭けのカラクリではなく、ビリヤードの方なのだと気がついた。

手の中で、クルリとキューが回される。

悠理の背後から覆いかぶさるように台に乗り上げ、清四郎はキューを軽く突いた。白い球が勢いよく緑の台状を転がる。いくつものカラーボールが弾かれて散った。

まるで、マジックのように狙い通りに落ちる球。自由自在に清四郎の手に操られる、悠理自身と同じに。

うんざりして悠理がキューから手を放しても、清四郎は離してはくれなかった。

身を捩って逃れようとしたけれど、かえって台の上に手首を押し付けられ、体が密着する。

腰に回されていた左手が衣の上を滑り、足を抱えられ。気づくと、ビリヤード台上に仰向けに転がされていた。

「ちょっ、」

身を起こそうとした悠理の上に、清四郎が圧し掛かる。

ドレスの裾から太腿を撫で上げられ、両脚の間で男の胴を挟む体勢に焦る。

「今夜は、僕の好きにさせてもらいますよ。」

至近距離の黒い瞳は、からかうように細められていた。

 

一世一代の大勝負に勝ったのは、彼。

いや、清四郎が賭けに出た瞬間に、勝敗はついていたのかもしれない。

悠理の知る菊正宗清四郎という男は、どんな状況でも諦めない。そして、彼が大勝負で負けるところなど、見たことはない。

 

十億円を賭けた勝負の結末にギャラリーは騒然としたが、だから、悠理はさして驚きもなく受け入れたのだった。

 

 

清四郎の右手の指が、悠理の顎に掛かる。

もう悠理の体は拘束されてはいなかったけれど、悠理は身動き一つできなくなっていた。

清四郎の指が悠理の頬を撫で、唇に触れた。

悠理はゆっくりと目を閉じる。

温かで柔らかな唇の感触が、指に替わる。

最初はそっと触れるだけ。ついばむように唇を食み、吐息を漏らした瞬間、緩んだ隙間を埋めるように激しく深まる。

彼との経験しかない悠理には、慣れた口づけ。

陶酔に、悠理の身体から力が抜ける。もとより、抵抗するつもりはない。

 

『今宵、一夜を。』

そう勝者が望んだのだから。

 

だけど、唇は余韻を楽しむようにゆっくりと離れ、重ねられたからだの重みも消えた。

悠理は閉じていた瞼を開ける。

視線を巡らせると、清四郎はグラス片手にビリヤード台から離れ、窓辺に向かっていた。

悠理ものろのろと台から身を起こし、ビリヤード台から足を下ろす。どこかに転がる脱げたヒールの代りに、裸足の足を毛足の長い絨毯が受け止めた。

 

清四郎はクッションの効いた椅子に腰を下ろし、グラスの中身を空けなおも足している。清四郎は酒も強いが、今夜はいつもよりピッチが早い。

サイドテーブルに再び空けたグラスを置き、清四郎は長い足を組んだ。

「・・・・この部屋は、夜景が見事だな。」

くつろいだ姿勢で椅子に座った清四郎は、言葉と裏腹に窓の外に広がる夜景など目もくれず、悠理を真っ直ぐ見つめていた。

眩い地上の星を背にした黒い瞳に、魅入られる。

 

「悠理・・・・・・こちらに来て、服を脱いでください。」

 

そこに映っているのは、甘い艶よりも苦い色。倣岸な言葉とは反対に。

悠理はその目に射すくめられ、ただ息を飲んだ。

こくりと喉が音を立てる。頬に熱が上がる。

怒りと羞恥。屈辱。

でも、受け入れなければならないことはわかっていた。勝負に負けたのは悠理なのだから。

 

「・・・・わかった。」

あえて感情を乗せず答えて、悠理はゆっくりとファスナーを下ろした。

座る清四郎に近づき、右肩からドレスを外す。まだ片方はそのままに、素足の右膝を清四郎の座る椅子、彼の足の間に乗り上げた。

近づいた躯から、男の香りがする。

清四郎の両手が腰の後ろに回った。ゆるく抱きしめられる。

彼の手が、彼女自身が見ることのできない背中の肌に触れ、そのまま前へと滑ってくる。彼のもう片方の手は、ドレスの柔らかな布地に滑り入り、腹部の柔肌を撫でた。

同時に首筋に温かな唇が寄せられ、清四郎は囁いた。 

 

「・・・・教えてあげましょうか。」

「・・・・。」

何を、とは問わなかったが、彼は続けた。

「あの賭けに勝って僕が得たのは、今夜おまえを自由にする権利。負ければ、僕が失ったのは・・・・すべてですよ。」

わかりきったことを今更。

悠理は清四郎の頭の後ろを手のひらでなぞる。

「この十年、おまえが剣菱で築いてきたもん、すべてと引き換えにするようなもんでもないだろ。」

悠理の肩に清四郎の重みがかかった。もたれかかるように顔を寄せられ、素肌に、彼の息がかかる。

 

「僕が失うわけにいかなかったのは、おまえだ。」

表情は見えない。それでも。

「この十年・・・いや、もっと前から、手に入れたかったものは、おまえだけだ。」

彼が、どんな目でそう言ったのか、わかる気がした。

甘い艶よりも苦い色。

消え入りそうな口調とは、反対に。

 

 

*****

 

 

 心臓の上に口づけられた。

胸をもみしだく指が、心を揺さぶる。

敏感になった剥き出しの心に、唇で触れられる。

唇からは言葉ではなく、想いが溢れ染み入った。

激しく突き入れられ、揺さぶられて涙がにじんだ。

苦しさと甘さに。

彼に恋をしていると気づいてから、それは慣れた感覚だった。

清四郎の手の中で、思い通りに突き動かされる。自分が変えられてしまう。

あのキューのように、無慈悲に激しく、清四郎は悠理の心を突き上げる。

 

「悠理・・・悠理。」

 

名を呼ばれて、悠理は目を開けた。清四郎が動きを止め、じっと彼女を見下ろしていた。

熱い目。

見覚えのある、狂おしい瞳。

それは、先ほどのものではなく、もうずいぶん以前に。

 

―――――「死んでもいい、と思ったんですけどね。」

かつて、彼のもとを逃げ出そうと車を走らせた時。アクセルを踏み切って、男はそう言った。

冗談のような皮肉な笑みで、誤摩化されたけれど。

―――――「そばに、居てください。」

病めるときも、健やかなるときも。確かに誓ったはずなのに、繰り返して来た長い迷走。

彼が、十億の賭けにでた時に、悠理はもうわかっていたのだ。こうなることを。彼が、剣菱を捨てる、と言った時に。

「清四郎・・・・」

 

―――――あたい、馬鹿かも。

なんて、言葉にするにはあまりに今更なので、やめた。

聞こえないはずの言葉を聞いたように、清四郎は微笑んだ。

 

彼の微笑みに、悠理はすべてを忘れた。

怖いだとか、悔しいだとか、胸が痛いだとか。

そんな感情すべてが消えた。

ただ彼女を穿つ熱い彼自身が。

ただ彼女を抱きしめる彼の腕が。

ただ耳元で切なく漏れる彼の吐息が。

ただ身に染み入るように馴染む汗の匂いが。

彼女に感じられるすべてだった。

 

 

*****

 

 

悠理はむっくり起き上がった。

「腹、へった。」

シーツの上をずりずり這っていると、隣から伸びて来た腕に止められた。

「また、それですか。二時間ごとに言ってません?」

「二時間ごとに腹がへるんだから、しょーがないだろ!」

ラスベガス仕様のベッドは無駄に広大だが、ベッドを抜け出す前に悠理が捕まったのは、身体にまだ力が入らないせいだ。

「また、ルームサービス呼んでやるから、もう少し・・・・」

清四郎はここ何時間と同様、悠理を抱きすくめ、シーツの海に引き戻す。

「いや、あの、もうとっくに夜が明けて、そんでもって夕方・・・・いや、また夜になってるんですけど!」

悠理の抗議に、清四郎は聞く耳を持たない。強引な口づけで、無理矢理口を封じられる。

さすが、怪物と呼ばれた男。体力馬鹿なのは悠理も同様だが、寝食取らずに一昼夜イタシテいる清四郎には敵わない。

「と、とにかくメシ食わせろ!逃げやしないから!」

ベッドの上でじたばた叫ぶと、さすがの清四郎も彼女の上から身を起こした。

「・・・・逃げない?」

乱れ髪が、彼の表情を隠す。だが、悠理はもう不安になることはなかった。

「もう逃げない。だって、無駄だろ。ジェット機で追いかけて来やがるし。」

「・・・・。」

悠理は手を伸ばして、清四郎の髪をなでつけ整えた。見下ろして来る男の顔は、整いすぎているだけに人形じみて、感情を悟らせない。

だけど、まだ重なる身体の熱が、彼の想いを間違わせない。

「約束は、一夜だけど・・・・一夜や二夜でいいのか?」

悠理は唇を尖らせ、男を見上げた。

彼の答えを求めているわけではない。ちょっとした意地悪だ。

清四郎は再び、悠理の上に突っ伏した。

「お、重い、重いって!」

ぎゅ、と抱きしめられる。

「苦しいって!」

くるりと視界が反転した。

圧迫感から解放される。体勢を入れ替えられ、悠理は抱きしめられたまま清四郎の上に乗り上げていた。

力強い腕に腰を捕らえられたまま、悠理は無理に上体を起こす。

 

見下ろした清四郎の目は、熱く甘く。

「おまえが一晩だけの約束だと、出て行くのをなかば覚悟していたから・・・・僕にとっては賭けでした。」

そして苦く。

「その賭けは、十億円の賭けよりも怖かった。」

 

―――――「僕が怖い?」

そう問われた、いつかのように。

 

「・・・・それは、おまえがあたいに惚れているからだよ。」

 

悠理は清四郎に笑みを向けた。

顔を歪めた清四郎が、悔しげに見えて。

「・・・・・ぶはっ」

声を出して笑ってしまった。

彼の顔が、真っ赤に染まっていたから。

 

それでも清四郎は皮肉な口調で言った。いつもの彼のように。だけど頬を染めたまま。

「・・・・十億の価値は認めますよ。昔も今もね。」

 

自分自身の身代金に、悠理がかつてつけた金額。彼が、彼女を買い戻した金額。

まあ、金銭ずくの付き合いということにしてやってもいい。

そこに、愛がないというわけでなし。

 

突然。

どおん、と大きな音が轟いた。

「えっ、なに?空襲!?」

「なにを馬鹿な。」

悠理の言葉を打ち消しつつ、さすがの清四郎も驚いている。

二人がシャツを羽織り、窓に駆け寄りカーテンを開けるのと同時に、夜空いっぱいに大輪の花が咲いた。

「は、花火?なんで?」

清四郎が窓を開ける。

外から歓声と音楽が流れ込んで来た。合唱のような英語の洪水。

「あ・・・・。」

気づいて、二人は顔を見合わせる。

清四郎が面映げな笑みを浮かべた。少し気まずそうに、こほんと空咳をする。

「・・・・ハッピーニューイヤー、悠理。」

部屋に隠りきりで今日が何日であるかも気づかなかった。大音声だったに違いない、カウントダウンにも。

馬鹿な、馬鹿な二人。

「うん。ハッピーニューイヤー、清四郎・・・・今年もよろしく。」

だけど、悠理は素直に答えた。心から。

また、花火が上がった。砂漠の夜空を、花火が彩る。

新しい年が明けた。

いつものように、二人で。いつもとは、少しだけ違う気持ちで。

 

 

*****

 

    

翌日、支払いを済ませようとした清四郎は、苦虫を噛み潰すことになった。ホテル代は既に支払済だったのだ。きっちり三日分。

フロントで渡された金髪の友人からのメッセージカードを、清四郎は悠理に見せてくれなかった。

近いうちにいつか、見てやるつもりだ。夫婦間に隠し事は禁物だとかなんとか言って。

 

 

                       END

(2014.2.25)


あまりにお久しぶりの続きです。なんとかやっとこ、馬鹿夫婦本人たち的にも両想い(傍から見れば当初からずっとだが)です。ので、これがららら最終回なんですが、エンドロール的に「らららラブソング」で締めたいとは初期からの構想なので、一応、ちょっとだけ続くかも。いつになるやらですが・・・・・(大汗)。

PS.もっぷさん、ありがとう&ごめんなさい!

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