後篇
ひらりひらりと、羽根が舞う。 まるで雪のように。
最後に見た姿は、置き去りにした小さな背中。 夜の公園での雪は淡雪。 それでも、寒さは胸に染みた。
”見送りはいらない”と言ったことで、清四郎は悠理と別れを済ませたつもりだった。 それなのに翌日朝、ノックもなしに清四郎の部屋の戸を蹴り開けた悠理を、唖然と見つめるはめになった。
出立予定は、五日後。悠理が乱入して来たこの時、清四郎はまだ終わらない荷造りの真っ最中。
「清四郎、てっめえ・・・・なに考えてるんだ!!」 部屋の扉横に積み上げてあった布団袋を、悠理は思いきり蹴りつけた。
室内に破れた袋から羽根が舞い上がる。 羽根は、髪に服に舞い降り、悠理を飾った。 まるで、天使。 憤怒の表情の、イカレた天使。
「おまえなんか、もう友達じゃない!アフリカでもアメリカでも、行ってしまえ!」 悠理の激昂の前で。 呆然としていた清四郎は、ようやく我に返った。 「それをわざわざ言いに来たんですか?ちなみに留学先はイギリスですよ。」 悠理の顔に朱が走る。 清四郎の物言いは、火に油を注いだだけのようだった。 「だ、だいたい昨日のアレはどーいうつもりだっ」 「アレって?」 「あ、アレだよ、アレッ」 悠理の頬が染まっているのは、怒りのためだけではなかった。
公園での一瞬の抱擁。 友情だけでは説明のつかない、感情の発露。 それは悠理にも伝わってしまったのだろう。
「あたいのこと、なんだと思ってんだよ!!」 怒り心頭の悠理をますます逆なでするだろうが、苦い笑みを抑えきれない。 自嘲の笑み。 「なにって・・・・まぁ、オモチャやペットとは思ってませんよ。」 悠理がオモチャなら、ポケットや鞄に詰め込んで、肌身離さず連れて行きたい。 馬鹿げているとは、思うけれど。
「おまえこそ、僕のことをどう思っているんだ?」 問い返されると思わなかったらしい悠理は、目に見えて動揺した。 「ど、どうって・・・・」 「友達じゃないって言ってましたよね。じゃあ・・・・」 我知らず、清四郎の笑みが引いた。
「保護者ですか?それとも、鬼家庭教師?」
幼馴染の腐れ縁。 悪ふざけ仲間。 気のおけない友人。 そのどれもに当てはまりはするけれど、清四郎と悠理は対等な関係ではなかった。
”・・・あたい、どうすればいい・・・?”
悠理の消え入りそうな涙声を、思い出す。 彼女が清四郎を頼りにしていることは知っていた。 それを、誤解してはいけない。 我侭な幼子のような悠理の涙を。
「・・・・その役目は、降りさせてもらいますよ。」
もう、岐路に立っている。 悠理に対する自分の感情に、区切りをつける。 それが、友情を越えたものであっても、今は動けない。 動いてはならない。 清四郎は彼女から目を逸らせた。
「〜〜〜っっ・・・・人の気持ちを、ブンブン振り回しやがって・・・・」 仁王立ちの悠理は、布団袋を引っつかんだ。 「何様のつもりだ、バカヤロウ!!」
突然、衝撃とともに視界が羽根に覆われた。 悠理の投げた枕が、清四郎の横顔を直撃したのだ。 痛みはないが、破けた布地からますます羽根が飛び出して、部屋中を舞った。 視界がようやく開けた時、悠理の姿は消えていた。 散乱し舞い落ちる羽根を残したまま。
階段を駆け下りる騒々しい音がする。 玄関の扉が軋み、乱暴な彼女に抗議の声を上げている。
軋むのは戸だけではない。 胸が苦しい。 気持ちが揺れる。 いつも振り回されているのは、清四郎の方だ。 悠理の無邪気な笑顔に。 容赦なくぶつけられる怒りに。 そして、涙に。
清四郎は悠理の後を追って、走り出した。
*****
雪空ではないものの、曇天。 昨夜の雪は溶けているが黒ずんだ道に、点々と白い羽根が落ちていた。
菊正宗家を飛び出した悠理は、隣家の野梨子のところに逃げ込むと思ったのだが。清四郎の予想は外れた。白鹿家の門前を通り過ぎ、駆け去ったようだ。 それがわかったのは、道に残っている羽根のおかげだ。日本家屋の前を過ぎ、住宅街の先まで羽根が置き去りにされている。 まるで、道しるべだ。
清四郎は足を速めた。 走る清四郎の髪にも服にも、悠理に投げつけられた羽根がついていたが、風に千切れ後方に飛んだ。 しばらく追いかけても、悠理の姿は見えない。 羽根だけ残して、空に消えたように。
昨夜公園で、別れは済ませたはずだった。 それなのに、清四郎は悠理を追いかけずにはいられない。 焦燥に胸を焼かれながら。
住宅街を抜けて、商店が立ち並ぶ大通りに出た。 もう、羽根の道標を見つけられない。 だけど、清四郎は悠理の目的地を悟った。 この道は、昨年大学部に進学してから通うこともなくなった、聖プレジデント学園への道だった。
やはり、校門の前で佇む背中を見つけた。 休日のため閉じられた校門のフェンスを掴んで、悠理は俯いていた。 ふわふわの髪にはまだ羽根がついている。
「・・・・へなちょこの、弱虫だと思ってたんだよな・・・・・」 悠理は清四郎に背中を向けたまま、小さく呟いた。
足音でか気配でか、近づく清四郎に悠理は気づいている。 それとも、清四郎が追って来ることをわかっていたのか。 いや、悠理は頭でわかるタイプではない。本能的に察しているのだ。
「昔、だよ。初めて会った頃のこと。あたい、おまえと野梨子が嫌いだったんだよな。まるで金魚のフンみたいにくっついてんのが、気に触ってさ。」 悠理は顔を上げて清四郎に振り返る。眉を下げ眩しそうに目を細めた。 「なのに、いつの間にか、あたいがフンになっちまってた?おまえにくっついて、頼りきってた?友達なら、おまえの門出を笑顔で見送んなきゃ・・・・背中を押してやんなきゃなんないのにな。」 悠理はぺこんと清四郎に頭を下げた。 「ごめん、清四郎。まだ笑えなくて・・・・ごめん、な。」 語尾が震えている。俯いた悠理の華奢な肩も震えている。
「・・・・・悠理・・・・・・」
どんなに抑えようとしても、溢れそうになる。 悠理に喚起される感情。 矢も盾もたまらず彼女を追いかけてしまったことで、もう清四郎は自覚していた。 どんなに冷静でいようとしても、悠理はやすやすと清四郎の心の壁を突き崩す。
清四郎は微笑を浮かべた。 諦めの笑み。 「いつも、僕の背中を押してくれるのは、おまえなんですよ。子供の頃、おまえと出会ったことで知性だけじゃ駄目なのだと教えられ、和尚の門を叩きました。そして、今回だって・・・・」 「え?」 きょとんと顔を上げた悠理の髪についた揺れる羽根。 清四郎は指先でそっと摘んで、羽根を取った。
「何もかも思い通りになると思っていた傲慢な僕に、ガツンと鉄槌を下してくれたのは、おまえと万作伯父さんだ。」
剣菱財閥で会長代理をした数週間――――悠理と婚約していた数週間。 すべてが手の中にあると、思い通りになると、勘違いしていた。
「未熟な自分を思い知った。だから、旅立ちを決めた。」
近すぎて見えなかったものは、自分自身と、彼女への想い。 離れて見つめなおしたかった。
「何年後になるかはわからないけれど・・・・・」
それなのに、そんな小賢しさは、悠理に蹴飛ばされてしまう。 衝動的に、無意識に。 いつでも清四郎の背中を押すのは、無自覚な悠理の手。
「僕は戻ってきます。おまえにふさわしい男に、なってね。」
手にした羽根に、唇を寄せる。 春の風よりも優しい、かすかな感触。
「・・・・・はぁ?!」
思いっきり眉をひそめ口の端を引き下げ大きな目を剥いて、悠理は清四郎を見上げた。 鳩が豆鉄砲を食らったような、色気皆無な顔。
「戻ってきたら、おまえを口説きますよ。」
それでも、本当は羽根ではなく彼女の髪に触れたい。 拳と蹴りが飛んでくるだろうけど。 ”保護者”でも”友人”でもない清四郎を、悠理はまだ受け入れることができないだろうから。
「〜〜!って、何年後って、遅いよ!戻ったらって、いつだよ!手遅れになるからな!」 悠理は子供のように地団駄を踏んだ。真っ赤に染まった顔は、憤怒の表情。 「手遅れとは?」 清四郎は悠理の気持ちを量りかね、首を傾げる。
「おまえのことなんか、忘れてやる!」
清四郎の告白を、悠理が理解したのかどうか。 とりあえずは、他の男と結婚している、などという理由ではないらしい。
「”やあ悠理、久しぶりですネ”なーんておまえがすまして挨拶しても、”どこのどなたでしょう?あいにく、記憶にありません、悪しからず”って、あたいはおまえの存在なんかとっくのとーに忘れ去ってんだよ。あたいの記憶力は知ってんだろ、何年も持つか!」
器用に清四郎の口マネをしつつ、一人二役。 それでもふざけているわけではないらしく、悠理は涙目で唇を尖らせた。
「記憶力、結構いいじゃないですか。」 清四郎は思わず吹き出していた。
悠理が憶えていた出会いの光景。 あれは遠い春の日。 あの頃には思いもしていなかった思い出を幾年月も重ねて。 また春は、巡り来る。
「な、なんだよ、なに笑ってんだよ!あたいは、忘れてやるっつってんだぞ!」 涙目で、顔を真っ赤にした悠理は怒鳴った。
それでも、清四郎の笑みは曇らなかった。 空模様もまた、雲間から光が差す。
別れは、再会を誓って。 涙よりも笑顔を記憶して、旅立ちたい。
悠理の茶色の髪には、天使の輪が煌く。 早春の穏やかな陽が、羽根を彩る。 それで、彼女の笑顔は望めないにしても。
*****
そして、旅立ちの日。 一足先に春が来たような、穏やかな快晴。
家族や仲間達の見送りを断り、清四郎は単身、空港でフライト時間を待っていた。 別れが苦手なのは、本当なのだ。
「悠理?!」 だけど、空港でも数日前と同じ仁王立ちの彼女に面食らうはめに陥った。
「やや、どこのどなたさんですか?あいにく、記憶にないなぁ〜。」 悠理は腕を組んで、白々しくあさっての方を向く。 「あたいは予定通り、春休みの旅行に行くんだもんね!薄情モンの誰かさんなんかの見送りに来たわけじゃないもんねっ!」 仄かに頬が染まっているのは、彼女が先日の告白を憶えている証拠ではないか? いまだふくれっ面であったとしても。
清四郎の背中を押すのは、いつでも彼女の憤怒の表情。 昔も今も。
清四郎は一歩足を踏み出した。 そっぽを向いた悠理が逃げられないよう、素早く。 「・・・・・!!」 右手を頭の後ろに回し、強く引き寄せる。 抗議か疑問か、悠理が口を開いた瞬間、言葉を封じるように唇を重ねた。 強引に奪った口づけ。 深く合わせ、逃さない。 唇も、吐息も、心さえ。 悠理が硬直しているのを良いことに、存分に無垢な唇を味わう。 そして、奪った時と同じように、素早く身を離した。 殴られてはかなわない。
悠理は目を見開いて、唖然と清四郎を凝視していた。 清四郎はニヤリと笑い、片目をつぶる。
「これで、僕のことを簡単には忘れられないだろう?」
「〜〜〜!!!」
罵詈雑言を覚悟したが、悠理は無言で顔を鮮やかに染めた。 真っ赤に熟れたリンゴのような顔。 潤んだ瞳と濡れた唇は男を誘うが、これ以上はさすがの清四郎も手を出すことは叶わない。
頭には光る輪。 羽根に飾られていなくても、彼女は天使。
「まぁ。」 「ほぉ・・・」 「へぇ〜。」 「そーいうわけだったんだ。」
そして、その後ろには、黒い尻尾をはやした小悪魔たちがほくそ笑んでいた。
悠理しか見えていなかったとは、いえ。 仲間達が悠理と共に空港に駆けつけていたことに、気づいていないわけではなかった。 もとより、衆人環視。仲間達の目前での堂々のキス。 清四郎はもう、覚悟を決めている。 真正面から、向き合う覚悟。 彼女を愛する、感情に。
「・・・・・・で、旅行って、どこに行くんですか?」 滑走路に佇む、派手な剣菱家のチャーター機に目をやり、清四郎は問いかけた。 「か、可憐がジャンケンに勝ったからな、アフリカか、アメリカだよ!」 悠理は早口にそうまくし立てたが。 仲間達は声をそろえて爆笑した。 「確かに、最初悠理はアフリカ希望だったけどな。アメリカは俺。」 「今回勝ったのは、可憐だもんね。今日出発にしたのは、素直じゃない誰かさんの強引な決めつけだけど。」 「チャーター機を用意してくださるのですから、異論はないですわ。」 「とりあえず、ロンドン観光よ。ケンブリッジに寄ってからね〜♪」 可憐がパチンとウインクし、行き先を告げる。
ニヤニヤ笑っている小悪魔共に見送られ、清四郎は搭乗口に足を向けた。 別れの余韻も何もあったものじゃないな、と苦笑しながら。
「では、また。」
清四郎が肩越しに振り返り手を振ると、悠理は仁王立ちのまま、あっかんべえ、と舌を出した。ご丁寧に、指で両目を引っ張って。 赤らんだ頬はそれで隠せるわけもないけれど。
晴れやかな青空が、門出を祝福してくれる。
泣き顔よりもふくれっ面の方がマシだとはいえ、笑顔が見たい。 数時間後会う時には、どうやって悠理を口説こうか。 清四郎は思案しながら、飛行機に乗り込んだ。
――――天使と一緒に、空を飛ぼう。
END (2009.3.14)
と、いうわけで。ふたりは切ない遠距離恋愛に突入〜〜!のはずですが。なにしろ、大金持ちですからね、会おうと思えばしょっちゅう会えるでしょう。自覚の有無はともかく、悠理も清四郎を追っかけちゃってますから。 |
背景:素材通り様