母ちゃん 母ちゃん、 どこへ行た。
赤い金魚と 遊びませう。
母ちゃん 帰らぬ、 さみしいな。
金魚を 一匹 突き殺す。
まだまだ 帰らぬ、 くやしいな。
金魚を 二匹 絞め殺す。
なぜなぜ 帰らぬ、 ひもじいな。
金魚を 三匹 捻ぢ殺す。
涙がこぼれる 日も暮れる。
赤い金魚も 死ぬ。 死ぬ。
母ちゃん 怖いよ、 どこへ行た。
ピカピカ 金魚の目が光る。
―――― 北原 白秋 『金魚』
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『 金 魚 』 〜1〜
――――目撃者を探しています。
悠理が偶然に手をついた電柱に、それはあった。
それは、半ば色褪せ、半ば剥げかけていた。
「これ、何だ?」
解けた靴紐を踏んだまま、悠理は張り紙に顔を近づけた。
自分と同年代か、少し年上の女性の写真が、みっつ並んで印刷されている。
「ああ、この近くで事件がありましてね。目撃情報を探しているのですよ。時間差連続殺人だと騒がれましたから、聞いたことくらいあるでしょう?」
それよりも、と清四郎は続けた。
「いつまで靴紐を踏んでいるのです?ほら、早く帰りますよ。」
促され、慌てて屈む。自分の靴紐を踏んで転がるなんて醜態を、この男の前で晒していたら、きっと死ぬまで馬鹿にされていただろう。
「あんましニュースとか見ないから知らない。時間差って、どういうこと?」
「あまり、ではなく、全然、でしょう?」
皮肉を交えつつ、説明は続く。
「同じ場所で、何年かの間を置いて、赤い服を着た女性が殺されるという事件がありましてね。ただ、殺害方法が三人とも違うので、同一犯と断定し難いのですが、マスコミが連続殺人だと騒いだせいで、そういうふうに思われているようです。」
「ふうん。」
悠理は気のない相槌を打ちながら、張り紙の中の三人の女性を眺めた。三人それぞれに個性も、年齢も違う。赤い服を着ていただけで殺されたなら、それこそ死んでも死に切れないだろう。
靴紐を結び直し、ふたたび歩き出す。
清四郎と二人で街を歩くなんて滅多にないし、自分とは何ら関係のない事件で気を割くなんて無駄なこと、したくはない。
二人で東村寺に出向いた帰りである。
武道は、二人にとって唯一の共通点であり、同時に倶楽部の面々が介入しないという、貴重な趣味である。
悠理が自分の気持ちに気づいたのは、つい最近だ。
でも、好きになったのは、ずっとずっと前だ。
満開の桜の下で出会ったあの日のことを、悠理は今でもはっきり覚えている。
チビ清四郎の後ろに、当然のような顔をして隠れていた野梨子が、無性に許せなかった。
だから意地悪をして、結局は気まずくなって、中等部に上がっても、会話すらできなかった。悠理が頑なに心を閉ざしている間に、清四郎と野梨子は誰が見ても似合いのカップルに成長していた。
最近は、寄り添い合う二人を見ても、怒りは湧かなくなった。その代わり、天地が引っ繰り返ったって野梨子には敵わないという、哀しさを伴った諦めが胸を支配する。
清四郎は、野梨子のもの。隣り合うために生まれてきた、一対の男女だ。
二人の間には誰も入り込めないし、引き裂くなんて、絶対に不可能だ。
ましてや劣等生で欠点だらけの悠理が、優等生の清四郎に似合うはずがない。
だから、こうやって清四郎と何気ない時間を共有できることが、素直に嬉しかった。
そろりと隣を盗み見れば、端正な横顔に、夕陽が落ちていた。
夕焼け空に、茜色の雲。遠回りしてきた見知らぬ街も、オレンジ色に染まっている。それに、清四郎も、夕陽の色。きっと悠理も、同じ色に染まっているのだろう。
まるで、違う世界に迷い込んだみたいだ。
下らない話をしながら、オレンジ色の街を歩く。悠理が冗談を言うたびに、清四郎は小さな声を立てて笑った。夕陽に染まっているためか、眼差しがいつもより優しく見える。
その眼差しすら野梨子のものだと思うと、胸が切なく痛んだ。
しばらく歩くと、道が二手に分かれた。
清四郎の説明によると、右に曲がれば商店街を抜けて駅へ、真っ直ぐ進めばバイパスに抜けるらしい。
右に曲がりますよ、と清四郎が言う。そのとき、後ろから急接近してきたバイクが、二人の横でぴたりと停まった。
「よお!」
「魅録!」
見慣れた顔が、ヘルメットの下で笑っていた。
魅録はツーリングの帰りだと説明し、乗って帰るか、と悠理を誘った。即答で断ったら、魅録から意味ありげな視線を向けられてしまった。
夕陽を浴びていなかったら、顔が赤くなったのを気づかれていただろう。
「そうそう、魅録に話したいことがあったんですよ。」
清四郎が思い出したように話し出した。
三叉路の真ん中で、男二人が会話をはじめる。悠理には無関係の話なので、はっきり言って、手持ち無沙汰だ。けれど、男たちは熱心に話していて、終わる気配はまったくない。
仕方なく、暇を埋めるために周囲を眺めてみる。
悠理たちが進む道を眺めると、古惚けた商店街の先に、駅らしき建物が見えた。視線を巡らせて、前方に真っ直ぐ伸びた道を見ると、どこにでもある、ありきたりの街が広がっていた。今度は左側―― つまり、T字路の突き当たりを見てみる。
そこには、小高い山を二つに裂くように、石段が真っ直ぐ頂きまで伸びていた。
視線を上げて石段の先を眺めてみる。鳥居の向こうに、神社らしき屋根が見える。
別に意味はないけれど、爪先立ちして、更によく見ようとした、そのとき。
とん、とん、とん。
石段の上から、サッカーボールが落ちてきた。
咄嗟に石段を駆け上って、半ばでボールを受け止める。ふうと息を吐いて、石段の先を見上げると、鳥居の向こうに少年が立っていた。
「これ、お前のか!?」
少年が頷く。悠理は、待ってろ、と叫んでから、山頂目指して駆け出した。
「悠理!?」
清四郎の声が、背中に飛んできた。悠理は振り返って、サッカーボールを掲げてみせた。
「ちょっと届けてくる!すぐ帰るから、待ってて!」
そのときは、そう思っていた。
すぐに、清四郎の元へ帰っていけると――――
石段を駆け上がる悠理の背中を見て、清四郎は言い知れぬ不安を感じた。
悠理が向かう先には、小学校低学年くらいの少年が立っている。真正面から夕陽に照らされているせいか、身体ぜんたいが燃えているようだ。
石段と言っても百段ほど。下にいる清四郎たちと、上にいる少年とは、大して離れていない。
なのに、少年の顔は、塗り潰されたかのように黒かった。
ぞくり。 背筋に、悪寒が走った。
「あの少年・・・おかしいですよ。」
清四郎の問いかけに、魅録も少年を見つめる。
その間にも、悠理はどんどん少年に近づいていく。
不安に急き立てられるようにして、清四郎は走り出した。
「行くな!止まるんだ!!悠理っ!!」
しかし、悠理は立ち止まらない。まるで、清四郎の声が聞こえていないようだ。
魅録が後ろからついてくる気配がした。だが、振り返る余裕はない。悠理はもう鳥居の真下まで来ている。間に合わない。
「悠理っ!!」
悠理が薄い肩で息をしながら、サッカーボールを少年に差し出した。
ボールを差し出すと、少年はにっこり笑った。
少年の後ろには、どこか安っぽい神社の本殿が建ち、雑草だらけの境内が広がっている。
他には人っ子ひとりいない。
「お前、ひとりか?もう陽も暮れるし、早く帰んないと、母ちゃんが心配するぞ。」
「ここで、お母さんを待ってるんだ。」
子供独特の、柔らかく高い声。すべすべした頬が、夕陽に染まって赤い。
「・・・お姉ちゃん。赤い服、綺麗だね。」
「へ?」
悠理が着ているのはピンク色のTシャツだ。思わず自分の身体を確かめると、ピンクのTシャツは夕陽を吸い込んで、赤く見えた。
「まるで、金魚みたいだ。」
少年が嬉しげに笑う。その瞬間、悠理は少年に違和感を覚えた。
何かが、おかしい。
しかし、気づいたときには既に遅かった。
「お姉ちゃん。お母さんが帰ってくるまで、僕と、遊ぼう。」
少年の眼が、悠理を捕らえる。
「悪い、下に連れが待っているんだ。早く、帰らないと―― 」
手から、ボールが滑り落ちた。
少年の眼に囚われ、身体の自由がきかない。
「こっちに、来て。」
鳥居の先で、少年が笑っている。
悠理は行きたくないのに、足が勝手に動いて、鳥居を越えようとする。
意識が眩む。思考が纏らない。
「悠理!!駄目だ!戻れ!!」
境内に足を踏み入れようとした瞬間、清四郎の絶叫が聞こえた。
清四郎が、呼んでいる。
悠理は渾身の力を振り絞って、身体を捻った。
しかし、意識はそこで途切れた。
――――お姉ちゃんは、もう、僕の金魚だよ。
最後に聞こえたのは、清四郎ではなく、少年の声だった。
悠理が崩れ落ちるように倒れてきた。
清四郎は咄嗟に手を伸ばして、悠理を抱きとめた。
思ったよりも柔らかな身体は、完全に弛緩して、ぴくりとも動かない。
「悠理!悠理っ!!」
何度も名を呼んだが、意識は戻らない。
脈を取り、呼吸を確かめる。その最中に魅録が到着し、いったいどうしたんだ、と声を荒げて尋ねてきた。が、清四郎に答える余裕はない。
脈は弱く、呼吸もゆっくりだが、正常の範囲内だ。とりあえず安堵の息を吐いてから、魅録を振り返る。
「少年にボールを渡そうとして、急に倒れたんです。身体的に異常はありませんが、いくら呼びかけても意識を失ったままです。いったい何があったのか、僕にもさっぱり分かりません。」
力なく首を振ってみせると、魅録はくっと口唇を結んで、立ち上がった。調べてくる、と言い残して、境内へと入っていく。
しばらくして帰ってきた魅録の顔は、黄昏の中でも蒼褪めているのが分かった。
「・・・猫の子一匹いないぜ。周りはすべて急な斜面で、しかも隙間なく潅木が生い茂っている。いくら身軽な子供だって、短時間のうちに逃げ果せるのは無理だ。」
「社殿の床下はどうなっていますか?」
「ああ、一応は見てみたが、縁の下には全部平板が打ち付けられていて、誰も入り込めねえ。本殿も錠前がかかっているから、隠れられそうな場所はない。」
つまり―― 清四郎は、異様な咽喉の渇きを覚えながらも、言葉を吐き出した。
「境内には、誰もいないし、逃げるのも不可能だと言うことですね?」
「お前さんが陣取っている石段を使わない限りは、な。」
顔が強張るのが、自分でも分かった。魅録の顔も、いつになく強張っている。
きっと清四郎の心中に湧いたものと、魅録の内にあるものは、同じだ。
「・・・また、憑かれたのかよ?」
「恐らくは。」
低く呟いてから、悠理を抱えて立ち上がる。
「とにかく悠理を連れて戻りましょう。ここで日が暮れたら、取り返しがつかないことになりそうな気がします。」
石段の下を見ると、真っ直ぐ伸びた商店街の先に、マッチ箱のような駅舎があった。
そして、駅舎の上では、毒々しいほど赤い夕陽が、不吉な光を放っていた。
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