それは、6月も下旬の金曜日。 月曜からの雨勝ちの日々を抜け、梅雨の晴れ間になる…はずだった。 朝の天気予報が久しぶりの「晴れ」だったから。 悠理は久しぶりの晴れマークに気を良くして、名輪の運転する車に乗り込むと、弾む声で気の置けない運転手に声を掛ける。 「今日、帰りの迎えこなくていーよ」 「何か御用事ですか?」 悠理の声に釣られたのか、名輪の声もだいぶ明るい。 「うん。晴れるっていうから寄り道して帰るー」 名輪は「かしこまりました」と笑顔で頷くと、滑るように車を発進させた。 放課後。 悠理は椅子に逆向きに跨り、生徒会室の窓枠に両肘を乗せて外を見つつ、唇を尖らせていた。 「晴れるって言ってたのにぃ…!」 朝のキショーヨホーシに文句の3つや4つ(ついでに蹴りも)くれてやりたいほど、外はなかなかに本降りの雨模様。 「何?どっか行く予定だったの?」 ふわりと金色の髪をなびかせて、美童が悠理の横に立つ。 「うわ。結構降ってるなぁ…。紅子ちゃん大丈夫かなぁ…?」 悠理と同じように窓の外に目をやって、今日のデート相手の心配をする。 「あたしもデートなのよねぇ…」 いつもの席に座り、鏡を覗く可憐。梅雨時の湿気で髪が上手くまとまらず、ちょっとご機嫌斜めだ。 「俺も…」 同じくテーブルについていた魅録が、苦さをかなり含んだ声を発する。途端に、可憐と美童、野梨子の視線が魅録に向けられた。 「何、あんたいつの間に…!?」 「ちっげーよ!千秋さんだよ!!」 「ドライブですの?」 野梨子の問いかけに、渋面を作ったまま魅録は頷く。 「雨の日の運転は、やっかいだよねえ」 美童は、教習所に通っていたときに経験した、雨の日の運転を思い出していた。雨の日はただでさえ交通量が多くなるのに、夜ともなると濡れた路面が街の明かりを反射して道路が見にくくなるのだった(美童の運転のお粗末さはこの際横に置いておくとして)。 プロのレーサー顔負けの運転技術を持つ魅録とて安全運転が第一だろうに、魅録の母親は時として無理難題なテクを息子に吹っ掛けるのだから、余計に大変だろう。 「そう…なんだよなあ…。今日は晴れるって言ってたのによー」 仕方なし、といった感で魅録は立ち上がる。 「じゃ、お先」 片手を軽く上げて、魅録は部屋を出ていった。 「あっ、ぼくも!」 紅子ちゃんとやらからメールが入ったのだろう。携帯電話を片手に握り締め、美童がその後へと続く。 「…あたしも行くわ」 髪が決まらないことに諦めがついたのか、可憐もまた立ち上がる。 「っと…カップ!」 魅録も美童も、使っていた紅茶のカップをそのままにして出ていってしまった。 清四郎が手伝うにしろ(当然悠理はやらない)、これを全て野梨子に押しつけてしまうのは気が引けた。 一度手に持った鞄を再び椅子に置いて、カップを手に取る。 「あら、可憐。洗いものなら今日は私が」 「…悪いからいいわ。清四郎と悠理の分は、野梨子にお願いするけど」 長いまつげに縁取られた右目を軽くつぶってウィンクをする。 色気ばかりが先行しがちな可憐の、心の優しさはこういう形で現れるのだ。倶楽部以外の人間ではあまり知り得ない、可憐の一面。 どうせなら同じ時に、と野梨子は、自分たち3人分のカップをトレーに乗せ、可憐の横に立った。 シンクに流れる水音を背に、清四郎は読んでいた新聞から目を上げ、悠理に声をかける。 「悠理は?どうするんです?」 「何が?」 完全に身体を窓に向けていた悠理は、清四郎の質問に答えるために座り直す。 とはいえ正面は向かず、体を半分だけ部屋の方へと戻すと、左肘を窓の桟に乗せて頬づえをついた。 「だから、どこかに行くんでしょう?」 「あー…、そのつもりだったんだけどー」 視線は相変わらず窓の外。薄茶の瞳は、どうしてか清四郎を映そうとはしない。 「だったんだけど、何です?」 「…傘がない」 「はあ?」 「だからー。今日は晴れるって言ってただろ!だから傘持ってこなかったんだ!」 間の抜けた返答に言い返すべく、悠理がその顔を真っ直ぐに清四郎に向けた。 ひとつ、大きく跳ねた心臓は、清四郎のものか悠理のものか。 「じゃあ諦めて帰るんですな」 「…名輪も来ない」 「なんですと?」 「寄り道して帰るから帰りは来なくていいって言っちゃったんだ」 「電話すれば来て頂けるのではありませんの?」 カップを洗い終わった野梨子が会話に加わった。 野梨子の背後で、可憐がひらひらと手を振り、ドアの向こうへと消えていった。 野梨子が来た代わりに、今度は清四郎がその場を離れて仮眠室へと向かう。 「んーん。さっき電話したら、母ちゃん乗せてどっか行ったって」 「他の方は?」 「こういう時に限ってみんな出てる」 「じゃあどうしますの?」 「今、ソレ考えてるとこ」 再び窓の外へと視線を戻して、しかめっつらをつくる悠理の目の前に、突き出される紺色の物体。 「ほら」 そう言って差し出されたのは、男物の折り畳み傘だった。清四郎がいつぞやに持ってきたものを、そのまま仮眠室にあるロッカーへと入れておいたのだ。 「寄り道して帰るにしろ何にしろ、無闇に濡れるのもどうかと思いますよ」 「べっつにー。制服の替えだってあるし、どうってことないやい」 何に突っぱねているのか、悠理は傘を受け取ろうとしない。 「そういう意味じゃないんですけどね」 受け取って欲しい人に受け取ってもらえない傘は、あるいは清四郎自身の気持ちのようにも思えてきて、清四郎は傘を自分の手元に引き戻すことが出来ない。 取り敢えず諦めたのは傘を受け取って欲しいという気持ち。 清四郎は、傘を、窓の桟―悠理の肘が置かれたその先に置き、流れを装って悠理の頭に静かに手をのせる。 ただ愛する人の濡れそぼった姿を人様に見せたくないという、それだけの理由が告げられない。 「じゃあ、悠理。また明日」 ありったけの想いを込めて柔らかい声を出すと、テーブルの上に置いておいた鞄を手に取り、「行きましょうか」と野梨子に声をかけた。 何も知らない人からすれば、清四郎の背中には何一つ残す未練がないように見えることだろう。無情にも思える清四郎の背中を見つつ、野梨子は悠理を振り返った。 悠理は、今にも泣き出すのではないかと錯覚するほどに、淋しそうな目で傘を見つめていた。 全身から立ち上る恋慕の情は、野梨子の心をも鷲掴む。痛いほどに伝わる悠理の気持ち。 清四郎はこういう悠理の瞬間の表情を見逃し過ぎている、と野梨子は思う。 だから気付かないのだ。悠理が欲しているのが誰なのかを。 「清四郎!いいんですの?」 いつもより早足で階段を下りる清四郎を追いかけて、とがめるように声をかける。 「何がです?」 清四郎は足を止めない。 「私、1人で帰れますわ」 制服のスカートの裾を翻しつつ、野梨子はその横へと並ぶ。 「野梨子だって、傘が無いじゃないですか」 そうなのだ。野梨子も朝の天気予報を信じてしまった1人。しかも野梨子にしては珍しく、折り畳み傘も持ち忘れていた。 「ですから、私にあの置き傘を渡して下されば…!」 いくら家が隣同士だからといって、何も一緒に帰らねばならない理由などどこにも無い。 「悠理は寄り道をする、と言っているんですよ?その間ずっと悠理と一緒に居ろと?」 野梨子に見せた清四郎の顔は、いつか裕也が自分に見せた顔に似ていた。 さっきの悠理の淋しそうな様子といい今の清四郎の顔といい、二人はその表情を見せる相手を間違っていると、野梨子は心底思う。 「ご一緒したいのが本音なのではありませんの?」 「…本音は、もちろんそうですよ…。でも、それだと僕の身が持ちません」 皆と一緒にいるならまだしも、悠理とふたりっきりでは、いつ想いの堰が壊れるかもわからない。たがが外れる瞬間は、すぐそこまで迫ってしまっているのだ。 階段を下りきった清四郎と野梨子は、昇降口へと続く廊下を歩いてゆく。 「…何を、恐れているんですの?」 清四郎が悠理を想うように、悠理もまた清四郎を想っていることは仮眠室の一件で最早明白だ。 躊躇う必要なんてどこにもないのに。 悠理と清四郎は、お互いの存在が大切すぎて、次の一歩が踏み出せないでいる。 大切にするのと臆病であるのとは、時に紙一重だ。 「……今の関係が崩れることを、ですね」 しばらくの沈黙の後、清四郎は口を開いた。 悠理との関係は、ともすれば今の状態が一番良いようにも思うのだ。 付かず離れず、友情なら壊れない。 愛は、いつか壊れてしまいそうで。 「愛」が正しい形を作るのならば良いだろう。ただ、それがいびつな形しか作れなかったら? いびつな形の行きつく先は、清四郎にも予測出来ない。 「いっそ崩れてしまえばよろしいのですわ」 もどかしさと励ましを野梨子は一言に込める。 今より少し先の関係は、今を壊さないと得られないのだと。 昇降口の屋根の先で、雨は収まる気配をみせずに降り続いている。 野梨子の言葉には応えずに、清四郎は傘を開くと野梨子へと差し出した。 野梨子のために開けられた左側。 野梨子は、幼馴染みのためにも、悠理のためにも、この左側が悠理の位置になることを願う。 想い合うふたりが並ぶ図は、きっと見ている側の気持ちまで温かにしてくれるに違いない。 大切な二人の幸せは、野梨子の幸せでもあるのだ。 昇降口から正門までのエントランスを、ひとつ傘の下、ゆっくりとした歩調で歩く二人がいる。 それを、悠理は生徒会室の窓から眺めていた。 見下ろす先には見覚えのある傘。目の端には清四郎が置いていった折り畳み傘。 傘が必要ならその辺で買えばいい。 もとより、濡れて帰ることになったって気にしない。 晴れるというから、傘を持ってこなかっただけなのに。 外れた天気予報は、予想以上に悠理を悲しくさせた。 雨粒は絶えることなく空から落ちてくる。 悠理の代わりに、空が泣く。
あー…えー…もう謝る言葉も白々しいですね…。 |
フロです。ごめんなさい、こんなマヌケな壁紙で・・・。だって、最初しっとりした大人なしめの背景にして読み返したら、泣けちゃったんですもの。このあと、幸せな大団円になったら、壁紙変えます。(笑) |