雲に祈る

      by hachi様

 

 

 

 

 

最近、密かな人気を集めている、山里の一軒宿は、とろりとした湯と、広大な敷地に点在する離れ形式の客室が評判で、地物をふんだんに使った料理も大変に美味しいという。
そこを見つけてきたのは、可憐だったか、美童だったか。
ともかく「いい宿がある」と聞いて、まず話に飛びついたのは、悠理だった。


悠理は、家に閉じこもっているのが苦手で、お祭り好きで、美味しいものに眼がない性分だ。加えて、面倒なことが大嫌いで、細かい作業や調べ物もてんで駄目だ。
ろくに皆の予定も聞かず、半ば強引に日程を決めてしまうと、あとに残った宿の予約などの面倒は、ぜんぶ清四郎に押しつけた。
そのあとも、仲間たちが調べてきた観光地やレストランに注文ばかりつけ、自分では何もしないまま、わがままを言いたい放題で、皆を困らせた。

その間、清四郎が渋い顔をしていたのには気づいていたけれど、他の皆は、苦笑いしながらも悠理を許してくれていたし、彼の怒りも大したものではないと、高を括っていた。



そして、いよいよ当日。


「もうお前にはつきあい切れません。」


旅行中も、面倒なことはまったくしないで、ああしたい、こうしたい、と駄々ばかり捏ねる悠理に怒って、清四郎がひとり帰ってしまったのは、宿に到着して間もなくのことだった。





「・・・うっ、えっ、えっ・・・」

「ったく、泣くくらいなら、清四郎が出ていく前に、謝っておけよ。」

泣きじゃくりながら歩く悠理の隣で、魅録が溜息混じりに呟いた。

田んぼの真ん中を突っ切るバイパス道に、人影は他にない。空模様はずいぶんと悪く、今にも泣き出しそうな具合だ。
皆も心配しているだろうし、雨が降り出す前に、早く宿に戻らなければいけない。

だけど、悠理の足取りは、錘をつけられたかのように、重かった。


清四郎が立ち上がって、クロゼットからジャケットを出したときも、悠理はまだ本当に彼が帰ってしまうなんて、思っていなかった。
だから、「さっさと帰れ!」なんて、酷いことも、平気で言えた。
彼が、まだ解いてもいない荷物を掴んで、冷たい眼で悠理を見下ろしたときも、本気だなんて思ってなかった。ただ、怒って帰る演技をして、悠理を懲らしめようとしているだけだと信じていた。


そのときの、清四郎の冷たい眼を思い出すだけで、涙が次から次へと溢れてくる。
「・・・ふえっ、えっ、えっく、・・・」
「ほら、いい加減に泣き止めよ。」
泣きながら歩く悠理の髪を、魅録がごしごしと荒っぽく掻き回した。
魅録なりに慰めてくれたのだろうけれど、いつも悠理の頭を撫でてくれる優しい手と違うことが哀しくて、余計に涙が溢れてきた。
「ふ・・・ふええええん!」
「ああもう、泣くんじゃねえ!」
声を上げて泣きじゃくりはじめた悠理に、魅録もほとほと困ったようで、今度は盛大な溜息を吐いた。



部屋を出ていくとき、清四郎は、悠理に向かって、冷たい声で言い放った。

―――― これ以上、お前を軽蔑させないでください。

その言葉に、二人の喧嘩を見守っていた皆は、はっと息を呑んで凍りついた。
なのに、悠理だけは、彼がどれだけ怒っているか、分からなかった。

―――― 清四郎に軽蔑されたって、痛くも痒くもないもん!早く帰れ!馬鹿!

悠理がそう言い返すと、清四郎は、深い深い溜息を吐いて、部屋から出ていってしまった。


清四郎が本気で怒っていると気づいたのは、彼が出ていって、二十分が経った頃だった。



二人の横をダンプカーが唸り声を上げて通り過ぎ、道端に生えた野草が、風圧に押されてざわざわと揺れた。
魅録の髪も、ダンプカーが起こした風にふわりと揺れる。
「先に帰るなんて、清四郎も大人気ないけどよ。今度ばかりは、お前が全面的に悪い。それは分かっているよな?」
そのくらい、魅録に言われるまでもなく、分かっている。
だから、清四郎を追いかけて、駅に向かったのではないか。
結局―― 無駄足に終わってしまったけれど。
「まあ、俺もさ、まさか清四郎が本当に帰るとは思ってなかったんだけどさ。」
そう。悠理も、まさか清四郎が本当に電車に乗るとは思っていなかった。
彼のことだから、怒りながらも駅で待っていてくれると信じていたのだ。

だけど―― 清四郎は、悠理たちが駅に着く寸前、すでに電車へ乗り込んでいた。


「・・・せ、せいしろーなんか、きらいだ・・・ばか・・・」

走り去る電車を追って、悠理たちがホームに駆け込んだとき、清四郎は確かにこちらを見た。
なのに、彼は、必死になって電車を追いかける悠理から、顔を逸らしたのだ。

「・・・ばか、ばか、清四郎の、馬鹿ぁ・・・」

悠理から顔を逸らした清四郎の姿が、眼に焼きついて離れない。
嫌われてしまったと思うだけで、心臓が潰れそうになる。
もう、二度と優しい手で頭を撫でてもらえないと思うだけで、心が張り裂けそうになる。
それが、ぜんぶ自分のせいだと思うと、余計に哀しくて、涙が止まらなくなった。

おんおんと声を上げて泣きはじめた悠理の背中を、魅録がぶっきらぼうに摩った。
「清四郎はな、お前にもっと大人になって欲しいんだよ。ワガママなお嬢さんのままじゃ、世間に放り出されたとき、苦労するのはお前自身だからな。それに、友達だからって甘えてばかりじゃあ、友人関係は成り立たねえぞ?これを機に、あの清四郎を甘えさせるくらい、大きな女になってみるのも良いじゃねえか。」
悠理は泣きながら顔を上げた。
ねずみ色の空を背景にして、魅録が困ったような笑みを浮かべていた。

二人の後ろを、ライトバンが猛スピードで走り抜け、道端の野草がざあっと揺れる。

悠理は嗚咽を堪えて、魅録を見た。
「でも・・・でも・・・あたい、もう、清四郎に嫌われちゃった・・・」
嫌われた、と口にした途端、また涙が溢れてきた。
ぼろぼろと涙を零す悠理を見て、魅録は苦笑している。
「清四郎が、悠理を本気で嫌う訳がねえだろ。あの男、本当は悠理のことが心配で心配で堪らないんだからな。」
「そんなはずない!もしも、そうだったら・・・あたいを置いて帰るはずないじゃないか!」
魅録に怒鳴って八つ当たりしても、どうしようもない。だけど、八つ当たりしてしまう。
清四郎も、悠理がこんなふうだから、愛想を尽かしたのに違いない。

怒鳴られたにも関わらず、魅録は相変わらず苦笑している。
「そういう、絶対の安心感が、清四郎を苛立たせたのかもしれねえな。」
まるで独り言みたいに呟いて、魅録はポケットから携帯電話を取り出した。
「嫌われたと思いこんで泣くより、ごめんなさい、って伝えたほうが、スッキリするもんだぜ。」
「でも・・・」
躊躇う悠理に携帯電話を押しつけ、魅録は笑った。
「絶対に大丈夫だって、俺が保障する!だから、早く電話しな。」
そして、魅録は、悠理を置いて、ひとりでさっさと歩き出した。
「魅録!」
慌てて後を追おうとする悠理を、魅録は振り返りざまに手で制した。

そのとき、またダンプカーが過ぎ、風が起きた。
押し流された空気にあわせて、道端に群生した野草が、ざわざわと揺れる。


携帯電話を握りしめ、迷子のように立ち尽くす悠理に向かって、魅録は明るい声で言った。


「ちゃんと伝えろよ。あの男に、好きだ、ってな。」


魅録は、そう言うと、親指を立ててにっと笑い、ふたたび悠理に背を向けて歩き出した。



残された悠理は、携帯電話を握り締めたまま、魅録の後姿を見つめていた。
魅録の姿は、ねずみ色の空と、ねずみ色の道路の間で、どんどん小さくなっていく。

悠理の横を、三台つづけて車が通過し、巻き起こった風が、髪を揺らした。

涙を拭い、歩道から、空を見上げる。
空はやはり暗く、ねずみ色の雲がいっぱいに広がっていた。

視線を下ろし、のどかな田園風景を見る。
遠い町並みの上だけ、雲が薄くなっており、そこから太陽の光が透けて見えた。


悠理は、くちびるを噛んで、二つ折りの携帯電話を開いた。
ボタンをプッシュし、携帯電話を耳に当てる。
回線に繋がる前の、ツ、ツ、ツ、という音が、やけに長い。



まだ、間に合うのだろうか?

まだ、清四郎は、悠理を嫌いになっていないだろうか?
まだ、清四郎は、悠理を好きでいてくれるのだろうか?

雨が降って、景色が変わる前に、素直な気持ちを、伝えられるのだろうか?

本当は、大好きだから―― だから、甘えてしまうのだと、清四郎に伝えられるのだろうか?



悠理は、携帯電話を耳に押し当てたまま、雲に祈った。



まだ、雨が降らないように。


まだ、清四郎が、悠理を好きでいてくれるように。

 


 photo by hachi

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