月の影踏み

      by hachi様

 

 

                                                                               photo by hachi

 


「あ、清四郎の影、見ぃつけた!」

とっぷりと日も暮れ、静寂が訪れた、夜の道。
悠理はいきなりそう叫ぶと、清四郎の背後へ向かって、ぴょんとジャンプした。


清四郎が振り返ると、ちょうど悠理が地面から顔を上げたところだった。
眼と眼が合うと、彼女は、へへ、と悪戯っ子のように笑った。
よく見れば、悠理は、アスファルトに薄く浮かぶ、清四郎の影の上にいる。
嬉しそうに笑っているのは、清四郎の影を踏んでいるのが、愉快だかららしかった。

「何をやっているんですか?」

清四郎は、呆れ気味に悠理を見て、ひょいと片眉を上げた。その表情は、誰が見ても、悠理を小馬鹿にしていると分かるだろう。
しかし、悠理のほうは、先ほどから変わらずに、楽しげである。

悠理は、清四郎の影の中から、ぴょん、と飛び出し、月明かりの中に着地した。
青く冴えた月光に、悠理の猫っ毛が、いくぶん白く照らし出される。
「月の光で影踏み。なんだかさ、面白くないか?」
「面白くありませんね。」
清四郎の素っ気ない返事が気に入らなかったらしく、悠理は、くちびるを、ぶう、と突き出した。
「ロマンの欠片もないヤツだな。」
悠理は、不満げに呟くと、下を向いて、清四郎の影を蹴飛ばした。
どうやら、本人に直接当たらないで、影に八つ当たりしているようだ。
「いくら影だからって、蹴られていい気はしませんよ。止めなさい。」
清四郎は、いくぶんムッとしながらも、大人の男らしく、悠理をたしなめて、影が踏まれないよう、横に退いた。
しかし、ムキになった悠理が、その程度で諦めるはずはなかった。


悠理が、ちらりと清四郎を見た。
ふてくされた子供のような表情が、月光に照らし出される。
何かやるな、と思った途端、悠理の身体が僅かに沈んだ。

「えい!」

華奢な身体がバネのようにしなった、次の瞬間。
悠理が、清四郎の影に向かって、大きくジャンプした。

が、ここで悠理の思うとおりにさせるほど、清四郎は優しい男ではない。
そして、大らかな気持ちで、子供っぽい悠理と合わせるほど、大人でもない。

悠理の足が、アスファルトに伸びた影を踏む寸前、清四郎は素早く横に動いて、道の端まで逃げた。

「あ!」

月明かりを踏んだ悠理が、声を上げる。
悠理の足元にあるのは、彼女自身の影だけだ。
清四郎は、少し離れた位置から、悠理が口惜しげに地団駄を踏む様子を眺め、ふん、と意地悪く笑った。

「もう踏ませませんよ。」

清四郎の言葉を聞いた瞬間、悠理の顔つきが変わった。
「くっそー!」
よほど口惜しいのだろう。白い月明かりの中でも、悠理の顔が赤くなっていくのが分かる。
悠理は、闘争心を剥き出しにして、清四郎をきっと睨んだ。
「見てろよ!絶対に踏んでやる!」
叫び終わるやいなや、悠理の身体が、鉄砲玉のような勢いで、飛びかかってきた。
それを軽くかわしながら、道の反対側まで逃げる。
が、悠理もさすがなもので、着地の勢いを反動力にして、そのまま清四郎の背後へジャンプしてきた。
明るい夜空を背負って、悠理の身体が跳躍する。
清四郎は、また道の反対側へ逃げる振りをして、今度は逆に悠理の背後へ回った。
移動した場所で、清四郎は、にやりと笑った。
回り込んだところに、運よく、悠理の影が落ちていたのだ。

「悠理の影、いただきました!」

清四郎はそう叫ぶと、悠理の影をぎゅっと踏んだ。

清四郎が影を踏むと同時に、悠理が、ぎゃあ、と断末魔のごとき悲鳴を上げた。
「何すんだ!この野郎!!」
怒り心頭といった表情で、悠理がこちらを睨む。
清四郎の思いつきが、火に油を注いでしまったらしい。
悠理はすっかりムキになってしまい、夜道で清四郎を追いかけ回しはじめた。
清四郎も負けてなるかと、月が照らす夜道を駆けながら、ひらりひらりと左右に逃げ回った。


煌々とした月の光が満ちた、静かな夜の道で。
本気で追いかけ回す悠理と、彼女をからかいながらも、本気になって逃げる清四郎。
こうなると、年齢や、近所迷惑など、関係ない。
馬鹿げていると分かっていながらも、意地になると、なかなか止められないものなのだ。

二人は、時間を忘れて、月光の影踏みに熱中した。



影踏み鬼から逃げ回っている最中、清四郎は、目の前の塀に、自分の影が映っているのに気づいた。
すぐに身を反転させて、自分の影が映る塀に、背中を押しつける。

そこに、悠理が勢いよく飛び込んできた。

清四郎は、悠理の腕を掴むと、自分の胸へと引き寄せた。


強い力で抱きしめて、動きを封じる。
悠理はもがくこともなく、清四郎の腕の中に、おとなしく納まった。


「影ばかり追いかけないで、そろそろ僕を見てくれませんか?」

「・・・なら、影を踏ませろよ。」

「嫌です。」


するり、と悠理の手が伸び、清四郎の頬を覆った。

「もしかして、自分の影にヤキモチを焼いているのか?」

清四郎は、その手に自分の手を重ね、ふっ、と笑った。

「まさか。いくら僕でも、そこまではしませんよ。」


僅かな時間、沈黙が流れる。
その間に、月に雲がかかり、周囲がふうっと暗くなった。



月が隠れるのを待っていたかのように、ふたりはキスを交わした。

覗き見する月が隠れてしまえば、ふたりの姿を見咎めるものは、誰もいない。

でも、月は意地悪で、すぐに姿を現した。



瞼の裏に、煌々とした月の光を感じ、清四郎は顔を起こした。
「・・・無粋な月ですね。」
悠理を胸に抱いたまま、不機嫌を露にして、呟く。
「月に文句を言っても仕方ないじゃん。」
先ほどまでムキになって清四郎を追いかけ回していた悠理も、今はもう、恋人の腕の中で、蕩けそうなほど上機嫌だ。
「それに、月が隠れっぱなしだったら、影踏みもできなかったし、な?」
悠理はそう言うと、悪戯っぽく笑った。

清四郎は、無邪気な恋人の頬にキスをひとつ落とし、明るい夜空を見上げた。


夜空に真ん丸い穴を開けたような、見事な満月が、地上で抱き合うふたりを黙って見つめている。
それにしても、今晩は妙に明るい。
普段は夜の闇に紛れてしまう雲も、満月の煌々たる光に照らされて、その輪郭をあらわにしていた。


ふと視線を下ろすと、清四郎の胸に、悠理の影が浮いていた。
清四郎が月のほうを向いているのだから、当然である。

清四郎は、悠理に気づかれないよう、そっと足を動かした。
悠理の頭を引き寄せて、ふわふわの髪を撫でながら、密かに足元を確かめる。
自分の足が、悠理の影を踏んでいることを確認して、ほくそ笑む。

「・・・これで、僕の勝ち。」

「は?」

耳聡く、清四郎の呟きを捉えた悠理が、顔を上げた。

「なんでもありませんよ。」

きょとんとする悠理に、清四郎は、満面の笑顔を向けた。



清四郎のほかに、影踏みの勝敗を知っているのは、月だけのようだ。

 

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