金と銀との波越えて

      by hachi様

 

 

 

                                                           photo by hachi


ふと、海が見たくなった。

誰しも、そういう感傷的な気分に陥った経験が一度はあるだろう。
日本人の遠い祖先は、広大な海原を渡って、この葦原の中つ国に、はるか昔は秋津島と呼んだ島へやってきた。
そのときの記憶が、はるかな子孫まで、連綿と受け継がれているのか。
それとも、人間がまだ人間でなかった時代、海をたゆたう原始の生物だった頃の本能が、遺伝子に刷り込まれているのか。
どちらにしても、日本人という民族は、海に一種独特の郷愁を感じるべくできているらしい。


目の前に広がる海は、午後の低い日差しを受けて、きらきらと輝いていた。
冷たい潮風に吹かれながら、僕が思いつくままに言葉を紡いでいると、ずっと押し黙っていた悠理が、投げやりな口調で言った。


「前から思っていたんだけどさ、お前のそういう知ったかぶりなところ、大っ嫌いなんだよね。」


煌く景色に眼が眩み、僕はきつく瞼を閉じた。





僕と悠理が、いわゆる男女の交際をはじめたのは、今からちょうど半年ほど前のことだ。
それまでも仲のいい友人同士ではあったのだが、恋はある日突然やってきて、ふたりの関係を激変させてしまった。
否、恋はずっと胸の内に潜んでいたのだ。それが予兆もなく突然、表に噴き出してきたと表現したほうが正しいだろう。

お互いに、相手がかけがえのない存在だと気づいてからは、早かった。
意識しはじめて、数日後。ふたりはめでたく恋人同士になった。仲間たちも心から祝福してくれたし、両家の家族もふたりの交際を喜んでくれた。
僕たちは、二十四時間、相手のことを想い、夜になれば、ひとつのベッドに潜り込んで、睦言混じりにその日の出来事を報告し合った。

そのときの僕たちは、確かに幸福の絶頂にいた。

しかし、恋がもたらす幸福感など、しょせんは多量に分泌されたアドレナリンが見せた、幻に過ぎなかった。


つき合いはじめる前から、性格の不一致は自覚していた。
だが、まさかそれをすぐに許せなくなるとは、思いもしなかった。

幸福に酔いしれ、至福のときを過ごしたのは、最初の一ヶ月だけだった。
一ヶ月を過ぎた頃から、裸の付き合いをしてこそ分かる、相手の嫌な部分が気になりはじめ、それがだんだんと許せなくなってきた。
許せない部分が増えるにつれ、喧嘩も増えた。やがて、喧嘩するのも馬鹿らしくなり、しまいには喋るのも億劫になった。

そして、三ヶ月前。
僕たちは別れを覚悟し、最後の思い出を作るために、海を訪れた。

今日と、同じように。




「・・・大嫌いな男と、今までよく付き合えましたね。」
僕がぼそりと言うと、悠理は、疲れ果てた老婆のように、咽喉の奥で、くっと笑った。
「お前、セックスうまいし、あたいとは身体の相性もばっちりだったしな。」
あけすけな返答に、僕は眉をひそめた。
「僕からしてみれば、お前の歯に衣着せぬ言い方が、付き合いがたいほど許せませんがね。」
聞くに堪えない下品な言葉を、彼女は公衆の面前でも平気で言う。それが、僕にはどうしても許せなかった。

悠理は、僕からぷいと顔を逸らすと、勢いをつけて立ち上がり、岸壁に重なるテトラポットに飛び移った。
細波のひとつひとつが、午後の陽光を反射して、海ぜんたいが輝いていた。
眩しいほど煌く海に、悠理のシルエットが溶け、人と風景との境界が曖昧になる。

僕は、眼を細めて、悠理の後姿を見た。
確かに、彼女は正しい。
悠理の言うとおり、僕はすぐに薀蓄を垂れるし、恥ずかしながら、彼女との身体の相性は、最高に良いと断言できる。
相手が悠理だからこそ味わえる快楽が、多分に存在するのが、その証拠だ。

しかし、それで補っても足りぬほど、悠理には欠点が多すぎた。

幼稚園児より色気はないし、底抜けの馬鹿だし、服装は奇抜を通り越して変だ。
感情が高ぶるとすぐ泣くし、食欲は底なしで意地汚いし、性格は人間より獣に近い。
ベッドの中で奇声は上げるし、素っ裸で室内を闊歩するし、僕が裸で寝入っている姿を携帯電話で撮影し、こっそり待ち受け画面にしている。

欠点を上げ連ねているうちに、だんだんと腹が立ってきた。
二度目の倦怠期は、一度目より深刻な状況らしい。
僕は、午後の海に溶ける悠理の後姿を見つめながら、今までの鬱憤を晴らすかのような勢いで、一気に喋りだした。
「だいたい、お前は我慢というものを知りません。泣きたくなったら泣くし、腹が減ったら駄々を捏ねる。野性の猿と同じです。僕は、お前のそういうところが、どうしても許せないんですよ。百歩譲って、本能のままに生きる姿が魅力的だということにしましょう。ですが、それにも程度というものがあります。お前以外、この世のどこに、ドレスのまま木によじ登ってバナナを食う財閥令嬢がいますか?」
僕が息つく間もなく罵詈雑言を浴びせると、悠理はゆっくりとこちらを振り返った。
きつい逆光のせいで、表情が見えない。
「・・・それだけ?」
低い声で問われ、思わずたじろいだ。しかし、あの程度で終わられるほど、溜まりに溜まった鬱憤は少なくなかった。
「それだけではありません。キャミソールとトレーナーを一緒にまとめて脱ぐなんて、僕から言わせれば、言語道断の所業です。それに加えて、あの散らかしっぷりは何ですか?脱いだらせめて一箇所にまとめるとか、簡単に畳むとか、どうしてできないんです?それに、何が許せないといえば、裏返しに脱いだ靴下をぽいぽい放り投げることです!日常において、あれほどだらしのない行為など、他にありませんよ!」

下らない。
下らないが、どうしても許せないことが、人間にはある。

一気にまくし立てて、僕が大きく息を吸い込んだと同時に、悠理の眉と睫毛の幅が、すうっ、と狭くなった。
「ああ?」
テトラポットの上で仁王立ちになった悠理が、僕を指差す。
「靴下については、あたいも言わせてもらうぞ!お前の靴下、アレ、何だ?うすうすスケスケの靴下ばっかり履きやがって、お前は中年サラリーマンか!?」
「どんな靴下を履こうと、僕の勝手でしょう!」
「勝手じゃねーよ!お前、エッチのとき、パンツまで脱いでおいて、靴下を脱ぐのを忘れていることがあるだろ!?全裸にうすスケオヤジ靴下だけ履かれていたら、こっちのヤル気が失せるんだよ!」
恐ろしく下らない言いがかりである。だが、言われたほうは堪ったものではない。
靴下を脱ぎ忘れていようが、やることはできるのだから、別に構わないではないか。
言い返そうとしたが、悠理の勢いに口を挟むタイミングを失った。
「それにな、あたいの部屋でトイレを使うとき、絶対に便座を上げたままで出てくるだろ!?アレ、めちゃくちゃムッとするんだぞ!使ったものは元に戻しましょう、って、小学生のとき先生に教えてもらったのを覚えてないのか!?それともお前、あたいを便器の中に落としたくて、わざと元に戻さないのか!?」
あまりにも下らない言いがかりに、さすがの僕もムッとした。
「トイレットペーパーの三角折もできない貴女に、便座の使い方で文句を言われる筋合いはありません!」
「お前は大のときしかトイレットペーパーを使わないだろ!あたいは毎回使うんだから、いちいちそんな面倒くさいことやってられるか!」
「往来で下品な発言をするのは慎みなさい!」
「下品は生まれつきだ!」
「性根の芯から下品だからこそ、往来では発言に気をつけるべきでしょうが!」
往来といっても、周囲に僕たちのほかは人影もない。
だからこそ、こんな下らない喧嘩もできるのだが。


僕と悠理は、睨み合ったまま、しばらく動かなかった。

その間に、太陽は低くなり、銀色に煌いていた海も、黄金色に染まりはじめていた。


悠理が、テトラポットから岸壁に向かってジャンプした。
とん、と軽い着地の音がして、ゆっくりと顔が上がる。
真正面から僕を見据えた顔は、やるせない怒気で赤く染まっていた。
「あたい、お前のそういう偉そうな口のきき方が、心の底から気に入らない。」
「偉ぶってなどいません。これは僕の自然な口調です。」
そこで、悠理が、ふ、と笑う。
「言い合いは、もういいだろ?」
逆光の影になった悠理の顔が、嗜虐的に歪んだ。
だが、その表情は、嗜虐的でありながら、どこか寂しげで、何だかこちらのほうが後ろめたい気分になった。

「こっちは覚悟して来ているのに、日本人が海を懐かしく思うのは、なんて訳の分からない薀蓄ばっかり垂れやがって・・・お前のそういうところが許せないって、何回言わせれば気が済むんだよ・・・」

悠理が右の拳を握る。すっと引かれた肘に、殺気が滲む。

「顔は止めてくださいよ。」
僕は、悠理から噴き出す殺気にたじろぎつつも、努めて平静な声を出した。
「分かっているよ。」
悠理が答える間に、僕は足を踏ん張り、腹筋に力を籠めた。

「清四郎なんか大嫌いだ!!」

しゅ、と空気が裂けた。

ほぼ同時に、腹を衝撃が襲った。




強烈なパンチを食らった腹を摩りながら、僕は悠理を見た。
「・・・少しは手加減したらどうですか?途中で捻りまで加えて・・・痣になったらどう責任を取ってくれるんですか?」
「手加減したら、スッとしないじゃん。」
つんと横を向く悠理は、いつもに増して可愛らしくない。
と、いうか、いつもに増して憎らしい。
僕は、悠理の肩を掴み、強引にこちらを向かせた。
ほぼ同時に、彼女の顔に怯えが走る。
「次は、僕の番ですよね?」
肩に置いた手を上方へ滑らせて、そっと首を撫でる。
愛撫に敏感な悠理は、それだけで、びくりと身を震わせた。

両手で頬を挟み、顔を覗き込むと、悠理の怯えは明白になった。
「お願いだから、もう抓らないで・・・」
三ヶ月前の痛みを思い出したらしい。悠理の眼はすでに涙でいっぱいだ。
僕は、神父のように優しい微笑を浮かべて、悠理の瞳を覗き込んだ。

「分かりました。約束しましょう。」

悠理がほっと安堵し、微笑を浮かべた瞬間。

僕は、悠理の両頬を掴んで、思いっきり左右に引っ張った。



「ぎゃああぁーーーーーっ!!」



断末魔の悲鳴が、黄金色の空にまっすぐ伸びて、やがて、吸い込まれるように消えていった。





「痛ってーじゃねえか!このヤロー!!」
真っ赤になった頬を摩りながら、悠理は足を振り上げた。
「お前も思い切りやったんだから、これで、おあいこでしょう?」
繰り出されるキックをひょいと避け、悠理に背を向ける。
「おあいこじゃない!あたいは約束を守って顔面は殴らなかったじゃん!抓らないって約束したのに、何で抓るんだよ!?」
悠理があまりにもうるさいので、僕は眉を顰めて振り返った。
「約束は守ったじゃないですか。」
「どこが!?」
「抓らずに、引っ張り上げた。」
抑揚のない声で答えると、僕は、護岸に停めた車に向かった。


僕たちは、相手に我慢ならなくなると、この海まで来て、気が晴れるまで喧嘩をする。
これは、僕と悠理が倦怠期を乗り切るための、一種の儀式なのだ。

仲間たちに言わせれば、この状況は、倦怠期などでなく、じゃれ合いが喧嘩に発展して、引っ込みがつかなくなっただけのことだそうだ。
本物の倦怠期というのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の喩えどおり、相手の存在を認知させるものすべてが憎くなる状態を指すらしい。
確かに僕らは、そこまで相手を憎んでいない。
しかし、当の本人たちは、いたって本気なのだから、仕方がないではないか。

対決の場に海を選んだのに、大した理由はなかった。
単に、最初に喧嘩をしたのが、この場所だったからだ。
だが―― 母なる海が、吐き出した鬱憤のすべてを吸収してくれるような気がするのは、きっと錯覚ではあるまい。
ここでなら、僕たちは、信じられないくらい素直に、愚かなほど正直になれるのだから。



「おい、まだ終わってないぞ。」

後ろから悠理の声が追いかけてきた。
振り返ると、悪魔の笑みを浮かべた悠理が、僕を見つめていた。

「他に、あたいに言いたいことがあるだろ?」

忘れていた訳ではないが、やはり言うのは躊躇われる。
しかし、言わないと、この儀式は終わらない。
悠理から見えない角度で溜息を吐き、覚悟を決める。
そして、身体ごと悠理のほうを向き、期待に輝く大きな瞳を、間近から覗き込んだ。


「悠理―― 愛していますよ。何があろうとも、僕にはお前だけです。」


僕の言葉を待ちわびていたかのように、悠理は幸せそうに、にっこりと笑った。


悠理が背伸びをして、僕にキスをする。
そして、少し照れくさそうに、僕の眼を覗き込む。
「よくできました。」
僕の口癖の真似をして、おどける姿は、先ほどとは打って変わって、とても可愛い。
だから、僕も確かめたくなる。
たとえ、悠理が何と答えるか、分かっていても。

「悠理も、僕に言いたいことが残っているでしょう?」


悠理は、はにかみながらも、はっきりと答えた。


「清四郎、だいすき。」




たとえ性格が合わなくても、やることなすこと気に障っても、僕は悠理を愛していて、悠理は僕を求めて止まない。

日本人の遺伝子に海への郷愁が刷り込まれているように、僕らの遺伝子は、いくら反発しようが惹き合うように仕組まれているのだ。



僕らは、金色に輝く海を横目にしながら、車へ乗り込んだ。

きっと、あと半年は、この景色を見ずに済むだろう。


「さてと、今からどうしましょうか?」

「ん〜、ここはやっぱりエッチだろ?それも、腰が抜けるくらい、思いっきり濃厚なヤツな!」

「・・・だから、どうしてそういう下品な言い方をするんですか?」

「だって、心で愛を確かめ合ったあとは、身体でも確かめ合うべきだろ?」

「・・・その意見には、同感です。」





どんなに激しい波が襲い掛かろうとも、どんな危機に陥ろうとも。

僕たちは、絶対に乗り越えられるはずだ。



ふたりの胸に、愛がある限り。



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