BY hachi様
静かな、どこまでも静かな、秋の夜のこと。 野梨子が、いつものように、母に代わって帳簿をつけていると、夜のしじまを破るかのように、携帯電話がけたたましく鳴った。 ちらりと壁に視線を走らせ、時計を見る。時刻は九時を大きく回っていた。親しくない相手に電話をかけるには、多少の躊躇を覚える時間だ。 家業の関係者には、プライヴェートな携帯電話の番号など教えてはいないし、多忙な両親も今晩は揃って家にいるから、友人の中の誰かであろうと、すぐに見当がついた。 野梨子は、仕事で溜まった疲労と一緒に溜息をひとつ吐くと、ボールペンを机に置いて、傍らの携帯電話を取った。 「もしもし。」 「野梨子ぉ!もう、あたいたち駄目だよ!!」 いきなりの涙声が大音量で鼓膜に響き、耳の奥がきんと痛んだ。 「悠理?」 液晶画面に彼女の名が出ていたので、相手に間違いはないはずだが、通話口から聞こえてくるのは嗚咽だけで、明確な返事はない。けれど、野梨子は少しも動じず、優しい口調で語りかけた。 「悠理でしょう?どうしましたの?また清四郎と喧嘩でもしたんですの?」 図星だったらしく、電話の向こう側にいる悠理は、ひっく、と盛大にしゃくり上げた。 野梨子は、小さく苦笑しながら、話してごらんなさい、と温和な声で悠理に言った。 悠理と清四郎が付き合いはじめて、既に三年。 こんな電話がかかってくるのも、そう珍しいことではない。 いつも二人は、他愛もない、些細なことが原因で、派手な喧嘩をする。 悠理はそのたびに野梨子へ電話をかけてきて、ひとしきり愚痴っては、また清四郎のもとへ戻るを繰り返していた。 清四郎も、口では強がりばかり言っているくせ、喧嘩をすると、酷く落ち込む。それを励まし、意気地のない背中を悠理に向かって押してやるのは、すっかり野梨子の役目になっていた。 つまり、この三年間、野梨子は影に日向になりながら、ずっと二人を見守ってきたのだ。 電話の向こうにいる悠理は、泣きじゃくりながらも、必死に説明をする。 「せ、清四郎、酷いんだ・・・あたいは、ただ楽しく食事がしたいだけなのに・・・レストランではうるさく喋るなって・・・一緒にいて恥ずかしいって言うんだ・・・」 なんて清四郎らしい。 野梨子はやれやれと思いながら苦笑した。 清四郎は、他人を見下しているくせに、世間体や外聞を重視する。 それは、敵を作らないため、少しでも味方を増やすための、処世術のひとつ。世間の温度の低さを知る者は、気を抜いたときこそ悪印象を抱かれやすいと分かっている。 だから、彼らは、ひと目が多いレストランでこそ隙を作るまいと努めるのだ。 でも、そんな男性社会の理屈が、生来のお嬢さまである悠理に通じるはずがないし、奔放な彼女に、清四郎の事情を押しつけようとするほうが無理であった。 毎度毎度、二人は同じような原因で喧嘩を繰り返す。 もう駄目だ、別れたほうが幸せかもしれない、なんて泣き言を聞いた数は、十本の指では足りないくらいだ。 でも。 二人は、魂のレベルで互いを求めている。 ずっと二人を見守ってきた野梨子には、それが手に取るように分かった。 だから、毎回、毎回、二人のために心を割いて、綻びかけようとする関係を繕ってきた。 清四郎と悠理は、まったくタイプが違うのに、隣り合っているのが当然だった。 まるで―― ジグソーパズルのピースのようだ、と、野梨子は思う。 かたちは違うのに、並べて嵌めると、隙間なくぴったりと重なる。他のピースを隣り合わせても、けっしてぴったりは合わないし、表面に映された世界もまったく繋がらない。 隣り合うべきピースは、世界広しといえども、この世にたったひとつだけしか存在しない。 清四郎も、悠理も、互いが隣にいるからこそ、ひとつの世界を構築できる、たった一枚きりのピースなのだ。 その、二人が作り上げる世界を守ること―― それこそが、己に課せられた使命だと、野梨子はそう信じていた。 「悠理。貴女の賑やかに食事をしたいという気持ちは、よく分かりますわ。」 野梨子は、穏やかな声で悠理に語りかけた。 「お喋りをしながら料理を頂くのは、とても楽しいことですもの。でも、お喋りだけが、食事の楽しみではないでしょう?」 エチケットやマナーを押しつけるだけでは、悠理は納得しない。 野梨子でさえ分かる理屈を、清四郎が分からないはずがないのに、彼はいつも悠理を泣かせる。自分の意見を押しつけて、悠理の意見などはなから聞こうとしない。 つまり、大人の振りをしているけれど、清四郎は、悠理よりも子供なのだ。 世間の男性一般がそうなのだから、清四郎がそうであっても、仕方のないことかもしれないけれど。 「美味しく頂くにも、色んな方法がありますわ。たとえば、一皿の中に凝縮された、シェフの技巧に感動したり、完璧に磨き上げられたシルバーにその店の心意気を知ったり、楽しもうと思えば、いくらでも楽しめるものですのよ。」 電話の向こうにいる悠理は、時折しゃくり上げながらも、黙って話を聞いている。 「今日、食事をしたレストランは、清四郎が選んだ店なのでしょう?料理の味だけでなく、雰囲気やインテリアまで拘って選んだに違いありません。清四郎は、きっと悠理にお喋りだけでなく、そういうところまで楽しんでもらいたかったはずですわ。」 野梨子は、諭すふうでもなく、あくまでも優しく話をつづけた。 「・・・インテリアなんて、どこも似たようなもんじゃないか。」 頑是無い子供のような抵抗にも、野梨子は口調を変えなかった。 「悠理は美味しいものが大好きでしょう?調理されても本来の味を失わない素材が、どれほどの手間をかけて大事に育まれてきたか、シェフがその食材を生かすべく、どんな技法を凝らしているか、そんなことを考えながらゆっくり食事をするのも、たまにはいいのではありませんこと?」 「・・・うん。」 小さな声が、返ってきた。 「それに、お喋りに夢中になって、料理をただ口に放り込むだけなんて、素材を育んできた人たちや、修行を重ねて料理を作り上げたシェフに失礼ですわよ。」 野梨子は、目の前に悠理がいるかのように、小首を傾げて、語りかけた。 電話の向こうにいる悠理は、きっと涙を拭いながら、野梨子の言葉に頷いているはず。 彼女は、意地っ張りだけど、とても純心で素直な娘なのだから。 しばしの沈黙のあと、悠理が恥ずかしげに礼を言った。 「ありがと・・・やっぱり野梨子は凄いや。」 「何も凄くはありませんわ。私はただ当たり前のことを言っただけです。」 「ううん!凄いよ!野梨子に電話をするだけで、これで大丈夫だって思えるもん。」 「あら、光栄ですこと。」 野梨子がくすくす笑うと、悠理もくすくす笑った。 笑声が止み、電話のこちらとあちらで、僅かな沈黙が流れた。 通話口から、あの・・・と、消え入りそうに小さな声が聞こえてきた。 「・・・野梨子、今から泊まりに行ったら、駄目・・・?」 子供が悪戯を告白するかのような、小さな声。野梨子は微笑みながら、答えた。 「いいですわよ。もう遅いですから、気をつけていらしてくださいね。」 「有難う!」 それは、先ほどまで泣いていたとは思えぬほど、溌剌とした声だった。 電話を切って、まずは台所へと向かう。 通いの家政婦に、今日は悠理が泊まっているから、朝食を多めに作ってくれくれるよう、メモを残す。それからすぐ台所を後にして、客間から自室へ布団を一組運び入れ、悠理の寝具を整えた。 ひと通り、悠理を迎える準備が終わり、他にやることがなくなったところで、野梨子は携帯電話を持って、凍てついた庭へと出た。 庭の真ん中で立ち止まると、きんと冷えた、夜の空気が、襟や袖の隙間から忍び込んでくるのが分かった。 じっとしていると、足元から冷気がじわじわと這い上がってくるようだ。 肩を竦めて身震いしたとき、広大な庭を、風が、ざあっ、と通り抜けた。 瑞々しさを喪失した木の葉が擦れる音に、もう秋も終わりなのだと思い、僅かばかりの間、眼を閉じて、この世の無常に浸った。 無為なことに時間を費やし、自分は何をしているのだろう? やるべきことは、目の前にある。 野梨子は、意気地のない自分に苦笑し、二つ折りの携帯電話を開いた。
清四郎へ電話をするのに、緊張を覚えるようになったのは、いつからだろう? 清四郎と悠理が付き合いはじめるようになってからだろうか?それとも両思いだと知ってからだろうか? どちらにしても、二人の関係が変わってからに違いなかった。 胸に軽い痛みを感じながら、番号をプッシュする。 清四郎の携帯電話の番号は、登録していない。 登録するまでもなく、彼の番号は指が覚えているから。 四回目のコールのあと、清四郎が出た。 「もしもし、野梨子ですか?」 疲弊しきった、掠れた声。 その声は、いくら聞いても、慣れるものではない。 悠理と喧嘩をしたあと、清四郎は、いつもこんな声で電話に出る。 それが、清四郎がどれほど深く悠理を愛しているかを、何よりも明確に証明しているようで、そんな声を聞くたびに、胸がきりりと締めつけられた。 野梨子は掠れそうになる声に力を籠めて、必死に平常を保った。 「清四郎、また悠理を泣かせましたのね?それで、またいつものように、自己嫌悪に陥っているのでしょう?」 否定する気力もないらしく、清四郎は、野梨子には敵いませんね、と言いながら、力なく笑った。 そんな彼に対しては、悠理を相手にしていたときとは違って、ぴしゃりと厳しい声を出す。 「事情は悠理から聞きました。場所を弁えずにはしゃぐ悠理を、清四郎が怒る気持ちはよく分かります。けれど、それを上手にリードしてこそ、真の紳士ではありませんこと?頭から押さえつけては、悠理が可哀想ですわ。」 「相変わらず耳が痛いことを言いますね。」 弱っているくせに、口は小憎らしいほどに達者で、それが余計に哀れを誘った。 野梨子の幼馴染は、山より高いプライドの持ち主だ。 だから、酷く落ち込んでいても、強がることしか出来ない。そして、彼は如何なるときも、同情など望まない。他人から差し伸べられる手に縋るのは、恥ずかしいことだと信じているのだ。 頭と身体は立派な大人でも、心は幼さを残している。 それは、清四郎が持つ、数多い魅力のうちのひとつかもしれないけれど、それに毎度振り回される悠理にしてみれば、堪ったものではないだろう。 「だいたい、清四郎は、悠理に多くを望みすぎです。貴方が好きになったのは、自由奔放で常識に囚われない悠理でしょう?どうしてありのままの彼女を包み込んであげられないのですか?」 「頭では分かっているのですけどね。」 「頭で分かっているだけでは駄目です。」 間髪入れずに応え、清四郎が口を挟めぬよう、さらに言葉を続ける。 「悠理は子供ではありませんのよ?自分の意思を持った大人の女性で、いつまでも清四郎の傍にいてくれるとは限らないのですからね。私が悠理でしたら、分からず屋で自分を理解してくれない恋人などさっさと捨てて、もっと優しくて立派な殿方を探しますわ。」 少し強い口調でそう言うと、野梨子はそっと眼を伏せた。 ―― 清四郎以外の、他の誰かを探せたら。 「そうならないためにも、ちゃんと悠理を幸せにしてあげてくださいな。食事に行く場所も、型に嵌まった一流レストランではなく、もっと寛げる店を選んで差し上げるといいわ。悠理が店の格式など拘らない娘なのは、清四郎が一番知っているでしょう?」 「・・・ご忠告、肝に銘じておきますよ。」 その声には、僅かながらも、いつもの張りが戻っていた。 もう大丈夫。 清四郎は、見た目よりもずっと脆いけれど、悠理への愛は金剛石よりも強い。 そして、その愛があれば、清四郎はどこまでも強くなれる。 「今晩、悠理がうちに泊まりますの。明日の朝には悠理も落ち着くと思いますから、出勤前にでも顔を出してあげてくださいな。」 最後だけは、優しく語りかけた。 晩秋の夜風に、木々がさらさらと揺れた。 遠いはずの清四郎の呼吸音が、とても近く感じる。 「・・・野梨子、いつも僕たちのために尽力してくれて、有難う・・・」 夜風に指がかじかんで、じんじんと痛む。 庭を渡る風に心が煽られ、封印が外れそうになる。 野梨子は、闇に向かって、微笑んだ。 「お礼なんて必要ありませんわ。大事な友人の幸福を願うのは、当然ですもの。」 電話を切ったあとも、野梨子は庭に立ち尽くしていた。 かじかんだ指を温めるかのように、携帯電話を持ったまま、両の拳を重ねて強く握る。 電話はもう切れているのに、まだ清四郎と繋がっている気がした。 重ねた拳を胸に当て、外れかかった封印を結びなおそうとした。 けれど。 「・・・清四郎・・・!!」 押し込めていた想いは、ついに言葉となって野梨子の口から溢れ出た。 幼い頃から、清四郎は野梨子の心に住んでいた。 それが恋情だと知る前から、ずっと彼に恋をしていた。 だから、桜の花弁が舞う、よく晴れた日に、悠理と出会ったとき、すぐ分かった。 おぼろげながらも、そう遠くない未来に、悠理が野梨子の望む場所に立つことを。 そのときは、幼すぎて、自分の胸に湧いた敵意を理解できなかった。 けれど、今なら分かる。 野梨子は、嫉妬していたのだ。 性別も、立場も、ありとあらゆる障害を超えて、当然のように清四郎と惹き合う悠理に。 でも、今は違う。 清四郎の幸福が、悠理というかたちをしていると知ってからは。 野梨子は、携帯電話を握り締めていた手を緩め、く、と顔を上げて、闇を見据えた。 闇が果てなく広がっていようとも、心が強くあれば、恐ろしくなどない。 野梨子は、決めたのだ。 悠理が微笑むことで、清四郎が幸福になれるのならば、その微笑を守ろうと。 二人が道を失いそうになれば、自らが灯火を掲げ、進むべき道を示そうと。 本当は、お互いがいなければ生きていけないほど愛し合っているくせに、二人は意地を張ってばかりで、その、至宝のごとき愛から、眼を逸らそうとする。 だから、野梨子は、不器用な二人が、進むべき道を見誤らないよう、導の灯火となる。 無償の愛を捧げるなど、高尚な志を持っているわけではない。 単に、自分の愛を貫くことと、清四郎の幸福を願うことが、同義なだけ。 他人から何と思われようが、構わない。 それが、野梨子の愛し方なのだから。 野梨子は、自分の愛を守るために、二人の愛を守る。 我が身に火を灯し、二人のための導となるのだ。 もうすぐ悠理が着く。 野梨子は闇に背を向け、歩き出した。 胸を焦がす恋情に、完璧な封印を施して。 自らが、導の灯火となるために。 ――― 完 ――― |
あとがき
ふと、気高く凛とした野梨子を表現したくなり、思いつくままに描いてみました。
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背景:季節素材の雲水亭様