■Mondlichtnacht



【 Das Volumen auf Extraausgabe 3 】



社屋を出た時には、まだ月が昇りかけているところだった。
この分なら今日はゆっくりできそうだ。僕はほくそ笑みながら車へと乗り込んだ。
剣菱邸へと戻った車は正面玄関ではなく、その隣奥へと付けられる。
出迎えたメイドは本邸よりも少ない。悠理の居場所を聞くと、苦笑混じりに「いつもの場所です」という答えが返ってきた。
僕たちが結婚して程なく、剣菱邸の広大な敷地の中に別館が建てられた。そこで僕と悠理は暮らしている。
一族経営の「剣菱」では家の中での会議も多く、必要な情報はコンピュータールームで直ぐに引き出すことが出来るし、人の出入りの管理も造作ない。仕事を持ち帰る事も多い僕としては本邸で寝起きするのに何の不自由もないのだが、義父や義母の気まぐれか、豊作さんが気を遣ってくれたのか、はたまた「菊正宗」姓である自分たちが本邸に住むのは都合が悪いのか、ある日突然家が建っていて引っ越しを命じられたのだ。
本邸に比べれば随分と簡素で、言い換えれば義父や義母の趣味が入っていないこざっぱりとした家は、申し訳ないとは思うが住み心地は非常に良い。タマやフクも一緒に引っ越してきて、それなりに賑やかに暮らしている。
仲間達も遊びにきては、相変わらずの騒ぎを続けている。

問題は、家の建てられた場所だ。

温水プールの程近く。

結果、悠理は本邸で夕食を済ませた後、「ひと泳ぎ」が日課となってしまったのだ。いつもの如く全力で泳ぎまくり、僕が帰宅する時分にはすっかり寝入ってしまっていることもある。
この間は、寝ている悠理を無理矢理叩き起こしコトに及んだら、その後3日間口を聞いて貰えなかった。
相変わらず、僕の「好き」のほうが勝ち越していると思うとなんだか切ない気もする。
まぁそれを逐一気にしていたら悠理の夫など務まりはしないのだが。
今日は早い帰宅だ。悠理がプールへ向かってからまださほど時間は経っていないだろう。
メイドに鞄を預け温水プールへと向かう。
夕食の準備を頼み、ついでに悠理の「夜食」も追加してもらうことにする。
僕だって折角早く帰ってきたのだから、たまには家でのんびりしたいのだ。





室内に入ると、温水プール特有の、暖かい湿った空気が全身を覆う。
スーツの上着を脱ぎ、近くにあったテーブルの上に置く、ついでに時計も外した。
一度悠理にプールの中に引きずり込まれ、時計を修理に出した際、可憐にもの凄い勢いで怒られたのは記憶に新しい。

――その時計探すのに、一体どれだけ苦労したと思ってんのよ!
――ウチのバイヤーが世界中探したのよ!?
――次にこんな事があったら承知しないわよ!定期的な調整以外は受け付けないからね!



室内の全てのライトは点いておらず、悠理は僕が来たことに気づいていないようだ。
剣菱スポーツの競泳用水着(オリンピック仕様)で、相変わらずバシャバシャと記録でも打ち立てるように泳いでいると思った悠理は、僕の予想を裏切り、Tシャツ姿で浮き輪を枕にプールの真ん中でぷかりと浮かんでいた。
ぼんやりと天井から差し込む月の光を受けている。
息を呑んだ。
単純にキレイだと思った。
薄暗い室内、月の光の青、悠理の眼差し、水の青
浮き輪がタマフク柄でなければ、一枚の絵にもなりそうな情景。
太陽の下が誰よりも似合う悠理の新たな一面。
悠理の夫となった今でも、まだ惹きつけられてやまない。

「ゆう…り」
僕の小さな呟きが聞こえたワケでもないだろう、僅かな空気の流れを感じたのか、悠理がこちらを向いた。
「清四郎!おかえり!!」
すいすいとプールサイドまでやってくる。
「ただいま」
「随分早かったな」
「ええ、たまにはね」
「お前も入る?」
足を小さく掻きながら僕を見上げる悠理に、先ほどまでの静寂な雰囲気は微塵もない。折角ゆっくりしようと思って早く帰宅しても、悠理の相手をして夜中まで泳ぎ体力を消耗してしまっては意味がない。
「いいえ、今日は辞めておきます。それよりどうしたんです?ぼっとして」
「うん、ちょっとな」
引きずり込まれないように若干の距離を保ったまま悠理の側にしゃがみ込む。
「服を着たまま泳ぐのは感心しませんね、水を吸って重いでしょう」
「いや、水着の上にTシャツだし、泳いでないから」
「泳がないのにプールですか?」
小言だと思ったのか、顔を顰められる。しかし直ぐに気を取り直して、僕の手を引いてきた。
「一緒に入ろうぜ」
「嫌ですよ」
「だって、お前も知りたいだろ?」
「何をです?」
にや、と笑うのは僕に似てきたと言われる「悪魔の笑み」
随分失礼な話だと思うのだが、仲間達はこれで僕たちが夫婦であることを再確認するようだ。
「絶対にお前も知っておいたほうがいいと思うぞ」
「だから、何をですか」
僕の手を引く悠理と、負けまいと引き返す僕。お互いに冗談が本気となる 。
腕の引き合い。
まさに水際の攻防。

「だから〜!赤ちゃんの気持ち!」
「は?」

どぼんっ

落ちた。

赤ちゃんということは、悠理は妊娠したということで……。
さば、と派手に水音を立てて、僕は水面に顔を出した。
「なんて顔してんだよ」
悠理は僕を見て、ケタケタと笑っている。
やはり時計は外しておいて正解。
言われてみれば、確かに生理は遅れていたが、そんな兆候は全く無かったと言っても過言ではなく、まさに晴天の霹靂。こんな時は男より女のほうがよほど肝が据わっている。
「本当なんですか?妊娠してるってことですよね」
「うん、和子ねぇちゃんに見てもらったから間違いないよ。えっとね6週?だって」
「よりによって姉貴ですか」
「だって、誰よりも信頼できる医者だろ?」
「まぁ否定はしませんけどね」
プールサイドに置いてある悠理の手を取り、互いに正面で向かい合う。
この愛しい人の身体の中に、僕の、僕たちの新しい命が芽生えている。

それにしたって会社に電話するなり、メールするなり、もっと早くに知らせてくれても良さそうなものだが、悠理は僕の仕事の妨げになるようなことは一切しない。「剣菱」関連や政財界で夫婦揃って出席するパーティーや国内外の客人を接待する時は喜んで顔を出すのだが、事業のことに関しては、全くのノータッチ。『清四郎はさ、元々出来るヤツなんだからあたいが顔出したって意味ないじゃん、実力勝負ってコトでがんばれよ』それが悠理の言いぐさだった。それば大学時代から一貫していて、仕事でいくら遅い日が続き、出張が重なっても、笑って送り出し迎えてくれる。僕が居ない間、一体何をしているんだかと勘ぐったことも無いとはいえないが驚かされることも少なく無かった。出先で悠理の話が出ると、大方の相手は悠理に傾倒しているのだ。大事な場面では僕が動きやすいように、しっかり地盤を作っていてくれたりすることもある。本人にそんな気はないのかも知れないが、やはり彼女は「剣菱」の娘で、あの万作・百合子両氏の娘なのだとつくづく感心する。

「んなマジマジ見んなって、恥ずかしいだろー」
今更夫婦間で恥ずかしいも何もあったものではないが、こういう所に照れるところがいかにも悠理らしい。
「で?赤ちゃんの気持ちは判ったんですか?」
「うーん、その辺はイマイチ…」
それはそうだろう、6週といえばまだ胎児は1cmあるかないかで羊水に浮いているのではなく、まだ胎芽と卵黄嚢。ようやく心拍が確認できる程度である。
「でしょうね、水に浮く頃には悠理のお腹も膨らんでますよ」
「どのぐらい先の話?」
「5か月目ぐらいですかねぇ、ご期待に添えなくて残念ですが妊娠の経験はないので後は自分で体験してください」
「怖いこと言うなよ、でもさ、ただ浮かんでるのも結構いいもんだったぞ」
そう言って、悠理はお前もやってみろよと背中を向けてプールの真ん中まで歩き出した。
慌てて、その後を追う。 水を含んだシャツやズボンがまとわりついていたが、こちらもそれで溺れるほど、やわな運動神経ではない。
差し出された浮き輪を枕に水に浮く。浮き輪越しに水の波動が伝わる。
なるほど、確かに胎児の様子を再現するにはプールはうってつけだ。

悠理は先ほどと同じように、月の光を浴びて、まっすぐな瞳を上に向ける。
手が優しく、腹部に添えられていた。
悠理の手に自分の手を重ねる。水着のざらりとした感触。
もちろんまだ平らな腹部。
「これから忙しくなりますね、僕も極力病院には付き合いますが、姉貴は親父同様心臓外科医ですからね、産科は専門外です。悠理も一人の身体じゃないことを自覚してくださいよ」
「わかってるって」
「お前の「わかってる」は安心できませんよ。現にこうして妊娠初期だというのプールですしねぇ、冷やすのは良くないの知っているでしょう」
「いつもより温度上げてもらってるもん」
「だからって、水に入っているだけでも身体は疲れるものなんですよ」
だいたい悠理は…と続けようとした言葉は、まっすぐにこちらに向けた視線に止まった。
「お前と喧嘩はしない、コイツに聞こえちゃうもん」
まだ平らな腹部を優しく撫でる。
「まだ、耳も出来てないと思いますが…」
「いーの!ったく…」
少しだけ唇をとがらせて、それでももう一度浮き輪に頭を預け、感覚に身を任せている。
身体に芽生えた、新しい命を少しでも感じようと。

どうしても理詰めになってしまう僕に、感覚で動くことを教えてくれる悠理。
もちろん野生の勘だとか、人の気持ちを嗅ぎ分ける嗅覚もあるだろうが、いつもはっとさせられる行動を取る。そしてそれは僕にとって無くてはならないものになっているのだ。
この先も、こうやって何度か2人でプールに来ることもあるのだろう。
悠理曰く「赤ちゃんの気持ち」を知るために。

しかし、いつまでもこのままというワケにもいかないだろう。
「悠理、僕まだ夕食を食べてないんです、お前の分の夜食も用意してもらってますから、一緒にどうです?」
「メシ?行く行くっ!!」
「お前の分は「夜食」です。妊娠が判明した以上、暴食なんてさせませんよ」
「わかってるってば、早く行こうぜ〜♪」
食べ物の誘いは効果抜群。
悠理はさっさと浮き輪を放りだし、プールサイドへと泳ぎ出した。
「こら、悠理!泳ぐな!」
浮き輪をつかみ取り、プールサイドへと急ぐ。
「清四郎、早くっ」
プールサイドまでたどり着いた悠理が、満面の笑みで振り返る。
この手に捕まえてみたいと思った、笑顔がそこにはあった。
幼い頃僕には向けられなかったもので、長い時間をかけてこの手に捕まえたもの。
出会いからすでに20年以上の時が流れている。随分遠くまできたものだ。
「ほらっ」
すでプールから上がった悠理が僕に向かって手を差し出す。それを無視してプールから上がるとバスタオルが放って寄越された。
全く不要となってしまったシャツとTシャツを脱ぎバスタオルで身体を拭く、濡れたズボンはさすがに脱ぐわけにはいかないが、このまま家へ戻ったとしても大した距離ではない。肩にバスタオルを引っかける。服はメイドに任せることにして、テーブルの上から時計だけを取り上げた。
並んで家へと戻る道すがら、悠理が僕を見上げた。
「赤ちゃん、清四郎に似た男の子だといいな」
あんまり綺麗に笑うものだから僕はもう一度彼女に恋を覚える。

たぶん、この先何度でも。

手の中の時計が同意するようにチャリ、と音を立てた。


ヒトリゴト
このシリーズのエピローグになります。久しぶりに書いたら設定から何から、性格まで変わっているのではないかという不安が押し寄せてきました。
時計の話はおいおいに。

2009/05/06


素材:GreenTea

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