■Oberflächenspannung




グラスに水を入れる。
その縁ギリギリまで水を淹れても、水は零れない。
それは、分子間力により、分子が互いに引き合う力 『表面張力』

では、さらに水を追加したら? ―――



元々そう多くはない荷物を纏め、少しの間、自分の部屋だったこの空間をぐるりと眺めた。机とソファーとベットとバスルーム。これだけのシンプルな部屋。ホテルの部屋のようだといつも思う。
この屋敷には、ゲストルームと呼ばれるこの造りの部屋がいくつも存在する。専有する前からだって、何度も使っていたが、今日は感慨もひとしおだった。
荷物を手に部屋から出ると、メイドが運びますと手から荷物をもぎ取った。
偶然ではないのだろうが、廊下で行き会った五代に、おじさんとおばさんへ挨拶をしたいと申し出ると、2人は出掛けた後だと、申し訳なさそうに返された。
「悠理は何処に?」
「嬢ちゃまは自室におられます」
「そうですか、では悠理に挨拶してから帰ります」
万作、百合子、両氏の挨拶は後日にし、数時間前まで婚約者だった悠理の部屋へと向かう。

婚約はひょんなことからだった。
剣菱で力を試してみたいという欲が出た。世界を動かすという魅力に摂り憑かれた。
悠理の気持ちはその魅力の前では、塵同然だった。
そんな婚約者は願い下げになるのは当然の流れ。悠理は元からこの婚約を嫌がっていたのだ。
決闘に和尚まで引っ張り出され、婚約は破談になった。
本来、破談になった元婚約者には二度と会う機会も無さそうだが、この婚約者は友人であり仲間で、明日からも学校では否応無く顔を合わせるのだ。
学校生活を円滑に過ごすためにも、一言謝罪してしかるべきだろう。
こんな時でも打算が働く自分の思考に苦笑せずにはいられない。





部屋をノックしても返事は返ってこなかった。
「開けますよ」
声をかけてから、扉に手を掛けた。
悠理はソファーの上で膝を抱えて丸くなっていた。ヘッドフォンをしているのでノックには気づかなかったのだろう。時折その聴いている音楽に合わせて指がパタパタと動いていた。
破談になってもっと喜んでいるのかと思った。小躍りでもしているだろうと思った予想は、大きく外れたことになる。普段であれば長い手足を自由に伸ばし動かしている悠理の姿からは想像もつかないほど淋しそうに小さく丸まっていた。まるで頼りない小さな女の子のように。
そうさせたのは、間違いなく僕だ。
タマとフクが悠理の側でくつろいたが、僕に気づくと、開けた扉の隙間からするりと廊下へ出て行った。
部屋へ視線を戻すと、悠理がゆっくりとした動作でこちらに顔を向けた。

「帰ります、世話になりましたね」
ヘッドフォンを外した悠理にそう告げると、そっか、と静かな返事が返ってきた。
トコトコと側までやってきた悠理が僕を見上げて、しかめっ面を作る。
「お前さ、少し痩せた?」
「そうですか?」
頬を触ってみるが、痩せたという実感はない。大丈夫そうですよと悠理を見下ろすと、つい、と視線を外された。
「・・・・・・悪かったな、ウチの事情につき合わせて」
「いいえ、いい経験をさせてもらいましたから」
「結局、一度も一緒にご飯食べられなかったな」
「そうですね」
我が家でも家族揃って食事をすることは稀だが、この家では文字通り世界中を駆け巡るおじさんとおばさん、そして家業を手伝っている豊作氏は家を空けることが多い。手伝いは沢山いるが、食卓を共にすることはないので、必然的に悠理は一人での食事が多くなる。そんなこともこの家に住んで初めて判ったことだ。淋しがり屋の悠理の一面を改めて知った。
「父ちゃんと母ちゃんは?」
「外出されたようなので、挨拶は後日にしますよ」
「そっか」

言葉が途切れた。
謝罪は早いほうが良い。一歩悠理に近づき、その言葉を口に出そうとして、一瞬詰まった。
いつもなら、スラスラと出てくる言葉も、喉に引っかかって出てこない。
それは、悠理の目にうっすらと涙が溜まっていたから。
良心が痛んだ。
思わずいつものように悠理の頭に手を置こうとして、その手が止まった。強く拳を握る。僕の手の動きをぼんやり追っていた悠理の眼にどんどん涙がせりあがってきた。
「悠理・・・あの・・・」
「あのさっ!」
やっと搾り出した声を、悠理が遮った。
「あたいたち、また仲間に戻れるよな」
「ええ、悠理が許してくれるのならば」
「うん」
悠理の眼から、涙が零れ落ちた。

一滴、また一滴。

僕はこの涙を止める術を知らない。
奔放に笑い、泣く。そんな悠理ばかり見てきた。
学校でも倶楽部の皆で居る時も。それを当たり前だと思っていた。
それなのに、目の前の悠理は声を出すこともなく、ただ肩を震わせて大粒の涙を零し続けている。

一滴、また一滴。

「・・・・・・たん・・・だ・・・・・から」
「え?」
小さな呟きを聞き取れず、聞き返すと、瞬間、どん、と強い衝撃を受けた。
僕の胸に顔を埋めた悠理が、シャツをクシャクシャに握り込んだ。
「ほんとに、嫌だったんだ」
悠理は一度声を出した事で、今度は嗚咽交じりに泣き出した。
「お前は難しい顔ばっかしてるし、・・・っく・・・うちのせいで、あんな風に・・・」
「悠理」
「ごめん、・・・ごめん清四郎」
僕のシャツがどんどん悠理の涙を吸い込む。
吸い込んだ涙は、後悔という名で僕の胸をじわじわと侵食し始めた。
謝らなければいけないのは僕のほうなのに。
握り締めていた拳を開いて、宥めるようにゆっくりと悠理の背に廻す。
悠理はすっぽりと腕の中に収まった。こんなに華奢だっただろうか?
痩せたのは悠理のほうではないのだろうか。

入園式の日から、悠理は僕にとって大きな存在だった。あの日から手の届かない人だった。
中学でやっと友人の位置を手に入れた。
生徒会役員になろうと、始めて部室に忍び込んだあの日。
悠理をこの手に捕まえてみたいと思った。
「剣菱」と「世界」を手に入れた気になって、肝心なものは何一つ手の中に残らなかった。
自分の傲慢さで捕まえてみたいと思った人を、手放してしまったことになる。
しかも不名誉な婚約破棄という傷を負わせて。
こんな風に泣かせたかった訳じゃない。

込み上げてくる後悔を、奥歯を噛み締めることで耐える。
悠理に廻した腕に力を込めた。驚いているのだろう、一瞬嗚咽が止んだ。
「済まない、悠理」
悠理の髪に顔を埋めて、搾り出すように謝罪の言葉を口にした。
僕の声はみっともないほど震えていた。
「あたのほうこそ・・・ごめん」
他には誰も居ない部屋の真ん中で、妻になる予定だった人と抱き合う。滑稽な話だ。
今になって悠理と向き合っても遅いというのに。
もっと前に、こうすべきだったのだ。

悠理はしゃくりあげながら、僕のシャツから手を離した。
僕は悠理から手を離すことが出来なかった。
ゆっくり顔をあげた悠理は、真っ赤な目で照れたようにへへへと笑った。

ポロリ、とまた一滴涙が零れ落ちた。



僕の中の何かが、限界を超えて決壊した。
廻した腕にぐっと力を込めて、悠理を引き寄せる。
僕の唇は、悠理の額に。
今更伝えることの出来ない想い。その想いをすべて詰め込んで。
唇を離すと、驚いたまま固まっている悠理が僕を見上げていた。
「な、・・・なに」
「婚約者らしいことは何一つ出来ませんでしたからね、今ので勘弁してください」
痛む心を押し込めておどけて言うと、悠理がぷっと噴出した。ようやく悠理の涙が止まってほっとする。
名残り惜しくも、悠理の身体からそっと手を外した。



「じゃあ、帰ります」
「うん」
「明日、遅刻するんじゃありませんよ」
「明日、じっちゃんに学校終わったら来いって言われてんだ。何かな?」
「さぁ、道場の掃除か、鶏の世話か・・・」
「だよな、まぁしゃーないか」
「せいぜい頑張ってお勤めするんですな」

あっという間に関係を修復した僕たち。
明日からは、また仲間。
そして、こんな風に悠理の婚約者として隣に立つことは二度と無いだろう。

扉に向かって歩き出した僕の後ろを悠理が付いて来た。
「どうしました?」
「ん?見送ってやろうと思って」
泣き止んだばかりの真っ赤な顔で、誰かに見つかりでもすれば、何を言われるか。
それにこの屋敷では、誰にも会わずに帰るなどは有り得ない。
「ここでいいですよ」
「そっか」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ、せーしろー」
悠理は小さく手を振った。自ら閉めた扉の音がやけに大きく響いた。





玄関まで出ると、この家のお抱え運転手である名輪が、僕の荷物を積み込み車の外で待機していた。
平日は悠理を学校まで送り迎えをし、僕達も世話になることが多い。
この婚約期間中は、豊作氏が気を遣ってくれたのだろう、ずっと僕の運転手をしていてくれた。
「おじさんとおばさんは外出中ではないのですか?」
「はい、ですが、菊正宗様をお送りするよう言い付かっております」
「そうですか」
軽く礼をして車に乗り込む。
「菊正宗様のお宅までで宜しいですか?」
「ええ、お願いします」
軽い遣り取りの後、車は滑るように剣菱邸を出発した。
正門までの直線、バックミラーに徐々に剣菱邸の全体が映る。
数週間前、気負い十分でここを訪れた時に見上げたその屋敷は、やはり大きく。
自分が只の高校生であることを、実感させられた。

全ての事情を知っているだろうに、運転手は何も言わず運転に徹している。
下手に話し掛けられるより今は有りがたい。
車は正門を曲がり、一般道へと出た。
屋敷が壁に隠れ見えなくなったところで、ふう、とため息が漏れた。
結んでいたネクタイを緩める。
悠理の涙を吸い込んだ、湿ったシャツが指に触れた。

悠理があんな風に小さく丸まっている姿も、声を殺して泣くのも始めて見た。
抱きしめた細さと頼りなさに思わず好きだと告げてしまいそうになったのも。

一滴、また一滴。



グラスに水を入れる。
その縁ギリギリまで水を淹れても、水は零れない。
それは、分子間力により、分子が互いに引き合う力 『表面張力』

では、さらに水を追加したら? ―――



染み込んだ涙は、友情と云うグラスからは簡単に溢れ出した。

そう、認めてしまえばいい。
胸苦しいのは、高校生ながらに「剣菱」を切り盛りし、その重責を負ったことではなく、和尚にまだまだヒヨッコだと言われたことでもなく、悠理を泣かせてしまったこと。そして悠理の希望により婚約者から友達へ戻ったこと。
いわば「失恋」したのだと。

力なく胸元から降ろした手は、膝の上できつく握られた。
後悔しても遅い。
悠理とは明日から、また友達であり続けなければならない。
それが彼女の望みなのだから。
握り締めた手の甲に、ポツリと涙が零れたが、それを拭うわけにはいかなかった。


ヒトリゴト
フロさんが何かのあとがきで「剣菱家の事情は清悠には諸刃の剣」と書いてらっしゃいました。
まさにその通りだと思います。避けては通れませんね。
うーん、ドリーム入りすぎましたかね?クロノだとこんなです。

2007/05/04

素材:MINE CHANNEL!

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