浴衣の薄い布地越しに、清四郎の体温が伝わってくる。
湯上りだからだろうか?
悠理を抱きしめる身体は、眩暈がしそうなほど熱かった。
熱すぎて、身体が蕩けてしまいそうだ。
悠理は蕩けてしまう前に、清四郎の背中をぎゅっと抱きしめた。
息が止まりそうなくらい、激しくて深いキスだった。
悠理は、清四郎に縋りつきながら、このまま息が止まったらどうしよう?と、ぼんやり思った。
だけど、悠理が窒息する前に、ふたりのくちびるは離れた。
離れてもなお、くちびるが触れ合いそうな位置に留まっている。
悠理は、清四郎の吐息をくちびるで受け止めながら、漆黒の瞳を見つめた。
その瞳を覗いた瞬間、悠理の胸は痛いほどに早鐘を打ちはじめた。
清四郎の瞳が、真っ直ぐに悠理を―― 悠理だけを見ていたから。
「・・・どうしてお前を好きになってしまったんだろう?いつの間に、こんなにお前を好きになっていたんだろう・・・?」
漆黒の瞳が、苦しげに細められる。悠理を抱く腕に、力が篭もる。
「もう、これ以上、自分を誤魔化すのは無理だ・・・」
清四郎は、声を絞り出すかのように、震える声で、囁いた。
「・・・悠理・・・こんなに・・・気が狂いそうなほど好きになってしまって、済まない・・・僕は、お前を穢すことしかできないのに・・・」
清四郎は、苦しんでいた。
悠理が好きで好きで堪らなくて、苦しんでいた。
心の底から、悠理を愛しているからこそ、深く、深く苦しんでいたのだ。
それを悟った瞬間、悠理の瞳から、涙が噴き出した。
いきなり泣き出した悠理を見て、清四郎はびっくりしている。
「ゆ、悠理?」
慌てふためく清四郎。似合わない慌てっぷりに、ちょっとだけ可笑しくなったけれど、涙は次から次へと溢れてくるから、ちっとも笑えない。
「悠理?いったいどうしたんですか?」
「あたいにも分からないよぉ!」
悠理はぼろぼろと涙を零しながら、自分の胸を押さえて、清四郎に訴えた。
「どきどきして、胸が苦しくて、息ができない・・・!嬉しいのに、苦しくて堪らないんだよぉ・・・!このまま死んだら、清四郎のせいだからな!」
訳の分からぬ言いがかりに、さすがの清四郎も呆気にとられたようだ。ひんひんと声を上げて泣く悠理を眺めながら、呆然としている。
しばらくして、清四郎は、くすりと笑声を漏らした。
泣きじゃくる悠理の頭を、大きな手で優しく撫でて、困ったように微笑む。
「少しばかり、急き過ぎましたね。悪かった。謝りますから、泣き止んでください。」
それでも泣き止まない悠理の肩を抱いて、清四郎は、窓辺へと移動した。
悠理は泣きじゃくりながら、清四郎にいざなわれるまま、絨毯の上に座り込んだ。
長い指が、ほら、と窓辺を指す。
彼の指の先には、露天風呂で見た満月が、しろがね色に輝いていた。
まるで夜空に真ん丸い穴を開けたみたいな、見事なお月さまだ。悠理は涙を拭くのも忘れて、月に見蕩れた。
「落ち着くまで、お月見の続きをしましょう。」
清四郎が、悠理に話しかけながら、冷蔵庫からビールを二本取り出した。両手に缶ビールを持って、悠理に近づき、すぐ後ろに腰を下ろす。
悠理は背後から渡された缶ビールを受け取り、泣きながらプルトップを開けた。
乾杯もせずに口をつけたビールは、涙の味がした。
清四郎が、背後からそっと悠理を包む。
「明日も、いっぱい滑りましょうね。」
悠理をすっぽりと包む、優しい体温。
この温かさが、悠理のものだと思ったら、幸せすぎて、また涙が噴き出してきた。
泣きじゃくりながら、涙の味のするビールを飲み、涙で滲んで歪んだ月を見上げる。
泣きすぎて、眼がヒリヒリして、瞼を開けているのも辛い。
ひと缶をきれいに飲み終えると、悠理は眼を閉じて、清四郎に凭れかかった。
瞼という暗幕を下ろしたら、途端に、遊び回った疲労感と、絶対的な安心感が、押し寄せてきた。
ふわあ、と小さな欠伸をして、清四郎の腕に頭を摺り寄せる。
「明日も、きっといい天気だよね・・・」
それは、眠りに落ちる寸前の、寝言に近い、不明確な囁き。
それをちゃんと聞き取ったのか、清四郎の手が、悠理の頭を撫でる。
「・・・おやすみ、悠理。」
優しい囁き。大きな手で髪を梳かれるうちに、胸の痛みは消えて、代わりに、逆らい難い眠気が襲ってきた。
―― 清四郎、大好き。
清四郎に大切な言葉を伝えたかったけれど、睡魔はそれを許してくれなかった。
悠理は、清四郎の腕に抱かれたまま、深い、深い眠りへと落ちていった。
翌朝、悠理はベッドの中で目覚めた。
視線を一周巡らせたところで、ここはホテルで、自分が借りた部屋だと思い出した。
開け放ったカーテンから差す朝日が、しんと静まり返った空間を照らしている。
「・・・せいしろ・・・?」
昨日の記憶を辿りながら、まだ覚醒し切っていない意識で、清四郎を探す。
でも、清四郎の気配は、部屋のどこにもなかった。
昨夜、悠理は、清四郎の部屋で眠り込んだはず。でも、ここは悠理の部屋だ。
恐らくは、清四郎が、子供のように眠り込んだ悠理を、こちらの部屋まで運んでくれたのだろう。
理由を考えようとしたら、ずきん、と胸が痛み、悠理は皺くちゃの浴衣の上から、胸を押さえた。
昨日の記憶が嘘でないのなら、清四郎は、悠理を好きなはず。
とても、とても深く、悠理を愛してくれているのだ。
そして、悠理も――
清四郎の告白を聞いて、ようやく自分も同じ気持ちだと気づいた。
ふたりは、好きだと告げ合った。これで、心のモヤモヤは消えたはずだった。
なのに、この何とも形容しがたい、もどかしさは何なのだろう?
正体不明のモヤモヤを持て余していると、部屋の電話が鳴った。
受話器から聞こえてきたのは、清四郎の、いつもと同じ声だった。
朝食を食べに行こうと誘う声に、悠理は胸のモヤモヤを抱えたまま、うん、と返事をした。
ふたりは、光が溢れる窓辺の席で、向かい合って朝食を食べた。
それなりにお喋りしたけれど、昨夜のことは何も話さないままに、席を立った。
週末を利用しての小旅行だから、今日の夜には帰らなければならない。
だから、今日のうちに、思いっ切り楽しまないと、もったいない。
そんな、どうでもいい理由をつけて、ふたりは大慌てで支度をして、馬鹿みたいに雪原を何度も滑り降りた。
気持ちを誤魔化し、ふたりの微妙な関係から眼を背けていることは、分かっていた。
だけど、あえてそれに気づかない振りをして、一刻を争うように、雪原を滑走した。
見えない壁を隔てたような、もどかしい距離感に焦れながら、とにかく一心不乱に滑り続けているうちに、刻限が迫ってきた。
冬の短い日がとっぷりと暮れて、夜の帳が空を支配した頃、ふたりは深い雪に覆われた駅に到着した。
悠理は白い息を吐きながら、雪に押し潰されそうな駅舎の屋根を見上げた。
ここから東京までは、たったの数時間で着く。東京に着けば、いつもと同じ毎日が待っている。いつもと変わらない毎日が、明日からまたはじまるのだ。
窓口で切符を買う清四郎の後姿を見つめながら、悠理は胸のモヤモヤが強くなるのを感じていた。
新幹線の時間まで、少し間があった。
悠理は清四郎を誘い、駅のティールームへ入った。
メニューを開き、列記された飲み物の名前をひとつひとつ確かめる。
色んな飲み物があったけれど、今、この気持ちを代弁してくれるようなものは、ひとつもなかった。
結局、悠理はレモンソーダを、清四郎はコーヒーを頼んだ。
運ばれてきたソーダは、人口甘味料の味しかしなくて、悠理を悩ませ続けるモヤモヤが、余計に酷くなってしまった。
コーヒーも不味いくらい煮詰まっていたのか、清四郎はひと口飲んだきり、カップを持ち上げようともしなかった。
落ち着かない、何となく気まずい空気が、ふたりの間に流れる。
やがて、新幹線の時間が近づいてきた。
会計を済ませ、安っぽいティールームを出る。
ふたりとも黙りこくったまま、ホームへと進み、指定号車の停車位置で立ち止まる。
新幹線が入ってくるまで、あと五分。
夜の寒さが、頬をちくちく刺す。
悠理は、真っ白い綿のような息を吐きながら、ホームの端に立ち、闇へと延びる線路を眺めてみた。
線路は、ホームの先までは見えたけれど、その向こうは、すっかり闇に溶けていた。
今度は、横に立つ清四郎を見てみる。
整った横顔は、怒ったように闇を睨んでいた。
慌てて俯き、何も見なかった振りをする。
しばらくして、もう一度、そっと顔を上げて、清四郎の顔を見てみた。
やはり、怒ったような顔だ。
眉間に寄った浅い皺を見ていたら、今朝から抱えていた胸のモヤモヤが、急に大きくなってきた。
―― もどかしい。
二人きりの、秘密の旅行に来て、悠理はようやく自分の気持ちに気づいた。
清四郎だって、ここに来たからこそ、悠理を好きだと告白したのだろう。
ここに来たから。いつもと違う世界だから。
だから、一歩が踏み出せた。
悠理は、周囲を見回した。
ホームの売店は既に閉まっている。自動販売機には、無機質な飲み物が並んでいる。
これだというものは、何ひとつない。
悠理は、とにかく欲しかった。
ワインのように。ココアのように。ミルクのように。ビールのように。
怖気づいた悠理の背中を押してくれる、魔法の飲み物が。
ベルが鳴り、ホームに新幹線が滑り込んできた。
清四郎が身を屈めて、二人ぶんの荷物を持つ。
ぷしゅ、と音がして、ドアが開く。
清四郎が、ドアに向かって、足を一歩、踏み出した。
「駄目!!」
悠理は、咄嗟に清四郎を引き止めていた。
清四郎が、眼を見開いて、悠理のほうを振り向いた。
そして、何をしているんですか、と責めるような口調で呟いた。
悠理は、一生懸命、言葉を捜した。
今の悠理に必要なのは、魔法の飲み物なんかじゃない。
今の悠理に必要なのは、この想いを伝える、勇気なのだ。
「・・・このまま、帰れないよ!」
悠理は、勇気を振り絞って、ありったけの声で訴えた。
「東京に帰ったら、きっと友達のままで終わっちゃう!あたい、そんなの嫌だ!」
寒さにチクチクしているはずの頬が、妙に火照って、熱い。
きっと真っ赤になっているのだろう。
でも、今、ここで、勇気を出さないと、何もはじまらない。
清四郎は、眼を見開いたまま、掠れた声で悠理に言った。
「これに乗らないと、今日はもう帰れませんし、明日の学校も間に合わないですよ?」
そんなことくらい、悠理にだって分かっている。分かっているからこそ、清四郎を引き止めているのではないか。
悠理は、清四郎を見つめたまま、小さく頭を左右に振った。
「・・・学校なんか、どうでもいい・・・あたい、もっと清四郎と一緒にいたい・・・ずっとずっと・・・清四郎と、一緒にいたいよ・・・」
発車を知らせるベルが、高く、大きく、夜空に響く。
清四郎の眼が、苦しげに細められる。そして、彼は、呻くように呟いた。
「・・・悠理・・・自分が何を言っているのか、分かっていますか?」
悠理は、一瞬たじろいだあと、小さく頷いた。
「・・・隣の部屋に運ばれるのは、もうゴメンだからな。」
新幹線のドアが閉まる。
残されたふたりを、走り去る新幹線の風圧が襲う。
そして、夜のホームには、二人のほかは誰もいなくなった。
冷たい夜風と沈黙が、ふたりを包む。
しばらく見つめあったあと、ふたりは急に笑い出した。
「僕たちは、いったい何を躊躇っていたんでしょうね?」
「ホントだよ!こんなに簡単なことでウジウジして、馬鹿みたい!」
ほんの少しの勇気を持って、一歩を踏み出してみれば、簡単なこと。
悠理と清四郎は、しんと静まり返ったプラットホームの真ん中で、思いっきり抱き合った。
「今度はひとつしか部屋を取りませんよ?本当にそれで良いですか?」
耳元で囁く声に、悠理はまだ真っ赤に染まったままの頬を膨らませた。
「恥ずかしいんだから、何度も言わせるな!イイって言ったらイイんだよ!」
途端に、悠理を抱く腕に力が籠もる。
「―― 悠理、愛してる。」
答える代わりに、悠理も清四郎の背中へ回していた手に、ぎゅっと力を籠めた。
真っ暗な空から、白い天使が舞い降りてきた。
それを機に、ふたりは手を繋いで歩き出した。
真冬の夜。
空気は凍えそうなほど冷たかったけれど、ふたりの心はぽかぽか温かだった。
「こう見えても僕はしつこい男ですから、一度捕まえたら、二度と離しませんよ。」
「それはこっちの台詞だい!お前のほうこそ、ちゃんと覚悟しとけよ!」
白い天使が舞い降りる、真冬の夜。
こうして悠理と清四郎は、ようやく恋人同士になった。
そして―― 次の日。
悠理は、大好きな清四郎の腕の中で、世界で一番しあわせな朝を迎えることになる。
――― A new
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