四季シリーズ PART2 

秋、接近。

   BY hachi様

 秋である。
しかし、爽やかな秋晴れの空の下でも、清四郎の心は晴れなかった。

清四郎が、ふとしたことで悠理の胸元を覗き見てしまったのは、二ヶ月ほど前の出来事だ。
あの日以来、悠理は清四郎を明らかに避けはじめた。眼さえ合わせようとしない。
そして、避けられているうちに、清四郎のほうも悠理に話しかけなくなっていた。
いくら平静を装っていても、悠理と一緒にいるだけで、胸が騒ぐ。白い胸元を思い出すたび、落ち着かない気分になる。だから、遠ざかろうとする悠理を、そのままにしてしまったのだ。

どちらが悪いわけではない。だが、変わってしまった関係を修繕する手立ては、二ヶ月が経った今も見つかっていなかった。


そんな中、仲間たちが、週末を利用した小旅行を計画した。
旅館をまるごと貸し切って、スポーツに温泉、観光にグルメと、とにかく全部をてんこ盛りにして、思う存分に楽しもうという、とんでもないものだった。
そんなとんでもない計画を立てたのは、恐らく清四郎と悠理のためだろう。仲間たちは、眼さえ合わせない二人の関係を心配したのだ。目まぐるしく遊び回れば、変わってしまった二人の関係も元通りになるかもしれない。最初は気乗りしなかった清四郎も、仲間たちのそんな思いを感じて、参加することにした。



当日、最初に集合場所へやって来たのは、清四郎と野梨子だった。
二人はここまで一緒に来た。隣同士に住んでいるので、二人にしてみたら当然すぎるほど当然の行動だ。
しかし、次に現われた美童は、いつものように寄り添う二人を見て、大袈裟に眉を顰めた。

「また一緒に来たんだ。いくら幼馴染でも、その歳でベッタリっていうのは、如何なものかと思うよ。」

いきなり苦々しげに言われ、清四郎と野梨子も眉を顰めた。
「出し抜けに何なんですの?別に私と清四郎はベッタリしているつもりはありません。」
「そうですよ。第一、僕と野梨子は隣同士に住んでいるんですから、同じ場所へ行くのに別々で出かけるほうが妙です。」
口々に反論する二人を見て、美童は整った顔を歪め、天を仰いだ。
「二人の場合、根底から考えを変えなきゃ駄目だね。先が思いやられるよ。」
表情と同様に暗い溜息を吐き、諦めたように頭を左右に振る。
「ああ、そういうことですの。」
野梨子が小声で呟く。少しばかり申し訳なさそうな表情だ。しかし、清四郎には、どちらの行動もまったく理解できない。
「いったい何を言いたいのか、さっぱり分かりませんね。」
むっとしながら美童に言う。美童は、清四郎を横目で見ると、ふたたび頭を振った。
「そこから分からないなんて、前途多難を通り越して、絶望的だよ。」
挑発しているつもりはないだろうが、妙な言いがかりをつけられては、黙っていられない。言い返そうと口を開きかけたとき、ちょうど可憐が現われた。

「お待たせ!」
可憐は、近寄るなり清四郎の顔を覗き込んだ。
「なあに、清四郎。眉間に縦皺が寄っているわよ。」
呆れた声でそう言うと、綺麗にネイルアートを施した指で、自分の眉間をさす。
「そんな顔をしていたら、悠理だって話しかけ辛いわよ。ほら、笑顔、笑顔!」
薮から棒に悠理の名を出され、さらに清四郎は不機嫌になった。
「眉間の皺で、可憐にとやかく言われる筋合いはありません。」
さらに眉間の皺を深くして、可憐を睨む。
「いやだ怖い。睨まれちゃった。」
睨まれた可憐はコケティッシュに肩を竦め、美童と顔を見合わせた。
野梨子も含め、どの顔も苦笑を浮かべている。仲間たちのそんな態度が、妙に神経を逆撫でした。


しばらくして、魅録がワンボックスカーに乗って現われた。
何故か、助手席には既に悠理が乗っている。
「荷物がいっぱいで持てなかったから、迎えに来てもらったんだ!」
悠理が助手席の窓から顔を出し、元気いっぱいに叫ぶ。
「荷物といっても、八割は食料だったけどな。」
運転席の魅録も、開けた窓からひょいと顔を出し、わざと呆れた声で言った。

二人は同時に顔を引っ込めた。何を話しているのか、車内で楽しげに笑っている。
悠理の弾ける笑い声が、車外まで響いてきた。
それを聞いたら、何故か清四郎の不機嫌の目盛りが、一気に上昇した。

清四郎の背後で、美童がまたもや溜息を吐いた。
「まったく、どっちもどっちだよ。本当に絶望的。」
振り返ろうとした清四郎の横を、美童が颯爽と通り抜ける。
その後ろを、可憐が苦笑いしながら歩いていく。
清四郎は、無言で野梨子と自分の荷物を持ち、車に向かって歩き出した。


美童は、何故か後部座席ではなく、助手席のドアを開けた。
「悠理、席を替わってよ。魅録の運転を見て、少しでも技術を磨きたいんだ。」
「嫌だよ。あたい、ここが良い!」
「お願いだから替わってよ!あとで奢るからさ!」
頑是無い子供のように頭を振って嫌がる悠理に、美童が手を合わせてウインクする。
「美童の運転が上手くなるなら、席くらい代わってあげなさいよ。」
可憐が後押しする。
そして、美童は無事、助手席に陣取った。

追い出された悠理は、センタードアの前に立ち、既に座っている野梨子に懇願した。
「じゃあ野梨子、席かわってよ。あたい、可憐と座りたい。」
しかし、隣の可憐に何かを言い含められたらしく、野梨子は困った顔をしながらも、席を立とうとしない。
残されたのは、最後列に座る、清四郎の隣だけである。
だが、悠理は頑として清四郎の隣には座ろうとしなかった。

いつまで経っても車にすら乗ろうとしない悠理に、清四郎も諦めがついた。
「僕は補助シートを出して可憐の隣に座りますから、悠理は後ろを一人で使ってください。」
仕方なく席を立つ。狭い通路を身を屈めて抜け、いったん車から降りる。
地面に降り立ったとき、自然と溜息が漏れた。
そのとき、溜息を聞いて、悠理の肩が震えたことに、清四郎は気づかなかった。

「へへ、ラッキー!隣にお菓子をいっぱい置こうっと!」
悠理は馬鹿みたいに大きな声でそう言うと、清四郎を見ようともせずに、車へ乗り込んだ。
いつものように逸らされた顔。背中から滲み出る拒否。清四郎は、ふたたび溜息を吐いてから、嫌な感情を振り払うように軽く頭を振った。

補助シートを出していると、刺すような視線を感じた。
見れば、可憐が凄い眼で清四郎を睨んでいる。
「何ですか、いったい。」
「別に!」
可憐はつんと横を向き、それきりこちらを見ようともしなかった。その隣では、何故か野梨子が溜息を吐いている。
「じゃあ、出発するぞ!」
清四郎がドアを閉めると同時に、魅録がアクセルを踏む。
何だか妙な空気が流れる中、ワンボックスカーは目的地に向かって走り出した。



まずは遊園地ではしゃぎ回った。絶叫マシーンに飽きたところで、最近人気のベイエリアに移動して、建ち並ぶショップを冷やかしたり、コミカルな大道芸に大笑いしたりした。
しかし、皆が笑っている最中も、二人が眼を合わせることは、一度もなかった。
それが、皮膚の奥まで刺さった棘のように、絶えず痛み、いくら騒いでも心が満たされることはなかった。

遊びすぎたため、旅館に到着したのは、少しばかり遅い時間になった頃だった。
旅館自慢の温泉にも入らずに、そのまま大宴会になだれ込む。
この人数で貸し切れるほどの小さな旅館だが、宴席には期待どおりの山海の珍味が所狭しと並び、なかなか手に入らないという地酒も特別に用意されていた。
皆は底抜けに食べ、浴びるように飲んで騒いだ。
だが、やはり清四郎と悠理が眼を合わせることは、一度もなかった。



皆が力尽きるように倒れて寝込んだ深夜、清四郎は、ひとり浴場に向かった。
妙に眼が冴えて、眠れない。それに、飲んでいるときは良いが、いったん醒めかけると、身体に残った酒精が妙にうっとおしくなる。飲酒後の入浴は危険だと分かっていたが、風呂に入って酒精をすっきり飛ばしたかった。

浴場は、不必要なほど広かった。旅館が自慢するだけのことはある。
熱い温泉に身体を浸すと、自然に溜息が漏れる。清四郎は、広い湯船で手足を伸ばし、遊びすぎて疲れた身体をほぐした。
湯に浸かりながら、周囲をぐるりと見回す。洗い場の隅にサウナが設けられている。さすがに夜間は焚いていないのか、小窓の中は真っ暗だ。
庭に面した大きなガラス窓の先は、露天風呂になっている。常夜灯の薄い明かりが、たっぷりと湯を湛えた岩風呂を照らしていた。
秋の夜長に露天風呂も風情がある。あとでそちらにも入ろうと思いながら、浴槽から上がり、まず洗い場へと向かった。

タオルを使って身体を洗っていると、脱衣場で人の気配がした。
泊まっているのは、自分たちだけである。魅録か美童が起き出してきたのだろう。別段、気にすることもない。
清四郎は、シャワーのコックを捻り、泡に塗れた身体を流しはじめた。


がらりと引き戸が開く。
浴場の出入り口から、洗い場は死角になっているので、双方ともに姿は見えない。
ぺたぺたと足音が聞こる。ステップを踏むように軽やかな足音だ。
何気なく振り返る。
そして、清四郎は、我が眼を疑った。

「ゆ、悠理!?」

清四郎は驚きのあまりシャワーヘッドを落とした。
シャワーのホースが、瀕死の蛇のように、タイルの上をのた打ち回る。
そこらじゅうに熱い飛沫が飛び、悠理の滑らかな背中にもかかった。

悠理が振り返る。そして、目玉が飛び出そうなほど眼を開いた。

「せ、せ、せ、清四郎!?」

全裸の悠理が、引き攣れた声で清四郎の名を呼んだ。



互いに全裸のまま見つめあうこと、二秒。
まず我に返ったのは、悠理だった。

「ぎゃああああっ!!」

ようやく悲鳴を上げて、その場に屈み込む。
清四郎もやっとで我に返り、泡まみれのタオルで放映禁止部位を隠した。

「なななな、何でお前がここにいるんだよ!?変態!エッチ!早く出て行け!」
「何でって、ここは男湯ですよ!僕は間違っていません!」

浴場に入るとき、まだ酔っている自覚があったので、慎重に確かめたのだ。暖簾には、確かに「殿方」と染め抜いてあった。
「お前のことだから、ろくに確かめなかったんだろう!?ここの暖簾は、男女ともに藍染めでしたから、ぱっと見では分かり難いんですよ!」
それでも入り口のプレートは、赤と黒で色分けしてあったし、足元のマットにも大きく男湯と書いてあった。間違えたのは、悠理が迂闊だっただけである。
「何でもいいから、早く出て行け!このスケベ!」
まだ湯に浸かってもいないのに、裸を隠す悠理の腕は真っ赤になっている。見てはいけないと思いつつも、どうしても悠理に眼がいってしまうのだ。
清四郎は必死の思いで俯き、何とか誘惑に打ち勝とうとした。

「だから、ここは男湯です!僕は眼を閉じているから、その間に出て行ってください!」
「信用できない!お前のほうが出て行けよ!」
悠理は半ばパニックに陥っている。言い合いながら、清四郎は腰にタオルを巻いた。
「約束します!絶対に見ませんから、早く出て行ってください!」
約束すると言いながら、視線は自然と悠理に向く。それに気づくたび俯くの繰り返しだ。
清四郎のほうも、悠理に負けず劣らずパニックに陥っているのだ。

「嘘つきの言うことなんか信じないぞ!あのときだって、本当はぜんぶ見えていたんだろ!?変態のうえに嘘つきなんて、最低だ!」

悠理が叫ぶ。
その声が、清四郎の胸を貫いた。


残響が消える。浴槽から湯が溢れる音が、場を支配した。

「・・・見たと言ったら、悠理はそれまでと変わらず接してくれたんですか?」

清四郎の低い声を聞いて、悠理が僅かに顔を上げた。清四郎は既に背中を向けている。
「もういい。僕のほうが出て行きます。お前に責められるのは、もう真っ平です。」
背中を向けたまま、言葉を続ける。
「見たのは悪いと思っています。でも、あのときも、今日も、不用意だったのはお前のほうだ。」
低い声に籠められた怒りを感じ取ったのか、悠理が小さな声で呟いた。
「・・・ごめん・・・」
ぺちゃり、と水音がした。
「清四郎はそのままでいて。あたいのほうが出て行くから。」
ぴと、ぴと、という小さな足音が、浴場に響いた。
最初はゆっくりと、やがて駆けるように早く。
早く消えてくれ。清四郎は心の底からそう思った。

しかし、悠理の足音は、出入口の手前で止まった。

「嘘だろ!?」
「どうした!?」

思わず顔を上げて悠理のほうを見る。洗い場から、悠理のいる出入口は死角になっているため、何が起きたのか分からない。

「やばい、魅録と美童がきた!」

それを聞いて、清四郎は青褪めた。
清四郎と悠理が全裸で一緒にいたら、絶対に誤解する。清四郎は誤解されても構わないが、女である悠理はそうもいかない。
誤解と中傷は隣り合わせだ。誤解が刃となって悠理が傷つくようなことは、絶対にあってはならなかった。

清四郎は小声で悠理を呼んだ。
「悠理!サウナだ!サウナに隠れろ!」
「え?え?どうすれば良いの?」
窮地に立たされた悠理は、すっかり混乱している。複数の男に、裸を見られるかもしれない瀬戸際だ。混乱するのが当然である。
清四郎は小さく舌打ちすると、覚悟を決めて立ち上がった。どうせ見られるなら、二人より一人のほうがマシだろう。

「文句はあとでいくらでも聞きます!」

腰のタオルを巻きなおしながら、洗い場の壁を回って、引き戸の陰でおろおろする悠理の腕を掴む。突然のことに、悠理は片手で胸を押さえたまま、呆気に取られている。
清四郎の動きに湯気が流れ、真っ白な裸体がはっきり見えた。
伸びやかな肢体。滑らかな肌。鮮烈な映像が視覚を貫き、心に刺さる。
清四郎は、悠理を見ないよう、できるだけ顔を逸らしながら、真っ暗なサウナに駆け込んだ。


飛び込んだ瞬間、残滓のような熱気が、ふたりの身体を包んだ。
二人のすぐ後ろで、分厚い扉が閉まり、闇が帳を下ろす。
「うわ!」
暗がりの中、慌てた悠理が足を滑らせた。
清四郎は、咄嗟に手を伸ばして悠理を抱きとめた。

湿った肌と肌が密着する。頼りない柔らかさが、腕の中で震える。
二ヶ月前より遥かに生々しい感触が、清四郎の心と身体を刺激した。

このままでいたら、理性の堰が決壊する。
清四郎は、咄嗟に悠理から離れた。
悠理に背中を向け、眼を閉じて視覚からの刺激をシャットアウトする。しかし、身体のあちこちに残る柔らかな感触は、拭い去れないほど強烈だった。
跳ね上がる鼓動を持て余していると、脱衣場へと繋がる戸が開いた。

清四郎と悠理は同時に身を屈めた。そして、たったひとつしかない窓に顔を寄せて、そっと浴室の様子を窺う。
魅録と美童が、大口を開けて笑いながら、洗い場に向かっている。どちらもタオルを腰に巻いているのが救いだ。いくら悠理でも、うら若き乙女が見ていい代物ではない。


まさかサウナに清四郎と悠理が潜んでいるとも知らず、ふたりは並んでシャワーの前に座ると、大声で話しはじめた。
「清四郎も入っているかと思ったけど、姿が見えないな。」
魅録が首を捻って浴室を見回す。清四郎は思わず身を縮めた。
「入っているのは確かだよ。脱衣場に浴衣があったし。露天風呂に入っているんじゃない?」
美童がこともなげに言う。
そこで、ふと気になった。
「悠理、お前の服は、どこに置いた?」
普通に籠へ入れていれば、美童が気づいただろう。
「扇風機の前。風呂から上がったら、すぐ風に当たられるだろ?」
小声で悠理が答える。それを聞いて、清四郎は安堵した。目ざとい美童もさすがに扇風機の前までは見なかっただろう。

洗い場の二人は、タオルにボディシャンプーを取り、泡立てている。
「それにしても、悠理も悠理だけど、清四郎も酷いよね。いくら自覚がないって言っても、ああも野梨子とベッタリじゃ、悠理だって気にするよ。」
「俺も清四郎のことはとやかく言えないな。美童に聞くまで、気づかなかったぜ。」
「魅録と悠理は男みたいな付き合いをしているからね。気づかなくても仕方ないよ。」
目の前で噂されるなど、あまり気分の良いものではない。しかも、内容がまったく理解できなければ、余計である。

すぐ隣で衣擦れの音がした。
視線をこっそり悠理に向ける。彼女はサウナの腰掛けに敷いてあったタオルを身体に巻きつけていた。
悠理が清四郎を見る。清四郎は慌てて視線を窓に戻した。
幸いにも悠理は清四郎が見ていたことに気づいていないらしく、身体に巻いたタオルを手で押さえながら、暗い窓から浴室を覗いている。

魅録と美童は、変わらずお喋りを続けている。
「あのふたりが、お互い過剰に意識しているくらいは、魅録も気づいていたよね?」
「それくらいなら分かるさ。あいつら、昔からそうだったからな。悠理なんか、口では罵りながら、実は全身で清四郎を頼っているもんな。清四郎のほうも、悠理が可愛くて仕方ないって感じだしよ。あれで意識していなかったら、まさに犯罪だぜ。」
熱気が残るサウナの中に、微妙な空気が流れた。
耳の後ろが妙にざわつく。動悸が早くなる。悠理の存在が、異様なほど気になる。

身体を洗っていた美童が、ふう、と大袈裟に息を吐いた。
「あの二人、なんで素直になれないのかな。感情を上手く表現できないのは分かるよ。でも、シンプルに想いを言葉に乗せて伝えたら済む話じゃないか。」
そこでいったん言葉を切ると、掌で泡を掬い、息を吹きかけた。ふわり、と白い泡が飛ぶ。

「傍から見ても好き合っているのが分かるのに、本当に困った二人だよ。」

美童の言葉を聞いて、清四郎と悠理は、同時に息を呑んだ。


真っ暗なサウナの中、清四郎はゆっくりと振り返って、悠理を見た。
悠理も同じように清四郎を見つめている。

「魅録はさ、好きな人間同士がギクシャクしているのって、腹が立たないかい?僕は無性に腹が立つよ。好き合っているのに、どうして無駄な時間を費やしているんだって、怒りたくなる。」

美童の声が、やけに遠い。
清四郎は、悠理の頬へ手を伸ばした。
指先が頬に触れる。あたたかな感触が、掌に伝わる。


好きなのだろうか?
この、無邪気すぎるほど無邪気で、穢れを知らない子供のような少女が。

そして、悠理も清四郎を好きなのだろうか?
同じような胸の痛みを感じているのだろうか?


残滓のような熱気に包まれ、頭が朦朧とする。
悠理に触れた指先が、痺れるように熱い。
もっともっと触れたい。触れたくて堪らない。
悠理が纏っているのは、たかがタオル一枚だ。剥ぎ取ってしまえば、それで済む。



洗い場で、男たちの笑い声が弾けた。
清四郎は、はっと我に返った。
悠理の頬から手を離し、ふたたび背を向ける。
胸を焦がす感情が、本当に恋というものであったとしても、この状況で本能に負けてしまったら、それはただの蹂躙だ。

清四郎は、真っ暗な中で、ドアに手をかけた。
「二人を露天風呂に連れて行きます。その間に逃げてください。」
それだけ言うと、返事を待たずにサウナから出た。
大声で喋っている男たちは、清四郎に気づいていない。
足音を忍ばせてサウナから遠ざかり、露天風呂の入口に近づく。
そして、露天風呂の前に着くと、肺いっぱいに息を吸い込んだ。

「いつまで人の噂をしているんですか!?」

一喝すると、暢気に身体を洗っていた二人は、お笑い芸人のように飛び上がって驚いた。



平謝りする二人の肩を掴んで、有無を言わさず露天風呂に連行する。
二人を露天風呂に向かって突き飛ばす。自棄になったのか、二人は自ら湯船にダイブした。
大きな音とともに、水柱ならぬ湯柱が上がる。攪拌された温泉から、もわり、と濃い湯気が上がり、夜の闇を白くした。その中に、自棄っぱちの清四郎も飛び込む。
飛び込んだ露天風呂は、内湯よりも熱かった。

「あまり怒るなよ、清四郎。」
「そうだよ。僕たちだって、別に悪意があって喋っていたわけじゃないんだし。」
魅録と美童が、清四郎の顔色を窺いつつ話しかけてきた。
清四郎は、黙って話を聞きながら、両腕を動かし、水面を乱していた。
内湯の気配を、二人に悟らせないために。
「別に怒ってはいませんよ。噂のたねにされるのは、あまり気分の良いことではありませんがね。」
悠理が無事に逃げたことを祈りながら、掌で湯を弾く。
飛び散った雫が、清四郎の頬を濡らした。

同じく雫が飛んできたのか、美童が碧眼を片方だけ閉じ、顔を顰めた。
「この際だから言わせてもらうよ。清四郎さ、悠理が好きなんだろ?なら、もっと優しくしてあげなよ。」
間髪置かずに、魅録が言葉を継ぐ。
「悠理の奴、元気に見えるけれど、ここのところずっと落ち込んでいるぜ。お前だって気づいていただろう?飯さえ食っていれば元気になる奴が、いつまで経っても落ち込んでいるなんざ、普通じゃないぞ。」
「って言うか、落ち込んでいる原因は、清四郎だろ?ちゃんと好きだって言ってあげなよ。それとも、まさかこの期に及んで、悠理を好きじゃないとでも言うつもりかい?」
美童が真剣な瞳を清四郎に向ける。
「好きな娘に寂しい想いをさせて、清四郎はそれで良いの?」

清四郎は、水面を叩くのを止めて、湯に手を沈めた。
二本の腕を使い、湯の中で緩く円を描く。
先ほど、この中に閉じ込めていた、悠理の感触を思い出す。

「好き、か・・・」

熱く湿った密室で、あのまま清四郎が誘惑に負けていたら、悠理はどうしただろう?
泣き叫んで嫌がっただろうか?それとも、されるがままに清四郎を受け入れただろうか?
好きだと囁いたら、同じ言葉を返してくれたのだろうか?
今となっては、いくら考えても、推測にしかならない。

「誰にも触れさせたくない。自分のものだけにしたい。そういう我儘な感情を内包したものが恋ならば、きっとこの想いは恋なんでしょうね。」

清四郎の呟きを聞いて、美童が苦笑する。

「嫉妬と独占欲は、恋に落ちたときの顕著な症状だよ。」

揺れる水面に、月が浮かぶ。
清四郎は月ごと湯を掬ってみた。
掌中の月は、指の隙間から零れて消えた。



二人を露天風呂に残して、清四郎は脱衣場に戻った。
ずいぶん時間を稼いだので、悠理の姿は既にない。
悠理が無事に逃げ果せたことを安堵しているのに、馬鹿みたいに気落ちしている自分が、そこにいた。

溜息を吐きながら身体を拭い、浴衣を羽織る。
帯を締めながら、ふと見た扇風機の前に、ホテルの黄色いバスタオルが落ちていた。
何となく扇風機に近づく。バスタオルはくしゃくしゃに身を縮め、申し訳なさそうに清四郎の視線を受け止めている。
慌てて着替えた悠理が、そのまま忘れていったのだろう。ずいぶん慌てただろうから、きっと振り返る余裕もなかったに違いない。サウナに戻そうかとも考えたが、悠理の身体を包んでいたものを拾うのは、さすがに躊躇われた。

清四郎は、乱暴に洗面所の籐椅子に腰を下ろした。
二ヶ月前に見た柔らかな胸が、先ほど見た悠理の白い裸体が、いくら振り払おうとしても、頭から消えないのだ。
恋を自覚した今、どんなに忘れようと努力しても、無駄なのだろう。
これからは昼夜を問わず悠理の白い肌を思い出し、制御不能の感情に苛むのだ。


きっと、今夜から寝苦しい日々が続く。
清四郎は、髪を掻き乱しながら、低い声で叫んだ。

「くそ・・・!」

奔流と化した感情が、清四郎の中で荒れ狂う。
濡れた髪から滴る雫は、引かない熱に火照る身体とは裏腹に、酷く冷たかった。



透き通った、秋の夜。
二人の距離は、急接近したようで、遠ざかった。



TOP

素材:かばんや