四季シリーズ PART3 

冬、停滞。

   BY hachi様

 

 
冬である。
すべてが凍てつき、生き物たちが眠りにつく季節だ。
それでも人間は、いくら寒かろうと日々の生活を営みつづける。
しかし、今年の冬だけは、清四郎の明晰な頭脳も、凍りついたように動かなかった。


清四郎と悠理が互いの気持ちに気づいたのは、二ヶ月前だ。
気づいたといっても、自力ではない。最悪なことに、不本意なかたちで他人から指摘され、ようやく悟ったのである。

それがいけなかった。

清四郎と悠理は、揃って恋に不慣れであり、恋愛に対して酷く不器用だった。
そんなふたりが、自覚する間もなく、いきなり自分の恋と向き合わされたのだ。時間をかけて自分の心と向き合い、胸を焼く想いが恋だと納得していたら、きっと結果も違っていただろうが、今さら何を言おうが手遅れである。
互いに好意を抱いているのは分かっている。だが、それが余計にふたりを混乱させた。
「好き」と告げるだけで済むのに、混乱したふたりには、そんな簡単なことすら出来なかったのだ。

結果的に、清四郎と悠理の関係は、心はとっくに友人の枠を超えていながらも、友人以下の希薄なものに成り果ててしまった。



学園では、十一月の恒例行事である文化祭を催すに当たって、クラスから二名の実行委員が選出され、そこからさらに学年代表の委員長が選ばれる。
実行委員長が各委員から寄せられる意見を取りまとめ、瑣末な事項はそこで処理していく。処理が困難な場合は、直接、担当教諭に相談する。
それは、ごく一部の生徒―― つまり、清四郎たち生徒会に権力が一極集中しないよう、学園側がとった、苦肉の策である。そのため、文化祭執行に当たって清四郎たちが介入する余地は、まったくと言っていいほどなかった。

去年までは、清四郎も教諭の顔を立てて、いっさい口出ししなかった。
だが、今年は少し違った。清四郎は、生徒会から離れ、一生徒として実行委員会に協力することにしたのだ。
唐突な清四郎の行動に、友人たちは良い顔をしなかった。それでも清四郎は、実行委員会の本部である会議室に入り浸り、生徒会室にはほとんど出入りしなくなった。
二年生の委員をしていた女子生徒にすっかり頼られてしまい、解放してもらえなかったせいもある。しかし、それはただの言い訳であり、真の理由は、他にあった。


理由は、ただひとつ。

悠理に、会いたくなかったからだ。



深夜の浴場でのアクシデントがあってから、悠理はさらに清四郎を避けるようになっていた。
会えば逃げる。同じ空間には決して居ない。どうしても避けられない用件は、魅録を介して伝える。もちろん清四郎のテリトリーには絶対に近づかない。
ここまで避けられたら、見事という他ない。

そして―― 清四郎も、あのアクシデント以降は、あからさまに悠理を避けるようになっていた。

悠理を見るたび心が騒ぐ。声を聞けば胸が痛む。近くにいるだけで触れたい衝動に駆られる。ふとした瞬間に、悠理のすべてを奪ってしまいたくなる。
封印を解かれた恋情は、制御不能の奔流となって、荒れ狂い出した。塞き止めたくても、次から次へと想いが溢れ出て、手のつけようがない。
欲望に身を任せるのは易い。だが、清四郎の激情を受け止めた悠理が、以前と変わらない笑顔を向けてくれるかどうか、自信がなかった。

清四郎が欲望に負けたとき、悠理はどうするのか。
いくら考えても、分からないのだ。

好きなのに―― 否、好きだからこそ、清四郎は途方に暮れた。


だから、文化祭が終わって学園が静けさを取り戻した十二月、二年生の実行委員長だった女生徒から「クリスマスを一緒に過ごしたい」と告白されたとき、悠理を忘れられるなら―― と、本気で彼女の申し出を受けようとした。



放課後、図書室に篭って調べ物をしたあと、一人で下校しようとしていたときだった。
突然、清四郎の前に、可憐が立ちはだかった。
「ちょっと顔を貸してくれない?」
可憐はあからさまに怒っていた。そのお陰で、用件はすぐに分かった。
清四郎は黙って頷いた。ここで可憐から逃げても、どうせすぐに次が現れるだろう。嫌なことは、さっさと済ますに限る。

人がいない場所まで移動すると、可憐は待っていたかのように眉を吊り上げた。
「ねえ、知っている?文化祭の実行委員をやっていた二年の女子が、あんたと付き合うかもしれないって自慢げに言い触らしているの。」
「ああ、そのことですか。」
案の定だ。清四郎は、心の中で溜息を吐きながら、やっとで用件に気づいたという態度で、可憐の質問に答えた。
「別に付き合うわけじゃありませんよ。ただ、クリスマスは暇かと尋ねられたので、今のところ予定はないと答えただけです。」
清四郎の返答を聞いて、可憐はさらに眉を吊り上げた。
「あんたほど馬鹿な男を、あたしは今まで見たことがないわ!」
怒声とともに、人差し指を鼻先に突きつけられる。清四郎は大袈裟に眉を顰めた。

「悠理と何があったかは知らないわ!でもね、何があったにしても、あんたが今やっていることは、最低よ!」

悠理の名を聞いただけで、心が疼いた。
だが、心のままに感情を表すほど、清四郎は素直な男ではなかった。

冷たい眼で可憐を見下ろし、口元だけで微笑んでみせる。
「僕が誰と付き合おうが、可憐に関係はないでしょう?悠理にだって、何の関係もありませんよ。」
清四郎がそう言った瞬間、可憐の顔が怒気に染まった。
噛み締めたくちびるが、細かく震えている。

「このことを悠理が知ったら、どれだけ傷つくかも、想像できないの?」

悠理が、傷つく。
その言葉が、刃となって胸を貫いた。
それでも、清四郎は無表情のまま、ずっと口を噤んでいた。

可憐は、くちびるを震わせながら清四郎を睨みつけ、低い声で呟いた。
「そうやって、いつまで臆病風に吹かれているつもり?」
「何のことです?」
清四郎は、心の中で自分を嘲った。
こんなときでも冷徹な態度を貫けるとは、我ながら何と酷い男だろう。

張り詰めた沈黙が漂う。
しばらくして、可憐は諦めたように清四郎から顔を逸らした。
「もう、いいわ。」
可憐は、まるで嫌な虫を落とすかのような手つきで髪を後ろに払い、もう一度、清四郎を睨みつけた。
「話すだけ無駄ね。でも、せっかくだから最後に教えてあげる。」
怒りを含んだ声ではない。可憐の声は、軽蔑的な、冷たい声だった。

「この間、悠理が大学部の男子学生から交際を申し込まれたの。」

「え?」
意味が分からず、問い返した。
無表情の仮面が剥がれた清四郎を、可憐は冷たい眼で眺めている。

「相手は誰かさんと違って、正直で優しい人よ。いつもの悠理なら、告白されたその場で撥ねつけていたでしょうけれど、落ち込んでいるところに優しくされて、珍しくその気になりかけているわ。」

心臓を鷲掴みにされたような激痛が、清四郎を襲った。
息をするのも辛く、尋ねたくても言葉が出てこない。

「まあ、悠理がどんな男と付き合うかなんて、清四郎には興味ないことよね。でも、あの娘が幸せになったら、祝福くらいしてあげなさいよ。そのくらい、冷血漢のあんたにもできるでしょう?」
可憐はそう言い捨てると、大きく息を吐き、疲れたように眼を伏せた。
そして、清四郎に背中を向け、歩き出した。
均整の取れた後姿に、あからさまな拒否を滲ませながら。



清四郎は、呆然としたまま、可憐が去った方向をずっと見つめていた。

―― 許さない。

突然、胸の中心に、熱い感情が滾った。


柔らかな胸元。眩しいほどに白い肢体。
この胸に抱きしめたときの、驚くほど華奢で、頼りないほど柔らかな感触。
真っ暗なサウナの中で、真っ直ぐに清四郎を見つめていた、大きく、潤んだ瞳。

誰にも見せない。誰にも触れさせない。
悠理は、清四郎のものだ。誰にも渡さない。


気がついたときには、身体が勝手に走り出していた。



階段を駆け登り、生徒会室に向かう。
しかし、ドアには既に鍵がかかっていた。皆、もう帰宅したのだろう。清四郎は、急いで踵を返すと、登ってきたばかりの階段を、全速力で駆け下りた。
人影まばらな昇降口を抜けて、外に飛び出す。悠理を探すが、どこにもいない。
空を見上げる。初冬の空は、ねずみ色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうに暗く沈んでいた。
清四郎は、僅かな逡巡ののち、剣菱邸を目指して駆け出した。

駅に向かう途中、針のように細い雨が降り出した。
一瞬、タクシーに乗ろうかと考えたが、雨降りの夕刻は犯罪的なまでに渋滞するのを思い出し、そのまま駅を目指すことにした。
傘を買う時間も惜しく、とにかく先へと急ぐ。ずっと雨に打たれていたため、電車に飛び乗ったときには、髪から雫が滴るほど濡れていた。

冬の雨は冷たい。露出した手や顔は、氷のように冷たくなっている。濡れた衣服も、徐々に体温を奪っていく。
だが、不思議なことに寒さは感じなかった。恐らくは、心の熱さが体感的な寒さを麻痺させているのだろう。

やがて、電車は悠理が住む街に滑り込んだ。
清四郎は、傘が置いてある売店には目もくれず、駅舎を飛び出した。

雨に濡れた街は、夜の闇に包まれようとしていた。



雨は、いつの間にか、みぞれに変わっていた。
凍てつく冬の夕刻、ずぶ濡れで現れた清四郎を見て、出迎えたメイドは目を剥いて驚いた。
「こんな格好で済みません。悠理さんはご在宅ですか?」
よく考えたら、携帯電話を使ったら、悠理の居場所くらいすぐ分かる。それすら失念しているということは、かなり動揺しているのだろう。
悠理が他の男のものになるかもしれないというだけで、これほど動揺している。
なんと馬鹿な男だろう。もっと早く素直になっていれば、誰も苦しまずに済んだのに。


メイドは、戸惑いながらも清四郎を邸内に招き入れた。
いつもなら直接、悠理の部屋に案内されるが、今日は大理石の床が見事な応接室に通された。ずぶ濡れの格好で、絨毯張りの部屋には通せなかったらしい。
メイドがタオルを貸してくれたが、悠理に会って話をするまでは、使う気にもなれない。滴る雫もそのままに、窓辺に立って悠理を待っていると、遠くからバタバタと喧しい足音が聞こえてきた。

足音が目の前で止まったと思ったら、ノックもなくドアが大きく開いた。
「・・・清四郎・・・」
勢いよく開いたドアとは裏腹に、悠理の声は、聞き取れないほど小さく掠れていた。

悠理を見た途端、荒れ狂っていた感情が一気に静まった。
溢れる想いが邪魔をして、言葉が出てこない。
「・・・悠理・・・」
やっとの思いで、悠理の名を呼ぶ。
酷く掠れていたが、それでも悠理には届いたようで、細い肩がびくりと震えた。

ドアの前で立ち尽くす悠理に向かって、一歩、踏み出す。
靴先が、足元にできた水溜りを跳ねて、ぴしゃり、と音がした。


会ったら、まず抱きしめて、思いのたけを伝えよう。
無理矢理でも良いからキスをして、他の男など見るなと言おう。
ずっと考えていた言葉は、悠理を前にして、彼方に消えていた。

「この寒い中、傘もささずに歩いてくるなんて、お前は馬鹿か!?」
悠理が泣きそうな顔で怒鳴る。
「いくら鍛えていたって、風邪をひくときはひくんだぞ!ぶっ倒れたら、どうするつもりだよ!?」
メイドから話を聞いて、飛んできたのだろう。悠理の呼吸は、僅かに荒く、頬は淡く上気していた。

清四郎は、雫が流れる顔を少し傾げて、微笑んだ。
「どうしても悠理に会いたくて。」
悠理の顔が、さあっと薄紅色に染まる。
「・・・今すぐ、会いたかったんです。」
悠理のくちびるが戦慄く。
「・・・だからって、風邪をひいたら、どうするんだよ・・・?」
「そのときは、見舞いに来てくださいね。」
微笑みながら答えると、悠理は、誰が行くか、と擦れた声で呟いた。

清四郎は、ほんのり赤い悠理の頬に、手を伸ばした。
触れたくて堪らないのに、指先が震えて、うまく動かない。
きっと、自分は恐れているのだ。悠理に触れたら、もう止まらないと分かっているから。
それでも、悠理に触れたい。抱きしめて、自分のものだと宣言したい。
狂おしいほど、悠理が愛しい。

「ゆう・・・」

悠理の頬まで、あと数センチに迫った、そのとき。


「はあっっくしょんっ!!」


清四郎の盛大なくしゃみが、応接間じゅうにこだました。



くしゃみのせいで、一気に緊張が解けた。
「ぷ・・・」
悠理が堪らず吹き出す。それを見て、清四郎は赤くなった。
「生理現象なんですから、笑わなくても良いでしょう?」
「だって、真剣な顔して、鼻水を垂らしているんだもん。」
鼻先を指差され、清四郎はさらに赤くなった。
「仕方ないでしょう?寒空の下、雨に打たれて来たんですから。」
赤くなって弁明する清四郎を見て、悠理は声をたてて笑った。
それは、夢にまで見た、懐かしい悠理の笑顔だった。

「本格的に風邪を引く前に、シャワーを浴びて温まってこいよ。」
悠理はそう言うと、インターフォンでメイドを呼んだ。
無防備な後姿を見て、抱きしめたい衝動に駆られたが、ずぶ濡れでは流石に遠慮すべきだろう。話をするのも、とにかくシャワーを浴びたあとだ。

久しぶりに見る悠理の笑顔に心が満たされていくのを感じながら、清四郎はそっと微笑んだ。


熱いシャワーで身体を温め、いつの間にか準備されていたバスローブを羽織る。
浴室を出ると、ゲストルームのソファに、悠理が膝を抱えて座っていた。

気配に気づいたのか、悠理が振り返る。
「・・・」
清四郎を見た途端、悠理の顔が赤くなった。結び目が甘くて、バスローブが肌蹴けていたらしい。清四郎は、さり気なくバスローブの袷を掻き合わせ、こほん、とひとつ咳をした。
「制服が見当たらないのですが、どこにあるか分かりますか?」
「乾かしてくれって頼んだから、リネン室に持っていったんじゃないかな?」
そっぽを向きながら悠理が言う。
「そうですか。」
清四郎は、さり気なく答えながら、悠理が座る三人掛けのソファの端に腰を下ろした。

ひとりぶんの空間を挟んで、清四郎と悠理が並ぶ。
近いような、遠いような、微妙な距離感だ。

清四郎は、頭に被ったバスタオルの隙間から、悠理を盗み見た。
悠理は、相変わらず清四郎に背中を向けている。
「悠理。」
「ん?」
そっぽを向いたまま、悠理が返事をする。清四郎は、頭に被ったバスタオルを脱ぐと、大きく深呼吸をした。

聞くなら今だ。これを逃したら、二度とチャンスは訪れないかもしれない。
清四郎は、覚悟を決めて、こちらに向けられた悠理の背中を見つめた。
「単刀直入に聞きます。大学部の男子学生と付き合うつもりだと聞きましたが、本当ですか?」
「はあ?」
大袈裟に眉を顰めた顔が、こちらを向いた。
「何を寝惚けたこと言っているんだ?大学部の男?何だよ、それ?風邪を引いて、頭がおかしくなったんじゃないか?」

瞬間、停滞していた脳味噌が回転しはじめた。
―― 騙された。
逃げてばかりいる清四郎に呆れ果て、可憐が一か八かの嘘を吐いたのだ。
そして、清四郎はまんまとその嘘に騙された。


「・・・く、くくくっ・・・」
清四郎は、ソファの肘掛に突っ伏して、笑い出した。
馬鹿らしい。よく考えてみたら、悠理が普通の男と付き合うわけがない。
簡単に騙されたのは、清四郎が慣れない恋に我を失っていたからだ。
何たる失態。何たる幸運。
まったく、清四郎は素晴らしい友人を持ったものだ。

突っ伏して笑う清四郎の隣で、悠理の苛立ちが爆発した。
「変なことを聞いたと思ったら、いきなり笑い出して、いったいお前は何をしたいんだよ!?」
悠理が怒鳴る。清四郎は、彼女の手を掴んで引き寄せた。
「ぎゃあっ!何なんだ、いったい!?」
吃驚して暴れる悠理の背中に手を回し、抱きしめる。
必死になって暴れていた悠理も、しばらく抱きしめているうちに、大人しくなった。


清四郎の腕の中で、悠理は身を固くして俯いている。
悠理が身も心も許してくれるまで、まだまだ道程は遠いようだが、今はこれで充分だ。

清四郎は、柔らかな髪を撫でながら、悠理の耳にくちびるを寄せた。
「そろそろ・・・仲直りしませんか?」
吐息が耳朶にかかったのか、バスローブの襟を掴む小さな手に、ぎゅっと力が入った。
「それとも、悠理は僕と仲直りしたくありませんか?」
腕の中で、ふわふわの髪が揺れる。
「・・・そんなこと、言ってない。」
「じゃあ、仲直りしましょう。」
悠理の肩に手をかけ、ゆっくりと身を離す。
改めて覗き込んだ悠理の顔は、怒ったような、困ったような、照れているような、複雑な表情を浮かべていた。

悠理のくちびるは、熟れた果実のように輝いている。
まるで、清四郎を誘っているようだ。
「こうなったら、本心を暴露します。覚悟は良いですか?」
誘惑に逆らえず、くちびるに指で触れる。すると、悠理は慌てて身を引いた。
「こ、怖いことは無しな!あと、無理を言っても駄目だからな!」
怯える悠理をふたたび引き寄せ、胸の中に閉じ込める。
悠理は素肌の胸に耳を寄せている。きっと清四郎の乱れた心音が聞こえているはずだ。

「僕は、お前が、好きです。」

清四郎の腕の中で、悠理の身体が、びくん、と震えた。


悠理を抱く腕に力を籠めながら、さらに本心を吐露する。
「許されるなら、今すぐお前にキスしたい。全身にキスをして、一晩中でも抱きしめていたい。」
「・・・変態・・・」
胸の中で、もごもごと聞こえる声に、清四郎は苦笑した。
「男なら、誰だってそう思うものですよ。」

悠理は、清四郎の腕に抱かれたまま、じっとしている。
がちがちに強張っていた身体も、ずいぶん力が抜けて、柔らかくなった。

清四郎は、ゆっくりと悠理から身を離した。しかし、両腕はしっかり悠理を閉じ込めたままだ。
脳裏には、悠理の柔らかな胸や、伸びやかな肢体の映像がちらついている。
「悠理・・・」
欲望を制御できない。悠理が欲しくて堪らない。
清四郎は、胸の高鳴りを感じながら、悠理の熟れたくちびるに、そっと顔を寄せた。


突然、左頬を強烈な衝撃が襲った。

「調子に乗るな!この変態!!」

悠理の強烈なパンチを食らったのだと分かったのは、それから二秒後だった。



「何をするんですか!?」
左頬を押さえて、悠理を睨む。悠理のほうも、負けじと清四郎を睨んでいた。
「あたいは、まだ仲直りするなんて言ってないぞ!なのに、いきなり、キ、キスだなんて、何を考えているんだ!?やっぱりお前は変態だ!」
真っ赤な顔で怒鳴り散らす悠理。その姿を見て、清四郎は思った。

―― ふりだしに戻る。

清四郎は、がっくりと項垂れた。
やっとでコマが進んだと思ったら、スタート地点に戻ってしまった。
しかし、ここで諦めたら、永遠にゴールまで辿り着けない。

清四郎は、赤鬼と化した悠理を、真っ直ぐに見つめた。
「では、どうしたら仲直りしてくれます?」
「どうしたらって・・・」
いきなり尋ねられ、困ったのだろう。悠理は戸惑いの表情で、視線を彷徨わせている。
ここで、仲直りのキスを、とでも言おうものなら、先ほどより強烈なパンチを食らうだろう。清四郎は、黙って悠理の答を待ちつづけた。

「そうだ!」
いきなり悠理が顔を輝かせた。
「どうしても仲直りして欲しいなら、イシャリョーを払って貰わなきゃな!」
「イシャリョー?」
頭の中で、慰謝料、と漢字変換してみたものの、やはり意味が分からない。
「誰が、何のために、誰に慰謝料を払うんです?」
首を傾げて尋ねると、悠理の人差し指が、清四郎の鼻先に突きつけられた。
「誰って、決まってるだろう?お前が、あたいに払うんだよ。」
「どうして?」
「お前、あたいの胸を覗き見した挙句、裸までばっちり見ただろう?乙女の柔肌をタダで見て済まそうなんて、虫が良すぎるぞ!」
「乙女の柔肌なんて言葉、よく知っていましたね。」
「馬鹿にするなら、仲直りしてやらないぞ!」
ここは、大人しく観念するしかなさそうだ。
清四郎は、諦めの息を吐いて、ソファに身を投げ出した。

「分かりましたよ。でも、これだけは言っておきますけど、見たくて見たのではなく、見せられたんですからね。それを踏まえて、慰謝料も減額してくださいよ。」
いったい何を請求されるやら。悠理のことだ。きっと色気の欠片もないことだろう。
「減額?考えてやるよ。」
そう言いながら、悠理に減額を考えている様子はない。いかにも底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「じゃあ、とりあえず立って、こっちを向いて。」
言われるまま、ソファから立ち上がり、悠理を見る。
「んじゃ、次は目を瞑って。良いって言うまで、絶対に開けるなよ!」
この展開は、絶対に殴るつもりだ。それも、手加減なしに、渾身の力で殴るはずだ。悠理の性格からして、それに違いない。

無実の罪で殴られるのは不本意だが、ここで臍を曲げられたら、元の木阿弥だ。
清四郎は、仕方なく目を閉じた。

「いい?絶対に開けないでよ。」

悠理の声が、やけに近い。
まさか―― 
清四郎の胸に、一条の光が差した。

これは悠理の照れ隠しで、本当は、キスをプレゼントしてくれるのではないか?


そう思った瞬間、清四郎の肩から、バスローブが滑り落ちた。


「ぎゃああああああっ!!」


悠理の悲鳴を聞いて、清四郎は眼を開けた。
目の前に立つ悠理が、何故かバスローブを胸に抱いている。
何が起こったかは、明白だった。

「うわあああっ!!」

清四郎は、悠理の手からバスローブをもぎ取ると、慌てて前を隠した。

「ななななな、何をするんですか!?」
「あたいの裸ばっかり見てズルイから、お前の裸も見てやろうと思っただけだよ!」

悠理は、真っ赤な顔で、絶叫した。

「なんでパンツを穿いていないんだよ!?この、変態っ!!」

いきなり着衣を剥かれた挙句に変態呼ばわりされ、清四郎も頭にきた。
「仕方ないでしょう!制服と一緒に下着まで持っていかれたんです!別に穿きたくなくて・・・うわっ!?」
焦る清四郎に向かって、悠理が握った拳を振り回す。滅茶苦茶に振り回すので、剥き出しの肩や腕、果ては腹まで、あちこちに拳がぶつかった。
「うちのメイドにパンツまでアイロンをかけさせているのか!?清四郎の馬鹿!」
「知らないうちに持っていかれたんですよ!頼んだわけじゃありません!」
「じゃあ、うちのメイドが、すすんでお前のパンツを持っていったって言うのか!?」
「すすんでかは本人に聞いてみないと分かりませんが、持っていかれたのは僕の本意ではありません!」
「どっちにしたって、お前が素股であたいを抱きしめたのは、変わらないだろうが!」
それに関しては弁明のしようがない。
思わず黙り込んだ清四郎の顔面に、悠理の拳が振り下ろされた。

咄嗟に身を引いたので、鉄拳の直撃は免れた。
しかし、最悪にも、鉄拳がバスローブに引っ掛かった。
そして、バスローブを巻き込んでも、拳のスピードは衰えなかった。


拳に巻き上げられたバスローブは、清四郎の身体から離れ、宙を舞い、やがて、音を立てて床に落ちた。


「ぎゃあああっ!変態!!」

「だから僕は無実です!」



冷たい雨がみぞれに変わった、冬の夜。
不器用な二人の恋は、長い長い停滞の挙句、ふりだしに戻った。

 





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素材:かばんや